第2話
国道に沿って緩やかな上り坂を上って行くと、小高い丘の上に大きな白い建物が現れた。目指すN市市立病院は、数年前に新築された新しい病院だった。
休日の面会者用入口は、正面入り口から横に回った所にあった。入口を入ってすぐの場所にある警備員詰所のような受付で、ノートに必要事項を記入するのがルールのようだった。私は洗濯物が詰まった紙袋を床に置き、ノートの面会者名の欄に「山下香織」と、入院者名の欄に「山下幸造」と書き込んだ。
山下幸造。
それは、今年で87歳になる、私のお父さんのお父さん、つまり私のおじいちゃんの名前だ。10年ほど前におばあちゃんに先立たれ、家で一人暮らしをしていたのだけれど、先月末に自宅で転んで手をついた拍子に腕を骨折し、この病院に搬送された。病院で診察された際に、医師が熱があることに気付き、内科の診察をしたところ、肺炎に罹っていることがわかった。
そのときに入院して以来、もう3週間になるけれど、いまだに退院の目途が立たないそうだ。
肺炎が治りかけても、食事を摂ると「誤嚥」で肺炎がぶり返してしまう、とお母さんが言っていた。「誤嚥」の意味はわからなかったけれど、そのために今は一切口から食事を摂れず、点滴で栄養補給しているそうだ。
私は病院内の案内板を見ながらエレベータにたどりつき、上ボタンを押してエレベータを呼んだ。間もなく4基あるエレベータの内の1台のドアが開いたので、乗り込む。おじいちゃんの病室は、最上階の一つ下の7階なので、エレベータの操作パネルの7のボタンを押した。ドアが閉まり、エレベータが動き出す。
上昇するエレベータの中で私は、母が私におじいちゃんのお見舞いを頼んだときの言葉を思い出していた。
「ねえ、今度の土曜日、頼みがあるんだけど。おじいちゃんの病院に行って、洗濯物届けて来て欲しいの。」
テレビを見ていた私に、突然母が話しかけて来た。
「えー、なんでわたしなの。」
「お母さんもお父さんも仕事なのよ。お願い。」
お母さんは小さな医院の事務をやっていて、土曜日は休みではない。3人でシフトを組んで、週4日働いているのだが、忙しい土曜日はなかなか休めないのだ。
「一昨日、お母さんがおじいちゃんのところから、洗濯物なんか持って来ちゃうのがいけないんでしょ。」
「お兄さんと英子さんばかりに頼っているわけにもいかないでしょ。少しは、私達だっておじいちゃんのこと、やってあげなきゃ。」
お兄さんと言うのは、お父さんの2歳上のお兄さん、つまり私の伯父さんで、英子さんと言うのは伯父さんの奥さんだ。
「英子さんは専業主婦なんだからいいんじゃない。」
「そうも言ってられないでしょ。おじいちゃんから見たら、同じお嫁さんなんだから。」
お母さんは、いつもの決まり文句を言う。
「香織は小さい頃、おじいちゃんにかわいがられたんだから。それくらいのこと、やってあげてもいいでしょ。この前のお正月には、お年玉だってもらってるんだし。」
「小さい頃のことなんか、覚えてないよ。お年玉はもらったけど・・・」
もう耳にタコができるくらい、聞いた話だった。私は小さいころ、おじいちゃんの膝の上が大好きで、おじいちゃんの家に行くと、いつも胡坐をかいたおじいちゃんの膝の上に座っていたそうだ。でも、もうまったく覚えていない。
「おじいちゃん、あなたが生まれたときはすごく喜んだのよ。久し振りの女の子だって。」
「そりゃ、伯父さんとお父さんと、男二人だったからね。でも、わたしだって、いつも暇とは限らないよ。」
「高校のクラブも止めちゃって、土曜日は予定でもあるの?」
「特にないけど・・・」
「じゃ、いいでしょ。お願い。」
こんな感じで、最終的にはお母さんに押し切られて、今日はおじいちゃんの病院に来た。
確かに高校の陸上部は去年の12月にやめた。小学校からずっと一緒で、中学でも同じ陸上部だった結花がいなくなってから、特に仲の良い子もいなくなって、部内の雰囲気もなんだか良くなくて、それでもう陸上部にはいられないような気分になってしまったから。
エレベータが7階に着いた。おじいちゃんの部屋は13号室だ。アメリカあたりの病院だったら、絶対にない番号の病室だろうなと思いながら、廊下の案内に従って、13号室を探した。
13号室は、ナースステーションの正面の部屋だった。13号室は比較的広い二人部屋だったが、今はおじいちゃん一人しかいないようだった。
部屋に入って行くと、正面のベッドに白髪の老人が、鼻に呼吸器を取り付けて横たわっていた。掛け布団のあちこちから、いろんな太さのチューブが伸びていた。
白髪の老人はおじいちゃんだった。目は落ちくぼみ頬はこけ、肌のつやはまったくなくなってカサカサで、つい数カ月前の正月に会ったときとは、別人のようだった。
おじいちゃんは目を開き、まっすぐ前を見ていたが、正面に立った私を見ていなかった。おじいちゃんの視線は、私を飛び越えて、私の背後のどこかを見ていた。それは、以前とは比べ物にならないくらい、弱々しく、力の無い視線だった。
私はおじいちゃんに笑いかけて手を振ったが、おじいちゃんにはなんの変化もなかった。私の存在を認識できていないようだった。
私は気を取り直して、病室の奥のロッカーに歩き、扉を開けた。ロッカーの中は、大人用の紙おむつとタオルとティッシュでいっぱいだった。
赤ちゃんのときにおむつをし、年を取るとまたおむつをする。そうか、人間は年を取ると赤ちゃんに還るというのはこう言うことだったのかと、少し可笑しく、悲しくなった。
私は、持って来た紙袋の中のタオルやパジャマをロッカーに押し込んだ。すると、背後で誰かが部屋に入って来るのがわかった。振り向いて見ると、入って来たのは、まだ若い女性の看護師だった。
「まだしばらくここにいますか?」
看護師が尋ねて来た。
「あ、はい。もう少しいると思います。」
なぜそんなことを尋ねるのだろうと思いながら答えた。
「では、このナースコールは電源を落としておきますね。帰るときに、ナースステーションで声を掛けて下さい。」
なんのことかよくわからなかった。看護師は何かの操作パネルを操作すると、おじいちゃんに手を振って、部屋を出て行った。おじいちゃんのベッドの脇の床に、玄関マットのようなものが置いてあり、そこから壁にコードが伸びていた。
ああ、これがナースコールだったんだ。おじいちゃんが一人でベッドから立ち上がったら分かるように、ベッドの脇の床にマット型のナースコールが置いてあるんだ。
私がさっき踏んだから、看護師さんが来たんだと、私は納得した。
それから、窓際に置いてあったいすをベッドの横まで引っ張ってきて、そこに腰をかけた。おじいちゃんは相変わらず、どこかを眺めている。
「ねえ、おじいちゃん。私、わかる?」
私はおじいちゃんの耳元で話しかけてみた。
「ええっ?」
おじいちゃんは私を振り向いた。
「すみません、もう頭がぼーっとして、なんだかよくわからないんです。」
おじいちゃんはどこかを眺めたまま、そう言うとまた視線を遠くに泳がせた。ふにゃふにゃした、聞き取りづらいしゃべり方だった。
もう、私がわからなくなっちゃったんだ、この前のお正月には、普通に話をしたのに。
「おじいちゃん、わたしよ、香織よ。具合はどう?」
私はもう一度話しかけてみた。すると、おじいちゃんは突然首を捻って私の顔を見つめた。
「孝之も祐二も妄想だって笑うけど、本当なんだ。」
おじいちゃんが真剣に言う。
「なんのこと?お父さんや伯父さんがなにを笑うの?」
「佳代子が死んだ日の明け方、誰かが呼び鈴を押したんだ。こんな時間に誰だろうって思って、ドアを開けたけど誰もいない。布団に戻って寝ようとしたら、また誰か呼び鈴を押すんだ。それで、またドアを開けたけど、誰もいない。俺は、こりゃ佳代子に何かあったんじゃないかと、寝られなくなったんだ。」
佳代子と言うのは、10年ほど前に亡くなったおじいちゃんの3つ年下の奥さん、つまり私のおばあちゃんのことだ。くも膜下出血で倒れ、病院に搬送されてから、およそ一ヶ月後に亡くなった。
おじいちゃんの話は続く。
「そしたら、昼過ぎに孝之から電話があって、佳代子が危ないから病院に来いって言うじゃないか。」
思い出した。この話はお父さんから聞いたことがあった。
「あれは、佳代子が家に帰ってきたんだ。間違いない。」
おじいちゃんは、相変わらずふにゃふにゃしたしゃべり方でそう言うと、また天井を向いてしまった。長く話したせいか、呼吸が荒くなっている。
おばあちゃんが亡くなった頃、おじいちゃんがひどく気落ちして、いろいろな妄想や幻覚をみるようになったって、お父さんが言っていた。これも、その妄想の一つだって。
やっぱり、おじいちゃんは私が誰だかわかっていない。私は少し悲しくなった。
まともに話すことができない老人の側にいても、これ以上やることはない。私はもう家に帰ることに決めて、いすから立ち上がった。
黙って部屋から出ると、目の前のナースステーションで、パソコンに向かっていた先ほどの若い女性看護師と目があったので、立ち止まった。
「孫の香織です。おじいちゃんのこと、よろしくお願いします。」
私はそう言って頭を下げた。看護師もわずかに微笑んで、軽く会釈した。
私はエレベータに向かって歩きながら、おじいちゃんの病室がナースステーションの目の前なのは、偶然ではないことを理解していた。
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