第2話
頭上の蛍光灯が、俺たちの足元の影を鮮明に浮かび上がらせる。
先程までのカンテラや懐中電灯とは大きな違いだ。揺れることもないし、闇と光の境界がくっきりと明確になっている。どうやら館内部のすべての照明が点灯しているらしい。三階に上がっても、意外なほど広い廊下が俺たちを待っていた。
「――しかし、意外でしたね」
元・《嵐の柩》卿は、からかうような声でしゃべり続けている。
「ヤシロ様。あなたまで、あの珍獣娘を救いに同行するなんて」
誰かに聞かれても構わない、というような調子だった。明らかにふざけている。
「もし私が攫われたとしても、このように助けに来てくれますか?」
「知るかアホ。黙って歩け」
あまりに不愉快な質問だったので、俺は短い罵倒で少しは真面目に振る舞うよう叱責した。効果はなかった。元・《嵐の柩》卿を笑わせただけだ。
「核心に近づきすぎましたか? あの娘にずいぶんと肩入れされているようですね。やはり相応に情が移っているのでは?」
立て続けに不愉快なことを言われた。そろそろこめかみの辺りがうずき始めている。怒りだ。こんな状態で《E3》を使うのは危ない。
よって、俺は強力な反撃を行使することにした。
「まあ、お前よりはな」
横目で一瞥した限り、元・《嵐の柩》卿は大した反応を示さなかった。
だが、そのこと自体が彼女の精神に効果的なダメージを与えたことを意味する。こういうとき普段の彼女ならば、笑い声くらいあげるものだ。城ヶ峰と比較されることは、元・《嵐の柩》のような手合いに深い傷を残す。
さらに俺は追撃した。
「どんな最低最悪な勇者でも魔王よりはマシだね。元魔王って時点で、それだけでもう関わりたくもない」
「これはどうも――心外ですね。私は魔王という立場を降りてから、心を改めていますよ。こうしてヤシロ様のお役に立とうとしています」
「じゃ、どうやって信用する? お前ならどうだ?」
「真心」
あろうことか、即答だった。
元・《嵐の柩》はどうしようもないほど滑稽な単語を口にした。
「やはり、それしかありませんね。いつでも機会さえいただければ、それを示して差し上げましょう。私に《E3》をいただけますか?」
「へっ」
俺は思わず笑ってしまった。面白すぎた。罵倒か、それ以上に笑えるジョークか、どちらを返すべきか迷った。
迷っている間に、先行していたセーラが不機嫌そうに振り返る。
「遊んでる場合かよ、センセイ」
なぜ俺だけ怒られるのかわからなかったが、とにかくセーラは一つの大きなドアの前で立ち止まっていた。なかなか凝った彫刻がなされた、木製のドアだった。
三ツ目の蛇と、いくつかの星。それから踊る炎のような意匠が描かれている。
「ここだろ?」
セーラはドアを顎で示す。右手はすでに、腰の日本刀の柄にかかっている。
「書斎――この、気味の悪いドアだ」
「魔人信仰者が好んで使ったモチーフです」
元・《嵐の柩》卿は気にした様子もなく、セーラの傍らに立つ。
「北斗七星。蛇。炎。それぞれ意味がありますが――」
「教官、入る?」
もしかしたら元・《嵐の柩》卿はなんらかの御託を披露しようとしたのかもしれないが、印堂が阻止した。短い質問で、俺を見上げた。眉間の強張りから察するに、こいつもなんだか不機嫌そうに見えた。
「私は、いつでもいい」
「そうだな。まあ、いい加減――俺も見当がついた」
俺は印堂の横をすり抜け、ドアノブに左手をかけた。右手はポケットから《E3》のインジェクターを引っ張り出し、首筋に突き立てている。
変わるのは一瞬だ。酩酊感。
「ここの主が誰か。状況から考えて一人しかいない。相当にイカれたやつだ。あの化け物どもといい、城ヶ峰を攫ったことといい、やってることがクレイジー」
ドアノブを捻って、押し開ける。
薄暗いせいか、存外に広く感じる書斎がそこに広がっていた。並ぶ書棚と、床を埋めるカーペット。奥の壁に据えられた蝋燭だけが、頼りない光を放っている。
そして窓際のデスクの前に腰掛けているのは、ぼんやりと青白い一つの影。
「――あんたもそう思うだろ、《夜の恩寵》卿」
「ああ。一理ある」
そいつは鷹揚にうなずいた。
「しかし偉業とは、一種の狂気に身をゆだねる必要があるものだ」
青白い人影は、どうやら壮年の男のようだった。広い額と、陰鬱な表情、それと顎に多少の髭。全身のシルエットは曖昧に揺らめいているため、はっきりとはわからないが、大昔のインチキ魔法使いのようなローブを身にまとっているらしい。
つまり、こいつがそれだ――《夜の恩寵》卿。
長野県を徘徊する幽霊どもの主にして、かつての大魔王。
いまはただ、この館を不法占拠した小悪党だ。
「――なんだよ、こいつ。どういう――」
セーラが何か言葉を探そうとして、絶句する。脅威を認識する彼女のエーテル知覚には、こいつがどれだけ危険な存在か理解できたのだろう。
「初めてお目にかかりますね、《夜の恩寵》卿」
元・《嵐の柩》卿は、ムカつくほど優雅に一礼をしてみせる。
「どうやら、お元気なご様子で何よりです」
「その類のジョークは聞き飽きているよ」
さすがに《夜の恩寵》卿は、少しも動じなかった。椅子から立ち上がろうともしないし、陰鬱な表情も動かさなかった。
「私はもう死んでいる。御覧の通りにだ」
「要するに、そういうことか。あんたのエーテル知覚、自分自身にも使えたんだな」
勇者の間では一つの噂があった。《夜の恩寵》卿は本当の意味で死んだわけではない、という噂だ。エーテル知覚で瀕死の人間を幽霊化できるならば、自分自身にそれを試みていないはずがない。
こうして目の当たりにする限り、その試みは成功したようだ。
「どんな気分だ? 幽霊ってのは」
「素晴らしくも、恐ろしい」
《夜の恩寵》卿の答えは、まったく感情のこもらない声だった。
「こうなってしまうと、世界の見え方もずいぶんと違って見えるものだ。私は自分のエーテル知覚を、ほんの一端しか理解できていなかった。例えば――彼女」
彼の青白く揺れる右手が、背後のデスクを示した。
そこに寝転がされている少女がいる。城ヶ峰亜希。眠っているらしく、何の反応もない。これは幸運だ。いきなり喋り始められたら、いくら心の広い俺でも助ける気が失せるところだ。
「アキ」
印堂がその名を呼ぶ。やはり反応はない。セーラが無言で刀の鯉口を切った。その目つきがぎらついている。先程のミスを取り返すために、ちょっと力が入りすぎているかもしれない。あまり良くない傾向だった。
「彼女は、極めて興味深い素体だ」
《夜の恩寵》卿は、緩慢な動作で立ち上がる。青白い輪郭がいっそう揺らいで、霧のように広がり始めている。
「《E3》も無しにこの驚異的なエーテル活性。もしかしたら、これこそが我々の望みを叶える唯一の力となるかもしれん。そこで私は考えた」
霧が書斎の床を這う。俺は足元から這ってくるような寒気を感じた。
「ヤシロ様」
元・《嵐の柩》が、警告するように呟く。わかっている。《夜の恩寵》卿が、こちらに一歩近づいてくる。それはそれでいい。ぶつぶつと陰気でどうでもいい話――たぶん時間稼ぎをしながら距離を詰めようとしている。
「私には疑問がある。この『彼女』は一人だけなのか、ということだ」
《夜の恩寵》卿の、その口調は実に落ち着いたものだった。
「そんなやつ、二人も三人もいたらこの世は暗黒に閉ざされるぜ」
俺は時間稼ぎに少し付き合うことにした。
「これは俺の純粋な善意だが、そいつに関わらない方がいい。それはもうひどい災難に遭遇するぞ」
「そうか――なるほど? ということは、『彼女』は、きみが作ったのか?」
《夜の恩寵》卿は、とんでもない方向に俺の発言を解釈したようだった。
「冗談やめてくれ、なんで俺が」
「謙遜する必要はない、素晴らしい技量だ」
どうやら《夜の恩寵》卿は、俺の話を聞くつもりがないらしい。頭のネジが飛んでやがる。魔王連中の中には、たまにこのレベルで精神に異常をきたしているやつもいる。話が通じない。
「きみたちは他に『彼女』のような存在を保有しているのかな? 私はそれを確かめてみたい」
さらに、一歩、二歩。距離が詰まる。《夜の恩寵》卿の輪郭がますます揺らぎ、その体が膨張していくように見えた。
「協力してほしい。私は――」
「はは!」
俺は笑った。行動開始の合図だった。
俺の目的は、この《夜の恩寵》卿を始末することではない。すでに死んでいる魔王を殺しても、何の証拠も残らないのだから一文の得にもならない。命が危なくて疲れるだけだ。
こんなやつは相手にしないのが一番だ。
「付き合ってられねえな。印堂! 作戦A!」
というより、作戦はAしか用意していない。
俺が怒鳴ると同時に、すべてが動き出した。
「うん」
印堂の姿が掻き消え、空間を跳躍した。壁際のデスクまで一瞬で到達して、城ヶ峰の体をたやすく担ぎ上げる。一瞬、印堂はこちらを振り向いてうなずいたかもしれない――その姿もまた、即座に消えている。
《夜の恩寵》卿にとっては、そちらに注意を向けたのが重大な隙だった。行動を完遂するために十分な余裕ができた。
元・《嵐の柩》卿なんかは、セーラに向かって手を差し伸べる暇さえあった。
「お手柔らかに、アーサー王のご令嬢」
「うるさいな」
セーラは手筈通り、元・《嵐の柩》卿の手を取った。強引に抱えて窓へ走る。ほんの二、三歩。ガラスを砕き、そして飛び降りるまで、《夜の恩寵》卿は何の妨害もできなかった。
俺がそうさせた。
「あんたの噂は聞いてたよ」
バスタード・ソードを引き抜きながら、《夜の恩寵》卿へ横殴りの斬撃を送る。
「剣の腕は二流だってな? 死んでから少しはマシになったか、おい!」
実際のところ、一流だろうが二流だろうが関係はない。城ヶ峰を振り返った瞬間に隙ができている。《夜の恩寵》卿は、俺の斬撃を飛び退いて回避した。
書斎の絨毯を転がり、四つん這いになる。
その体はどういう理屈か、最初の倍くらいには膨れ上がっているように見えた。しかも心なしか、立ち込める霧が全身を毛皮のように覆っている。顔つきが獣めいたものに変化しつつあった。
なるほど。こういうこともできるのか。
俺は思考を加速させながら、変貌していく《夜の恩寵》卿を観察していた。
「『彼女』を作った、きみならばわかるだろう。生き物の魂を引きずり出し――」
唸るような声が、牙のように尖り始めた歯の隙間から響く。
「加工する。湿った土塊を捏ねるように――混ぜ合わせ、変化させる。自分自身の魂でさえ同じように。それが、容易くできることに気づいたのは」
体がどんどん大きくなっていく。指の先から鉤爪が生えてくる。
「死んでからのことだよ。私の場合は。きみはどうかな?」
俺はその異形に見覚えがあった。玄関ホールでいきなり襲ってきたやつだ。いまや狼の頭へと変化した《夜の恩寵》卿は、はっきりと口を歪めて笑った。
「よく言うだろう――肉体は牢獄だ。拷問器具にも似ている。その枷さえなければ、我々はもっと自由に」
「知るかよ」
やつの御託を聞いている暇など、一秒もない。
俺は捨て台詞を残して、壁際へ走る。窓ガラスを砕いて、跳ぶ。
「一人でやってろ、バーカ!」
やはり、低俗すぎる捨て台詞になったかもしれない。
いかにも恐ろしげな咆哮が響き、俺の背中を震わせた。
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