レッスン4:現代ダンジョン探索の基本

第1話

 これも不幸中の幸いといえばいいのか。

 怪物オオカミの幽霊は、どういうわけか二階までは追ってこなかった。

だから階段を昇りきった俺は、壁に手をついて休むだけの余裕を持つことができた。そのままずるずると床に座り込む。


 呼吸が苦しく感じる。

 原因は一つだ――《E3》の効果が切れた。

 そもそも《E3》の効果時間は、使用者のコンディションと、効果時間中のエーテル消耗量に左右される。俺の自己ベストは一時間弱だったが、これほど激しく体内エーテルを消費して働いたなら、そろそろ切れる時間かもしれなかった。

 とはいえ少なくとも、先ほどまでの激しい運動の最中に《E3》切れが起きなくてよかった。もう一本追加で使う羽目になったところだ。そこもツキがあったと言えるだろう。

 だが、俺の幸運はそこまでだった。


「――点呼とるぞ」

 俺は電気式のランタンを掲げて宣言した。

 古ぼけた木製の床が焼けそうなほど白い光が、二階の廊下と、そこにいる若干二名の人影を照らし出す。

「残念ながら、まだ生きているやつは返事しろ。まずは俺だ。いち」

「に……です。城ヶ峰亜希、生きています」

 床で四つん這いになっていた城ヶ峰が背筋を伸ばし、片手をあげた。そしてまたすぐに背筋を丸めた。相当に疲れているらしい。


「……さん。です」

 もう一つの人影が、ひきつるような呼吸の合間に呻いた。

 元・《嵐の柩》卿だ。こちらは城ヶ峰より疲労の度合いが色濃い。それでも四つん這いになったりせず、壁にもたれかかっているだけなのは、常日頃に染み付いた芝居の成果だろう。

「以上、のようですね」

 およそ十秒間。

 点呼に応答する声がそれきり聞こえないのを確認して、あるいは呼吸をどうにか整えるだけの時間を確保してから、元・《嵐の柩》卿は声をあげた。

「ほかのお二人は、反対側の階段から二階に上がったようです」

「見りゃわかるよ、くそっ」

 俺はその事実を受け止めるしかない。


 あの一階の玄関ホールに、階段は左右に二つあった。

 俺はとっさに左の階段を駆け上がったが、セーラと印堂は右の階段へ向かったようだ。《光芒の牙》は――どうなったか。できれば死んでいてくれると助かるが、希望的観測はあまりすべきではないだろう。

 左右の階段を上がった先は、それぞれまったく別の場所につながっていたということだ。

 俺はカンテラの光量を最大にして二階の暗闇の先を照らす。まっすぐな廊下の両側に、いくつも扉が並んでいる。さらにそこから先は、通路が斜めに折れ曲がっているために見えない。


「二階はお客様をお迎えするためのフロアでした」

 元・《嵐の柩》卿は、遠い過去を思い出すように静かに呟く。

「私の趣味で多少改装して、迷いやすくしてあります。ヤシロ様にも堪能していただく予定だったのですが」

「性格が普通に悪いよな、さすが魔王」

 なんで別荘をそんな構造にしたと聞きたい衝動に襲われたが、どうせ客向けのコケオドシだろう。迷いやすい構造なら、実際以上に広い屋敷に感じられるからだ。

「お前の招待するイベントに、一切かかわらなくて正解だったぜ」


「まったくです! 魔王の晩餐会などに参加する師匠ではありません」

 城ヶ峰は偉そうに胸を張った。どうやら体力が回復しつつあるらしい。

「そのような催しに招かれた際には先のパーティーと同様、我々が叩き潰してやったこと間違いなし。ですよね、師匠」

「この珍獣の態度がやたらと大きいのですが、ヤシロ様。たいへん笑えますね」

 両者の会話を聞きながら、よりによってなぜこの二名がついてきてしまったのか、俺は現状に大きな憂いを抱いた。


 せめてセーラか印堂のどちらかがいれば、もう少しマシな雰囲気になる気がする。これではまるでチンドン屋を引き連れているようなものではないか。城ヶ峰の面倒くささは二割増しくらいに感じるし、それがまた元・《嵐の柩》卿の態度の悪さも引き立てている。

 まったく胸焼けがするような組み合わせだ。印堂なら空間移動を繰り返して即座に合流できるか――とも思ったが、おそらくあっちも《E3》の効果切れを起こしているだろう。この状況では、《E3》もそう簡単に追加で使えるものではない。

 しかし、いまの最大の問題はそこではなかった。


「《嵐の柩》。お前の隠し財産、地下にあるんだったな?」

「ええ。あの――得体のしれない怪物の出てきた、扉のさらに奥です」

「だよな。くそ。あの怪物」

 俺はあの怪物オオカミを思い出す。

 青白く、現実感の希薄な巨体。あれは確かに半透明の、濃い霧のような存在だった。少なくともその肉体の構成要素だけは、幽霊どもに酷似している。

「あんなモンスター、見たことないぜ。動物園にいるか?」


「はい、師匠!」

 城ヶ峰は、いつも返事だけはいい。

「雪音の描く動物のイラストによく似ていると思います!」

「それは確かに――あいつの描く動物、ことごとく気持ち悪さがあるからな。なんで自分流のアレンジを動物の模写に追加するんだろ」

「私見ですが、雪音は良かれと思ってやっている節があります」

「手に負えないな。あのモンスター、印堂がデザインしたんじゃねえだろうな」

「そうでしょうか。あの怪物、なかなか愛敬があると思いましたが」

 元・《嵐の柩》は驚くべき感想を口にしたが、あえて追及はしないことにした。そういえばこいつの美的センスも相当に屈折していた気がする。


 デザインの面は置いておくとして、あの怪物は大問題だ。

「なんなんだよ、あいつは。なんか幽霊に似てたよな? 《夜の恩寵》卿のエーテル知覚は、人間以外の幽霊も作り出せるのか? 口から炎みたいなやつまで吐きやがったぞ」

「そのような話は聞いたことがありませんが。犬や猫の幽霊を作り出すことならできそうですね。ただ、あのような怪物となると――」

「俺たちは《夜の恩寵》卿のエーテル知覚を勘違いしてたのかもしれない」


 これは一つの仮説にすぎないが、現にあんな化け物を目の当たりにした以上は、視点を変えてみる必要があるだろう。

 俺も噂でしか知らない《夜の恩寵》卿は、瀕死者や死体に手で触れて、そこから魂のようなものを抽出することができたらしい。そして、そいつらにある程度の命令を与えることができたとか。長野県内から幽霊どもが出ないのも、そこに原因があると考えられている。

 つまり、あの怪物オオカミも《夜の恩寵》卿が作り出した幽霊の一種なら、同じ性質を持っていると見ることもできる。


「あの怪物野郎、二階まで追ってこないところを見ると、そういう命令を守っているのか。いずれにしても、あいつをどうにかしないと宝探しもできないわけだ」

「それ以上に、なぜ私の別荘に、という疑問もあります」

 元・《嵐の柩》卿は、その点に大きな不満を抱えているようだった。

「理解に苦しみますね。あのようなお客様、ペットとしては悪くないですが、しつけがなっていません。不愉快です」

「幽霊どもが屋敷に近づいてこない理由も、まあわかったな」

 あんな怪物がいては、近づくこともできないというわけだ。あるいは、近づいたやつを片っ端から攻撃する性質でもあるのか。

 あの《光芒の牙》のやつが先に引っかかってくれてよかった、と俺は思った。


「仕方ない。気は進まないが、あいつを駆除するか」

「はい、師匠!」

 城ヶ峰は威勢よく片手剣を抜いた。

「本来なら我々のクラスが総出で掃除する予定でしたが、人知れずこっそりと片付けておこうということですね。まさに社会貢献――さすが師匠! 凄いお人よし! 勇者の鑑です!」

「俺の悪口と持ち上げを同時にするのやめろ」

 だいたいこいつらのクラスを率いる《トリスタン》は、あの怪物をどうするつもりだったのか。あれの存在を知っていたのか。

 いまは、考えるだけ無駄だ。情報が少なすぎる。


「ヤシロ様をお人よしと呼ぶのは」

 なんだか妙にツボに入ったのか、元・《嵐の柩》卿は喉を鳴らし、肩を震わせて笑っていた。

「世界広しといえども、この娘ぐらいかもしれませんね――かの偉大なる《死神》ヤシロ様を」

「ふっ。貴様も着実に更生への道を歩みつつあるようだ」

 城ヶ峰は誇らしげに何度もうなずいていた。

「もっと私と師匠を褒めてもいいぞ」

 なんて馬鹿げた会話だ。俺はこいつらを怒鳴りつけて、できる限りの悪口を言ってやろうと思った。だが、その直前でやめた。


「――待った」

 片手をあげて、主に城ヶ峰の発言を遮る。耳を澄ませる必要があった。

「いま、聞こえたか?」

「はい」

 さすがに城ヶ峰も真剣な目で、廊下の先を見つめた。

「悲鳴でしたね。それも、セーラの」

「間違いない。何かあったな」

「はい。セーラはこういうのが苦手です」

 城ヶ峰の言う『こういうの』が何を指すかについては、俺もなんとなくわかる。ホラー展開とか、お化け屋敷とか、確実にそういう類のものだ。

「雪音だけでは心もとないので、ここは私がリーダーとして彼女を助けに行かねば!」

「お前、自己評価だけはマジで高いな」

「ありがとうございます!」

 城ヶ峰が敬礼の姿勢をとると、また元・《嵐の柩》卿が喉を鳴らして笑った。城ヶ峰の発言の一つ一つが、妙にこいつの笑いのツボを刺激するらしい。


「まあいいや。とにかく急いで合流を――、と」

 足を踏み出しかけて、俺はそこで違和感に気付いた。

 ランタンの投げかける光を、滑るように動く影がかすめ、翳らせた。かなり素早い。廊下の奥の壁、そして天井へ。

 虫か何かだと一瞬だけ思った。しかし虫にしては大きすぎる。それに、人間の形をしていた。最初はそのように見えた。


「城ヶ峰」

 俺は警戒を促す声をあげ、カンテラをその場に落とした。ごとり、と鈍い音が地面に転がる。少し遅かったかもしれない。影は天井を這うように、俺たちの方向へ接近してきていた。

 異様に手足の長い、青白い人影だった。

 《E3》の切れている俺は、そいつを完全な形で観察することができなかった。ただ、奇襲を防ぐので精いっぱいだった。


「《E3》使え! なんか来る」

 城ヶ峰の返答を待つ余裕はない。

 俺はバスタード・ソードを抜き、頭上からの一撃を受け止めた。金属音。

「なんだこいつ」

 かなり重たい感触。両手で受けて精いっぱいだった。鍔迫り合い――バインドの形になる。よって俺は至近距離からそいつを目撃した。


 猿の頭を持つ人間の幽霊、とでも言えばいいか。

 特筆すべきは、その手足だろう。関節が一つずつ多い。その右腕が、湾曲した片刃の剣を握っていた。それと、正面から向かい合うとわかる。猿の顔面には眼球がなく、ただ落ちくぼんだ虚空だけがあった。


 マジにお化け屋敷かよ、と、俺は思った。

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