第3話
あれは俺が《光芒の蛇》卿と呼ばれた、強力な魔王を暗殺するため、やつの眷属として潜りこんでいた頃の話だ。
その当時の《光芒の蛇》卿は多数の眷属を抱えており、《光芒の牙》はその中の一人であったが、少々ボスである《光芒の蛇》への忠誠心が高すぎる傾向があった。
というより、ほとんど崇拝していたと言ってもいい。
《光芒の蛇》卿を『お姉様』と呼び、やつが世界を征服するのは当然とすら考えていた。眷属として潜入していた俺は、主に《牙》と組んで陰湿な暗殺行為に加担させられていたが、やつの世界観は永遠に理解できない類のものであった。
やはり魔王という存在は、心のどこかが狂っているのだろう。
俺は恐るべき亡霊を見るような気分で、翻る真紅の衣の塊を眺めていた。
「我が名は、《光芒の牙》」
真紅の衣は、歌うように告げた。
「大いなる《光芒の蛇》卿の刃にして、最後の姉妹。裁定の剣を振るう者。背約者たる兄弟、《死神》に血の決闘を申し込む」
その言葉と同時に、衣が一回り大きく膨張したように思った。
「――大変失礼かもしれませんけれど」
真っ先にショック状態から脱したのは、元・《嵐の柩》卿であった。その青い目は、まるでひどい悪臭を放つ源を見るような目で《光芒の牙》を睨んでいた。
「あなたは、いま、『ようこそ』とおっしゃいましたか? 『ようこそ、我が館』と? この館がいつからあなたのものになったのですか?」
「下郎、控えろ」
回答した《光芒の牙》の声には、取りつく島もない。
「私とお兄様の決闘だ。俗物ごときが口を挟むな」
真紅の衣が、ひときわ膨張したように見えた。その内側に、銀色に光る金属の先端が垣間見えた。剣だ。俺はそいつが両刃の片手剣であることを知っている。
「貴様のような存在が、我々の神聖なる決闘の場に居合わせているだけでも不愉快だ。いますぐ自決することを許す」
「なるほど、よくわかりました。人の話を聞かない方のようですね。独自の世界観、大いに結構ではありませんか。道化には最適です」
元・《嵐の柩》卿は、独り言のように呟いた。青白い横顔を俺に向ける。
「あれが《光芒の牙》ですか?」
「そうだよ」
答えるのも億劫ではあったが、俺はいちおう肯定した。心なしか肩が重たい気がする。たぶんストレスだ。
「《嵐の柩》、お前、前にこいつとは会ったことあるって言ってたよな」
「ええ。あのときは《光芒の蛇》卿の背後に控えていた、真紅の甲冑の巨漢でしたが。この声からすると女性だったのですね」
「見た目は主にコケオドシだ。お前も元魔王ならわかるだろ」
魔王はイメージも商売道具の一つだ。外見のインパクトが相手に恐怖を与えたり、混乱させたりする。
光を操り、自在に成形して纏うことのできる《光芒の牙》は、己の能力をこの方面で最大に活かすことができた。威圧的な巨体を装い、かつては《光芒の蛇》卿の背後に控えることを好んでいた。とにかく自分を大きく見せたがる傾向があった。
もしかしたら《光芒の蛇》卿がそのように指示を下していたのかもしれないが、俺も彼女の――《光芒の牙》の本体を見たことは数えるほどしかない。
「あのときは、無口な護衛だと思ったものですが」
元・《嵐の柩》卿は表情を消そうと努力しているようだった。気を抜くと間抜けな顔になってしまうのだろう。気持ちはわかる。
俺は大きくうなずいた。
「とにかく人見知りなんだよ。《光芒の蛇》がいるときは、ろくに喋ろうともしない。見るからにコミュニケーション下手だろ」
いま、俺たちの目の前で翻る真紅の衣は、《牙》のやつが『決闘』と呼ぶ殺人の仕事でよく使用するものだ。
おおよそ二メートルほどもある、つねにはためく真紅の衣の塊。注視すれば、その裾が空気ににじむように曖昧な輪郭を描いていることがわかる。
「まともに戦うと面倒だから、できれば避けたいんだが」
俺は彼我の距離を測る。こんなに早期に遭遇するのは予想外だった。
当然、あのレヴィから仕入れた情報によって、こいつがいつもどおり手勢も率いず、単独でやってきたのはわかっている。それにエーテル知覚に対抗するための準備もしてきた。しかし、早すぎる。まだ何の仕掛けも打っていない。
「どうしたもんかな」
「ちょっと待ってください、師匠」
城ヶ峰は真面目くさった顔で、俺の前に立ちはだかった。
「重要な質問があります」
「いや、特にないと思うけど」
「あります! さっき、あの魔王は師匠のことを『お兄様』と呼びませんでしたか? それはおかしくないですか!」
印堂とセーラもこちらを振り返るのがわかった。どうせそんなところだろうと思ったが、できれば無視してほしい部分だった。説明しにくいからだ。
俺が答えに迷っているうちに、城ヶ峰はひどく複雑そうに首を捻った。
「師匠の妹ということは、つまり自動的に――もしや、私の妹的な立場にあたる存在なのでは?」
「おっ、想像以上に舐めくさった質問。セーラ、印堂、こいつを取り押さえろ」
「いいけどさあ」
セーラは少し渋い顔をした。ついでのように、城ヶ峰を後ろから羽交い締めにする。かなり手慣れた技のかけ方だ。
「マジでなんなんだよ、その、城ヶ峰のいったやつ。あの呼び方だ」
「そう」
印堂は城ヶ峰が喋らないように、あるいは何を喋っているかわからないように、その口にタオルを突っ込んでいる。なんて用意のいいやつだ。
「すごく気になる。教官には説明責任があると思う。というか、ある」
「お前もたいがい強引なやつだな。さっきのは、《光芒の牙》の以前のボス――というか《蛇》卿の趣味だ」
まだ納得しない顔のセーラと印堂を押しのけ、前へ出る。
「《蛇》卿ってやつは自分の手勢をファミリーって呼んでて、その通り兄弟・姉妹って上下関係を割り振った。最悪だろ」
この制度には、真面目な眷属ほど不満を募らせていたのは間違いない。なぜなら俺が《蛇》卿を殺したとき、この件で多くの眷属から感謝の言葉を受けたからだ。あのときは、まさに世のため人のために仕事をできた手ごたえがあったものだ。
「お前もだ、《光芒の牙》。なにが『お兄様』だ、その呼び方やめろ」
「ああ――まさしくその通り」
《光芒の牙》は、苦しげに呻いた。
「貴方を兄と呼び、ともにお姉様の理想世界を分かち合ったのは、すでに過去のこと。なぜお姉様を裏切ったのか、その理由もどうでも良い」
なんて芝居がかった口上だ、と思った。さらに肩が重くなる。それを狙って喋っているのだとしたら、なかなか強力な戦術だ。
「《死神》ヤシロ、お姉様を殺した報い、受けてもらおう!」
「何が報いだ、お前なんて毎月ダース単位で殺しの仕事を受けてたくせに」
鼻で笑ってしまう。
俺も《光芒の牙》のやつも、やっていることは一緒だ。暴力、殺人、ただそれだけに過ぎない。正義感みたいなもので糾弾するつもりなら、まずは自分が罪を償えと言いたい。
だが、俺はふとイシノオのことを思い出した――あいつも死んで当然のやつだった。最悪に近い殺人鬼であり、殺しを楽しむ趣味があった。それでも友達ではあったし、そのせいでずいぶんと骨を折る羽目になった。
こうして言われてみれば、確かにそうだ。馬鹿げているが、なるほど。
《牙》のやつが復讐するつもりなら、受けて立ってもいい。
この前は俺がチャンスをもらった分、こいつにあってもいいだろう。そういう、変なバランス感覚が俺の中にはある。
「かかってこいよ」
バスタード・ソードを抜く。右手でその重量を確かめるように構える。
「《光芒の蛇》は、まあ少しは良いやつだった。強盗とか殺人とか麻薬の売買さえしなけりゃな。復讐してみるか、なあ? 《光芒の牙》、お前が?」
「ふ」
かすかに笑う気配。真紅の衣の内側で、何本もの刃が覗いた。
《光芒の牙》の、そういう能力だ。刃の幻を複数生み出し、攻撃する。まともにやると手こずる理由のひとつがこれだ。俺にしたって、《牙》の振り回す刃が本物かどうか見切るのは結構難しい。
「よくぞ答えた。潔さはあの頃のまま。それでこそお兄様」
「やめろ、その呼び方」
「せめて私の手で終焉を――」
俺の言葉を無視して、《光芒の牙》が動きかけた。
その瞬間だった。
一階の奥の扉、さきほど《光芒の牙》が入ってきたそいつが、轟音とともに吹き飛んだ。まるで水しぶきが破裂するように、いともたやすく蝶番がはじけ飛び、重たそうな鉄扉が宙を舞う。
なんだか馬鹿げた気分で、俺はそれを見ていた。
吹き飛んだ扉の向こうから、さらに馬鹿げた存在が進み出てきたからだ。とてつもなく巨大な、青白い影だった。
「あっ」
《光芒の牙》が声をあげ、真紅の衣を翻して振り返ったように見えた。
「しまった――忘れていた!」
俺は《牙》のやつの面倒くささの本領を、ここに至ってようやく思い出した。
「たったいま、私はこいつから逃げてきたのだ!」
「お前さあ、そういうの」
いい加減にしろ、と俺は言いかけた。
最悪に信じがたいことを、最高に信じがたいタイミングで失念する。一挙一動が悲劇的なコミックリリーフ。天才的なピエロの才能がある。
それが《光芒の牙》だ。
そいつは青白い煙のような、きわめて希薄な実体を持っているようだった。屋敷の周りをうろつく幽霊に似ている。というか、幽霊そのものだ。半透明に透けている。
だが、その大きさは異常というしかない。全長で五メートルはあるだろう。
しかも、なんというか、巨大なオオカミに似た見た目をしている。脚の数がいささか多すぎて八本くらいあるし、目玉もとりあえず十個くらいあるし、異常なほど背中が盛り上がっていて角があるし――俺はこういう存在をなんて呼ぶのか知っている。
怪物だ。
「な、なんだよそれ!」
セーラが常識的すぎる指摘を叫んだが、すぐにその正体を検討している余裕はなくなった。
怪物オオカミは、大きく息を吸い込むような仕草をした。
「む」
かすかに呻いた《光芒の牙》卿が、すばやく怪物の前から退避する動作をとるのがわかった。こういうときは、先人に従って行動すべきだ。
つまり、逃げの一手しかない。
「散れ、おい」
俺は怒鳴りながら走り出した。
怪物オオカミの口が大きく開き、そして、まぶしいばかりの光の奔流が吐き出された。そいつは赤い絨毯を焼き、俺たちの立っていた床と壁を焼いて、いかにも非現実的な青白い炎を生み出した。
何が起きているのか、理解に苦しむ。
怪物オオカミが、白い奔流を吐き出しながら、大きく首を捻るのが見える。おおおう、と、空気が奇妙な唸りをあげた。十個もある眼球の一つが、俺を睨んだような気がした。
「逃げろ、二階上がれ!」
駆け出した俺の背後を、白い光が通過した。確かに俺は背中に熱を感じたと思う。あれに直撃したらどうなるのか、試す気にはならない。
あとは、振り返らずに二階への階段を駆け上がるしかなかった。
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