第2話
錆びた門から侵入して、好き放題に伸びた躑躅の庭を踏み越えた。
元・《嵐の柩》卿いわく、躑躅の見事さで有名らしいが、真夜中に幽霊から追われながらでは鑑賞などできるはずもない。
ようやく一息ついたのは、呆れるほど広い玄関ホールにたどり着いたあたりだった。いかにも主人が好みそうな趣味の内装だった――西洋甲冑、壁に並ぶ燭台、毛足の長い深紅の絨毯。
それらは一階奥の扉と、左右にある二階への階段の三方向へ訪問者を導いているように配置されていた。
俺が用意しておいた電気式カンテラを灯すと、まずは元・《嵐の柩》卿が限界を迎えて座り込んだ。リュックサックを床に下ろし、片膝をついた程度でこらえたのは、さすが演技のプロという感じだ。
「疲れました」
そのうえ、やつは俺を皮肉っぽい目で見上げる元気さえあった。
「ヤシロ様が抱えて走ってくださると、信じていたのですが」
「なめてんのか、こいつ」
返答に値しない戯言だ。自分の立場を理解していないのか。
とはいえ俺も辛辣で強力な突っ込みを入れる気にはなれず、その場に腰を下ろして水筒を手にした。中身は冷やしたお茶だ。屋敷にたどり着く前に、予想外の運動をさせられた。少しは休息が必要だ。
あとは、三人の学生にどうやって言い訳をするか。まずは、やつらの様子を横目に観察することにした。
「あいつら――ここの敷地内に入ってこないって、マジなんだな」
セーラは窓から外を眺め、幽霊どもを警戒しているようだった。
「なんでだ? 何かおかしいだろ、それって」
「ふっ。それはきっと私が原因だな」
城ヶ峰亜希は元気に膝の屈伸をしていた。いつでも動けるというアピールのつもりだろうか。
「私の八面六臂、いや十面六臂くらいある活躍を見て、幽霊どもは恐れをなしたに違いない」
「ええ……? あの……まあ、いいけどさ」
セーラの返答にはキレがない。窓の外、夜の闇に垣間見える幽霊どもが気になるせいだ。
「セーラ、あまり警戒しなくてもいいと思う」
印堂雪音は落ち着いたもので、俺の背中に寄りかかるように腰を下ろし、チョコレートでコーティングされた豆みたいなお菓子を食べていた。行動食の一種だろう。こいつは本当によく食べるな。
「――あいつらは弱いから」
印堂はぼりぼりと菓子をかみ砕き、ペットボトルの蓋を開ける。さすが、やたらと準備がいい。
「数は多いけど、こっちの戦力の敵にはならない。帰り道も簡単」
「ああ。私もそう思うぞ。ここはポジティヴ・シンキングだ、セーラ!」
城ヶ峰の励ましは実に空虚で、なんの安心感も見いだせない。そして印堂の脇の下に手をつっこみ、強引に立たせようとする。
「ところで雪音、そこをどくべきだ。師匠の休憩の邪魔になっている。代わりに私がそこに座ることにしよう」
「アキの方が重いから邪魔だと思う」
「あっ。雪音、そういうことを言うか! 交代しろ! 師匠、そう思いませんか?」
「知るかっ。いま、俺はそれどころじゃないんだよ」
不毛な騒がしさに耐えきれなくなってきたので、俺は電気式のカンテラを持ち上げ、立ち上がった。あ、と、印堂が声をあげて倒れかけたが、知ったことではない。
そろそろ、このあたりで厳しく言っておくべきだろう。
「忙しいからすぐ帰れ。あのクソむかつく教師、《トリスタン》――あいつがお前らの失踪に気づく前に」
「はい、師匠!」
相変わらず城ヶ峰の返事だけは一流だ。挙手をして背筋を伸ばす。
「その点については、万全の偽装工作を行ってきました。『勇者の未来と社会倫理について』のディスカッションに師匠をお誘いするふりをして、こっそり抜け出しましたから」
「そのディスカッション、最高に誘われたくないな」
なにが『勇者の未来と社会倫理について』だ。そのタイトルを聞いたとき、俺は悪寒が走ったし、元・《嵐の柩》卿は声をあげて笑いさえした。そのうえ、笑う途中で咳き込んだ。気持ちはわからないでもない。
俺は大きく首を振り、気を取り直す。
「なんでそれで誤魔化した気になれるのか不思議だけどな、もう絶対《トリスタン》にはバレてるぜ。いや、それ以上に、俺の責任問題に発展するじゃねえか!」
「大丈夫です、師匠!」
城ヶ峰は握りこぶしを作って見せた。
「私が師匠を全力で弁護し、最悪のケースになっても、師匠についていきます! 地の果てまでも!」
「ふざけんなっ、クソが! おい、印堂――はともかく、セーラ。お前がついておきながら、なんてザマだ。監督責任をとれ!」
「いや、そりゃ違うって、今回はセンセイのせいだろ。行動が胡散臭すぎるから」
なんだかガキのように唇を尖らせ、セーラは反論めいたことを口にした。
「いい加減に答えてくれてもいいだろ」
セーラは非常に疑わしげに、俺と元・《嵐の柩》卿を振り返った。
「なんでこんなところに来たんだ? そこの――《嵐の柩》なんかと一緒に。めちゃくちゃ怪しいんだけど。もう通報していいか?」
「どこに、どういう罪で通報する気なんだよ。失礼な。仕事だよ、仕事。言っただろ。俺はこの一帯の幽霊活性化現象を受けて、その原因を調査するべく――」
「はい、それ! もうそれが嘘じゃん! 昼間と言ってること違うし」
「そうか。印堂、昼間の俺はなんて言ってたっけ?」
印堂はあんまり物事を深く考えないタイプなので、すぐに答えた。
「たぶん……この辺りに魔王がいるから、とか、そういうこと言ってた」
「そう、それだ。印堂によくやったポイント三点追加」
「合ってた? やった」
「なんと。ず、ずるい!」
これについては、再び城ヶ峰が過剰な反応を見せた。
「師匠、私にも聞いてください。記憶力なら印堂をはるかに凌駕する自信があります! 私の頭脳には大型データベースが存在しており、特に師匠の発言に関しては完全なアーカイブを構築しています」
かなり気持ち悪いな、と俺は思ったが、黙っておくことにした。面倒くさいからだ。城ヶ峰の発言に取り合っていると、いつまでも事態が進展しない。
「とにかく、今回の俺は極秘任務中なんだ。お前らが首をつっこむ仕事じゃない」
「だからさあ、なんでそんな執拗に嘘をつく必要があるわけ?」
セーラの視線はいよいよもって、深い疑惑を帯びてきた。明らかに苛立っているとわかった。
「いちおう、これでも心配してんだけど。センセイはさ、この前の事件でなんかヤバい組織を敵に回してたわけだろ――で、私たちもそれに関わった」
不機嫌そうだが、真剣な顔だ。笑えるくらいに。
「今回も、それと関係あるんじゃないのか? マジに答えてくれよ。世話になったわけだし、私だって、なにかの役に立てるかもしれないっつーか」
セーラは少しだけ視線を外し、金髪をかきむしった。
「説明しにくいんだけど、ちょっとは信用してくれてもいいだろ」
「お前なあ――」
どう答えるべきか、俺はすごく迷った。
セーラのやつは生意気にも、恩というか、義理のようなものを感じているらしい。ひどい勘違いだと思うし、これは困る。適当に言いくるめて帰すには、ちょっと骨が折れそうだ。
回答に迷っていると、俺の肩を叩いたやつがいる。
「師匠」
城ヶ峰だ。
なんだか物凄く腹立たしい笑顔――何もかも自分に任せろ、とでも言わんばかりの表情で、やつは耳打ちをしてきた。
「この城ヶ峰、一番弟子として万事承知しております。今回の探索行が非常に危険なものであるため、セーラと雪音は適当な理由をつけて帰した方がいいですね」
そうして、城ヶ峰は親指を立てると、片目を閉じてみせた。
しかも肘で小突いてきた。
「ここはお任せください。師匠の優しい配慮を、この二人に理解させましょう!」
「あっ、てめえ」
俺は本気で城ヶ峰をぶん殴りたくなった。そうだ――そのポンコツさゆえに失念していたが、《E3》を使った城ヶ峰には、これがあった。
「心を読みやがったな!」
「き、気のせいでは? 私は弟子としての洞察力で」
「くそっ! もういい。お前のドヤ顔を見るくらいなら、言うわ!」
俺は城ヶ峰の手を振り払い、軽く咳払いした。
「非常に不本意だが説明する。この新人バイト、元・《嵐の柩》卿には隠し財産があった。魔王としての非常用、高飛び用の資金がな。そいつがこの屋敷に眠っていると知った俺は、密かに行動を開始した――以上だ」
「う、うわっ! なんだよ、それ」
セーラは目を見開いた。ついでに口が半開きになるほど呆れているようだった。
「超くだらねえ! 先に言えばいいだろ、その程度! 私はもっと――なんつーか」
「ケッ、これだから金持ちのご令嬢は! 噂を聞きつけて、誰が横取りを企むかわかったもんじゃねえだろ!」
「しねえよっ。センセイはどんだけ他人を信用してないんだよ」
「勇者ってのはみんな信用できねえんだよ、この薄汚い人殺しどもめ!」
「まあまあ、ヤシロ様、落ち着いた方がよろしいかと」
とんでもないことに、こういうとき火に油を注ぐ愉快犯がいる。元・《嵐の柩》卿のことだ。やつは穏やかな微笑とともに、扇子で自分をあおいでいやがった。
「これはこれで、私は構いませんよ。三匹の珍しいペットを連れた散歩だと思えば。ええ。当初の予定とは大幅にズレてしまいましたが、楽しめます」
「なんだと、凶悪な魔王め!」
俺が怒りの文句を返すよりも先に、不必要な敵愾心を燃やしたやつがいる。むろん、城ヶ峰だ。
「前々から言おうと思っていたが、貴様は師匠に対して馴れ馴れしすぎる! 更生への道を歩んでいるのは結構だが、その思いあがった、ま、まるで恋人のような物言い、もはや許容できかねる!」
「うるせえな、お前ら本当に!」
俺は本格的にこいつらを黙らせるべく、声を張り上げる。
こんな茶番につきあっている暇はないし、このキナくさい状況、素早く目的を達成して戻りたかった。
「いいか! 俺は忙しいって言っただろ? 面倒くさいやつもこの屋敷を嗅ぎつけてるみたいだし、さっさと終わらせて帰る! そもそも、」
「――さて? それはどうかな!」
張り上げた俺の声よりもより強く、よく通る澄んだ声が玄関ホールに響いた。圧倒的な気力というか、有り余るほどの生命力を感じさせる声だった。そいつは男性とも女性ともつかない、不思議な反響の仕方をしていた。
三人の学生も、元・《嵐の柩》卿も、揃って驚いたようにそちらを見た。俺は破滅的な思いでそれに倣った。
「ずいぶんと遅い到着だったな――待ちくたびれたぞ!」
そいつは深紅の布の塊のように見えた。一階の奥へと続く大扉が軋みつつ、緩やかに開いていく向こうに、その姿があった。かろうじて人間の形をとっているように見える程度の、深紅の衣に覆われた存在。
気の重いことに、俺はその声にも、姿にも見覚えがあった。
「恐れずにここへ足を踏み入れたこと、歓迎しよう。お兄様――いや、いまはこう呼ぶべきか。《死神》ヤシロよ!」
深紅の衣が翻った。それでも、その内側の姿は見えない。単なるトリックだ。俺はそのことを知っていた。
その非現実的な深紅の存在は、いっそう朗々と声を張り上げた。
「ようこそ、我が館へ! あの日の決着の宿命、いまここで果たすとしよう!」
俺たちの誰もが無言だった。元・《嵐の柩》卿ですら、シニカルな苦情の一つも口にできなかった。
俺は暗澹とした気分に落ち込んでいくのを感じた。
これが、この深紅の衣こそが、《光芒の牙》。
かつて俺が殺した魔王の、眷属だった者の名だ。
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