第7話

「勇者どもが!」

 名も知れぬ魔王は、片手剣を掴んで立ち上がる。

 顔面は腫れ上がっているが、目だけは血走ってぎらぎらと光っている。殴られまくったせいで、血涙まで流れていた。不気味じゃないか。


 その眼球が、壁に叩きつけられた《ソルト》ジョーと、俺を睨んだ。

「殺す」

 背中の翼が大きく広がった。

 魔王の痩せさらばえた体が、風船のように浮き上がる。それと同時に、剣が床を抉るように突いた。決して貫通したわけではない。

 だが、その瞬間に、先ほどと同様の振動が床を走った。むしろ衝撃、と呼んだ方が近かっただろう。

 それは強烈な地震だった――もしくは、それによく似ていた。

 店内の客が、また叫びながら転倒する。壁際に叩きつけられたジョーも同様だ。


「殺すって、おい、魔王陛下」

 もちろん俺は超一流なので、地震のような衝撃があっても転ばなかった。当然だ。

「それは勇者が言う台詞だろ」

 さっき起きた衝撃で、この魔王がどういうエーテル知覚で、どういう手を得意とするかはわかっていた。

 恐らくは地面にある何らかの地震のツボだか、スイッチだかを見ることができるのだろう。そうでなければ、何らかの方法で振動を他の物体に移しているのか。

 その原理自体はどちらでもいい。

 とにかく魔王本人はその一瞬の隙に空を飛んで、地面の振動から逃れる。あの笑える翼を生やす異形化手術も、そのために行ったのだろう。

 これだけで、かなり一方的に相手を攻撃できるはずだ。ただし屋内や都市部で使う場合は、自分が巻き込まれる危険性を避けるため、あまり強力な地震を発生させることはできない。


 それがわかっていれば、気をつけるのは地震が発生する一瞬のみ。その一瞬を、俺は完全に把握することができた。そもそも、俺のエーテル知覚には、バランスを崩して体勢を乱すような攻撃はあまり意味がない。

 バランスを保つのに必要なのは時間だ。

 三半規管を適応させる。重心を移動する。適切に身体を動かす。やってみれば簡単だ。時間さえあれば。

 揺れて倒れかけるテーブルに足をかけ、その上に載っていた銀のトレイとフォークを掴む。

 そのまま跳んで、空中を滑空する魔王を迎え撃つ。


「なんだ、貴様は」

 いきなり飛びかかってきた俺に対して、魔王はひどく動揺した。

 片手剣で突きかかってくるが、どう考えても苦し紛れだったし、空中からの斬撃は重心も安定しない。単純に腕の力だけで打つことになる。そうすれば、いくら手術でエーテルを増強している魔王でも俺の方が勝つ。

 まずは突き出されてくる剣の先端を、銀のトレイで払った。盾のような使い方。

 それでもトレイの強度では、そんなに強烈に払いのけることはできない。すぐに追撃があるだろう。


 なので、俺はほとんど同時に左手でフォークを投げた。

 美しいほど正確に、クソ魔王の右目に突き刺さった。完璧すぎて自分が怖い。俺のエーテル知覚は、パーフェクトな精密動作を可能とする。自分自身のすべての動きをスローモーションで、なんなら一時停止でもして、ミリ単位で修正できるからだ。

 しかしこの腕前――さすが、俺。


「ぎ、きっ――」

 魔王はひび割れたような奇声をあげ、空中でバランスを崩した。床に落下する。右の翼が自らの体の下敷きになり、べきり、と脆い音がした。折れた。剣が手から離れて転がる。

 一方の俺はこれもまた見事に、テーブルの上に着地を果たした。


「お前、もともと終わってたよ」

 床でもがく魔王を見下ろして、正直な感想を述べる。こいつをさらに精神的に苦しめるためだ。

「実力もそうだけどツキがぜんぜんない。わざわざ俺みたいな、超一流の勇者が居合わせてる店に押し込んでくるなんて」

「黙れ」

 魔王の答えは短かった。

 そして、思ったよりも素早く動いた。


 魔王の細長い腕が伸びて、手近にうずくまっていたメイド服の店員を掴む。

 手近にいた店員。つまり、《ソルト》ジョーの妹だ。肩を掴まれ、彼女は睨むように魔王を見る。

 さっさと避難していなかったのか。こいつは度胸があるというより、ぼんやりしているのではないだろうか。マヌケすぎるところまでジョーに似てしまったのか。

 ともあれ魔王は、ジョーの妹の首に片手をあてた。

「控えるがいい。こいつを殺すぞ」


「おいおい」

 俺は笑ってしまった。

「やめた方がいいぜ」

 そいつは思いつく限り、最悪の手だ。

 《ソルト》ジョーがすでに回復し、起き上がっているのが見えたし、すでに悪魔のような顔で突進をはじめていた。魔王が妹の首をへし折るよりも早いだろう。ここからは弾丸の速度での勝敗となる。

 勝負は決した。


 だが、真に最悪の事態はそういうときに起きる。


「いい加減に」

 と、《ソルト》ジョーの妹が呟いた。俺にははっきりとそれが見えた。

「――しろっ!」

 鋭い声。ジョーの妹の動きは一瞬だった。

 魔王に対して、完全に意表をつく形になった。自分の肩を制している魔王の手首を、逆につかみ返す。それから立ち上がる勢いにあわせ、一本背負いのように魔王の痩せた体を担ぎ上げた。

 柔道とか柔術とか、そんな類の技術だったと思う。

 ちょっと驚くほど鮮やかだったので、最近のメイド喫茶はすごいな、店員にそんな教育を施すのかと、俺は間抜けなことを考えた。


 しかし現実はもっと厳しい。

 魔王の身体は勢いよく床に叩きつけられ、その肩のあたりからまた脆くて鈍い音が響いた。骨が外れた、というよりも、砕けた音だった。魔王の喉から絞り出すような悲鳴があがる。

 ジョーの妹は魔王を投げたあと、手を離さずにそのまま体重をかけたらしい。

 結果として、腕が折れた。俺も使うやり方だった。

 勇者が使う、東洋戦技に間違いない。


「あの。あなたも、勇者の方ですよね?」

 ジョーの妹は、深呼吸のあとに俺の方を振り返った。その傾けた首元に、見慣れた独特の注射痕があるのがわかった。《E3》しか考えられないだろう。ひどい話だ。

「外の方に連絡してください。この魔王は、私が見ておきます」

 彼女はエプロンを外すと、そいつを使って魔王の手首を縛り上げる。かなり手際がいい。


 さらにその作業を続けながら、ジョーの妹は俺に向かって笑ってみせた。

「――ええと、あの」

 やや控えめに、ジョーの妹は俺の顔を覗き込むように見た。その瞳には好奇心のようなものがうかがえる。小動物の類が、光る物体を見つけたような好奇心。

「自己紹介が遅れてごめんなさい。私は《アカデミー》所属、三年。特成コースに所属しています、榊原エレナです」

 俺はほとんど上の空でそれを聞いていた。

 ジョーが店の真ん中で、膝から崩れ落ちるのがわかったからだ。

「さっきは、ええと、助けてくれたんですよね? お名前を――お二人のお名前を、伺ってもよろしいですか? お礼をしたいので――」


「ああ」

 俺は天井を見上げた。

 たとえ覆面に覆われていても、ジョーの顔を見るのはあまりにも気まずかった。こいつはさすがに笑えない。

「俺が《死神》のヤシロ。あいつは正義と哀しみの使者、馳夫ストライダーだ」

 今日のことは誰にも言わないでおいてやろう、と俺は思った。

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