第4話
不安がまったくないわけではなかった。
一瞬の目眩と、内臓が勝手に浮き上がるような不快感、冷たい風を眉間のあたりに感じた。浮遊感、というよりも、空を泳ぐような感覚。心臓が一度だけ鼓動を打つまでの、わずかな間。
再び重力が俺をちゃんと捉える寸前で、城ヶ峰がほとんどしがみつくように飛びかかってきた。
かろうじて間に合った、といってもいいものか。その直後はひどかった。
視界が気持ち悪いほど回転するし、膝だか背中だかがアスファルトに擦れる痛みがあったし、正直、舌を噛まないようにするだけで精一杯だった。軽い脳震盪が起きていたかもしれない。
ひどい感覚の混乱。だが、それも強い衝撃が左肩から背骨に突き抜けたとき、一段落がついた。
「や――り、ました!」
城ヶ峰の声が耳元で聞こえる。騒がしい。そのおかげで、俺は吐きそうなほど頭が痛むことに気づいた。
「窮地の師匠を抱きとめる。これは完全に既成事実! 師匠も私という存在を意識せざるを得ないでしょう!」
「ちょっと静かにしてくれ、吐きそう」
「はい! わかりました!」
絶対にわかっていない。その証拠に、城ヶ峰は偉そうに喚き続けていた。
「いかがですか、この私の活躍は! 思わず母性すら感じてしまうのでは?」
「気持ち悪い。ゲロが出そうだ」
「言ってる場合か、おい、センセイ」
セーラ・ペンドラゴンの手が伸びてきて、俺の襟首を掴んだ。
「いつまでやってんだ。離れろ! ってか、亜希はさっさと離せよ!」
「ふっ。残念だがセーラ、いざというときに師匠が頼るのは、この一番弟子の私だったようだな。きみだけ助手席に座ってずるかった報いだ!」
「亜希お前、調子乗ってんなよ、よくねえぞそういうのは! 協定違反だ!」
「――静かにしろ! うるせえっ」
本格的にゲロが出そうだったので、城ヶ峰の手首と、肩の付け根を掴んだ。
そのまま肘を曲げさせて、本来なら関節が曲がらない方向へひねり上げる。こうすることで、たとえ《E3》で身体の頑強さを向上させていても、甚だしい激痛を与えることが可能だ。
「いっ」
城ヶ峰は変な昆虫のような鳴き声をあげて、すぐに俺の首を解放した。
「どうするかな」
俺はゆっくりと膝の関節を伸ばしていくことで、どうにか自分の足で立つことができた。
目の前には相変わらず、粘土をいい加減にこね合わせたような巨人。
ただし、その左足が欠損していた。腕と、残った右足で巨体を支えている。うまくいったらしい。
俺たちの乗っていたミニバンは、巨人の左足を見事に吹き飛ばし、そのまま残骸のような有様になっていた。どういう衝突の仕方をしたのか、ひっくり返って派手な黒煙をあげている。
巨人は這うような姿勢のまま、緩慢な動作でこちらに近づこうとしていた。欠損した左足がアスファルトに擦れて、動くたびに削れていく。
「なんだあれ、ああいうエーテル知覚もあるのかよ」
セーラは日本刀をすでに抜刀しており、下段に構えていた。
弱気になっている証拠だ。
「何がどうすれば、あんな――粘土? あれを、生き物みたいに?」
「いくつか方法はある」
まだ少しふらつく。俺は何度か咳き込み、深呼吸をする。頭の動きは鈍いが、やるしかない。
「物体に何かの運動エネルギーを突っ込んでるのか、それとも自分の知覚を潜り込ませてるのか――たぶん前者だ。動きがいい加減すぎる。《ハンドル》とか呼ばれるやつの一種」
左足を自壊させつつも、近づいてくる巨人がその証拠だ――ただし、それを考えたところで、あまり事態は改善されそうにない。
そして俺は気づく。
周囲から、小型の犬のような粘土の塊が接近してきている。
「来い!」
城ヶ峰は異様なほど高いテンションで、粘土の巨人や犬を威嚇するように剣を掲げてみせた。
「たかが粘土細工ごとき、私たちの敵ではない!」
「だと、いいんだけどさ」
セーラは唸り声をあげると、構えの足幅を正すふりをして、一歩だけ後退した。また、良くない癖が出ている。
「センセイは下がっててくれ。雪音が追いついてくるまで、私と亜希でどうにか凌ぐ」
「最高に弱気な選択肢だな。そりゃやめとけ」
どんなエーテル知覚か知らないが、この変な粘土細工を、どれだけ繰り出せるのかわかったものではない。相手をしている間に、すぐに追いつかれるだろう。
だから、俺はビルの隙間の路地を指さした。
「逃げるぞ。印堂なら、そのうち来るさ」
俺はあえて軽薄に聞こえるように宣言する。
「そのうちって、センセイ、そんなもん――」
「走れ」
何か反論しようとしたセーラの背中を叩き、城ヶ峰の脛を蹴り飛ばしてやった。
この中では、《E3》を使用していない俺が一番遅い。
それでも、真っ先にビルとビルの隙間に飛び込むことができた。この狭さならば、巨人は追ってくることができないだろう。あまりこの辺りの土地勘はないが、渋谷区を目指して走ることはできる。
どこかでまた、違法駐車でもしている自動車を見つければいい。
しかし、小柄な『犬』どもは追跡してくる。
それどころか、路地の先へ回り込んでいたやつらが、三匹ほど。向かってくる。吠え声や細部のディティールこそ無いものの、動きはまるっきり『犬』そのものだった。そいつらが口を開くと、牙の代わりだろうか――釘のようなものが、びっしりと生え揃っているのがわかった。
粘土の肉体でどうやって俺の邪魔をするのかと思えば、なるほど、この釘が攻撃手段か。
「気持ちわるいな、こいつら」
傍らをセーラがすり抜けていくのが、一瞬だけ見えた。
「デザイン最悪だろ」
日本刀を上段から、叩きつけるように一閃。こいつは本当に、弱いやつ相手にはとことん強い。そして鮮やかだ。頭部どころか、胴体まで両断すると、『犬』は飛び散ってもう動かない。
そして残った二匹については、獣のように跳躍した城ヶ峰が始末をつけている。
「私は悪くないと思うが」
城ヶ峰はバスタード・ソードを片手で振り回し、叩きつける。
「こいつらの造形、雪音が描くイラストに似ている!」
二度、三度。それから四度。それで残りも飛び散り、派手に壁に叩きつけられた。
片手剣を扱っていたときの癖がそのままだ。半端な斬撃が多く、手数を増やす羽目になっている。
左手はほとんど添えているだけで、斬撃はコンパクトに――俺の真似をしようとしているのかもしれない。
「左手を遊ばせるな」
俺は簡素に、いちおうの助言を飛ばした。《E3》が尽きたいまは、城ヶ峰でも貴重な戦力でもある。
「相手と切り結ぶときは、常に左手の使い方を意識しろ」
「はい! わかりました、師匠!」
またいつもの返事だ。本当にわかったかどうかは知らない。
俺たちは、ただ走った。
路地をひとつ抜けて、川にぶち当たり、橋をわたってまっすぐ――どのくらい走ったのか。おそらく大した距離ではなかったに違いない。住宅街に駆け込んで、『犬』どもの追っ手の姿が完全に消えた。
時間の感覚が曖昧になっているのがわかった。疲労のせいだ。
――そうして、その小さな公園にたどり着いたとき、俺は息切れを起こしかけていた。《E3》の効き目が残る城ヶ峰とセーラは平然としていたが、見栄を張る状況でもない。
筋肉の限界を感じて、俺は公園の片隅のベンチに崩れ落ちた。
「久しぶりに」
背もたれに寄りかかって、空を仰ぐ。ろくに声が出ない。
「《E3》ナシで、こんなに運動したよ。最悪だ」
「しっかりしてくれよ」
セーラは不安そうな顔で、周囲に忙しなく視線を向けている。
公園には人の姿もない。住宅街全体が、人がいないかのように静まり返っていた。実際のところ、大半の住民はよその地区や田舎にでも避難しているのかもしれない。
「なあセンセイ、あの店、だいぶ近いのか? 私、この辺の地理なんて知らないからな」
「近い」
俺は嘘をついた。希望がなければ、士気は保てない。
「変な封鎖さえされてなきゃ、もう少しで見えてくる。渋谷は激戦区らしいからな」
「思ったよりも、すごい状況なんだな。これだけ派手にやっても、警察も自衛隊も、誰も出てこない。センセイ、何年か前の抗争のときも、こんな感じだったのか?」
「ああ――」
息を整えるついでに、俺が何か適当なことを答えようとしたとき、俺が見上げていた空に爆炎が立ちのぼった。そびえ立つビルの隙間から、赤黒い炎らしきものが吹き出していた。雷のような音が少し遅れて響いたように思う。
かなり近い。
俺は携帯電話をポケットから取り出す。
ついでに写真をとっておこうと思ったからだ。
「なかなか派手だな」
「派手どころじゃねえだろ」
俺の感想に対して、セーラは思ったより真剣な顔で答えた。
「携帯いじってる場合かよ、どう考えてもやばい。なんとかしねえと」
「なんとかって、俺たちが? お前も勇者ってのを誤解してるクチか?」
「いや、私は、ただ」
「魔王を何人か殺したところで、この抗争が収まるわけじゃない。十人、二十人の規模じゃないんだ。おそらくな――おい、聞いてるか、城ヶ峰。お前にも言ってるんだよ」
「はい!」
傍らで突っ立っていた城ヶ峰は、力強く返事をした。
「ですが師匠、勇者たる者、社会に貢献するべく努力をしなければなりません。私は父からそのように教わりました! 我々もこの凄惨な状況を打破するべく、行動を起こすべきと思います」
「お前の親父は――」
俺は言うべき言葉に迷って、結局は後半の台詞をただの舌打ちに変えた。
「何が社会貢献だ。俺たちが犯罪者を殺すのは事実だが、それで世の中が少しでもマシになるか? その眷属が仕事なくして、また別の犯罪に手を出すだけだ」
「勇者の最上の仕事とは、魔王を殺さず改心させることです。一つずつでも続けていけば、世界はきっと良くなります」
「城ヶ峰」
俺の声はきっとものすごく不機嫌そうになっていただろう。
「お前の発言はいちいち神経に障る」
「でも、救われていると思います」
「誰がだ、殺すぞ」
「そうですね」
わかっているのか、いないのか、城ヶ峰は生真面目な顔でうなずいた。
「師匠は嫌いな人とばかり仲良くなる、不憫な性質の方なので」
この野郎、と、俺は思った。
言われなくてもわかっている。
《ソルト》ジョーも、エド・サイラスも、野蛮だし、無愛想だし、俺をイラつかせることばかりする。俺はあまり好きじゃない。
むしろ嫌いだ。
イシノオに至っては、おぞましいとすら思っていた。それでも友達だった。共通の趣味がカード・ゲームにビールというだけの、代わりがきかない、俺の数少ない友達だった。
城ヶ峰に対して、何か言い返してやりたい。俺は適切に反撃できる言葉を探そうとした。
「センセイ」
セーラがこわばった声をあげたのは、そのときだった。
「近づいてる。たぶん、さっきのやつらだ。かなり速い――こっちに一直線に――」
「ああ?」
「マジかよ。こっちの場所がわかってるみたいだ。速さからして、車使ってる」
「なるほど」
有り得る。セーラが脅威の接近を感じ取れるように、なんらかの方法で離れた対象を感知できるエーテル知覚もあるだろう。
俺は北海道でのことを思い出した。
「あるとしたら、あの――『トモエ』の方だな。槍を使うやつ」
暗闇の中で、俺の位置を的確に把握していた。原理を決め付けるのはまだ速いが、この状況では、わかったところで対処は難しいだろう。
セーラは俺を振り返る。明らかにビビっている。
「逃げないと」
「それがよさそうだ」
俺はベンチから立ち上がった。
「まあ、少し遅かったけどな」
タイヤが地面に擦れる音が響いた。車の排気音。公園の入口に、白いセダンが姿を見せる――白く濁った、粘土製の『犬』の一団を引き連れて。吠え声もなく、『犬』どもは園内に駆け込んでくる。
「いいだろう」
城ヶ峰はバスタード・ソードを、両手でしっかりと構え直した。一応、アドヴァイスは聞き入れるつもりはあるらしい。
「魔王の手先ども。正面から打ち破る!」
「くそっ」
セーラが口汚く悪態をつき、もう一度俺の顔を見た。俺にできることは、できるだけ軽薄に笑って、大きく首を傾げることだけだ。
こいつらの《E3》が、あとどのくらい持つか。
俺はコートの内側から最後の手段――すなわち、《ソルト》ジョーのガレージから盗んできた拳銃、ベレッタを引っ張り出した。
セーラが疑わしげに目を細めた。
「撃てんのかよ」
「まあな」
《E3》なしでは相当に下手だけど、と、俺は心の中でだけ付け加えた。
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