scene 3
鐘ヶ江に指定された視聴覚準備室は、職員棟から一番離れた棟の三階にある。
視聴覚室という、もしかしたら高校三年間で一番使われることがないような部屋の隣に小さく存在するのが準備室。もちろん、一紗は入ったことなどない。もはや最後に近づいたのがいつなのか忘れてしまうほどだった。
鍵がかかった扉の前で、することもなくたたずむ。この棟の隣には学食が見え、片付けをするおばちゃん達が動き回っている。
「悪い、待たせた。」
鐘ヶ江は、鍵を片手に、悠然と白衣をなびかせながらやって来た。
鍵を開ける鐘ヶ江に尋ねる。
「先生、なんでこんな部屋を?」
「この部屋の管理担当は私でな。なにかと活用しやすいのだ。」
「へぇ…。」
「じゃあ、中に入ってくれ。」
床がカーペットなので、上履きを脱いで部屋に入る。
薄暗く狭いその部屋は、密閉空間特有の、少し鼻につく臭いが充満していた。
「本題に入りましょうか、先生。」
「そういうのは私の台詞ではないのか?」
「知ったことではありません。」
「わかったよ、まあ座れ。あと、長い話になりそうだからな、これでも飲め。」
雑に置かれていた丸椅子に座るよう促され、ペットボトルのお茶を渡された。断る理由もないため、指示に従う。
「このお茶、ぬるいですね。」
「文句言うな。」
鐘ヶ江は、その対面にあった、背もたれ付きの椅子に腰かける。
「さて、本題、つまり辻君の夢についてなのだが、その前に寝るときに見る夢というものが何なのかを少し語っておかねばならない。」
「夢は、記憶を整理するためのものだ、とかの話ですか?」
「頭がいいと話が早いな。まあ、つまりはそういうことだ。だが、大事なのはそこではない。」
遠回しな鐘ヶ江の言葉に、首をかしげる。
「大事なのは、「夢を見る」ということは、そういう機能を持っているがゆえに、誰しもが当然のように見るべきものである、ということだ。」
「それって…。」
「そう。変な夢を見たという前に、自分は全く夢を見ていなかったという状況がおかしいのだ。」
「でも、それは、えっと…」
「そう。それでも君は夢を見ていなかった。だが、これはこれであり得る。夢を見たとしても、ただ忘れているだけなんだ。」
「………何が言いたいのですか?」
結論が見えない話に、一紗が少し苛立つ。
「まあまあ、もう少し聞け。見た夢を忘れる理由は、まあ色々ある。ただ覚えていないだけというのが多いが、そういう人はたまに覚えていたりする。一時期からまったく見ていないというならば、それ以上の理由があるのかもな。ストレスとか。私はよく知らないが。」
夢を見なくなった時期、そのとき起きたことを思い出そうとしたが、大きく首を振ってやめた。
「まあ、嫌なことなら思い出さなくていい。とにかく、まったく夢を見なくなったということは、相応の理由がなければ覆らないということだ。」
なんとなく、鐘ヶ江の言いたいことがわかってきた。
「つまり、だ。辻君には何も起きていないのに、見なくなったはずの夢を見た、しかもそれが連続で同じ夢だということが、どれだけ特異的なことか理解できたかい? もはや、人為的な何かが働いているとしか思えないほどに。」
「人為的な、何か…?」
付け加えられた言葉に、驚きを隠せない。
人為的ということは、一紗以外の人間が、一紗に、意図的に、あの夢を見せたということ。
思いもよらない可能性をつきつけられ、狼狽する。
「さて、やっと本題にはいれるな。」
前屈みになっていた鐘ヶ江が、ゆっくりと背もたれに身体を預ける。
「これは、この間遊び感覚で行った学会で発表されていたことなんだが…。」
遊び感覚で学会に行けるのか、ということは、今の一紗の気にするところではなかった。
「ごく最近、人間の夢をコントロールする技術が開発されたらしい。といっても、寝ている人間にイメージを押し付けるという、力任せな方法だ。」
一紗は、目の前で語られていることが信じられなかった。
だが、現に自分が見ている夢についての説明としては、不本意ながら合点がいく内容だった。
よって、とりあえず反論はしない。
「その技術が、辻君に使われた可能性がある。……なあ、一つ、調査を手伝ってくれないか?」
いきなり尋ねられ、対応に時間がかかる。
「…どういうことですか?」
「人の夢を操るには、相応の機材が必要でな。自宅にいながら操られたというのは、私の知る限り初めてのケースなんだ。」
「へぇ…。」
「で、人為的な事象であるということは、何らかの痕跡が残るはず。それを調べておきたい。」
「どうして調べるのですか?」
「学会の後にあった懇親会で、その技術の悪用も噂されていてな。少し不安なんだ。それに、私のペンダントが夢に出たとなると無視できないし、他に気になることもあるし…。」
知らぬうちに、一紗は前のめりになっていて、話の続きを聞こうと必死になっていた。
その様子に、ふと我に帰った鐘ヶ江。唐突に話を切り上げる。
「すまない。これ以上は詳しく言うことはできない。私の生徒を巻き込むわけにはいかない内容でね。」
「そう、ですか…。」
少し不満げな表情を作りながらも、これ以上は無駄だと判断し、引き下がる。
「もちろん、何か辻君にとって有益な情報が手に入れば、できる限りちゃんと伝える。」
鐘ヶ江はペンダントの指環を握り、懇願する。
「だから、協力してくれないだろうか…?」
「いいですよ。」
「確かに何も知らぬまま協力してくれってのは……って、え?」
「だから、いいですって。協力しますって。」
「お、おう…なんか、拍子抜けだな…。」
「この夢のせいで困っている訳でもありませんが、先生に恩を売るのも悪くないかと。」
「そういうことは言わない方がいいぞ。」
「で、何をすればいいのですか? 早くしないと帰りますよ。」
「あ、ああ、ちょっと待ってくれ。」
椅子から立ち上がった先生は、おもむろに壁にかけてあったヘッドフォンを手に取った。ヘッドフォンのコードは、部屋の奥へと続いている。
そして、一紗に、さっきまで自分が座っていた椅子へ座るように指示する。
「これをつけてくれ。このヘッドフォンは改造してあって、脳波を測定する機能が実装されている。」
「……すごいですね。」
「だろう?」
装着してみると、特に締め付けがあるわけでもなく、普通のヘッドフォンと大差はない。
「さて、じゃあ測定しやすいようにすこしの間眠ってもらうよ。大丈夫、三十分ぐらいだ。ヘッドフォンから眠たくなるような曲が………って、早いなおい。」
鐘ヶ江の言葉の途中で、一紗は早くも寝息をたて始めていた。
「効果が強すぎたか……?」
飲みかけのペットボトルを小突きながらの呟きは、誰にも聞かれることはなかった。
◆◆◆◆◆◆◆
――――意識が揺れる揺らされる。「やめろやめろ」叫ぶ誰か。誰だろう。ああこれは確か「大人しくしろ」汗をかき焦る身体。だが精神は驚くほど「落ち着いて」でも「逆らおうとするな」いやそれより前に「できないだろうがな」そうだ何もできなかったなんで「弱いから」仕方がないのか「お前には何も守れない」なぜだ「お前は守られる方だから」だが「そうだ」俺を「お前を、守るのは」とっくに「死んだ」本当に?「いいえ」え?「まだよ」まだ「まだ生きていたか」どうすれば「逃げるのよ」どうして「守らなければ」何を「自分より小さな存在を」手をとった「そうよ」走り出した「それでいいの」声を置き去りにして「黙れ、待て」新たに朱が流れるイメージ「任せた、わ」そのまま何もかも遠くなり「どこいくの」確かなのは掴んだ手の感触のみ。
これは、飛び血が必要以上に映えた、どこまでも鮮明で真っ暗な記憶の追体験――――
◆◆◆◆◆◆◆
「起きろ! 起きろ辻!!」
焦る声が聞こえる。それとは対称的に、一紗はどこまでも落ち着いていた。
褪せる声を、夢の声を、どこまでも追いかけようとして、やめた。
ふと、自分が汗だくなのに気がつく。
「起きたか!? 大丈夫か? これ、何本だ? 見えるか?」
鐘ヶ江は、指を三本立てて、一紗に見せる。
「三本です。大丈夫です。もう、大丈夫です、から。」
「いや、でもお前、呻き始めたと思ったら急に息が荒くなって…。」
「大丈夫、ですから。それより、脳波とやらの測定できたのですか?」
「い、一応な……本当に大丈夫か?」
「大丈夫です。実験が終わったのなら帰ります。お茶、ありがとうございました。」
「お、おう………気を付けて帰れよ。」
部屋から足早に出ていく一紗。鐘ヶ江は、その姿が壁に隠れて見えなくなるまで見送った。
一人となった視聴覚準備室で、部屋の奥に無造作におかれたノートパソコンを起動する。そして、床から延びているコードを接続。
「下の階のパソコンルームの全CPUをフル稼働させて解析した辻のデータはっと……。」
しばらく、キーボードを叩く音が響く。
「あった、これだな。ちゃんとエンコードも終了しているじゃないか。さすがさすが。」
そして、あるファイルを開く。
表示される内容を、黙って見つめる鐘ヶ江。
「………これは…。」
◆◇◆◇◆◇◆
「おかえりぃー。」
「………ただいま。」
「もーお兄ちゃん、どこほっつき歩いてたのよ! 一緒に帰れなかったし……まさかまたあの女………って、どうしたの?」
「いや、なんでもない。気にするな。」
「………嘘。」
「大丈夫だって。」
「嘘。絶対なんかあった。どうし…」
「気にするなっって言ってるだろ!」
思わず、怒気を含んだ声になる。
「……ごめんなさい。」
「………悪い。だけど、本当に大丈夫だから。気にしないでほしい。」
「うん…。」
言い過ぎたことを反省して謝る一紗。だが、奏はそれ以上追求することはなかった。
微妙な雰囲気のまま、夕食などを済ませ、一紗は早めに布団にもぐる。
寝付けはいつもより、ほんの少しだけ悪いようだ。
その日から、あの夢をみることはなくなった。
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