第8話
光が途絶えるとすぐに、俺は思考を全力で加速させた。
肺まで凍りそうな、冷たい暗闇。
視界がまったく効かなかったので、認識を聴覚のみにフォーカスする必要があった。この状況を作ったということは、少なくとも《明星の帳》自身とあの槍の女には、こうした暗闇に対応する手段が存在するのは確実だった。
《明星の帳》卿の場合は、おそらくあの顔の上半分を覆うマスクが、暗視ゴーグルか何かになっているのだろう。こういうエーテル知覚を持っているのだから当然の準備だ。
槍の女はよくわからない。ただ、床をこするように接近してくる足音だけが聞こえる。俺は一歩だけ大きく後退したが、正確に右側面から回り込むようについてきた――こちらの位置くらいはわかっているらしい。視界が効かなくとも、戦える自信があるようだ。
だが、それは俺も同様だった。
聞こえた音を、ひとつずつ判断して、敵が打ってくる手を読む。俺にはそれができる。視界を塞いで戦闘に持ち込む手なら、俺もよくやる。《琥珀の茨》卿をやったときの応用にすぎない。冷えた暗闇の向こうに耳を澄ます――地面を擦るような足音が、かなり素早く接近してくる。
それからやや離れた位置で、錯綜した足音と、城ヶ峰のわめく声。
「セーラ! そっちだっ」
続いて剣戟。鋭く金属がぶつかり合う音。
城ヶ峰はその読心で敵の手を読めるし、セーラは脅威の方向を知ることができる。うまくすれば、一撃か二撃くらいは凌げるだろう。印堂は、おそらく空間移動でさっさと距離をとり、退避しているはずだ。
あの三人は無事に切り抜けるだろうか――いや。気にするだけ無意味だ。俺は俺で、打てる手を打つ。もしかしたら俺は、あの連中を心配したのかもしれない。笑ってしまいそうだ。
それより音に集中しろ。
左右に等間隔に並ぶ大型サーバー群のおかげで、攻め手はかなり絞られる。
おおよそ二歩分、俺から離れた位置で、足音が一瞬だけ停止した。そして槍の穂先が風を切る音。きたぞ、と俺は思った。むしろそちらへ踏み出すと、バスタード・ソードで槍の穂先を強打し、その刺突をそらした。
「うそ?」
槍の女の声が聞こえた。バランスを崩して、どうにか踏みとどまろうとする足の音。
相手の視界を奪い、距離をとって戦うには、なるほど槍が有効だ。《明星の帳》卿に頼らずとも、もともとそういう戦術を得手とするのだろう。しかし初手を外され、懐に入られると弱い。俺は左手で槍の柄を掴んだ。状況に応じて両手を使えるのが、バスタード・ソードの強みだ。
あとは思い切り柄を引っ張る――と見せかけて、相手が反射的に引き戻しかけたところを押し込み、足払いとともに転がす。それから顔面がありそうな位置に蹴りを入れる。
確かなインパクトの感触。
「戦術の見立てが甘いんだよ。ど素人か?」
余計に煽るような台詞を言ったのと、即座に殺さなかったのには理由がある。『この状況のままでは勝てない』と思わせたかった。この女には言ってほしい言葉があった。
「照明を」
槍の女は、俺の足元を転がりながら怒鳴った。
「戻して、《帳》卿! こいつ見えてる! セキ、やっぱりこっち援護が必要!」
不利を悟ったら、即座に助けを求めるのは悪くない。こいつが城ヶ峰レベルに変なやつじゃなくてよかった。
「トモエ! 大丈夫ですか?」
闇の向こうで、誰かの慌てた声と足音、ついでにそれとは別の、不愉快そうな舌打ちが聞こえた――直後に、視界が戻った。
急激な明転による、一瞬の目眩。
俺はさらに思考を速めた。ほとんど時間が止まる。周囲の状況が見えてくる。
《明星の帳》卿は、両刃の片手剣で城ヶ峰と切り結んでいた。セーラはその後方でうずくまっている。左腕に負傷しているらしい――いや、腹部からも出血が見えた。セーラも《明星の帳》卿の初撃を受け止めはしたが、ダメージを負った。そんなところだろう。
印堂の姿は見えない。やはり、さっさと退避したか。
「セーラ、きみは下がれ」
城ヶ峰は強引な振り上げで、《明星の帳》卿の斬撃を弾いた。
「返事をしろ。無事か?」
再び打ち込まれる魔王の斬撃を、城ヶ峰は盾で受ける。盾使いの強みだ。しかし、そのまま剣でカウンターを返すよりも、やはり《明星の帳》卿の『技』の方が速い。刃を滑らせながら、盾の上から差し込むように剣を突き出している。
城ヶ峰の練習不足が出た形だ――防御のあと、即座に致命的な反撃を繰り出すための、動きの準備ができていない。
「――我が暗闇に対応するとは、驚いたが」
《明星の帳》はせせら笑う。コケオドシだ。相手を威圧するための言葉だ。
「お前ごときの技量では、結局は無意味だな」
城ヶ峰は飛びのき、盾ごしに突き出された刃をかわすしかなかった。まともな斬撃を返せる体勢ではない。よって《明星の帳》卿のさらなる攻撃を許すことになる。
「セーラ! 気をつけろ、こいつは強い」
城ヶ峰は追撃を弾きながら叫んだ。よくもあのレベルの魔王と打ち合いながら、他人の心配をできるものだ。笑ってしまいそうだ。当のセーラはうずくまったまま、かすかに何事かを呻いた。声にはなっていない。震えているのがわかった。こいつ、ビビってやがる。
なにか、声をかけるべきだと思った。
「もう少し凌げよ、おい!」
俺は特に有効なカウンセリングも、アドヴァイスも思いつかなかったので、わかりやすい希望を提示することにした。状況が好転する希望があれば、人間は少しだけマシに戦える。
「俺がこいつらを片付けるまでだ」
俺にも、俺の戦況があった。
セキとかいうスーツの男が、異様な動きを見せていた。
「トモエ、離れてください」
空中に足を踏み出したかと思うと、そのまま浮き上がった――いや、あれは『駆け上がった』のだろう。そんな足の運びだった。
なるほど。空を歩く。『階段』か何かが見えている。そういうエーテル知覚か。
おおよそ三メートル程度の高さまで駆け上がり、頭上から、加速をつけて切り込んでくる。それと同時に、『トモエ』と呼ばれた女は床を転がりながら槍の穂先を突き出した。呼吸があっている、というべきか。俺はその両方に対処しなければならない。
こいつらは、ただのド素人じゃなさそうだ。
俺はどうにか飛び退いてかわした。距離ができる。その隙に、転んだトモエも体勢を立て直した。彼女の鼻腔からは血が滴り、憎悪のこもった目で俺を見ていた。
何よりも、まだもう一人余っていやがる。フルフェイスのヘルメットをかぶった大男。こっちは先刻からまったく動いていない。ただ、俺の方をじっと見ているような気がする。トモエとセキは、ふたりがかりで俺を挟みこむように間合いを詰めてくる。
「セキ、こいつ強い。あわせて」
トモエの短い呟き。
そして、再び攻勢がはじまる。トモエは槍を繰り出し、セキはまた空中に足を踏み出す。こいつは捌きにくい。
「畜生、俺は忙しいんだよ」
距離を取った槍と、反撃しにくい頭上からの剣。二人前の攻撃を凌ぎながらも、俺にはすべて見えていた。
《明星の帳》卿と城ヶ峰の戦況は、当たり前のことだが、瞬く間に城ヶ峰の不利に傾きはじめていた。防戦に回った城ヶ峰は、まったく有効な反撃を繰り出せていない。二撃、三撃と受けて、体勢が崩れていく。結果として、温存していた札を切らされる羽目になる。早すぎる。
「雪音、だめだ。まだ早い!」
もしかしたら、俺の思考を読んでいたのかもしれない――城ヶ峰は叫んだが、どうしようもなかった。致命傷を食らってからでは遅い。《明星の帳》卿の背後の空気が、陽炎のように揺らいだ。印堂はまっすぐ踏み込んでいた。いつものナイフではなく、俺が貸している片手用の剣だった。《明星の帳》卿の首筋を狙う、切断を意図した太刀筋。
だが、そのくらいの奇襲は、ちょっと心得のある魔王なら警戒しているものだ。
「愚か者どもめ」
魔王の声は、渇き、錆び付いているように聞こえた。
三人と戦っていて、ひとりの姿が見えないのだから当然の警戒だった。城ヶ峰に強烈な一撃を見舞い、体勢を崩させた《明星の帳》卿は、振り返りざまに印堂の斬撃を防いだ。そのまま刃をスライスさせて、印堂の二の腕を深く切り裂く。
血飛沫があがっても、印堂は悲鳴を上げなかった。その手から、片手剣がこぼれおちる。
《明星の帳》卿の剣は、さらに刃を返し、印堂の首筋を狙った。
「させるものか」
城ヶ峰はほとんど体を投げ出すようにして、印堂を庇うように剣を突き出した。ちょっと信じられない瞬発力だった。金属音。束の間、《明星の帳》卿と城ヶ峰の膂力が拮抗する。
「おい、セーラ!」
俺は突き出されてくる穂先を弾き返し、できる限りのアドヴァイスすることにした。我ながら下手なのはわかっている。それでも、打てる手はすべて打ちたかった。貧乏性だ。
「何やってんだ。やれよ」
セーラは立ち上がろうとしていた。腹部の裂傷はたいしたことがなさそうだ。ケブラー繊維のボディアーマーが、かろうじて内臓を守っていた。
しかし、震えている。
手傷を負ったことで、刃物をもって暴れる人間に対してビビるのはわかる。相手の強さを理解してしまうセーラなら、なおさらだ。それが普通だ。それでも行動しなければならない。反撃に移る必要がある。恐怖心を麻痺させて、相手を殺す。それが勇者の仕事だ。
「ビビってる場合か! ぶっ殺すぞ!」
その瞬間、セーラが何か、わけのわからないことを喚いた。『うるせえ!』とか、『わかってんだよ!』とか、そのあたりだっただろう、たぶん。床を蹴って、飛び出してからは素早い。刀を担ぐような構えから、単純な袈裟懸けの軌道。
そいつはまずい。
冷静な思考も、狡猾さも、工夫もない一太刀だった。恐怖にかられただけの、本能的な攻撃にすぎない。
《明星の帳》卿の、空いた左手が伸びていた。城ヶ峰の盾をつかむ。そしてひねりあげ、強く引き込む――反射的に盾を保持しようとした城ヶ峰は、バランスを崩した。セーラの太刀筋に割り込むように、転ばされる。
セーラは慌てて刀を止めた。それしかなかった。城ヶ峰とぶつかって、結局は二人とも間抜けに転ぶことになる。続いて放たれる魔王の追撃は、あろうことか、城ヶ峰が自分の体で止めていた。
セーラを突き飛ばすようにして、回避しきれず、右の大腿部へ一太刀を受ける。かなり深い。
「愚かな」
魔王はむしろ忌々しげに呟いた。さらなる《明星の帳》卿の追い打ちを防ぐべく、城ヶ峰は痛みを感じていないかのように振舞ったからだ。どんな根性をしているのか。振り返りざまに、剣を横に薙ぐ。ただの牽制にすぎないが、効果は少しだけあった。
《明星の帳》は一歩だけ後ずさって回避し、城ヶ峰の表情から考えを読もうとしたようだった。
「その役立たずを庇うのか? 無意味なことを――」
「私は勇者であり、《死神》ヤシロの一番弟子だ」
恐るべきは、蛮勇。自らの負傷と、彼我の技量差を無視する城ヶ峰の狂気が、このときは戦況を一時的に膠着させていた。
「仲間は守り、敵は討つ! 覚悟するがいい、《明星の帳》卿」
俺は城ヶ峰をぶん殴りたくなる衝動を抑えた。威勢はいいが、依然として不利は変わらず。深く切り込まれた右足は、ろくに動かないだろう。白い肌が裂け、太腿の肉の隙間から血が溢れ出していた。すぐには治癒できない。
だが、その頃には、そろそろ俺の方が片付いている。
「あ」
セキが慌てた声をあげた。こいつは俺に手傷を与えようとして、深く踏み込み過ぎていた。地道な守勢を続けた甲斐があったというものだ。
「ワンパターンなんだよ、お前」
俺は相手の焦燥をさらに煽った。頭上からのセキの斬撃を受け止め、互いの鍔元まで滑らせる。至近距離。俺がわずかに刃を傾けてやると、セキは反射的に切っ先の動きを目で追った。空中を踏んで後退しようとして、手元の攻防から意識が逸れる。
ここだ。俺はセキの指を掴み、反応する前にへし折った。
ひきつるような悲鳴が、セキの喉から漏れた。相手の反射の虚をつく。そういうことをやらせれば、俺のエーテル知覚の右に出るやつはいない。
「馬鹿」
トモエの罵倒が聞こえた。槍を浅く繰り出してくる。セキに止めを差したかったが、こいつを弾くしかない。トモエの狙いもわかっていた。穂先を弾かれた反動で、俺に背を向けて走り出している。
「セキ、あとで先生に言うから。もう無理、引き上げ! 私らじゃ勝てない!」
見切りの速さ、というのも、勇者には必要な要素だ。セキの利き手の指を折った時点で、形勢は大きく傾いた。勝てない相手からは逃げる。予定が狂ったら仕切り直す。よく教育が行き届いてやがる。
「わかってますよ、くそっ、この人おかしい! 二人がかりなのに!」
やかましく喚きながら、セキもトモエに続いた。後退しながら虚空を踏み、俺の刃圏から外れる。俺は追わなかった、というより追えなかった。直前で、セキが何かを口元に当てていたからだ。笛か。見覚えがある。あれは、
「ドリット!」
呼び声とともに、鼓膜を突き刺すような、鋭い笛の音が響いた。
傍観していた、ヘルメットの大男が動いていた。その右腕が振り上げられた瞬間、爆発的に膨張した。黒いツナギの袖が破けて、どす黒く変色した素肌があらわになった。いびつに膨れ上がった筋肉と、関節。
あいつは《ネフィリム》だ。間違いない。
どういう理屈か知らないが、肉体の一部が、あの異形の怪物に変異している。『ドリット』の腕は素早く動き、傍らに並ぶ大型サーバーのひとつを殴り飛ばした。信じられない腕力。
サーバーが地面から剥ぎ取られ、こちらに飛んでくる。大雑把な狙いだが、俺は回避しなければならなかった。セキやトモエとの距離が大きく開く。俺では無理だ、追いつけない。
「おい、印堂! 逃がすなよ――」
俺はいま必要な人材の名を呼んだ。印堂雪音ならば、空間を跳躍して二人に追い縋れる。
だが、印堂からの反応はなかった。
おそらくそれは、反射的な行動だったのだろう。
ドリットの変化をみた瞬間に、印堂は空間を跳躍していた。ドリットの頭上から出現し、自重を利用して、巨大化した右腕を切断にかかっている。片手剣をいつの間に拾い上げたのか。
結果として、その攻撃は無謀すぎた。相手のスペックもわかっていないのに、やるべき行動ではない。特に印堂はすでに二の腕を負傷している――太刀筋がぬるい。ドリットが無造作に左腕を振り回すと、そちらも瞬時に肥大化した。
巨大な丸太のような腕が、印堂を迎え撃つ。
「あ」
かすかな悲鳴。ばちん、と、軟質な打撃音が響くと、印堂の小柄な体は簡単に弾かれた。片手剣はへし折られ、印堂自身とともに床をバウンドする。
明らかに印堂の判断ミスだった。俺にはその理由も、なんとなく予想がつく。諦めるしかない。ドリットはもう、印堂や俺たちに構わなかった。獣のように四つん這いになると、驚異的な跳躍力でセキやトモエを追っていく。
俺は白い息を吐いた。ため息のつもりだった。やるべきことが少し残っている。間抜けどもへの説教は後回しだった。
「お互い、あいつらには貸しひとつだな?」
《明星の帳》卿に言ったつもりだった。やつは俺に向けて剣を構えていた。すでに城ヶ峰を意に介していない。あれからほんの数秒の攻防で、城ヶ峰には動きの鈍った下肢を中心に、多数の裂傷ができていた。目つきは相変わらず常軌を逸した闘志に満ちていたが、出血が多すぎる。倒れるのは時間の問題だった。
床に転がったまま動けないセーラは論外だ。印堂にも武器がない。
「時間稼ぎに使われたな、魔王陛下。気持ちはわかるよ。ムカつくやつらだ。お前の無念は俺が晴らしてやるけど」
俺は《明星の帳》卿へ、一歩大きく踏み出す。
「あのクソ野郎どもに、なにか伝えたいことでもあるか? いまのうちに言っとけ」
《明星の帳》卿は俺を睨みつけた。たいした虚勢だ。
「地獄へ落ちるがいい、だ」
怒りに満ちた声だった。そうして残された魔王は、剣を持たない左手を伸ばした。周囲がふたたび暗闇に包まれる。が、ほんの時間稼ぎにしかならないことは、魔王自身もわかっていたはずだ。
それからおよそ三十秒後、俺の剣は《明星の帳》卿の心臓を貫き、破壊した。
三人には、言うべきことがいくつもある。
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