第2話

 剣の圧力は、怪物じみていた。

 《E3》使用者ほどではない――と思うが、人間のレベルでもない。こっちは両手でバスタード・ソードを握っているのに、向こうは片手だ。

 それでも、少しずつ押されている。


 猿頭の幽霊は、大きく口をあけて叫びをあげた。

 赤ん坊の泣き声に似ている。身にまとっているぼろぼろの布切れのような衣が、風に流される霧のようにたなびき、いっそう膨れ上がったように見えた。


「嘘だろ」

 俺は首筋のあたりから、汗が吹き出してくるのを感じた。

「こいつ、どうなってる?」

 腕力もそうだが、それ以上に幽霊が剣を握っている、というのが第一の驚きだ。錆の浮いた古い片手剣ではあるが、確かにそいつは現実の、実体のある剣だった。

 見たところ、青白い体の透明感からして、この猿頭が幽霊の一種なのは間違いないと思う。しかし幽霊が武器を持つというのは、聞いたことがなかった。

 噂によれば、確かに長野に出没する幽霊の中には、現実の物質を動かす能力を持つやつもいるらしい。ポルターガイスト現象とか呼ばれるやつだ。が、それにしたってせいぜい空き缶だとか石ころだとか、その程度を乱暴に振り回すのが関の山だと聞いていた。


「なんだよ、きついな――」

 俺は腰に力をこめた。気を抜くとそのまま斬られる。

 明らかに、この剣の圧力は志向性を持っていた。噂のポルターガイストとは違う。

 猿頭のこいつは、それの強力なタイプだというのか。それとも《夜の恩寵》卿が生み出す幽霊というのは、もともとそういう性質を持っているのか。

 見込みが甘かったのかも知れない。俺たちはこの『幽霊』という存在について、ろくな情報を持っていない。


 いずれにせよ、この形はどうにもまずかった。

 猿頭の幽霊が片手剣を使っているということは、左手が空いている。そちらが動く。関節が人間のそれより一つ多い腕が、俺の胸のあたりに伸びた。

 触れられた瞬間、ずしりと重たい疲労感に襲われた。まずは膝に力が入らなくなる。体勢が崩れた。剣を握る指先が冷たくなって、痺れはじめている。

 典型的な、幽霊どもがもたらす『金縛り』現象の効果だった。

 実のところ俺も以前に長野でヘマをしでかして、この効果を嫌というほど味わったことがある。あのときはひたすら気持ち悪いくせに、ゲロを吐く気力もなくなるほど衰弱させられた。


「やばい」

 片手剣がさらに俺の首筋へと押し込まれてくる。さらに全身に重たい疲労感が広がっていく――この状態ではしのぎ切れない。

「さっさとしろ、城ヶ峰!」


「はい、師匠!」

 遅れたくせに、やはり返事だけはいい。

 質量をもった風が、俺の眼前を吹き抜けた。そのように感じた。城ヶ峰の片手剣が残光を描くのを、少し遅れて視認する。急に体が軽くなった。

 そう感じたときには、すでに猿頭の幽霊は目の前にいない。

「む」

 城ヶ峰が唸った。

 いったいどういう仕組みになっているのか。猿頭の幽霊は、剣を右手にぶらさげるように握り、天井にはりついていた。

 口が開いて、再び赤ん坊のような叫びが漏れる。

「師匠、かわされました!」


「だろうな」

 俺は軽い目まいを覚えた。余計な罵倒をする元気はない。

「一撃だけじゃなくて、かわされたときのもう一撃を考えろ。というより、体に覚えさせとけよ。練習不足だ」

「はい、師匠!」

 城ヶ峰は目を輝かせて、盾を前に、剣をやや引き気味に構えた。

「久しぶりに師匠からまともな指導をいただいた気がします! やる気が出てきました、がんばります!」

「少し声のボリューム落とせ、いま頭が痛いんだ」


「ヤシロ様」

 いつの間にか、元・《嵐の柩》卿は、俺のすぐ傍まで近づいていた。

「ここは私に《E3》を貸していただけませんか? いまの攻防から判断すると、あの珍獣娘には少々荷が重いかと」

 大いなる秘策を耳打ちするように、元・《嵐の柩》卿はささやく。厚かましい。

「もう少しだけ、私を信じていただいてもいいのでは? きっと、あの珍獣娘の何倍もお役に立つことを約束いたします」


「やだよ」

 この点、俺は断固として拒否する。

「引っ込んでろ。俺は魔王とか勇者みたいな職業やってたやつのことは、何があっても信用しないことにしてるんだ」

「あの珍獣娘は信用しているではないですか?」

「まず、あいつはまだ勇者じゃない」

 俺は天井にはりついた猿頭の幽霊が、城ヶ峰の頭上から襲い掛かるのを見た。

「それと、あんまり信用してるわけでもない。なんというか」

 城ヶ峰は猿頭の斬撃を盾で受ける。反撃は、剣を握る腕を狙った斬撃だった。

「特に、その実力をな――馬鹿か、城ヶ峰! 相手を見てカウンターしろ!」


「はいっ」

 城ヶ峰の片手剣は、猿頭の腕をとらえ損ねた。関節のひとつ多い右腕が、折りたたまれるように動いてかわしている。

「まだ!」

 今度は、ちゃんと城ヶ峰も追い打ちをかけた。

 おそらくは、刺突。

 いまの俺には見えない速度だったが、猿頭は反応していた。ぼっ、と、何かが破裂するような音とともに、青白いぼろ布のような衣が散った。宙返りのような奇怪な動作で跳び離れ、大きく距離をとる。

 それは完全に《E3》使用者のそれと同じ――俺と切り結んだときには、見せなかった速度だ。


「逃がすな!」

 と、怒鳴った俺の指示は無意味に終わった。

 猿頭は即座に踵を返し、俺たちに背中を向けた。いささか薄くなったように見える青白い衣をはためかせ、廊下の奥へと飛び跳ねるように駆けていく。

 城ヶ峰は追撃できなかった。理由はわかる。踏み出そうとしたとき、足をもつれさせた。

「師匠」

 振り返った城ヶ峰は、潜水した直後のように大きく息を吸った。

「いま、一瞬、なんだか体に力が入らなくなりました」

「そりゃまあ、金縛りだからな。正式にはエーテル鈍化と呼ぶらしいが、それはどっちでもいい」


 どうやらさきほどの一合の攻防で、猿頭に触られていたようだ。

 なかなか厄介なやつだった。幽霊で、あれほど素早く動けて、剣を使う。すべてが重なると、さすがに面倒くさい。

「覚えとけ。やつらに触ったり、触られたりすると、そうなる。一対一だと致命的な隙になりかねない。ちょうどいい練習だ、うまいこと避けて戦え」

 接触した相手を、ほとんど一瞬で確実に無力化するエーテル知覚の使い手ならば、それなりにいる。

 そいつらを捌く訓練としては、あの猿頭はいい練習台になるだろう。

「師匠、ひとつ質問があります。練習にしては、失敗したら死ぬような気がするのですが」

「だな。緊張感があるだろ――しかし、わからんな」

 俺は床に落ちたカンテラを拾い上げる。


「なんだよ、あの猿頭は。あんな幽霊もアリか? この屋敷はどうなってるんだ。おい、なんか心当たりないのか? それとも嫌がらせか?」

「さて――この屋敷、もともとは明治期の華族のものだったそうですが」

 俺の質問に、元・《嵐の柩》卿はわずかに首を傾げた。

「たいした曰くもありませんね。当主が魔人信仰者だったくらいでしょうか」

「十分すぎるほど怨念ありそうな話じゃねえか」


 魔人信仰は、幕府末期から明治にかけて広まった思想の一種だ。

 当時はまだ簡単に魔王化するための技術が確立されていなかったため、体内エーテルを異常活性させるための怪しげな手法が蔓延していた。その大半がインチキであったことは言うまでもないだろう。

 こうした手法の実践者は『魔人信仰者』を名乗り、金にモノを言わせて南蛮渡来の秘薬やら、秘儀の書かれた古文書を収集していた。中には無茶な魔王化の実践が祟って、馬鹿げた死を遂げた者も少なくない。


「お前さあ。そういう話は先にしろよ」

「あまり関係はないと思いますが。ヤシロ様、まさか本物の幽霊を信じていらっしゃるのですか?」

「舐めた口の利き方をしやがる。俺がどうこうじゃない、《夜の恩寵》卿だ。やつのエーテル知覚が、そういうのに影響――お、ちょっと待った」

 喋りながら、俺はポケットの中で振動しているスマートフォンに気付く。

 着信画面を見れば、セーラからだった。なるほど。そういえば、向こうには便利な道具を使う知性を持ったやつがひとりいた。すぐに出る。


「おい、生きてるか? 幽霊がかけてるんじゃないよな?」

『――そっちこそ』

 ノイズ混じりの声だった。少し呆れているような響きがある。

『いまどこにいるんだ? こっちは雪音と、二階に上がったところだけど』

「同じだな。とりあえず合流が先だ、一階には戻らない方がいい。こっちには間取りに詳しいやつがいるから、そのまま移動してくれ。分岐があったら指示する」

『そりゃいいけどさ、いま、なんか変な――いて、襲われたっていうか――』

 徐々にノイズの混じる度合いが大きくなっている。なにか良くない予感がする。

「猿みたいな頭のバケモノだろ。いたよ。本格的にお化け屋敷だな」


『え? 猿? いや違う。こっちのは、手――だから、注意しないと――っていうか、センセイ。声が遠いよ』

「お前の方こそよく聞こえねえよ」

『ノイズがひどくて――あ、おい、雪音! やめろって、いま』

『――私も教官と話す。状況分析する』

『だから、自分でかければ良かっただろ! すぐに諦めやがって、その――待て、やめろ、そうじゃない。かわってやるから触るなって』

『教官と話す。これ?』

『あ!』

 ががっ、と、ひときわ強いノイズが聞こえた瞬間、通話が途絶えた。俺は液晶に目を落とす。『圏外』の文字があった。


「彼女たちは、なんと?」

 元・《嵐の柩》卿は珍しく苦笑していた。城ヶ峰は当然のような顔をして、俺にうなずきを返した。

「セーラも雪音も、きっと困っていたでしょう。やはり私がついていないとダメですね、あの二人は!」

「そうだな」

 俺はあの二人にとって、もっとも屈辱的であろう肯定を示した。

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