第4話

 その教会は、北海道の雪の中に佇んでいる。

 もともと、どのような由来があるのか、誰が住んでいたのかもわからない。もしかすると《神父》の野郎が、管理人か坊さんを殺して奪ったのかもしれない。

 とにかく俺の記憶の中にある教会は慎ましく、質素な生活を思わせる建物だった。


「なんだ、あれ」

 と、セーラは呆然と呟いた。

 断じて、こんな風にゲームセンターやパチンコ屋のように、ネオンを光らせ、看板を掲げてはいなかった。しかも建物が増設され、まるでホテルのような外見に改装されている。看板に描かれているのは、『勇者温泉』の文字だった。悪趣味な照明を放ち、夕暮れの赤い陽光を浴びてなお、明るく輝く。

 さらには、建物へ続く道は丁寧に除雪されていた。


 狂気を感じた。

 そして、狂気といえば、こいつだ。

「なんだ、やっぱり温泉があるではないですか」

 城ヶ峰は機嫌よさげに俺を肘でつついた。

「さすが師匠! 落としてアゲる人心掌握術! やはり、我々のような美少女と温泉に行きたかったということですね? わかります、わかります」

「あれを見て普通の温泉だと思うのか。お前すごいな」

「ありがとうございます」


 城ヶ峰は照れた。俺が知る限り、こいつは『常識』というものを知らない。どこかの山奥で猿に育てられた過去があってもおかしくない。そして、もうひとり、常識の希薄なやつもいる。

「雪音、ちゃんと温泉道具は持ってきたか!」

「浮き輪と……シュノーケル? 水着? 本当に、あれは温泉に使う道具なの?」

「入浴には必須と聞いているぞ。私はテレビで見たことがあるから詳しい」

「そう。なら、いい」


「えっ。待った、それって」

 セーラは驚愕した顔で、自分の背負うザックを振り返った。

「まさか――マジで言ってんの? そんなもの運んできたかと思うと、一気に疲労感が増したんだけど」

「大丈夫だセーラ、きみの分もある。私は準備のいい女だ」

 セーラはそれになにも答えなかった。代わりに俺を見た。

「おい、センセイ」

「知るか」

 俺だって、なにも回答できなかった。代わりに空を見る。かなり太陽は傾いており、渓谷の彼方に沈もうとしている。西の空が赤く焦げ始め、すでにあたりは暗闇に浸されつつあった。


「とりあえず《E3》使え。全員だ」

 俺も、自分自身の《E3》を、首筋に押し付けた。即座に注入する。感覚が、速やかに鋭利に冴えていく。

「セーラ。お前から見て、どうだ? あの――なんていうか、元・教会だった建物に対して、なにか感じるか?」

 セーラ・ペンドラゴンのエーテル知覚について、それがどんな性質のものか、俺はだいたいの特色を推測していた。おそらく、セーラは自分にとって『脅威』となるものを知覚し、その度合いを量ることができる。未来予知と遠隔視力の亜種。

 斥候としては、非常に有効なエーテル知覚だ。


「ん――この距離だと、そこまで正確には――わからないんだけど」

 セーラは身をかがめ、目を細めて、イカれたネオンを光らせる建物を睨んだ。

「なにかいるのは確かだと、思う。自動警備システム? か何かじゃなければ。かなりヤバい」

「どのくらいヤバい?」

「それは」

 セーラは、俺と、それから印堂を見て、強く顔をしかめた。

「たぶん、センセイと同じくらい。だと思う」

「そうか」


 つまり、相手は超一流だ。俺は俺と同レベルの技量の勇者を、五、六人くらいしか知らない。

「人間ですね。それも、複数です」

 そう呟いた城ヶ峰は、すでに片手剣を握っている。

「この距離では、私もはっきりとは聞こえませんが、声が聞こえます」

「なにか言ってるか?」

「すみません。そこまでは」

「徐々に近づく。ザックはここに置いていけ。十歩くらい離れてついてこいよ」

「師匠、ここは私が背後をお守りします」


「城ヶ峰」

 俺はこの阿呆の襟首を掴んだ。

「俺と同レベルが相手なら、冗談じゃ済まねえんだよ」

 それだけ言って、俺は歩き出した。最後に目をあわせた印堂は、無言でうなずいた。こいつの能力についても、あれだけ観察の機会があったので、だいたいの射程距離は把握できてきた。

 十歩程度の距離を保っていれば、一度の瞬間移動で跳躍できる。援護を期待できるだろう。

 あとは無言だ。俺は身を低くして、雪道を踏みしめ、可能な限り素早く移動した。周囲に身を隠すようなものはなにもない。周囲の冷たさのせいか、やけに神経が敏感になっている。風の音が遠くに聞こえた。


 ネオンをぎらつかせる元・教会が近づいてくる。屋根に十字架が飾られているのが、かろうじて名残のようなものか。その距離、およそ五十メートル。まだ、内部の様子はわからない。俺は薄汚れた窓に目を凝らした。

 なにかが動いたような気がした。


 来た。

 俺のエーテル知覚が強力なのは、まさにこういうときだ。俺は時間感覚を鈍化させ、その『なにか』を凝視し、そして正確に認識した。

 人影。体格からして男。両手でなにかを抱えている――細長い――ライフル。ボルトアクション式。猟銃かなにか。

 銃口に火がともる。


「印堂、来い! やれ!」

 俺は怒鳴りながら、一気に駆け出した。窓ガラスが砕け、銃弾が飛んでくる。しかし《E3》使用中の勇者に対しては、ほとんど有効ではない武器だった。しかも相手が俺だ。

 俺は弾丸の軌道を見据え、一センチ以下の紙一重で弾丸を回避した。足を狙う軌道だった。俺は速やかに建物へ接近する。窓辺の射手は、すぐに体を引っ込めた。屋内に引き込むつもりか。


「センセイ!」

 セーラが叫んだ。

「上だ! ヤバいのが、そっち――」

 二階の窓から、人間らしき影が降ってくるのが見えた。手には剣――いや、刀。日本刀だ。ぎらり、と、夕陽の残照を浴びて刃が光った。目がくらむ。俺は必死で体をひねり、バスタード・ソードを跳ね上げ、その一撃を受けた。

 瞬間、腕を貫くような衝撃が走った。


「マジかよ」

 と、俺は実際に口に出したかもしれない。

 受け流すどころではないほど、鋭く、強烈な一撃だった。

 押し込まれる。俺は一瞬を何倍にも引き伸ばし、どうにもならない不利を悟った。膂力において、俺より上かもしれない。かといって力を逃がそうと刃をひねっても、相手は力の流れに逆らわず、巧みについてくる。

 《E3》を使った俺の反応速度に対抗するには、まず先読みしかない。神がかった天性の直感か、それと同じレベルの経験が必要だ。こいつには、それができる。とんでもないやつがいたもんだ。

 困った。《寄せ》の技を使うか――ちょっとした賭けだ――しくじれば、そのまま斬撃を浴びせてくるだろう。

「師匠!」

 城ヶ峰が近づいてくる気配がある。うるせえな、と俺は思った――決着は、次の一瞬。


 俺はほんのわずか、人差し指一本程度、剣にかける力を緩めた。

 相手はそれに付き合わなかった。刃を滑らせ、押し込むのではなく、俺の首筋に切っ先を触れさせようとしてくる。

 やりやがる。

 だが、その手は俺も使う。相手の刃を、工具の先端でこじ開けるように、押し上げながら切っ先を滑らせる。俺の狙いも、もちろん向こうの首筋だ。俺の肉体的な反応速度と、こいつの先読みとの勝負になる。どちらの刃が先に届くか。一瞬が、さらに何十倍にも引き伸ばされ――


 そして、俺は、相手が笑っていることに気づいた。

 薄汚い笑い方だった。

「おい」

 俺は非常に脱力した。こんな笑い方をするやつは、ひとりしか心当たりがない。俺が刃を止めると、俺の首筋に切っ先がついたあたりで、相手の刃も止まった。

「なんだよ。道理でクソ面倒な相手だと思ったじゃねえか」


「そいつはどうも」

 薄汚い笑顔で、そいつは刃を引っ込めた。

「で? なにやってんだ、ヤシロよ。こんなところで」

「そっちこそ。マルタ、お前」

 と、俺は薄汚い男――《もぐり》のマルタの胸を小突いた。姿を消したと思ったら、こんなところにいやがったとは。

「こんなところで何やってんだ?」


「そりゃもちろん、アルバイトを兼ねて、だね」

「アルバイト?」

「ああ。見ろ」

 マルタは振り返り、両手で大げさに悪趣味な建物を示した。

「勇者温泉だよ! すげえだろう。《神父》の野郎、いい商売考えやがったな」

「なんだそりゃ」

「ここらの傭兵相手に、一泊のメシと寝床を売ってやるんだと。温泉もあるよ。ほとんどただのお湯で、認可おりてない偽物だけど」


 そうして黄色い歯をむきだして笑い、マルタは俺の襟首をつかんで囁いた。

「ちょうどいい、ヤシロもなんか手がかり掴んで、ここらを探しに来たんだろ? 俺が先だったね。すげえだろう。とにかく中で話をしようや」

 どうやら、それがよさそうだ。俺は無言でうなずいて、振り返った。三人の学生たちは、何が起きているかわからず、それぞれよく似た阿呆のような顔をしている。事態がよくわかっていないらしい。が、俺も大差はない。


「よかったな」

 ひとまず俺は三人に対して降参の意を示し、両手をあげた。

「どういうわけか、北海道のグルメも温泉も、それっぽいものがあるらしい」

「そう、そう」

 マルタは腹立たしいほど愛想のいい笑いを浮かべた。

「ようこそ、勇者温泉へ! 歓迎しますぜ、お嬢さんがた」

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