第7話
踏み込んだ城の内部は、異様なほど冷えていた。
外気よりも石造りの壁が冷気を閉じ込め、余計に空気を冷やしているのだろうか。いや。そんなはずはない。何か理由があるはずだった。こんな大きな城の内部を、努めて冷やさなければならない理由が。
しかし、城の内装は驚くほどクラシックで、うんざりするほど典型的な『魔王城』だった。中世の城をそのまま持ってきたかのようなデザイン。よくあるやつだ――よくありすぎて、逆に違和感がある。どこにでもいる凡庸な魔王。そう思わせたいのかとすら感じる。
石の廊下は、俺たちの足音を隠しようもなく反響させていたが、内外の戦闘音と破壊音と絶叫のせいで、たいして目立ちはしなかっただろう。俺たちが歩く回廊は長く、なんの装飾もなく、左右にはアンティーク調のドアが、やけに規則正しく並んでいた。
「あのさ、センセイ」
セーラの声もまた、よく響いた。喋ると、ついでに白い息が漏れた。落ち着きのない視線から、緊張感が見て取れる。すでに《E3》は使用済みだ。神経が過敏になっているのだろう。
「あのマルタっておっさん、大丈夫なのか? ひとりで行かせて。なんか、こう、ヘリのせいでゲロ吐きそうだったし」
「いいんだよ。むしろお前らを連れてる俺より安全だ」
マルタにはマルタの役目がある。
あいつの『記憶に潜る』エーテル知覚は、強力な分だけデメリットもある。相手の記憶、と一言に言っても、それはあまりにも膨大すぎる。生まれてから現在までの記憶。その中から望む情報をさらってくるのは圧倒的に時間がかかる。戦闘しながらでは、昨日の晩飯を拾い上げることすら難しい、らしい。相手を行動不能にしておくのが理想だ。
だから調べる情報は絞らなければならない。
魔王《明星の帳》その人の記憶に潜るよりも、もっと効率のいいやり方がある。狙うならば容易に行動不能化できるはずの、ここの下っ端のスタッフに限る。つまり俺がやるべきは陽動だ。マルタは密かに行動を遂げるだろう。俺と同じくらい強いのだから当然だ。
「他人の心配より、自分の心配しろ。《明星の帳》がどんなエーテル知覚を持ってるかわからないからな。最悪の場合、俺もお前らの面倒を見ていられない」
「はい! 任せてください」
城ヶ峰は清々しく宣言した。その声が、やたらと回廊に反響していく。いまさらだが、姿を隠すつもりのない態度だった。俺はもう諦めている。これが城ヶ峰のやり方なのだろう。そのうち痛い目に遭えばいい。
「師匠の弟子として、勇敢に戦ってご覧に入れます!」
そうして自分の胸を叩き、首をかしげる。
「しかしこの装備は、やや窮屈ですね」
「我慢しろ」
俺を含めて、三人の学生どもも、傭兵から借りた勇者向けの防弾ボディアーマーを着用している。ケブラー繊維のベストを組み合わせているため、防刃効果も見込めるやつだ。都市部での暗殺では目立つので使いにくいが、こうした強襲ではそれなりに役に立つ装備ではある。
むろん女子供用のサイズは、この《黒領地》で活動する傭兵には希少なものであり、彼女らに完全にフィットする装備は望むべくもなかった。せいぜい身長が近いやつをあてがったつもりだが、たとえば小柄な印堂が着ると、こいつは程度の低いコスプレにしか見えない。
「奇襲をかけられた場合、なにかの間違いで心臓を破壊されると、《E3》の強化も無意味になって死ぬ。黙って着とけ」
「はい! 特に胸部が窮屈ですが、我慢します!」
「なんだこいつ」
城ヶ峰の歯切れのいい答えを聞いた途端に、セーラ・ペンドラゴンは露骨な嫌悪感を示した。
「急に巨乳アピールしはじめやがった」
「アキは自分の面倒くささを弁えてない」
印堂がいつになく低い声をあげるのが、やや離れて聞こえた。
「不愉快」
「おい……亜希のせいで雪音の目つきが怖くなってんじゃん、なんとかしろよ」
「雪音、きみにはきみの需要があるのだから、あまり気に病むな。十分きみも美少女だ」
「すごい不愉快」
印堂雪音は最後尾から、三歩ほど離れてついてきている。背後からの奇襲に備えるのが、彼女の役目だった。
――そして俺の役目は、誰よりも最初にリスクを踏むこと。
そのときは、唐突にやって来ていた。
俺たちが進んできた回廊は、小さなドアの前で終わった。いままでのアンティーク調のドアとはちがう、非常口かなにかのような、いかにもたいしたことのなさそうなドア。ここで行き止まりだ。分岐路はない。いままで左右に並ぶドアを無視してきたが、そろそろドアを開けるという危険を冒さざるを得ない。
「少し静かにしろ」
俺は一歩だけドアに近づいた。開ける前にするべきこと。不用意にドアノブに触らない。気配を探る。物音や違和感、なんでもいい。神経に引っかかってくる情報に耳を澄ますことだ。
「開けるぞ」
鍵は、かかっていなかった。
わずかに錆び付いた音を響かせて、ドアが開く。回廊よりも、さらに強い冷気が押し寄せてくるのがわかった。皮膚から浸透して、肉がひりつくような冷たさがそこにあった。
「なんだよ、これ」
セーラが顔をしかめて、ドアの向こうを覗き込んだ。
広い空間だった。俺はカプセルホテルか、あるいは図書館を連想した。左右の壁に蜂の巣状の横穴が整然と配置され、奥へと続いている。本棚のように並べられているのは、サーバー・ラックだ。こいつのせいで、広い空間も図書館のように狭く感じる。
いまだにサーバーが通電しているところをみると、可動するために非常用電力を確保しているのだろう。そうでなければ、《罅ぜる聖図》卿のイナズマで停止しているはずだ。つまりここは、極めて重要な区画ということになる。
「これ」
印堂が、いつの間にか壁際に寄っている。
そして、蜂の巣状の横穴の奥を覗いていた。ちょうど大柄な人間がひとり、収容できるほどの大きさの横穴だった。
「これは――人間? 死体――それとも」
印堂の無表情に、小さな亀裂が走った。眉間に生まれた歪みは、そんな風に見えた。
「《ネフィリム》?」
印堂が呟く。その肩ごしに覗き込んだセーラは、白い息を吐いて無言になった。何を言うべきか、あるいは何を感じるべきか、一瞬わからなくなったのかもしれない。
俺もそれを見た。
人間の死体『だった』ものには違いないだろう。肉体の損傷からそれがわかる。俺がみたそいつは、頭蓋骨がひどく損傷しているうえに、右大腿部はちぎれかけていた。だが、奇妙なのはそこだ。破壊された部分から、どす黒く濁った肉の塊が生えていた。欠損部位から生える、いびつな肉の腫瘍だった――ちょうどあの巨人の怪物、《ネフィリム》どもの肉体と酷似していた。
そして、肉の腫瘍はびくびくと痙攣し、あるいは呼吸するように収縮している。どうやら生きているようにも見えた。
このために――こいつの『保存』のために、城全体を冷やしているのか?
これが、《ネフィリム》の、なんらかの素材だということか。
「師匠」
城ヶ峰が、自分の顔を押さえていた。指の隙間から見える顔色が、青白い。
「声が」
吐き出される白い息が、浅く、引きつっている。なにが起きているのか。エーテル知覚の持ち主が、ほかの誰かと精神状態について共感したり、共有したりすることは、基本的にはできない。エーテル知覚は、そいつだけの世界だ。独自の世界がある。俺たちはエーテル知覚によって断絶されている。ここに例外があるとすれば、それこそ心を読む能力者ぐらいだろう。
このときの俺には、城ヶ峰になにが起きているのか、まったくわからなかった。しかし尋常な状態でないことだけは推測できる。
「聞こえます。たくさんの声が。頭が――」
「城ヶ峰、印堂もセーラもだ。部屋から出ろ。ゆっくりと」
「頭が痛い」
「いいから出ろ。城ヶ峰、聞け!」
「頭が痛いんです――呼んでいる。ちがう。私は」
「くそ」
城ヶ峰が大声で喚いた。もはや指示を聞ける状態じゃなさそうだ。いつものムカつくくらい清々しい返事すらない。仕方なく、俺はその広大な空間の奥に向かって一歩踏み出す。
そちらからやってくる連中に、警戒しなければならなかった。
数が多い。
あわせて四人だ。先頭にひとり。それに続き、やや遅れて三人。魔王とその護衛か、と思ったが、少し様子が違っていた。
先頭をゆくひとりが、あまりにも『わかりやすい』見た目をしていたからだ。黒い長衣に身を包んだ男。顔の上半分をガイコツのようなひどいデザインの仮面で覆っているが、俺が目を止めたのはその額だ。二本の角が、生えている。仮面に覆われていない顔の下半分はただ蒼白だ。
これはもうほぼ間違いなく、恒常的なエーテル強化手術の果てに、肉体にまで変貌が及んだ者であることを意味する。どうせコケ脅しの一環として、せっかくだからこういう見た目を選んだのだろう。
だから、先頭の一人目――こいつが魔王だ。《明星の帳》卿。
「このルートも抑えられていたのか」
角のある男、《明星の帳》卿は、低く唸るような声をあげた。どこかいびつな、エーテルに焼けた声だった。威嚇するようなその唸り声からして、かなり余裕はないらしい。
その証拠に、正面に立ちはだかる俺たちを無視して、背後に視線を向けた。
「なぜだ? お前たちが、この俺を売ったのか」
「まさか」
《明星の帳》卿の背後で、ひとりの女が肩をすくめた。
これが二人目。
「私たちだって、先生に言われて来てるの。商品だって受け取ってないし、この状況であなたを売るわけないでしょう?」
どことなく挑発するような喋り方――見た目はまるで子供のように見える、小柄な女だった。城ヶ峰どもと大差ないのではないか。特徴的なのは、えらく気の強そうなその目つき。赤く染めたものであろう髪の毛。そして何よりも、肩に担いだ槍。彼女自身よりも長大な得物だった。
槍を使う勇者や魔王といった存在は、そこまで珍しくない。街中で目立ちすぎるから使いにくいだけで、単純にリーチの長さを買われて使用されるケースもある。
「お前たちの『先生』は信用できん。戻ったら伝えろ。二度とこんなことがあっては困る」
《明星の帳》卿は強い語調で言ったが、槍の女は意に介さなかった。
「そう? でも、どっちにしろ」
それどころか、生意気にも俺を見据えて笑ってみせた。
「ここは切り抜けないとね。セキ、やるけど、平気?」
「う」
その傍らから、中途半端なうめき声が聞こえた。槍の女が振り返る。
「セキ? なにアホみたいな顔――」
「あいつらです」
三人目。
俺たちを指差して、怯えた声をあげるそいつには、見覚えがあった。でかい図体を窮屈そうなスーツに押し込んだような男だ。いまはその上から分厚いコートを身にまとってはいるが、そいつは間違いなくあのときの――
「ぼくらが《アカデミー》で遭遇した四人! あいつらですよ! それからレヴィは、《嵐の柩》卿のパーティーでも接触したと言っていました」
「やあ」
俺は手をあげて、できるだけ友好的に挨拶をした。逆の手では、すでにバスタード・ソードを静かに抜剣し、戦闘態勢を整えている。
「また妙なところで会うな。北海道に転勤になったのか? かわいそうに。そっちの魔王の首だけ貸してくれれば、見逃してやってもいいぜ」
「気をつけてください」
セキ、と呼ばれたスーツの男は、俺の言葉には反応せずに警戒を促した。片手が腰の剣帯へ伸び、得物の柄にかかっている。こいつの武器は、片手剣か。それも直刃。
「あの男性は、《死神》ヤシロですよ。レヴィが強いと言っていました」
「へえ。先生が――でも、ちょうどいいんじゃない? 勉強の、実践には」
槍の女が、その穂先を地面へ向ける。その表情がとても雄弁に語っている。好戦的なやつだ。自信家でもある。
馬鹿め。
こいつらがどういう奴らで、なにが目的でここにいるのか知らないが、ひとつ確実なことがある。こいつらは、《半分のドラゴン》の連中の同類だ。少なくとも、関係者ではあるだろう。徹底的に締め上げてやる。
「見逃してやるって言ったつもりなんだけどな。これは交渉決裂か」
俺は心にもないことを口にしてみたが、槍の女はただ笑顔を返してきた。ムカつく笑い方だった。
「それは楽でいいんだけど、取引相手は守らないと。先生もそう言ってたし、一応。セキはドリットの面倒よろしく」
「え」
セキは背後を振り返る。
これで四人目。
さっきから一言も喋っていないだけではなく、ぴくりとも動いていない。まるで置物――こいつがもっとも異様だった。頭部をフルフェイス型のヘルメットで覆われ、黒いツナギを着込んでいる。セキよりも長身で、頭ひとつ分はちがう。体の骨格自体がでかい。両手をだらりと下げて、武器らしい武器も見当たらない。
こいつが、ドリットか。
「ぼくが? ドリットを? そんな」
名前を呼ばれても、『ドリット』は返事すらしなかった。ただヘルメットの隙間から、白い呼気が漏れただけだ。槍の女はそれに構わず、《明星の帳》の前に進み出た。
「それじゃあ、《明星の帳》陛下、話は聞いてた? やるからね」
「ほかに道もあるまい。疫病神どもめ」
「そういうのは先生に言ってよね。私たちもお遣いに来ただけなんだから。こっちはもうマーキングできたから、陛下もいつでもどうぞ」
「俺に指図をするな。今後の、お前たちドラゴンどもとの取引は考えさせてもらう」
《明星の帳》は忌々しげに舌打ちを漏らした。その両手が動く。右手は腰の剣帯へ――左手はなにもない虚空を探るように。いや。なにもないというのは、エーテル知覚の持ち主にとっては違う。この魔王には、何かが見えているはずだ。
「城ヶ峰!」
俺は振り返らずに怒鳴った。こちらもあまり余裕はなかった――相手は合計四人。正体不明の《半分のドラゴン》が三人、そして魔王がひとり、というのは予想よりも多すぎる。
「あいつの頭の中を読め」
返事はなかった。俺はふたたび怒鳴る。なにが勇敢に戦ってご覧に入れます、だ。
「城ヶ峰! しっかりしろ、寝てんじゃねえっ」
「――はい」
城ヶ峰はいまだ苦痛を感じているようではあったが、かろうじて俺の声に反応した。
「見えています。あの男には、その、スイッチが――正確にはなんというべきか。これは光を、いや、照明――それを」
城ヶ峰の説明における要領の悪さが出た。遅かった。城ヶ峰が戸惑う間に、《明星の帳》は『それ』を完遂させた。空中に伸びた青白い指先が、何かに触れるような仕草をした。
その瞬間に、完全な闇が周囲を覆った。
俺は闇の奥で、いくつかの動き出す足音と、剣の風切り音を聞いた。
なるほど、こいつは非常に不利だ。
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