第4話

1週間後の月曜、またお母さんから病院行きを頼まれた。

今度は洗濯物ではなく、紙おむつが足りなくなりそうだから、届けてくれということだった。

学校は先週から春休みに入っていた。部活もやめちゃって、一日中家でごろごろしているんだからと、押し切られてしまった。

私はしかたなく、大きな紙おむつのパックをぶら下げて病院に向かった。

駅から病院までの道すがら、私が大人用紙おむつのパックを抱えて歩いていると、すれ違う人がときどき二度見するのがわかった。大人用紙おむつを持った女子高生って、そんなに珍しいのだろうか。


おじいちゃんは、先週よりもさらに衰えていた。私は紙おむつのパックをロッカーに押し込むと、いつものようにいすをベッド脇に運び、腰かけた。

「おじいちゃん、また来たよ。」

私がそう言うと、今日は珍しくおじいちゃんは私の方を向いた。だけどやっぱり、視線は私を飛び越して背後のどこかを見つめている。

「おじいちゃん、先週私が言ったこと、覚えてる?おばあちゃんに逢いたいって尋ねたよね。」

おじいちゃんは口を半開きにして、どこかを見ている。

「私、思い出したんだ。おじいちゃんの家、おばあちゃんの写真がいっぱいあったよね。すごく若くてきれいなおばあちゃんは大きく引き伸ばされてたんすの上、伯父さんやお父さんと一緒に写ってるおばあちゃんと、初孫の私を抱いて笑ってるおばあちゃんは一緒のパネルに入れて仏壇の横、遺影に使ったおばあちゃんの写真は額縁に入れて鴨居。」

「おばあちゃんの服とか化粧台、もう要らないのに元の通り、ぜんぜん変えてないよね。」

私はおじいちゃんの顔を見ながら話した。

「おじいちゃん、おばあちゃんに逢いたいよね。もう少ししたら、逢えるかも知れないよ。」

私がしゃべっていることを、おじいちゃんが理解できるはずがない。

「そしたら、私も結花に逢いに行こうかな・・・」

私はそこまで話すと、おじいちゃんのベッドに突っ伏した。そのとき、なにかが私の肩に触れた。顔を上げると、おじいちゃんが掛け布団から腕を抜いて、私の肩を触っていた。私はおじいちゃんに何が起こったのかと、おじいちゃんの顔を見つめた。

半開きだった口が閉じ、焦点が合っていなかった目が、徐々に生気を取り戻して行くのがわかった。それはまるで、濁った水が一杯になったバスタブの栓が抜かれて、濁った水が減って行き、バスタブの中からおじいちゃんが現れた、そんな感じだった。私は驚いて思わず声を出した。

「おじいちゃん・・・」

おじいちゃんの目は、もうしっかりと私の目を見つめていた。

「香織、来てくれてありがとう。」

声には力がなかったが、ふにゃふにゃで聞き取りづらい声ではなかった。

「俺はもうずいぶん長く生きた。戦争からも生きて帰れたし、戦争から帰ってすぐに結核に罹ったけど、それも治った。それに、結核の療養所で佳代子に遭えた。」

そうか、おじいちゃんとおばあちゃんは結核の療養所で出逢ったんだ。初めて聞く話しだった。

「もう思い残すことはない。香織、おまえはまだ若くて元気だ。まだまだやらなきゃならないことがたくさんある。これからも頑張るんだよ。」

私はなぜだか声が出せなくなって、おじいちゃんの手をさすった。本当に、「枯木のような手」っていうのがあるんだって、初めて知った。

「香織に手をさすってもらうのも、これが最後かも知れない。もうおまえにおこづかいをあげられない。ごめんよ。」

「おこづかいなんて、どうでもいいよ。おじいちゃん、また元気になって。」

私はやっとそれだけ言った。

「思い残すことがあったとしたら、そうだな、またおまえに膝に乗ってもらいたかったよ。」

おじいちゃんはそう言って少しだけ笑った。

「おじいちゃん・・・」

私はおじいちゃんが久し振りにまともな反応を見せてくれて、嬉しくなった。

「私、もう重くておじいちゃんの膝には乗れないよ。」

次の言葉は、無意識のうちに私の口から発せられていた。

「ねえ、おじいちゃん。もうじき死ぬの?」

「うん、もうすぐだな。」

「もうすぐ死ぬっていうことを、どう感じるの?」

「そうだな、香織は陸上をやってたよね。生きるって言うことは例えば、トラックの長距離競技みたいなもんだけど、違っている点もあって、それはスタート地点とゴール地点が人それぞれ、ばらばらってことかな。」

「どういうこと?」

「みんなトラックをぐるぐる回っているんだけど、どこがゴールなのか自分でもわからずに回っているんだよ。誰が何周回ったとか、そんなことではこの競技の勝ち負けはつかない。たった3周しか回らない人もいれば、何十周も回る人もいる。」

私はおじいちゃんの言いたいことがよくわからなかった。

「よくわからないよ。」

「そうか、それじゃ例えを変えよう。トラックの長距離じゃなくて、マラソンだ。」

「人生はマラソン?」

「そうだ。だけど、コースもゴールも人それぞれなんだ。自分でこっちがゴールだと思った方へ走る。だけど、ゴールの場所が決まっているわけじゃない。ある日、突然目の前にゴールが現れて、そこがゴールだったってことが分かるんだ。」

「ゴールって、死ぬってこと?」

「そうだ。死ぬって言うことは、やっとゴールにたどり着いた、って言うことなんだ。」

「誰かと一緒に走ることはできるの?」

「できるよ。だけど、ゴールの場所は人それぞれで、同じ場所でゴールすることはできないんだ。例え誰かと一緒に走って、一人がゴールしても、もう一人は自分のゴールが来るまで、走り続けなくてはならないんだ。」

私はおじいちゃんが言いたいことが、少しだけわかった。

「先にゴールした人のために、走り続ける人ができることはあるの?」

「あるとも。二つある。」

おじいちゃんははっきりと言った。

「一つは、そこに立ち止まらないってことだ。誰かが、ゴールした人のことばかり考えて、そこから一歩も走れなくなるのは、ゴールした人にとってとてもつらいことなんだ。」

おじいちゃんの言葉が私の心に突き刺さった。私は結花のことばかり考えて、一歩も走れなくなっている。

私に構わずにおじいちゃんは話し続ける。

「それからもう一つは、忘れないことだ。1年に1回でもいいから、思い出すことだ。」

「それって、前のと矛盾してない?」

「そう見えるかも知れないけれど、そうじゃない。走りながら、時々思い出してくれればいいんだ。それが一番の供養なんだよ。」

「おじいちゃんもおばあちゃんのこと、思い出す?」

「忘れたことはないよ。」

おじいちゃんはそう言うと、目を閉じて少し笑った。とっても薄い笑い方だった。

「いっぱいしゃべったから、疲れたちゃったよ。」

そのまま見守っていると、おじいちゃんは寝息を立て始めた。

「おじいちゃん・・・」

声を掛けたが、おじいちゃんは眠ったようだった。ずっと認知症かと思っていたおじいちゃんが、まともなことを話したのが驚きだった。

私は30分以上そのままの姿勢でいただろうか。おじいちゃんの寝息を確認すると、私は立ち上がった。

今日はもう帰ろう。そして、おじいちゃんとまともな会話ができたことを、お父さんに報告しよう。

私はそう考えながら、病室を後にした。

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