第5話
太陽が沈んで、夜が本格的に山を包み込むと、俺は迅速に行動を開始した。
決して人目に触れないように、縄梯子で部屋の窓から脱出する。
それしかなかった。元・《嵐の柩》卿に手で合図を送り、そのままペンション裏手の林に滑り込む。あとは山道を行くだけだ。
例の三人に気取られないためには、迅速な行動が必要だった。
やつらと、それから《トリスタン》ラムジーは、執拗に俺を夕食後の『交流会』に誘ったが、そんなものに関わる気はなかった。
ビールを飲みながらカードゲームで勝負をつけるというなら話は別だが、簡単なレクリエーションとディスカッションとかいう会の目的を聞くにつれ、絶対に関わりたくないと思った。
「なんだか愉快なものですね」
と、元・《嵐の柩》は言った。
こいつには荷物持ちとして、大型のリュックサックを担がせている。手錠も外してやったし、ついでに山道を先行する名誉を与えてやった。いざというときにはこいつが盾になる。
「ヤシロ様と、こうして深夜の散歩なんて。とても素敵だと思いませんか? あとはディナーがもう少し気の利いたものなら良かったのですけれど」
「なにがディナーだ、クソ野郎」
俺はこいつの、持って回ったような言い回しが気に入らない。
「あれで十分だろ」
こういう野外の仕事でよく使うものを携行してきた。フリーズドライの粥をコンソメスープで戻したものに加えて、ベーコンとチーズを齧る。
今夜は酒もナシだ。あとは行動しながら適宜カロリーを補給していけばいいし、そう長く活動するつもりもない。
「ええ」
と、元・《嵐の柩》卿は、あえてそれ以上の文句は言わなかった。
「あの《死神》ヤシロ様の手料理ですものね。あれも新鮮な味わいでした」
「喧嘩売ってんのか、テメーは」
だが、気にするだけ損だ。これから重要な仕事と財宝が待っている。
気を取り直して、俺は山道を歩くことに集中することにした。
元・《嵐の柩》卿が別荘に選んだ《躑躅屋敷》は、ペンションからそう遠くない場所にある。徒歩で一時間もかからないという。素早く行動すればアカデミーの三人が俺に気づき、追いついてくる前に、ターゲットを回収して離脱できるかもしれない。
万が一追いつかれたときは――まあ、あいつらと議論するなんて時間の無駄だ。
なんらかの強硬手段を取るしかないだろう。
とにかく急ぐに越したことはない。
よって俺たちは、夜の山道を足早に進軍することになった。その間、元・《嵐の柩》卿は久しぶりの解放感を味わっているようで、ひたすら軽口をたたき続けていた。
「ヤシロ様、月が綺麗ですね」
「ああ。良くないな」
促され、俺は月を見上げる。
満月に近い。
「《光芒の牙》卿にとって、条件のいい夜だ」
「はあ――そうですか。《光芒の牙》卿」
振り返った元・《嵐の柩》卿は、とっておきに用意した冗談をスカされたような顔をしていた。
「彼のエーテル知覚について伺っておきたいのですが。ヤシロ様はご存知のようでしたね?」
「まあな」
あまり思い出したくないが、《光芒の牙》のことはそれなりに知っている。かつて《光芒の蛇》という魔王を暗殺しようとしたとき、やつの眷属として潜り込んだことがあるからだ。
「《E3》込みでの勝負をするなら、まず俺が後れを取ることはない。俺って超一流だから大抵の相手はそうなんだけどな」
「そうですね、まさしくヤシロ様は希代の勇者です」
「城ヶ峰みたいな適当な煽りはやめろ」
この俺の罵倒は、元・《嵐の柩》卿ですら口を閉ざすほどの威力があった。強すぎるので、今後は控えよう。
「続けるぞ。やつのエーテル知覚は光の屈折、に近い。光に触って、そいつを粘土みたいに捏ね回すことができるらしい」
ただし、こればかりは《光芒の牙》の認識によるものなので、それが実際にどういう感覚なのかは本人にしかわからない。
「つまり実体のない幻をでっちあげたり、自分に好きな幻影を被せたりするのが《光芒の牙》の特技だ。《蛇》卿の眷属として暗殺みたいなビジネスを受け持っていた。で、最も気を付ける必要があるのは、もちろんわかるな?」
「透明化ですね。なるほど」
「そう――ただし不意打ちを警戒する必要はそれほどない。たぶん。いや、相当な高確率で」
「それができるようなら、とっくにヤシロ様は殺されていそうですね? ずいぶんと恨みを買っているご様子なので」
「うるせえな。遭遇すればわかると思うが、とにかく面倒くさいやつなんだ」
俺は《光芒の牙》卿の、ひたすら辛気臭い面構えを思い出した。
「それから一つ訂正しとくと、《光芒の牙》卿は――」
そこで言葉を止めた。
ついでに足も、だ。止めるしかなかった。元・《嵐の柩》卿も沈黙し、かすかな緊張の気配を発していた。俺たちが向かう道の先に、確かな気配がある。
それも複数。
ざざざっ、と、冷えた風が吹き抜け、木々の闇に吸い込まれていく。呼吸にして、おおよそ二つか三つほど数えただろうか。さっきまで清々しくすら感じた、森の匂いが重苦しい。
やがて俺は耐えきれなくなった、
「マジかよ」
呻き声をあげるのを待っていたように、道の先で光が閃いた。
電気式のカンテラだ。俺は片手を眼前に掲げ、そのまばゆい光量と、そこに立ちはだかる三人のシルエットを直視してしまう恐怖から瞳を守った。
「――お待たせしました、師匠」
城ヶ峰亜希はいつものジャージ姿に身を包んだうえ、小さなリュックサックを背負っていた。腰には剣帯に吊られた剣と、丸い盾がある。
やる気だ、と一目でわかってしまった。
普段のこいつはバスタード・ソードをやたらと使いたがるが、あれはもともと相当な熟練が必要な得物だ。エーテル知覚に任せた筋肉で振り回せば、そりゃ使えないことはない――鉈とか鉄の棒とかと同レベルには。
見ているとこっちが恥ずかしくなるので、まともに振るえるようになるまで封印させることにした。
「頼もしい城ヶ峰と、その仲間が参上しました! 本来、私ひとりで十分だとは思ったのですが、雪音もセーラがついてくると言って聞かないもので」
城ヶ峰はぺらぺらと喋りながら、深々と頭を下げる。
「私が面倒を見ますから、どうかご容赦を。師匠の背後はお任せください! 更生の道を歩み始めているとはいえ、まだまだ油断ならぬそこの凶悪な元・魔王からお守りします」
「アキの口上は、たまに聞くに堪えないことがある……」
城ヶ峰の背後にいた印堂雪音が、眉間にシワを寄せて呟いた。
「どちらかというと、アキとセーラがついてきた形。たぶん危険があることは伝えたけど」
こちらの上着はジャージではなく、森林迷彩柄のパーカーを羽織っている。腰にはやっぱり、片手剣とナイフが一揃え。
「覚悟ができてるなら、まあいいかと思って。教官と私がついてるし」
「好き勝手言いやがって、嘘つくなよ。二人ともだ」
肩をすくめる印堂の横で、セーラ・ペンドラゴンが金髪をかきむしった。これは彼女なりの、「なんか少し気まずい」の気分を意味する仕草だ。
「私が言わなきゃ疑わなかっただろ。センセイがなんか隠してるって」
セーラも城ヶ峰同様のジャージ姿ではあるが、こいつの場合は妙に似合う。
理由は明白だ。その金髪と、内側のシャツの色の明るさが、田舎のヤンキーを連想させるからだと思う。あと、おそらくあえてサイズの大きなジャージを選んでいるところも。
こいつもずいぶんやる気があるらしく、腰にいつもの日本刀を吊っていた。
「帰れ」
俺はどうにかその言葉を絞り出した。
「てめーら野外研修を抜け出して来てるんじゃねえよ、また退学になるぞ。俺は忙しい。これから重要な仕事があるからな」
「だから、その重要な仕事ってなんだよ」
セーラは食い下がってくる。
「そっちの――その、《嵐の柩》と、どこに行くつもりだったんだ?」
「そうです! 師匠! 我々は納得いきません!」
「うん。不愉快」
城ヶ峰と印堂も追随する。セーラさえいなければ、こいつら程度はごまかせていた可能性がある。これだからちょっとでも知恵が回るやつは厄介だ。
「ずいぶんと可愛らしい珍獣どもではないですか、ヤシロ様」
この状況に拍車をかけるべく、元・《嵐の柩》卿が混ぜ返した。ずいぶんと冷たい目で、挑発するように三人の学生を眺めている。
「しっかり言って差し上げればよろしいのでは? 私と二人きりの用事があるため、邪魔だから消えろと」
これに対して、反論らしい反論は無かった。ただ、三人の学生からの目つきが厳しくなっただけだ。それだけにまずい、と思った。
これは勝ち目のない戦いというやつではないか。
「くそ」
俺は悪態をついた。
森を再び冷たい風が吹き抜けた。
「話は後にしてくれ」
「だから! ごまかすなって! センセイは――」
「こんなところでグズグズしてるからだな、これは」
俺はセーラの怒りの言葉を遮った。反省している。ここは長野の山の中だ。騒いでいると、それに気づいた存在が寄ってくる。
「そこ」
俺はセーラの背後を指さした。
「来てるぞ」
振り返った瞬間の、セーラの悲鳴については黙っておいてやろう。あまりにも情けなかったからだ。
セーラの背後だけではなく、俺たちを取り囲むように、青白くおぼろげな人影が漂いはじめていた。存在感は煙のように薄く、はっきり見ようとするほどに霞むような実体。ねばつく霧にも似た燐光。
俺はそいつらに見覚えがあった。
幽霊だ――かつて《夜の恩寵》卿が作り出した、本物の。長野の夜は、これが厄介だ。どういうわけか連中は、日が暮れると活発に動き出す。《夜の恩寵》卿の認識が、幽霊とはそういうものだと考えていたせいだろう。
「期せずして、新しいレッスンの時間だな」
「はい、師匠!」
城ヶ峰は歯切れよく応答して、剣を振り上げた。
「思わぬ幸運とチャンス、ものにして見せます!」
印堂はその隙に《E3》の充填されたインジェクターを首筋に突き立てている。元・《嵐の柩》卿はいつになく不愉快そうに肩をすくめ、一歩だけ後退した。俺に道を譲る構え。わかってるじゃないか。
もちろん、俺は印堂よりも素早く《E3》を注入済みだ。
首筋から静電気が全身に流れていくような、あるいは皮膚の下を触手が這い進むような感覚。エーテルが全身を侵していく――変わるのは一瞬だ。
「ついてこいよ」
俺は踏み込み、バスタード・ソードを引き抜いた。
「遅れたら、こいつらの仲間入りだからな」
セーラが蒼白な顔で何かを叫び、日本刀を振り回すのが横目に見えた。
こいつには、今回はかなり迷惑をかけられたと思う。
あとで馬鹿にしてやる。
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