第8話(終)
強い風が吹いた。
夜の木立の闇が吐き出したような、生ぬるい風だった。
セーラの金髪は風の中に流れ、その体が加速する。
狩猟動物が飛びかかるような、獰猛な突進だった。
足元はやや高低差のある山道であり、上方から襲いかかるセーラに有利がある。それでも楓は動じる様子もなく、両手で握った刀でセーラを迎え撃つ。
「――鈍いですね」
勢いのついたセーラの太刀を、正面から受けて捌く。
楓の防御は、むしろごくわずかな動作に見えた。
刀の切っ先が小さな弧を描き、セーラの刃を受け流す。先ほどの道場での立ち会いでも、この捌き方は見た。防御する動作が攻撃に直結している。刃を引き戻す必要もなく、即座に攻撃へと転じる。
このとき前腕を狙った切り落としをセーラがかわせたのは、単にあいつの腰が引けていたからだ。
それでも腕の内側をわずかに引っ掛けられ、上着に血が滲むのがわかった。
露骨にセーラの顔色がかわった。
ごおっ、と、遠くでまた風の唸る音が聞こえた。山が揺れるような強い風が吹き付けてくる。嵐でも来そうな気配があった。
「鈍い」
と、ことさらプレッシャーをかけるような呟きを繰り返し、楓は後退するセーラを追った。
完全に後手に回った。セーラはただ対応を余儀なくされる。
鋭い刺突を、大きく体を捻ってかわす。安直すぎる。せっかく相手より有利な位置にいるのだから、もっといい受け方があった。楓の太刀筋こそ凌いでいるが、ただ守勢に回っているだけにすぎない。
続けて上段、袈裟と切り込まれ、受けるごとに後退してきやがる。
「おい!」
俺はアドバイスを飛ばすことにした。
「急いでカタをつけろよ。《ソルト》ジョーが追いついてきたら、絶対馬鹿にされるぞ!」
「ちっ」
セーラは舌打ちをして、怒ったような、あるいは困ったような顔をした。『ヤケクソ』の状態から一歩進むと、セーラはこういう顔をする。楓もセーラもともに、わずかな数秒間の膠着。
風がますます強くなっている。セーラの金髪が乱れて揺れていた。それと正反対に、彼女が繰り返す呼吸は落ち着いていくのがわかる。
いい兆候だ。
「センセイは、黙って見てろ」
言うなり、彼女は前へ跳んだ。
刃を振り上げ、相手の太刀筋を牽制しながらの前進。ただそれだけだが、今度は先ほどより深い。構わずさらに踏み込んでくる楓と正面から交錯する。
刃が触れ合って、擦れる金属音が一瞬。
セーラは楓の横を駆け抜け、すれ違った。高低差の有利を捨てた形になる。
その瞬間だけ、楓は半身になり、俺に視線を向けた。
そりゃそうだ。セーラもうまく俺の存在を使った。
挟み撃ちにされる、とでも思ったのかもしれない。俺はできるだけ楓を馬鹿にするような笑いを浮かべてやった。俺は優秀な指導者なので、生徒を伸ばすために余計な手出しはしない。
だからすぐに俺から意識を切って、セーラに向け直したのはさすが柳生。
それでも『ヤケクソ』を一歩超えたセーラの斬撃は鋭く、重たく、予想外に伸びるリーチがある。切っ先が風の隙間を縫って走る。
「お、あっ」
セーラがよくやる変な掛け声の一種が響いた。
楓は綺麗にこれを受ける。体勢も崩さない。刃を滑らせて、威力を散らす。
恐ろしく整った剣術――俺はああいう防御はしない。鍔迫り合いに持ち込んで攻める。だが、受けた動作が攻めに繋がっているのは、東洋も西洋も考え方は同じだ。
楓の刃の切っ先が、セーラの刀を捻り上げるように動いた。西洋剣術にもある。『巻き上げ』とか、武器捕りとか呼ばれるやつ。まともに決まれば武器を弾き飛ばされたり、奪われたりする。
だが、ここまではセーラの読み通りだった。ただ待つだけで良かった。不利を知りながら位置を入れ替えたのもそのためだ。セーラはわずかに身をかがめた。
次の一瞬は、俺も思わず目を細めた。
それだけで済んだのは、体感時間を自由に停滞させることができる、俺の無敵のエーテル知覚のおかげだ。《E3》によって引き伸ばされた体感時間は、あらゆる状況の即座の認識を可能にする。
突如として、周囲が真昼よりも眩く、真っ白に照らし出されるのがわかった。空からの光だった。強まる風よりもさらに激しい、ヘリコプターのいびつな風切り音が轟いていた。サーチライトがまっすぐこちらを向いていた。
こんなところを、ただのヘリコプターが通りすがるわけがない。迷彩柄に塗装されたそいつの運転手はエド・サイラスか、そうでなければ北海道の傭兵の《うすらハゲ》に違いない。
――そして、楓はこの光を真正面から浴びた。
こいつこそが、セーラの当てにしていた勝算だったのだろう。セーラにはこのヘリコプターがどれくらい接近しているのか知ることができた。
さらに言えば、楓のエーテル知覚は夜でもなんらかの周辺把握力を失わないものである、ということもわかっていた。
強力な暗視のようなものだと見当をつけて、それに賭けた。事実、その賭けの勝率は低くなかっただろう。楓のそれが単なる光量調節とか、視力強化みたいなエーテル知覚だとすれば、この光で視界をつぶせる。
しかし、賭けに出るということは、それに負けることも有り得るということだ。
この辺、セーラはまだまだ甘い――というか真面目すぎる。
セーラは瞬時に刀を返した。峰打ちだった。決まる、と思ったからそうしたのだろう。楓の腹部に叩き込もうとした。バカめ。遅すぎる。
衝突。
異様なほど澄んだ金属音が、セーラの甘すぎる峰打ちを弾いた。
「鈍いですね」
その呟きを、楓はまたも繰り返した。《柳生》独特の言い回しかもしれない。ヘリコプターのローター音が響き渡る中で、それは妙にはっきり聞こえた。
楓は体を傾け、セーラの横薙ぎの斬撃を受け止めていた。だから俺にもその横顔だけが見えた――やつは目を見開いていた。違和感のある視線だった。
何かを見ているようで、何も見ていない目。視覚に作用するエーテル知覚の持ち主が、よくこういう目をする。
つまり楓が本当に見ているのは、光の反射ではない。
もっと別の何か。それが何かはわからない。とにかくエーテル知覚の使い手との戦いでは、こういうことがよくある。セーラは賭けに負けた。
そのペナルティは、頭上から返される楓の刃だった。
「う」
再び守勢に回ったセーラの体勢が崩れた。楓の腕力はちょっと驚くほどだった。高低差を利用してはいるが、《E3》を使ったセーラ以上とは。切り込まれるほどに、セーラの体勢がどうしようもなく崩れていく。
このままでは押し負けるだろう。
「おい!」
仕方がないので、俺は声をあげた。
「わかってるよな、セーラ」
手助けする気はまったくなかった。
助けることは、それこそセーラ・ペンドラゴンのプライドを致命的に傷つけるだろう。
「ここだぞ。ひっくり返してみろ。できるだろ?」
青ざめたセーラの顔に、少しだけ怒りに似た表情が蘇る。その口が動いて、何か暴力的な答えを返したように思った。風のせいでよく聞こえない。楓の刃が滑り、セーラの鎖骨を狙って押し込んでいた。
ここで勝ちを拾えれば、セーラのレベルはひとつ上がるだろう。
どんな授業料を支払うにしても、それは必ずこいつの実力を引き出す。セーラに足りないのは、格上の相手であっても、やり方次第で倒せるという実感だと思う。これには劣勢を覆すことができた、という手応えが必要になる。
俺はそんな予感がしていた。
セーラの両膝が、力を凝縮するように沈み込んだ。
――そのとき、何の予兆もなく、楓の体がぶん殴られたように横向きに倒れた。
というより、実際にぶん殴られたのだろう。棒が倒れるような、すごく間抜けな倒れ方だった。鮮やかすぎる打撃。
俺はそいつを、引き伸ばされた感覚で見ていた。
「え? ――あれ?」
セーラが反撃しようとした力を持て余し、ふらつき、その場でアホっぽく転倒した。
飛び蹴りだった。
木立の隙間から飛び出してきた、薄汚くも小柄な人影による空中回し蹴り。
延髄斬りと呼ばれる技に近い、と思う。そいつが楓の側頭部を直撃し、脳を揺らして、そのまま意識を刈り取った。鮮やかすぎる一撃だった。
「へっ!」
その蹴りを放った男、すなわち《もぐり》のマルタは、カンフー・スターのように鼻の下を親指でこすった。
「《もぐり》のマルタ登場! 危ないところだったな、嬢ちゃん。どうにか間に合ったね!」
「ああ? いや、ええと――」
「おい、待て、マルタ」
セーラはただひたすら困惑していたが、俺は許さなかった。マルタに近づき、その襟首を捻り上げる。
「なにやってやがる」
これでは台無しだ。俺の指導計画が完全に空振りになってしまった。
「なにって、そりゃあ」
マルタは誇らしげに、かつだらしなく笑った。
「うちの楓が、知り合いの生徒を叩き切ろうとしてたからな! こいつはヤバい、止めなくちゃと思ったら、体が勝手によ。気にしなくていいぜ、ヤシロ。こいつはおれの身内の問題だからな!」
「あのさあ、マルタお前、いちおうこいつの婚約者なんだよな?」
「うん? まあ、たぶん。父ちゃんがそう言ってたし。でもこいつめちゃくちゃ人の話聞かないからね! これが一番なんだよなあ――と、もうすぐジョーも来るよ。おれがけっこう重いからっつって、放り出されちまってよ」
「この野郎――」
俺はマルタをぶん殴ろうかと思い、拳を固めた。
背後から、《ソルト》ジョーの野蛮な声が聞こえてくる。それから無数の足音。追われているらしい。頭上のヘリコプターが降下しつつある。状況は、まだまだ切羽詰っている。
どうすべきか。
俺の心中など察するはずもなく、マルタは嬉しそうにピースサインを掲げてみせた。
「これで万事解決! さっさとずらかろうや」
それはまさに、屈託のない無邪気な笑顔だった。
「三万円もらったから、帰ってパチンコ行きてえ!」
「おう」
それには賛成だ、さっさと逃げ出そう。
「じゃあ、ヘリに乗ろうぜ――なあ、マルタ?」
マルタは顔を青ざめさせたが、襟首を掴んだ俺が逃がすはずもなかった。
「――で?」
エド・サイラスは、タバコを吹かして続きを促した。
《グーニーズ》は今日も人の姿が少ない。月曜日の夜でもないのにカウンターには俺だけだ。店長のエドなんかはもう諦めているのか、タバコをくわえて文庫本に目を落としている。
「マルタのやつはちゃんと報いを受けたんだろうな?」
「まあね」
俺はビールを大きく呷った。
「ヘリの中で俺とジョーがぶん殴った。七回くらいな。高いところだとマジで震える小動物だぜ――でも実際、あいつのせいでどれだけ迷惑したと思ってやがる」
特に、セーラの特訓も失敗に終わった。印堂も少しは頭を使うかと思えばラッキーパンチで切り抜けやがるし、城ヶ峰は――まあ、いつもの城ヶ峰だった。くそ。やつらにはいずれ強化合宿でもやって、根性を叩き直す必要がある。
今回の件は誰にとっても不毛な結果に終わった。主にマルタが関わる厄介事では、こうなることが多い。骨が折れるだけのくたびれ儲けというやつだ。
「マルタの野郎にはまたひとつ貸しができた。どんな罰ゲームをさせるか考えてるよ」
「そうか」
エドはあまり興味もなさそうに呟いて、文庫本のページをめくった。
こいつは山賊の親玉みたいな面相のくせに、読書する習慣があるらしい。スポーツの中継をやっていない暇なときは、新聞か本かのどちらかに目を向けていることが多い。
「傭兵どもへの支払いは、あの新人バイトの手持ちから支払っておいた――が、問題ないんだろうな、ヤシロ」
「まあな」
《嵐の柩》卿の手持ちの金も、《半分のドラゴン》を巡る事件の必要経費を支払ったせいでずいぶんと減ってきた。
特に強盗に荒らされたこの店の改装費用、あれが痛手だった。あとは新人バイト本人の給料も、もとはといえば自分自身のものだ。
やつの通常の預金口座なんて、役所や同業者や元・手下どもから見張られているだろうし、やはり隠し財産を安全に回収する方法を考えるべきかもしれない。
「そういやあ、新人バイトはどこだ?」
俺はカウンターの奥に目をやった。
「ついに素行不良でクビになったか?」
「ふん。改めて見てみろ、この店の惨状を」
エド・サイラスの声には苛立ちが混じった。
「ビラ持って客引きだ。効果はないようだがね。やつの愛想の無さは矯正せにゃならんな」
「あいつ、元・魔王だからな。基本的に偉そうなんだよな」
「かといって、店内に置いといても、この有様だ。意味がねえ。お前ら、もっと宣伝するなり金を使うなりしろよ」
「ううむ」
俺は曖昧に唸るだけで、後半のエドの台詞を聞かなかったことにした。
そろそろ時期が来ているような気がする。
エドの店の経営は、この様子だといよいよ危ない。本人は余計なお世話だとか言うだろうが、こんな客がぜんぜん入らない店がうまく行っているはずがない。最近、月曜日以外は店を閉めている時間も少し増えた。
クソみたいなエドの料理や、新人バイトの愛想も含めて改善点はたくさんあるが、とりえず当座をしのぐまとまった金が必要だ。この店が無くなると非常に困る。
「なあ、エド」
俺はカウンターに身を乗り出した。
「いい考えがあるんだ」
「聞きたくねえな」
「いいから、聞いとけって。宝探しに行かねえか?」
俺の言葉を聞いた途端、エドの顔の火傷がひきつった。
「やめとけ」
「まだ最後まで言ってないぜ。いいか、《嵐の柩》卿が貯め込んでた隠し財産の場所はわかってるんだ。そこを――」
「ヤシロよ、お前は気づいてねえみたいだが」
エドはそこでようやく文庫本から顔をあげた。
「お前が絡んだ話はだいたい不毛な結果に終わるし、ろくなことにならねえ」
「そりゃマルタとかジョーだろ、俺を一緒にするとは何事だ」
「ここまで言ってもまだわからんか」
この世の終わりを見るような目で、なおかつエドは珍しく笑った。
「お前ら、似てるんだよ」
俺はひどく機嫌を損ねた。
エド・サイラスの冗談は、いつもキツすぎる。
おわり
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