第4話
もっとも素早く動いたのは、意外にもドリットの巨体だった。
誰よりも先に床を蹴って、炎の熱気が生む陽炎を踏み越える。
立ち込める黒煙が、大きく渦を巻いた。かすかな唸り声。よく見れば、フルフェイスのヘルメットの右半分が砕け、肉の抉れた額が露出していた。おそらく印堂が与えた手傷だろう。
大粒の砲弾のようにまっすぐ、接近してくる。
俺の鈍化した時間感覚は、ドリットの筋肉の収縮にあわせて、ヘルメットから覗く傷口が蠢くのを見た。そのような感情があの男に残っているのなら、きっと怒っているのだろう。
「あいつ」
印堂雪音はそれに応じた。
真っ先に動く。
彼女もまた怒っていることが、眉間の歪みでわかった。
このマッチアップは正しい。超常的な反射神経、運動能力、生命力を持つドリットを相手にするのは、城ヶ峰はもちろんセーラでも無理だろう。印堂以外に有効な攻撃を加えられるやつがいない。
そしてなにより、印堂には理由があった。
何度か、ドリットとその同類に痛い目を見せられている。家族同然の仲間を失い、自分の指も失った。屈辱を感じただろう。最近気づいたことだが、印堂は密かにプライドが高い。
「私が殺す」
右手の片手剣を、わずかに持ち上げる。左手はベルトからナイフを引き抜くと、逆手に握り、後ろ手に構える。欠けてしまった人差し指の分だけ、左手の動きは少しだけぎこちない。
そうして印堂は跳んだ。
空間の『隙間』をすり抜け、一瞬のうちにドリットの背後へ。
後頭部を狙うように、空中に飛び出している。
印堂はまったく冷徹な目で、身体をひねる。片手剣で斬り込む。狙いは、ドリットの首筋――ただ一撃で断ち切るつもりの、十分な遠心力を込めた一撃。
しかし、その手は一度使って、しかも失敗したやつだ。
ドリットの右腕が、瞬時にどす黒く肥大化していた。
ヘビが獲物に襲いかかる光景にも似て、見た目以上に俊敏に振り回される。印堂の背面からの攻撃がわかっていたかのように、斬撃を防ぎながら振り払う軌道だった。黒煙をかき分け、さらなる渦を作り出す。
「わかる」
印堂の唇が、そんな風に呟いた。
空中で体をひねり込み、ドリットの右腕を蹴る。狙ったのは肘だ。打撃の支点を制した形になる。
ばん、と、強い音が響いた。
印堂の小柄な体が跳ねた。決して殴り飛ばされたのではない。自分で跳んだ。それを追って踏み込んだドリットの二撃目は、左腕での原始的な振り下ろしだった。
空中のハエを叩き落とすような、無造作な打撃。
「これも、わかる」
印堂は避ける。
というより、空間の隙間に自分の身を滑り込ませ、消えた。同時に再びドリットの背後をとる。今度はドリットも反応しきれなかった。自らの腕の遠心力に振り回され、対応が遅れる。攻撃動作の最中を狙ったわけだ。
悪くない。
陽炎の中で空間の『隙間』を飛び跳ねる印堂は、彼女自身が幻であるかのように素早く動く。
「――ふ」
と、印堂の短い呼気が聞こえた気がした。
ドリットの首筋を、右の片手剣が抉る。
しかし浅い。首の皮一枚でしかなかった。どす黒い体液がわずかに飛び散り、ドリットは異様な金切り声をあげる。
あの、耳障りな笛の音に似ていた。それはたぶん、激怒の叫び声なのだろう。
ドリットは子供が駄々をこねるように、大きく腕を振り回した。
首筋に刃を突き立て、動きを止めた印堂を、今度こそ捉えようとする。巨体の足が下手なダンスを踊るようにもつれて、巨大な腕が印堂を殴りつけにかかる。
だが、そこまでだ。
「そこ」
その瞬間に彼女がやってみせたことは、ごくシンプルな動作でしかない。
「ちょうどいい」
ナイフを握る左手が、ごくわずかに動いた。肘から先を差し込むように鋭く。それだけでいい。
印堂の左腕は、肘から先が消失した。
「お前、確かに私より弱い」
唐突にバランス感覚を失ったように、あるいは足を滑らせたように、ドリットの体勢が崩れた。右側に傾き、よろめく。
その右足首に、ナイフが深く突き刺さっている。
ドリットは首をかしげて、自分の足首に視線を向けた。
痛みを感じている、というよりも、ただ不思議そうな目だった。印堂の左肘から先だけが、ナイフを握り、ドリットの足首を突き刺していた。
あまりにも単純な工夫だった。印堂は左手の先だけを空間の『隙間』に突っ込み、ドリットの足首まで転移させた。それだけのことでしかないが、ドリットの知能では理解できまい。
そこには雄叫びもなく、罵倒の一言もない。
印堂雪音には必要がない。
ナイフの柄を握る左手で、そのまま刃を足首に抉り込む。欠けた人差し指の分だけ握力が弱いのだろう。それを補うように、容赦なく、確実に、刃が肉を引き裂くのが見えた。それもほんの一秒未満のことだ。
血が飛び散り、腱が千切れて、ドリットの巨体が片膝をつく。
「ぐ、ぐっ」
と、ドリットは短く唸った。
苦し紛れに振り回す右腕は空を切る。
すでに印堂はそこにはいない。空間の『隙間』を飛び越え、またドリットの背後に回っている。ただ連続して死角に回り込む、シンプルな戦術――印堂のこれを追いきれるやつは、滅多にいないだろう。思いつくのは、俺かマルタぐらいのものだ。
そしてまた印堂が一撃を加える。
「ぐ」
唸り声が漏れて、黒い体液が溢れ出した。
非常に鮮やかな剣筋だった。膨張したドリットの右腕の付け根を、印堂の片手剣が斬り飛ばした。あとは一方的な殺戮になる。少しずつ四肢を破壊し、削ぎ落としていけばいい。
「死んで。今度こそ」
印堂はそれだけ、吐き捨てるように言った。
小柄な体が加速する。
右と左の刃が、瞬く間にドリットの肉を、骨を、削り取っていく。ドリットが残った左腕を振り回しても、まったく追いつけない。その姿を捉えることすらできない。
「それが出来るなら、最初からやれよ」
俺は思わず印堂をぶん殴りたくなった。よくない傾向だ。《E3》が効きすぎている。善なる世界に意識を集中させる。考える。
印堂にとって体の一部を空間の『隙間』に突っ込み、部分的に瞬間移動させるのは、おそらくそれなりにリスクがあることなのだろう。
片手を『隙間』に突っ込んだまま、殴り飛ばされたりしたら、ろくなことにはなるまい。その危惧があったから、近距離戦闘では試す気にならなかったか。
まさか、そういう使い方を思いつかなかったなどということは――
「いや、有り得る」
印堂雪音ならば、有り得る。
俺は自分の胸にその疑問をしまっておくことにした。
いまはただ、褒めておくことにしよう。俺は優れた指導者だから、そのタイミングがわかる。印堂雪音は、ちょっとは工夫をするようになった。とても劇的な成長とは言えないが、少しずつだ。それでいい。
「いいぞ、印堂」
俺が声をかけると、印堂は素早く振り返った。犬のようだ、と俺は思った。
「《九本指》を名乗ってもいい」
どうせ意味などわからないだろう。
それでも印堂は、珍しく嬉しそうに笑った。俺は顔を背けるしかなかった。
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