第2話
「これ」
印堂雪音は、俺の眼前に登山用ザックを差し出した。
「あのジョーっていう人が、教官に渡しとけって」
人差し指の欠けた左手が、少しぎこちない。まだ慣れていないのだろう。《E3》で痛覚が鈍化していても、身体能力が向上していても、どうしようもないものはある。
「よし」
俺はザックの中から、二振りのバスタード・ソードを引っ張り出す。片方は予備に使うため、剣帯にひっかける。
それから《E3》をありったけ。他には催涙性の発煙筒。ナイフ、拳銃、手榴弾――おそらくこいつらの出番はないだろう。《ソルト》ジョーのやつは、この手のミリタリー・ツールを愛好している。ほとんど趣味だ。
「で、印堂。ドリットには逃げられたって言ったな?」
必要なのは、いまはこれだけだろう。《E3》。俺は慎重にそいつらを拾い上げ、コートの内側に突っ込む。
「なんでだと思う?」
俺は首筋にインジェクターを押し当てた――軽い酩酊感。変化は一瞬だ。
神経が鋭く尖る。思考力が冴える。加速する。
「お前とドリットの差は? 考えてみろ。お前のエーテル知覚は強い。間違いなく。それでもあんなウドの大木に負ける理由は?」
「……向こうのほうが、速い?」
印堂の答えは、やや自信に欠けていた。眉間を歪めて、必死で何かを思い出そうとしている。
「背後に『跳んで』も、こっちが当てる前に迎撃された」
「そりゃ、反応速度が速いってことだ」
もしかすると、それはドリットが有するエーテル知覚なのかもしれない。
コンマ数秒先を読むとか、相手の攻撃軌道がわかるとか、あるいは俺と同じタイプの感覚強化という可能性も有り得る。というより、ほかに考えられない。
印堂の瞬間移動に対して、即時に反応できる超反射神経なんて、怪物じみている。
「お前の、その単純な速攻は確かに強力だ。ただし、対応できるやつもいる。その場合の工夫が必要なんだと思う、たぶん」
「工夫」
印堂は眉間を歪めたまま、阿呆のように繰り返した。
「そうだ。そのカカシ並みの頭脳で考えろ。じゃないと、次は指一本じゃ済まないぞ――で」
考えた挙句、俺はコートの内側に、ナイフを一本だけ差し込むことにする。これで準備は完了だ。印堂の背中を叩く。
「ジョーはどうしてる? ここに来てるのか?」
「さあ。『適当にやる』って」
「なるほど」
先ほどより、少しだけ近くで爆音が聞こえた。建物全体が揺れる。
「つまり、本当にヤバい局面は終わってないな」
「どういうこと?」
「別に。大したことじゃない」
「そう。じゃあ、早く行こう」
「どこにだよ」
「ん」
俺の質問に対して、印堂は不思議そうな顔をした。
一瞬の間をおいて、尋ねてくる。
「アキを助けるんでしょ」
「なんでそう思う。俺、あいつのこと嫌いなんだけど」
「あんな連中に舐められるのは、我慢できないし」
「だから、なんでそう思う?」
「落とし前をつけないといけない」
「だから、なんで――」
「すごくわかりやすい。少なくとも、私には」
印堂は唇の端を引きつらせるように笑って、部屋の出口のドアに近づいていく。
「教官は、嫌いな相手だからって見捨てない」
また近くで爆音が聞こえた。
俺は何も答えを返さなかった。
思えば、それは図星だ。
好きな相手なら誰だって助ける。クズ以下のクソ野郎だって、好きなもののためなら命ぐらい賭けるだろう。金、女、ドラッグ、なんだっていい。自分の生活でも。
それを守るためなら、どんなクズでも命懸けになれるだろう。
俺のボーダー・ラインはそこじゃない。
結局のところ俺は、俺がクズ以下の何かじゃないと証明したくて、こんなことをしているのだと思う。俺は人殺しで生活するような、最低のクズには違いない。だからせめて、これが最低のラインだった。
なんだか矛盾しているようだが、俺は本当にそう考えている。
俺は城ヶ峰のことをまったくもって嫌いだ。
だから俺にとっては、やつを助ける価値がある。
「あっ」
俺が考え込んでいたのはほんの、十分の一秒ほどだった。
その間に、印堂はつま先でドアを蹴り開け、そして飛び退いた。
銃声と弾丸の嵐が、印堂の蹴り開けたドアを蜂の巣状に穿つ。それから誰かの怒鳴り声。『出てこい』だの、『殺すぞクソ野郎』だの、ずいぶんと罵倒されている。
その対象は、俺たちに違いない。
「教官。待ち伏せされてる」
印堂は壁に背をつけて、わずかに眉間にシワを寄せる。
「たぶん、五人くらいいたと思う」
「ああ。まずいな」
「うん。一瞬しか見えなかった。あいつらの背後まで跳べるかわからない。ちょうどいい『隙間』がないかも」
「違う。まずいってのは、そういうことじゃなくて」
あんなやつら、手榴弾でも放り込んでやればいい。問題はそこじゃない。
「非常によくないぞ」
俺が気にしていたのは、さっきからやたら近づいてきている爆発音についてだ。
束の間、俺は耳を澄ませた――嫌がらせのように、まさにその瞬間、爆音が間近で炸裂した。俺が寄りかかっていた壁に亀裂が入るのがわかった。
「マジかよ」
俺はおもわず舌打ちをした。考えられる限り、最悪の展開だった。
「――ヤシロ! おい!」
銃声は止んでいた。代わりに聞こえたのは、ひどく不愉快な男の声だった。
「さっさと出てこいよ。『ありがとうございます』はどうした? あ?」
「うるっせえな、あいつ」
仕方がないし、いつまで隠れていても格好がつきそうになかったので、俺は蜂の巣になったドアを蹴り開けた。できるだけ自然体で廊下に出ていこうとしたが、たぶん無駄だったと思う。
広い廊下だった。やはりこの建物には、相当に金がかかっている。
ジョーの爆撃によって破壊されるまでは、清掃が行き届いていたであろう、西洋風の内装。
「よお」
《ソルト》ジョーがにやにやと邪悪に笑っていた。片手には鉈のような大ぶりの刃。スキンヘッドの右半分が、返り血を浴びて赤い。まさしく、悪魔のような見た目だった。
足元には体の大半が焼け焦げ、あるいは一部が吹き飛んだ男たちが転がっている。生きているかどうかもわからない。
「助けにきてやったぜ」
《ソルト》ジョーは足元に唾を吐いた。これこそが、俺の考えていた最悪の事態だった。
「自称《死神》の三流ヘボ野郎。こいつは謝礼を弾んでもらわないとな。礼儀としてな」
「誰も頼んでねえよ」
「ああ、そうだ。お前は捕まってたから、『助けてください、お願いします』も言えなかったもんな?」
「黙れ、ジョー。殺すぞ。俺には作戦があったんだ、おかげで台無しだ」
「謝礼はキング・ロブ陛下の観戦チケットでいいぜ。やっぱりアレだろ? ヤシロみたいな下手くそが観戦するなんて陛下に失礼だからな! ハハ!」
「この――」
「やめろ、くだらん」
それだけは言ってはいけない台詞だった。キング・ロブの名前を出しやがった。逆上しかけた俺を、陰鬱そうな声が止めた。
「こっちは病み上がりだ。余計に気分が悪くなる」
《ソルト》ジョーの傍らで壁に寄りかかっている、右腕をギプスで吊った、顔色の悪い初老の男だった。エド・サイラス。無事な方の左手で、いかにも無骨な手斧をぶら下げている。
エドはクソ不味い自分の料理を味わっているかのように、不愉快そうに喋る。
「お前らの馬鹿げた喧嘩を見るために、わざわざ俺まで出張ってきたわけじゃない。この娘が報酬を弾むと言ったからだ」
「あ、えっと」
背後からセーラが顔をのぞかせた。ひどく困ったような――あるいは気まずそうな顔をしていた。俺と印堂を交互に見る。
「これって、助けにきたつもりだったんだけど、まずかったか? なんかセンセイに作戦とかあった感じで?」
「別に」
そんなもんは種切れだった。しかし認めるのは癪に障るし、《ソルト》ジョーがにやにや笑っている。
だから俺の返事は、非常に刺のある口調になった。
「たいした作戦じゃねえよ」
「いや、センセイ、怒ってるから」
「怒ってない」
「嘘つけ! いま、絶対不機嫌になってるだろ。ホントはどういう予定だったんだよ」
「しつこい!」
俺は一喝した。
「色々な予定があったんだよ。印堂、こいつには例のアレのことは言うなよ。疫病神を連れてきやがったから、作戦がパーになった」
あまりにイライラしてきたので、俺は印堂の肩を叩いた。
印堂は無表情にうなずく。最近わかってきたことだが、意外に印堂はノリがいい。
「わかった」
「えっ、いや、待った! よくねえよ、そういうの。雪音、あとで教えろよ」
「教官との秘密だから無理」
「おい、雪音」
「いいんだよ、そんなことは。どうでもいい!」
俺は強引に話を終わらせた。すぐにボロが出そうだったからだ。
「こっちの戦力は? これで全員か?」
「いや」
答えたのは《ソルト》ジョーだった。こいつはタバコに火をつけて、すっかりここで一服するつもりらしい。見るからにひと仕事終えた、という態度で、実に恩着せがましい。
「マルタと、《神父》のクソ野郎がついてきた。あとはマルタの知り合いで、名前なんつったっけ、あの態度のムカつく薄らハゲ。あの北海道の傭兵」
「俺も忘れた、って、おい。そいつら野放しにしてるのか」
「適当に暴れていいぞって言ってある。金目のモノは取り放題、殺し放題だからな」
「そいつは――」
俺はそのあとに続ける言葉を探した。だが、妥当なものを思いつかない。
マルタと《神父》が『適当に暴れて』いるならば、状況はすぐに破滅的になっていくだろう。《嵐の柩》卿と、その眷属どもには災難以外の何者でもない。そのことは、もはや揺るぎない事実ではある。
だが足りない。
「いいか」
俺は自分を指さした。
「《嵐の柩》卿には、ちゃんと礼をさせてもらう。その権利は、俺がいちばんあるはずだ。これだけ迷惑かけられたからな」
「どうかな。そいつは早いもん勝ちだろ?」
タバコの煙を吐き出し、ジョーはせせら笑った。
「マルタや《神父》にそんな理屈が通じると思うか? いずれにせよ、わかってることは一つだ――」
「《嵐の柩》卿は逃がさねえ」
俺は断言する。
地獄よりひどい目にあわせてやる。
「後悔させてやる。差し当たって、城ヶ峰だ」
やるべきことがある。《嵐の柩》卿のエーテル知覚が、いまひとつ分からない。
空港からの移動経路で、粘土細工の犬や巨人をけしかけてきた。あれが恐らく《嵐の柩》の能力なのだとは思う。しかし、どうやって? まずは、それを突き止めておきたかった。
城ヶ峰ならば思考を読める。
何をしようとしているのか、瞬間の行動を把握できる。マルタが記憶を読むより手っ取り早い。
「ぜんぜん気が進まないんだが、あいつを探す必要がある」
「ああ。そうだと思ったよ。そんな気がしてた」
答えた、明らかにセーラの声は呆れているようだった。
「でも亜希のことなら、こっちから探すまでもないと思うぜ」
「うん」
セーラの言葉に、印堂もうなずく。俺は少し混乱した。
「どういうことだよ。何を言ってる?」
「前にも、こういう感じのことがあったんだよ。あいつだけ現場ではぐれて、こっちも探したんだけどさ。亜希は結局――あ、雪音、聞こえたか?」
「うん。あっち」
印堂は正面、廊下の奥を指さした。セーラが大きく首を振る。
「ひどいことになる前に、行こう。たぶん、センセイはすごく不機嫌になるし」
「うん。かなり迷惑だと思う。セーラ、フォローよろしく」
「お前ら会話させろよ。城ヶ峰のなにが、」
ただし、俺の疑問は、すぐに解消された。
廊下の彼方から、凄まじく耳障りな声が聞こえてきたからだ。その声は、圧倒的に無意味な自信感に満ちていた。
「――そこまでだ、悪党ども」
頭痛がした。俺は印堂やセーラと目をあわせようとした。二人ともそろって顔をそらした。声はまだ聞こえてくる。
「よくも私と師匠を捕えてくれたな。誘拐は犯罪だ、後悔させてやる!」
視界の端で《ソルト》ジョーが笑った。『さっさと助けに行ったらどうだ?』の笑い。それから『オレは関わらないぞ』の笑いだ。
「マジかよ」
俺は呻いた。彼方で銃の発砲音、それに応じて、城ヶ峰が何かを叫ぶ。
「行く」
さっさと印堂が走り出し、セーラが続いた。
俺は一瞬だけ遅れた――考え事をしていたせいだ。
城ヶ峰はどうやって脱出したのか、脱出したのならなぜそんな暴挙に及んでいるのか、そういう実質的な思考が半分。もう半分は城ヶ峰亜希の、救いようのないパーソナリティについてだ。
控えめに言って、やはり城ヶ峰亜希は狂っている。
何もかも気に入らないが、残念なことに、だからこそ俺にとっては助ける価値がある。そういうことだ。
俺は一度だけ壁を殴って、走り出した。
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