第6話

 雨が降り始めていることに、俺はそのとき気づいた。

 霧にも似た、おぼろげな雨だった。


 その先に、レヴィがうずくまっていた。城ヶ峰によって吹き飛ばされた彼女は、憎たらしいほど見事に受身をとった。よろめきながらも起き上がりつつある。慎重に。ゆっくりと。

 困った事態は終わったわけじゃない、と、俺は己に言い聞かせた。

 模造刀を片手で握り直しながら、城ヶ峰を横目に振り返る。

「逃げろって言っただろ」

「はい!」

 わかっていることだが、城ヶ峰の返事はいつも調子だけはいい。イラついてきた。

「なめてんのか、お前」

「私は本気です」


 答える城ヶ峰の呼吸は荒く、白い額に汗が浮いている。《E3》を使った状態で、それだけの運動をしたということだ。肉体への負担というツケは、後で支払う羽目になる。

「たしかに、一度は逃げました。ですが、戻ってくるなとは言われていません」

「屁理屈はいい。印堂はどうした?」

 俺はせめてもの希望を求め、質問した。

「大丈夫です。雪音ならば、無事に逃げおおせていることでしょう」

「違う」


 なぜ俺が印堂雪音の身を心配しなくてはならないのか。

「せめて印堂を連れてこいって言いたかったんだ。少なくとも役には立つ――というか、そのくらい俺の考えを読めよ!」

「いえ。ここはひとつ、師匠の好感度を高めておこうと思いまして」

 城ヶ峰は自信に満ちた顔で、いまだ捨てていなかったらしい、訓練用のバックラーを構えてみせた。右手には、訓練用の片手剣。あまり役には立ちそうにない。

「単独で、こっそり駆けつけました。師匠もこのように愛らしく聡明な弟子を持つことができて、じつに嬉しいでしょう」


 俺は無言を貫いた。

 蕁麻疹が出そうなほどムカついた気分になっていることは、城ヶ峰にもじゅうぶんに伝わっているだろう――にもかかわらず、自信有り気な笑顔なのは、こいつのツラの皮のすさまじい厚さを意味している。


 それに、あまり遊んでいる場合じゃない。

 霧雨の中で、レヴィは完全に立ち上がっていた。湾曲刀を背中に担ぐようにして、刀身をこちらから隠す構えをとっている。距離はおよそ十歩と半分。俺は彼女の状態から繰り出される技について、おおむね予想がついていた。

 つまり、全力での打ち下ろし。

 あるいは、それをフェイントに、刃を返して切り込んでくることもあり得る。

 いずれにせよ、先手を捉えて攻めてくるだろう。当然だ。問題は、いつ踏み込んでくるか。そのタイミングを捉えそこねると受けに回るしかなく、それはどうにもまずい。


 正面からの打ち合いになれば、不利なのは明らかに俺だ。

 武器がこんな模造刀だし、腕力が違う。先刻の交錯でわかった。レヴィがエーテルで引き出す力は、俺よりも確実に上である。かといって、長引けばアカデミーの警備員がこっちにまで来る可能性がある。せめて、バスタード・ソードがあれば。

 俺はまた考える必要があった。


 どうする?

 勇者の強さの大部分を支えるのは、入念な準備だ。魔王を殺すために計画をたて、道具を用意し、リスクを管理する。確実に『できる』状況を作って、殺す。それが勇者だ。

 こういう遭遇戦は、勇者の本領とはいえない。兵士とか喧嘩屋とか、そういう類の連中の仕事だ。俺は心の中で毒づいた。

 それもこれも、ぜんぶこの城ヶ峰をはじめとしたボンクラ学生どもに付き合わされる羽目になったからだ。


「――嗅覚ですね、師匠」

 不意に、城ヶ峰が呟いた。

「どうやらあの女、『匂い』を追うようです。いや、『匂い』を決定的に識別するというか――そう。たとえばよく磨かれた鏡、いえ、湿った砂地に絵の具を――待ってください。水彩の絵の具です、そう、水彩絵の具を垂らしたときのように――」


「城ヶ峰」

 俺は不毛な城ヶ峰の説明を遮った。

 レヴィが碧い目を細めるのがわかった。殺気、というものは確かにある。レヴィのそれは、動物――それも猛禽類を連想させた。城ヶ峰を明らかに警戒していた。


「よくやった」

 褒めるしかなかったので、俺は振り返って彼女を褒めた。『機会』を作ってみせた、ということだ。

「でも、お前の例え話は未来永劫に禁止な」

 長いし、つまらないし、回りくどいからだ。今後、これを城ヶ峰プレゼンテーションと呼んでバカにしてやる。


 その瞬間に、レヴィは動いた。火が出るほど強く、アスファルトを蹴って飛び込んでくる。

 まっすぐに、城ヶ峰の方へ――初手の一撃で、彼女を黙らせるつもりか。さっきの俺と同じだ。自分のエーテル知覚の秘密に迫られると、たいていの勇者は多少なりとも動揺する。エーテル知覚とは、その秘密も含めて勇者としての大事な商売道具だからだ。


「特別に」

 必殺技を見せてやる――と、俺は心の中でだけ、城ヶ峰に告げた。

 模造刀を両手で握り、レヴィと、城ヶ峰との直線を遮るように踏み込む。

 その途端に、レヴィの湾曲刀は、瞬時にこちらに狙いを変えた。その鋭利な太刀筋は、あまりにも滑らかに軌道を変化させ、霧雨すら断つように走った。

 あるいは彼女は、最初から俺を吊り出して、先に片付けるつもりだったのかもしれない。

 振り下ろされる湾曲刀の刃に対して、俺の模造刀は側面から、力をそらすように受ける――きわどい攻防だが、俺にはできる。


 瞬間が百分の一秒単位で切り取られる。

 コマ送り以下のスローな速度で、湾曲刀が迫る。

 フェイントであろうが、なかろうが、その一瞬。振り下ろされる直前の曲刀に、俺は自分の模造刀をぶつけた。止める。衝撃で、手がしびれる。

 このように、剣の刀身同士がぶつかって止まった状態を、俺の師匠は『バインド』と呼んでいた。互の剣を束縛しあう状況。これこそ、俺の独壇場だ。


「――城ヶ峰!」

 俺は短く叫んだ。

 レヴィの碧い目が強く細められるのがわかった。それでも視線は動かさない。さすがだ。構わずに、模造刀ごと俺を叩き斬ろうとしてくる。

 膂力と得物の差で俺を圧倒している以上は、その手もアリだろう――悪くはない。少なくとも、城ヶ峰の名を呼んだことで、注意をそらすような間抜けではなかった。


 だからこそ、決まる技がある。

 同時に俺は、バインド状態にある相手の曲刀を、ほんのわずかだけ押し込んだ。指一本分ほどの、ごくわずかな押し込み。レヴィは反射的に押し返そうとした。そのまま斬撃に移れるような、見事な力のかけ方、手首の返しだった。


 その瞬間に、俺は素早く模造刀を引きつつ、体をひねった。

 レヴィの湾曲刀は空を切る。勢いがつきすぎていた。俺ごと叩き切るつもりで押し返そうとしたのだから当然だ――レヴィは前のめりに体勢を崩しながら、それでもどうにか旋回し、俺を斬ろうとした。


 だが、もちろん、これを予想して技をかけた俺の方が素早い。

 右前腕に、模造刀を一撃。骨を砕き、湾曲刀を落とさせる。

 それから柄頭で顎を一撃。脳を揺らす。

 最後には、足払いをかけると同時に、掌底で鼻骨を割った。その一撃でレヴィが白目を剥くのがわかった。嗅覚がこいつの追跡の手がかりだとしたら、これで終わりだ。鼻の骨が治る頃には、雨が痕跡を洗い流しているだろう。


 俺は深く、白い息を吐いた。

 その場に崩れ落ちるレヴィの頭部を、攻撃衝動のまま、徹底的に蹴り潰したくなる気分を必死で抑えた。《E3》のせいで意識が昂ぶっているせいだ。善なるものに意識を集中する。大丈夫だ。これからその世界に戻れる。


「俺の師匠は」

 城ヶ峰がなにか期待するような目で見ていることはわかったが、俺は断じて振り返らない。

「これを『寄せ』の技と呼んでいた。バインド状態からの基本の一種ってやつだな。コツを教えておくと、相手の反射を利用することだ」

 俺は早足に歩き出す。どうせ、すぐに警備員が巡回に来るだろう。背後から、小走りに城ヶ峰がついてくる。


「バインドをかけたら、ほんの少しだけ押す。相手が反射的に押し返してくるなら、こっちは剣を引いて体勢を崩させる。逆に相手が引くようなら、バインドが外れるからな。そのまま一撃を入れろ」

 と、口で説明するのは簡単だが、おそらく実際にやってみるのは難しいはずだ。相手が『寄せ』を見切って、まったく動かないこともある。だが、そんなことは練習と実戦で克服していかなければならない。俺が教えられるのはここまでだ。


 俺はそのまま早足に歩き、手近な路地に踏み入れる。もっとも薄暗くて、薄汚い路地を選んだ。

「師匠」

 城ヶ峰の声が追ってくる。

「いまの講義は、けなげな私の献身的な行いに対する、特別授業でしょうか」

「三人の中で、お前が一番ワケわからねえな」

 俺は感想をそのまま述べた。


「なんだ? 何に影響を受けて、そんなアホみたいな脳細胞が形成されたんだ? 《E3》のやりすぎか?」

「それは、師匠と同じです」

「冗談やめろ。なめてんのか?」

「いえ、本気です。私は前々から師匠のファンでした」


 意図がわからなかった。足を止めて振り返ると、城ヶ峰は真面目くさった顔をしていた。

「私の父から、しばしば師匠の話を伺っていましたから。はじめてお会いしたときは、すこしギャップに驚き、『まさかこのチンピラみたいなダメ人間が?』と混乱しましたが、記憶と思考を深く読むにつれ――」

「待て」

 城ヶ峰の言葉を遮る。困った状況というものは、往々にして加速するものだ。まさか、という考えを抱いたとき、それは間違いなくより悪い方向へと転落しはじめている。

 最初に城ヶ峰と遭遇したとき、俺はどこかで見た顔だと思ったものだ。


「お前の親父、名前は?」

「鷹宮清人、と申します」

 このとき城ヶ峰は、俺の心中の怒りと憎悪、それからふてくされた気分を読み取っていたかもしれない。

 手近なものに八つ当たりしたい気分だったし、実際そうした。そのへんに転がっていたゴミ箱を蹴り飛ばすと、腐ったような残飯が転がり出て、ひどい匂いがした。

 鷹宮清人は、俺の師匠だ。


「私の両親が離婚したとき」

 俺の最悪な気分に気づいているのかいないのか、城ヶ峰は勝手に先を続けていた。

「私は母に引き取られました。しかし、父とも月に一度は会うことができ、その都度、父は勇者という仕事の素晴らしさを語ってくれました。それに、才能ある弟子のことも」

「あの師匠が? 仕事の素晴らしさだって?」

「はい。だから私は――」


「帰れ」

 俺は思わず笑ってしまった。

「俺はビール飲んで、遊んで寝る」

 すこしだけ《E3》が効きすぎている。暴力的な気分だ。ヘタをすると、この城ヶ峰を殴り殺してしまうかもしれない。


 俺はこの世の善なる物事に意識を集中させた。エド・サイラスの《グーニーズ》に戻ろう。この時間なら誰かしら飲んだくれているだろうし、そいつらとゲームをして、そう、マルタからチケットも買わなければ。そしてキング・ロブの試合を見に行ける。

 世界は喜びに満ちている。

 そう思わなければやっていられない。

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