第3話
それなりに高い場所から落下してしまったとき、《E3》を使用しているなら、受け身を取るコツが一つある。
足から落ちること、それだけだ。
大抵の人間の場合、《E3》はそれで十分に耐えられるだけの肉体強度をもたらしてくれる。頭から真っ逆さまに落ちたいという酔狂なやつじゃない限り、あとは適当に転がって勢いを散らせば、三階くらいの高さくらいどうにでもなる。
即座に動き出すこともできる。
「印堂! ついでにセーラ!」
俺は一度だけ転がって、簡潔でパーフェクトな指示を下した。
「準備しろ、来るぞ」
落下している最中に、十分に周囲の状況は見えていた。
屋敷の裏手の庭園だった。一面に躑躅が咲いている――濃い紫と白の花弁。規模だけは『躑躅屋敷』の名前に相応しい躑躅畑だと思う。往年にはさぞかし見事な庭だったのだろうが、手入れを怠ったせいで、雑草も多分に入り混じっていた。
その只中で背中合わせに立つのは、印堂とセーラ。あとは一応、元・《嵐の柩》卿と城ヶ峰もいたか。
しかし俺ほど華麗かつ見事に状況を把握していたやつはいない。
「来るって? 待てよ、何が――」
セーラに至っては間抜けなことを言いかけて、すぐに気づいたようだ。
三階の窓から、ひょろりと長い手足を持った人影が跳んでいた。落ちてくる。そいつは青白く揺らめく輪郭と、猿の頭を持っていた。セーラの横顔が笑えるほどわかりやすく緊張した。
それからもう一つ。軽快に壁面を這い降りてくる、蜘蛛のような影もある。脚の全てが人間の腕と入れ替わった、悪趣味な妖怪のような化け蜘蛛だった。
さっきの《夜の恩寵》卿の発言を参考にするなら、こいつはそういう風に混ぜ合わせて作られたのだろう。
ちょうどいい練習台だ。
「好きな方をやれ。相手はちょうど二匹。最悪、相打ちでもいいからな」
俺は実に寛大な命令を下した。これほど優しい指導者がいるか――俺は自画自賛した。刺し違えてもいいなら、どんなボンクラでも相応の結果は出せる。
「いいけど。教官――アキは?」
首を傾げた印堂の左手が、ナイフを引き抜いた。右手は片手剣をぶら下げるように掴んでいる。
「叩き起こす?」
「ほっとけ」
城ヶ峰のコンディションも確認済みだ。
雑草だらけの躑躅畑に横たえられて、芋虫のように蠢きながら何事か呻いている。目は開いており、とっくに意識はあるようだが、体が動かないらしい。そうじゃなければもっと面倒くさい言動をしているはずだ。顔色も青ざめている。
かなり深くエーテル鈍化の影響を受けたものと思われる。こうなった以上、しばらく寝返りすら満足にできない。経験があるからわかる。
「起こしても面倒くさいし、このザマじゃあ役に立たない。でかい芋虫だと思え」
「うご」
城ヶ峰は何か抗議するように呻いた。が、何を言いたいのかまったくわからない。放っておくに限る。その様子を一瞥し、セーラは舌打ちとともに俺を睨んだ。
「センセイはサボる気かよ」
「馬鹿か、俺は忙しい」
俺はセーラとは視線を合わせない。観察する必要があったからだ。
猿頭と、蜘蛛の化け物は俺たちを挟み撃つような位置取りで一度停止していた。距離にして六、七歩分か。その気になれば一瞬で縮まる。印堂は独特の前傾姿勢で、両者いずれも視界に――すなわち、彼女の移動射程に収めているのだろう。
そして躑躅畑の向こうに、また別の異様な影がある。
闇の中で翻る、真紅の衣の影だった。
《光芒の牙》卿だ。
「――よくも散々逃げ回ってくれたな」
やつは少しかすれた声で唸った。
真紅の衣も、あちこちが破けてぼろぼろになっている。
「別に逃げ回ってない。言いがかりはやめてくれ。いつもいつも面倒くさいタイミングで登場して、面白い退場の仕方したがるのはそっちだろ?」
「黙れ」
案の定、こいつは人の話を聞かない。
「《死神》ヤシロ、ここで因縁を終わらせてくれる! 貴様の宿命を受け入れろ!」
衣の内側から、何本もの刃が覗いた。直刃で細身の剣。それぞれの切っ先が、微妙に燐光を放ち揺らめいている。
「こういうことだ。手助けは期待するなよ」
俺が冷たく退路を断つと、セーラの顔がさらに緊張した。血走った目で、化け蜘蛛と化け猿を凝視している。
あまりよくない兆候だ。
俺は卓越したセンスを持った指導者なので、こういうときはもう少し的確なアドヴァイスが必要だろうと判断した。
「わかってるよな、セーラ」
俺の質問に、セーラは小さなうなずきで返した。
「ああ」
「借りは自分で返せ」
「わかってる。いちいちうるせえな! やるって言ってるだろ!」
「そんなに真面目になるなよ、少しはふざけろ。エーテル知覚で遊べ。相手はどう見える? どのくらい強い?」
「ああ――」
セーラは青い目を細めた。
自分に近づく『脅威』と、その度合いを知覚するのがセーラのエーテル知覚だ。しかしあまりにも未熟なので、父親のアーサー王にその精度は遠く及ばない。練習が必要だった。
そこで俺が考案したのが、このやり方だ。
「あいつら――猿も蜘蛛も、どっちも似たようなもんだ。野生の――」
セーラは一瞬だけ言葉に詰まり、表現を選んだようだった。
「凶暴な野生の熊、レベルかな」
「楽勝で勝てる相手だ」
俺は自分を親指で示した。
「俺と比べてみろ。虫けら同然だろうが」
「かもな」
吐き捨てるように言って、セーラは前進する。スニーカーのつま先が躑躅を踏みにじり、日本刀を鞘から抜き放てば、切っ先が草をかすめて切った。湾曲した刃は銀の光を放つ。
「雪音! 私が化け猿をやる。蜘蛛の方、頼む」
「うん」
印堂の返事は短く、迷いもない。すでに動き出している。小柄な体が跳ねると、やはり躑躅の花が千切れ、舞い上がった。
「印堂、どれだけセーラがヤバくなっても手は貸すなよ」
俺は釘を刺しておくことを忘れない。
「貴重な練習だ。手を貸そうとしても俺が邪魔する」
「うん」
印堂の姿が空間の隙間に消える直前、その顔が少し微笑んだ気がした。
「――ちゃんと、セーラを育てないと」
「うるせえな!」
セーラも恐怖を苛立ちで押し殺し、飛ぶように駆けた。化け蜘蛛と猿も、各々の敵を迎撃に動く。交錯する。勝負は長くはかかるまい。
「ああ――私の躑躅畑が」
このとき元・《嵐の柩》卿は、わざとらしくも大げさな嘆きを表明した。かがみこんで、躑躅の花を指先で弄んでいる。こいつが暇そうにしているのはムカつくが、余計なことをされるよりマシだ。
「ヤシロ様、できれば丁寧に戦っていただくようアドヴァイスしていただけませんか? この庭園、再び整えるのに苦労しそうです」
「ちょっと待ってろ。死体が畑のいい肥料になるって聞いたことあるぜ」
俺は適当なことを言って、一歩だけ前進した。俺には俺の敵がいる。《光芒の牙》卿の、真紅の衣が揺らめきながら膨張するのがわかった。とにかく臨戦態勢なのは間違いない。
問題は、いつ仕掛けてくるか。
レヴィから事前に話を仕入れていたために、俺には《光芒の牙》卿に対する特別な備えがある。恐らく、ほとんど確実に一手で無力化できるだろう。ただ、確実に成功させるためには、多少は隙を作ってやる必要がある。
どうするか。
それも、俺には作戦があった。
「そんなに慌てるなよ、《光芒の牙》卿」
とても気に食わない話ではあるが、俺は相手のノリに付き合ってやることにした。一瞬だけ夜空を見上げ、月が半ば雲に隠れているのを確かめる。
「運命の戦いだ。月が出たら始めるとしよう――あのときみたいにな」
俺の言葉に、《光芒の牙》卿の殺意が高まるのがわかった。しかし、すぐに動き出そうとはしない。思い出したことがあったのだろう。例えば、俺が《光芒の蛇》卿を殺したとき、明るい月が出ていたことを。
《光芒の牙》卿ならば、きっとこの手の挑発に乗ってくると確信していた。
「やはり、貴様は我が手で殺す」
《光芒の牙》卿は真紅の衣をはためかせながら、ゆっくりと一歩、間合いを詰める。
「月の光がお姉さまの下へ貴様を送るだろう――そして、私もすぐに逝く」
やはり、とんでもない相手だ。
俺には《光芒の牙》卿の表情は見えない。ただ、元・《嵐の柩》卿が面白くてたまらない、というように笑い声をあげた。勝手に笑っていろ、と思う。顔面を叩き潰してやりたくなったが、いま攻撃的な感情はすべて《光芒の牙》卿に向ければいい。
感覚が冴える。
俺は《光芒の牙》卿を視野の中心に収めながら、闇の中で交錯する未熟者たちの戦いも見えていた。どの瞬間も鮮明だった。
印堂が空中を跳び、化け蜘蛛の脚の二本目を切り飛ばした瞬間。
それから、セーラが化け猿に蹴り倒され、右の太腿の辺りを刃で貫かれる瞬間も。
セーラの甲高い悲鳴が響き、俺は思わず片耳を押さえた。
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