第3話

 窓から身を乗り出した印堂の姿が、一瞬で消えた。

 空間転移だ、と遅れて気づく。

 ああいう移動の仕方もできるのか――と、思うのと同時、激しい激突音が頭上で響いた。ルーフで何かが削れるような音。金属質な響きが連続し、俺たちのミニバンを大きく揺らす。かなり強烈な迎撃になったのだろう。


 認識できるのは音だけだ。

 ルーフを蹴る足音、金属音、衝撃、また足音。獣のような、ドリットの咆哮。それに混じって、かすかに印堂の唸り声も聞こえた。

 あいつもあいつで、動物みたいなやつだ。笑ってしまいそうになる。

 だが、俺はそちらに意識を振り分けている暇はなかった。

「城ヶ峰」

 怒鳴りながら、ハンドルを右に切る。

「やれ」


 急ブレーキのせいで車体が滑った。

 タイヤが苦しげに悲鳴をあげた。城ヶ峰の側から、相手のセダンを狙いやすいように車体を横向きにしてやった。

 一方で、後方のセダンに乗るトモエの手槍は、すこしだけ狙いを躊躇する。俺と城ヶ峰のどちらを狙うべきか、コンマ数秒ほど迷ったのだろうが、それだけあれば《E3》使い同士の戦闘はケリがついている。

「あれっ」

 城ヶ峰の少し慌てた声が聞こえた。手中の黒い塊を、弾丸の速度で投擲する。そいつは俺の指示した狙いを少し外れていた。

 せっかく当てやすくしてやったのに、なんてヘボい腕前だ――が、そいつは予想以上の結果を生んだ。


 城ヶ峰の投げた物体がぶつかったのは、フロントガラスではなかった。

 助手席から身を乗り出していたトモエの顔面だった。しかも真正面。

「――なに、この――!」

 トモエは何か悪態をついたかもしれない。咄嗟に自分の顔面にぶつかった物体をつかみ、身体を引っ込めようとする。

 その直後に、手中の物体から、白いガスが勢いよく噴出した。

 念の為に北海道に持ち込んでいた道具だ。CNガスの発煙弾。日本警察でも使用されている暴徒鎮圧用の催涙ガスで、エーテル知覚を持っているやつにも効果はある。後遺症が残る可能性も極めて少ない、かなり『清潔な』道具ではある。

 これならば、城ヶ峰でも抵抗なく投げられると思ったからだ。

 うまく決まった。

 CNガスは白いセダンの車内へ、瞬く間に充満した。車体が滑り、ささやかな抵抗もむなしくスピン運動をはじめる。これでしばらくは、まともな行動などできまい。俺は『ざまあみろ』の意味で、クラクションを一度だけ強く鳴らした。


「すみません、師匠」

 城ヶ峰がひどく狼狽して振り返った。

「外してしまいました。フロントガラス直撃は失敗です、申し訳ありません。師匠の期待に添えず」

「なんだその顔は」

 俺はハンドルを左に切り直し、アクセルを踏み込んだ。

「上出来だ。笑え! 歌ってもいいぞ!」

 俺が城ヶ峰を褒めてやりたい気分になることなど、滅多にあることではない。

 あれが直撃した瞬間の、トモエとかいう少女の顔面がとても笑えたから。攻撃衝動を誘発する《E3》をキメていないから。理由はいくつかある。

 ただ一番の原因は、俺の立てた華麗な作戦が、抜群にうまくいったからだ。

 何度も言うようだが、俺はたぶん単純な人間だ。物事が思い通りにいくと嬉しいし、気分が良くなる。特に俺の命を狙ってきたやつのアホな顔を見るのは最高だ。楽しいドライブになってきた、とすら思った。

 鼻歌でも歌いたい気分だった――その直後の、急激な事態の悪化さえなければ。


「おいっ、センセイ!」

 まずはセーラの警告だった。

「何を呑気に――」

 舌打ちとともに何か言おうとして、結局やめたようだった。セーラの腕が、俺の襟首を掴んだ。前のめりになるように突き飛ばしてくる。俺は反応すらできない。

 思わず罵倒を浴びせようとした瞬間に、耳のすぐ横でガラスの砕ける音を聞いた。

「うお」

 耳がバカになったかと錯覚するほどの風圧。

 一瞬だったが、俺はたしかに見た。黒く膨張した異形の腕が、窓ガラスを破砕して俺の後頭部をかすめた。セーラがこれに対して何をしたのかは、当然のようによく見えなかった。


「油断してんじゃねえよ!」

 吐き捨てた彼女は、構えた日本刀の柄を握り締めた。

「私らのセンセイだろ」

 甲高い金属音が響く。居合の一種だったのだろう、と、後になって気づいた。

 よくもまあ、こんな狭い空間で。何をどうやって抜刀できたのかわからない。なんらかの『技術』なのは間違いない――もしかしたらセーラの場合は、反射的な防衛行動の方が、余計なことを考えない分だけ本来の力量が発揮できるのかもしれない。

 そういう余計なことを考えたのも、また後になってからだ。


 とにかく、このとき鞘走ったセーラの日本刀は、運転席の窓から突っ込んでくる異形の腕をみごとに迎撃した。手首のあたりを深く、ちぎれる寸前まで引き裂く。飛び散る血しぶきが俺の頬を打つ。鍔と刃が、耳元で澄んだ音を鳴らした。

 獣じみた絶叫とともに、異形の腕が引き戻される。

 頭上のルーフで荒っぽい足音。よろめいたのか。印堂が唸る声。

 俺は窓の外に、右腕を異様に膨張させた『ドリット』の顔を見た。フルフェイス・ヘルメットの隙間から覗く青白い顔。表情はない。ただ、こちらを視ている。それだけの目。

 ルーフにしがみついて、こちらを覗き込んでいる――もう一撃が来るか――

「雪音!」

 城ヶ峰がわめいた。

「いま援護するっ。この剣にかけて」

 バスタード・ソードを抜剣しかけている。しかし、間に合いそうもない。

 印堂の小柄な体が飛び出して、ドリットの首に組み付いた。ドリットはわずかに反応する。視線をさまよわせ、背後を振り返ろうとする――その首筋に、印堂のナイフが突き刺さる。

 しかし、浅い。刃渡りからして、首を切断するほどの威力はない。

 これだけでは、ドリットを殺せない。


 薄々と気づいていたことだが、ドリットは《ネフィリム》の一種なのだろう。

 この自我の希薄さからいって、適応者――ではなく、その一歩手前。《ソルト》ジョーの話をもとに考えると、だいたい失敗作との中間というところか。ドリット――『第三号』が示す名前からも、それが窺える。

「教官」

 印堂が呟くように、俺を呼んだ。

 眉間に満ちた緊張を緩め、強引に笑ったようにも見えた。

「任せてくれてありがとう。なんか――私――」

 印堂のナイフが首筋から引き抜かれ、ドリットの異形化した左腕に突き刺さった。それは俺たちのミニバンのルーフにしがみつき、おそるべき筋力に軋みながら震える腕だった。

「少しはマシになれる気がする。こいつ、ぶっ殺す」

 いつになく乱暴な台詞だった。


 瞬間、印堂のナイフに、局所的な力が込められたのがわかった。

 引き裂く。

 ドリットの左腕がちぎれるほどに、深く突き立ち、抉りこまれる。これによってドリットの左腕の力が緩んだ。ルーフを離す。しがみつく印堂とともに、振り落とされ、物理法則に従って吹っ飛んでいく。

 俺はそれを見ていた。

 まったく、どうかしていたとしか思えない。

 《E3》があれば、もっと考える時間があれば、別のことができたのだろうか。いまになって考えても、よくわからない。


 気づけば、俺はコートのポケットから《E3》のインジェクターを引っ張り出していた。最後の《E3》だった。俺が切り札に使おうと思っていたやつ。

「印堂」

 俺は自分が喋るのを止めることができなかった。

 行動に思考が追いつかない。

「そいつには自分で勝て。お前は――」

 その先をなんと言おうとしたのかは、もう忘れた。もしかしたら、ちゃんと声に出して何か言ったかも知れないし、そんな時間はなかったかも知れない。とにかく覚えていない。

 俺は貴重な《E3》のインジェクターを印堂へ向けて放り投げた。

 印堂は少し微笑み、素早くそいつを受け取ったと思う。

 思い出せるのはそれだけだ。

「――くそっ」

 俺は思い切り、全力で、渾身の悪態をついた。アクセルを踏み込み、加速する。

 印堂と『ドリット』は、はるか後方へ吹き飛んでいく。

 印堂雪音はうまくやるだろうか。あいつはあいつで、克服しなければならないことがあった。避けては通れない道だ。ひとりでやれるか?

 俺はブレーキをかけ、減速することを検討した。

 だが、無理だ。


「センセイ! やばいって、後ろ! 後ろっ」

 セーラが俺の肩を荒っぽく叩いた。そして怒鳴る。かなり動揺している。

「うあぁぁあっ、あっ、うわ! 気持ちわるっ」

 犬によく似た粘土の塊が数匹、追いすがってくる。その数、十は下らない。こいつらは迷惑以外の何者でもなかった。俺はアクセルを踏み込み続けるしかない。

 ドリットと印堂の姿は、もつれあいながら吹き飛んで、バックミラーの彼方へと消えた。

「くそっ」

 減速するには、もう遅い。

 そのまま二つか三つ、信号機と交差点を越えたと思う。一般の乗用車とも、ほんの数台だけだがすれ違った。いずれもクラクションを鳴らして、俺たちに罵倒の言葉を投げかけた。理解はできる。明らかに危険な運転だからだ。

「よくないぞ」

 と、俺は口に出して言った。

「こいつは、たぶん、向こうの作戦通りに――」


「師匠!」

 俺の泣き言を遮って、城ヶ峰は前方を指差した。

「あれは」

 白く濁った、巨大な人型がそこにあった。

 ドリットを投げ飛ばして以来、いきなり姿が見えなくなったから、警戒しておくべきだった。粘土の巨人。その存在をすっかり忘れていたが、どうやら先回りしていたらしい。

 両手を広げ、『通せんぼ』をするように、俺たちの前方を塞ぐ。

「さきほどの巨人ではないでしょうか?」

「間違いないって、あいつだ! センセイ!」

 答えたのは、俺ではなくセーラだ。

 いつも以上に青白い顔で、俺の肩をゆする。

「どうすんだよ! 私が見た感じ、でかいし! 超強いじゃん、あれ!」

「うるせえっ」

 俺はアクセルを踏み込んだ。こいつはたまらない。さらなる泣き言も言いたくなる。

「車を捨てる! ちくしょう! なんなんだよ、これ!」

「捨てるって、おいっ。ど、どどどどうするんだよ! ぶつかる! ぶつかるって、センセイ!」

「師匠! ここは正々堂々と巨人に宣戦布告を――」


「出るぞ」

 俺は運転席のドアに手をかけ、城ヶ峰を振り返った。

「俺は無理だから、受け止めろよ」

「は」

 城ヶ峰が目を丸くした。

「ほら、飛べ!」

 俺は怒鳴った。

 その直後に、運転席側のドアを強引に開き、疾走する車から飛び降りている。《E3》も使っていないのに、すべてがスローモーションに見えていた。

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