第9話
「たしかに、覚えてるよ」
冷たい夜の闇の向こうで、セーラ・ペンドラゴンの声が聞こえた。
「私に剣術を教えてくれたのは、オヤジだった。最初に、私は日本刀を選んだ。オヤジと同じ得物だった」
闇の中を、白い霧のような湯気が流れてくる。かすかに生ぬるい湯気だった。俺の息はその湯気と混じり、たちまちのうちに薄れて消えた。
「強かった。厳しかった。私は何度もたたきのめされて――死ぬかと思ったこともある。そういうときのオヤジが怖かった――いや、違う。違うんだよな。わかってる――いまでも怖い」
「だろうな」
俺はセーラの声に背を向けたまま、鼻で笑ってやった。
「怖がりなのは、そのせいか?」
あまりにも寒いので、俺は両手に息を吹きかける。その白い呼気が消えるのも、また一瞬。
「お前はほんとうに怖いものを知ってる」
「そうなのかも」
かすかな水音が響いた。
「しれない」
「そいつはいいことだ。が、勇者はそれじゃ務まらない」
勇者は恐怖を克服しなければならない。恐怖心を騙さなければならない。嘘をつかなければならない。麻痺させなければならない。そうでなければ、どうやって命のやり取りを乗り越えるのか。おそらく、セーラの父親は、彼女に勇者など目指して欲しくなかったに違いない。
父親からしてみれば、アーサー王の娘として、最低限の護身を。その程度の気持ちだったのだろうと思う。
だが、そのときの厳しさに対する恐怖と、強さに対する憧れが、セーラの中のなにかを決定的に歪めてしまった。そんな気がしている。アーサー王陛下がどんな厳しさでセーラを打ちのめしたかわからないし、そんなことを聞き出してカウンセリングするつもりなどない。
ただ、いまここにあるのは、セーラが自分で克服するべき問題だけだ。
「わかってる」
と、少し間をあけてセーラは言った。
「私が臆病だってことなんだろ。センセイが言いたいのは」
「それ以上に、だ」
臆病な勇者は、その矛盾のせいでいつか死ぬ。俺はできるだけオブラートに包んでそのことを言おうとした。
「お前、向いてないよ。勇者なんてやめとけ。どうせクソみたいな職業だ」
セーラが露骨に不機嫌になるのが、気配でわかった。
「センセイが、それ言うのかよ。私は、初めてオヤジ以外の人間に憧れた。マジなんだよ。センセイみたいになりたいと思った」
「馬鹿だ」
俺は笑った。セーラの声がますます鋭くなった。
「笑うなよ――だったら、センセイはなんでやってるんだよ」
「ほかに何をやれって言うんだ?」
俺は振り返った。そんなことを質問されたくなかったので、問答を終わらせたかった。
「温泉旅館の経営者か?」
「そりゃあ――っていうか」
セーラの怒り狂った顔と白すぎる鎖骨が、湯気の向こうに見えた。
「こっち振り返ってんじゃねえよ! ふっざけんな!」
水面に波を立て、おもいきり体を引く。なぜなら、やつは露天の温泉に浸かっていたからだ。そして温泉に浸かっているからには、何も身にまとっていない。《神父》の野郎の管理する温泉は、タオルの類の持ち込みは禁止されている。
そうして傍らには、印堂と城ヶ峰の間抜けな顔も並んでいた。三人仲良く入浴しているというわけで、これは全員の総意と、必要性によるものだった。
「そりゃ悪かった」
いい加減な謝り方をして、正面に向き直った。
腹が立っていたからだ。
俺は温泉に浸かっているわけではない。完全武装で、バスタード・ソードと催涙弾を片手に、露天風呂の岩のひとつに腰掛けている。そうしながら、旅館との出入り口方面を警戒する。それが必要だった。
《神父》の野郎が、余計な手を出してこないとも限らない。あいつは無防備な人間をみると、見境なしに襲いかかるタイプだ。以前、風呂に入っているマルタが刃物を持った《神父》に襲われ、危うく内臓を売り飛ばされそうになったことがある。
それに何より、こいつらが逃げたりできないような状況で、真面目に話をする必要があった。
危険だと思った。
《明星の帳》卿との戦いを見る限り、三人とも、いまにも自滅しかねない。それも、他人を巻き込む形で。巻き込まれる他人というのは、いまのところ、高確率で俺だろう。
背後でセーラの騒ぐ声が聞こえた。
「ってか、なんで亜希と雪音は平然としてんだよ! こいつ――この、これだ、これ! センセイが! 当たり前のように、この空間に存在していることに関して!」
「別に」
雪音は無感情な声で言い捨てた。
「何も問題はないと思う」
「そのとおり。私も何も問題だとは思っていない。いや! 問題があるとすれば、それは師匠が温泉に入っていないことです。これは不平等と不公平、是正されるべきだと思います」
背後で城ヶ峰が立ち上がる、派手な水音が聞こえた。
「師匠! 背中をお流しします! これこそ温泉では必須の行事かと」
「なるほど」
雪音がつぶやくような、おそらく俺たちにしかわからないであろう、感嘆の声をあげた。
「アキはすごい。無駄な巨乳の割には、たまにいいことを言う」
「そうだろう、そうだろう。ただし雪音はよくないぞ、背中を流すのは。きみの容姿と体型では、かなり犯罪的な光景になってしまうはずだ。万が一、師匠にそのような趣向が内在したら困る」
「やめろよ亜希」
少し慌てて、セーラが口を挟んだ。
「雪音にそれを言うなよ……本当、マジで。また肩を脱臼させられたいのかよ。雪音だって別に、そんな、そこまで言うほどでも……ないような……ないと思う」
「後半のフォローが不要。いま、セーラの肩も脱臼させたくなった。アキには謝罪を求める」
「私は素直なので、正直なことを告げてしまうのだ。許せ、雪音! 私が愚かだった!」
「なら、いい。私は万が一、教官にそういう趣味があっても、問題ない。何も」
「うむっ。和解した! ――というわけで、師匠! よろしければ、いますぐこちらへ! 美少女が温泉に入っていますよ!」
「うるせえっ、いいから黙って風呂に入ってろ! これはお前らの反省会なんだよ、なんだそのふざけた態度は」
俺は無意識のうちに、剣の柄に手をかけている自分に気づく。このところ、《E3》を立て続けに使いすぎたかもしれない。怒りのコントロールが難しくなっているのを感じる。ゆっくりと、白い息を吐く。
「なあ。頼むから、あんまり怒らせんなよ」
「はい、わかりました! おとなしくしていれば、あとで師匠も一緒に温泉に入っていただけますか?」
「かなりイラッときたぞ」
俺はこの世の善なるものに、意識を集中しようとした。
そもそも、俺がなんでこんなことをしているのか。すごく理不尽に思えてきた。いまごろ旅館の大ホールでは、北海道のうまいメシを食い、酒を飲みながら、マルタや《神父》や傭兵どもがカードゲームをしているのだろう。だったらその場で俺は、雑魚どもをカード勝負で蹴散らして、賞賛のまなざしを浴びていたはずだ――そんなの、絶対に楽しい。羨ましすぎる。
俺は震える手を制御し、バスタード・ソードの柄から引き離した。
「印堂。いいか」
俺は無表情な少女の顔を思い浮かべながら、その名を呼ぶ。
「お前はアホすぎるのが問題だ」
「……そう?」
「そう。お前が何にムカついて、何を嫌ってるかわからないけどな」
嘘だ。わかっている。
たぶん、それは《ネフィリム》だろう。かつての印堂雪音にとっての汚点。あるいは、トラウマ。守るべき相手に守られたという負債。それが印堂雪音を、勇者としての戦いに縛り付けて――いや。バカバカしい。カウンセラーのような知ったかぶりはやめよう。
俺には結局のところ、印堂雪音のことなどよくわからない――よくわからないが、印堂には印堂の問題がある。それだけだ。
それに《ネフィリム》という呼称は、あまり正しくない。
――《E4》だ。半分のドラゴンどもは、そう呼んでいた。
新型の《E3》。本来的には、死体に対して使う、エーテル強化ドラッグ。エーテル・エフェクト・エンハンサー・エディット。そのように呼ぶ、新世代の《E3》。そういう触れ込みで、このところ魔王界隈に流通しているものだった。四肢の欠損ですら治癒する、あたらしい《E3》。
だが、その副作用は大きい。《琥珀の茨》卿は、身を持ってそれを確認した。
俺は、マルタが仕入れてきた情報からそれを知った。マルタは完全に己の仕事を全うしていた。下っ端のスタッフから奪った記憶は、なんてことはない。ごく短い、わずか八桁の英数字の羅列。つまり、あの《明星の帳》卿の城のサーバーにアクセスできる、管理者ユーザーのパスワードだった。
こういう使い方こそが、《もぐりの》マルタのエーテル知覚の本領である。マルタはこれをつかって、情報を奪ってきた。
「印堂、お前は攻撃が素直すぎる。いや、いい方向に解釈しすぎた。印堂。お前、頭が悪すぎる。考えて戦え。バカの一つ覚えみたいに、背後に回るなんてアホだ」
「教官。私は」
「お前、勇者に向いてないよ」
印堂はいいやつだ。うんざりするほど。だから俺は印堂の言葉を遮った。
「やめちまえ。ろくなことないぞ」
「教官」
印堂が立ち上がるのが気配でわかった。俺は無視した。
「私もセーラと同じ。私は、教官みたいになりたい。はじめて目標ができた。と、思う」
「くだらねー。人殺しが目標かよ」
「ちがう。教官。私は、今度こそ――」
「それから、城ヶ峰」
俺は印堂の言葉を聞きたくなかった。代わりに、目の前を流れる湯気に目を凝らした。強いてそうしなければならなかった。城ヶ峰のことを考えるとき、どうしようもなく混乱させられる。マルタから、さっき聞かされた話のせいだ。城ヶ峰の父親について。つまり、俺の師匠について。
マルタは《半分のドラゴン》に所属するメンバーの名簿を、すっかり手に入れていた。
その中には、あの男の名前があった。
《九本指》の鷹宮清人。
あの男こそは、《半分のドラゴン》の幹部であることに間違いなかった。
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