scene 1

「あぁー……つら。」


 急いで準備をして、ぼさぼさの髪のまま校門まで走った一紗は、軽く悪態をつく。


 長く短い夏休みが終わって、まだ数日しか経っていない今日は、残暑の厳しい日差しが無遠慮に突き刺さってくる。

 その猛攻にやられ、一紗は既に汗だくだ。制服のシャツは濡れて身体に貼り付いている。

 タオルでも持ってくればよかったと思いながら、校門から少し離れた靴箱へと向かう。


 その途中、後ろから走ってくる足音がした。

 自分のことが目に入った先生だと思った一紗は、弁明するため、振り返る。


「あっ…!?」


 先生と予想していた気配は、思ったより小さな人影で、虚を突かれた一紗の懐に突っ込んできた。

 そのまま、一紗が下敷きになる形で倒れ込む。


「いっつぅ……。」

「………いたぃ……急に、止まらないでください。」


 人を下敷きにしておいて、その上から図々しく諌めるのは、一紗と同じ高等学校の制服を着た生徒だった。

 しかし、一紗と大きく違うのは、ズボンではなくスカートを着用していること。

 つまり、ぶつかってきたのは女子生徒。

 その事に少し狼狽しつつも、変な気が起きる前に身体の上から降りさせる。


「なんですか………ちょっと、何か言ったらどうですか?」


 お互いに身体を起こし、対面する。


 改めて突撃してきた相手の顔を見てみる。

 黒髪ロングのストレート、頭の頂点で一本髪が跳ねているのは寝癖だろうか。


「私の顔に何か付いていますか?」


 怪訝そうな顔で指摘される。どうやら一紗の視線が気になるようだ。

 対する一紗は、その顔をどこかで見た気がしてならなかった。


「お前……誰、だっけ?」

「知り合いの名前を覚えていないなんて、ずいぶん失礼な方ですね。」


 散々な言われように、一紗も本気で記憶を探る。

 そして、たどり着く。


「思い出した。確か、クラスメイトの……」

「あ、クラスメイトだったのね。」

「おいお前…」

「私は」


 言葉が中断される。先を言われたくないのだろうか。


「私は、夢華ゆめか。以後お見知りおきを。」

「…って、名字は?」

「どうでもいいでしょう。」

「え?」

「名字、嫌いなの。」

「は?」

「嫌いなの。だから夢華でいいわ。」

「女子の名前呼びって、恥ずかしいんだけど。」

「………どうして?」

「どうしてって……あ、ちょっと」


 会話を中断し、颯爽と靴箱へ歩き出す夢華。

 その後を追う形で、一紗も靴箱までやって来て、上履きへ履き替える。


「そういや、お前は俺の名前がわかるのか?」


 すると夢華は、一瞬だけ視線を足元へ落として、自信満々に言い放つ。


「あなたは……………辻さんですね。」

「いやお前今これを見ただろう。」


 上履きに書かれた名前を指差し、一紗が指摘する。

 しかし、悠々と胸を張るその姿勢は変わらない。


 そのとき、気がついてしまった。

 彼女もまた、遅刻をしているということを。

 そして、そのために汗だくになりながら走ってきたであろうことを。

 一紗と同じく、身体に貼り付いたブラウスから薄く透けた、少しだけふくらみがある淡い水色によって。


「お前……汗とか、ちゃんと拭いとけ。」


 視線を泳がせながら、不自然に、そして遠回しに指摘したことは、少し時間がかかったが伝わったらしい。

 しかし、夢華は自分の身体を見下ろしたその後でも、毅然とした態度を崩さない。


「そんな小さなことは気にしません。」

「確かに小さいかもしれないが、でも…」

「…やっぱり失礼な方ですね。」


 言葉を吐き捨て、今度はかなりの速さで一紗をおいてけぼりにする夢華。

 自身の発言が失言と捉えられたことに気付き、しかし訂正する気も起きないまま、彼女が向かった職員室へ、一紗もまた、遅刻を報告するために歩き出した。


 ちなみに、夢華には職員室ですれ違った女性の教師からタオルが支給された。一紗には遅刻へ対する説教のみだったが。

 そして、そのあと二人同時に教室へやって来たことは、後でちゃんと囃し立てられることになる。



     ◆◇◆◇◆◇◆



「お兄ちゃん、今日遅刻してきたでしょう。」

「……なぜ知ってる、かなで。」

「教室から丸見えでしたー。」


 ここは、一紗が通う高校の学食。数年前に改修されたため、薄汚れた校舎が並ぶ中、この学食だけは場違いな白さを誇っていた。

 その清潔感からか、生徒の間では人気が高く、昼休みの今はかなりの喧騒に包まれている。

 この、学校の端にある学食の、さらに隅の席に、一紗は一人の女子生徒、つじかなでと一緒に食事をしていた。


「授業中に窓の外を見るな。」

「えー。」


 目の前の少女は、不満を漏らしながら、少し頬を膨らませてくる。

 奏は、一紗のひとつ下の妹で、同じ高校に通っている。

 一紗が二年生で、奏が一年生。

 ちなみに、一年生の教室は教室棟の一階に位置しており、隣の棟の一階に位置する靴箱は、教室の窓からよく見える。


「まったく。お兄ちゃん、わたしがいなかったら、なーんにもできないんだから。」


 奏は、土曜日である一昨日から、月曜日の今日まで、友人の家へ泊まりに行っていたのだ。おかげで、朝寝坊をした一紗を起こす人はちょうど存在しなかった。

 ちなみに、普段の一紗は、奏と一緒に兄妹二人で暮らしている。


「いや、何もできない訳はないだろ。」

「へえー。じゃあ、今食べているのはなに?」


 そう言われ、半目の視線で示されたのは、一紗の前に置かれている青い弁当箱。

 これは、奏のお手製お弁当。兄である一紗と自分の分を毎朝作り、学食で一緒に食べるのが恒例となっている。

 奏は、友人の家へ泊まりに行った先でも、この手作り弁当は欠かさなかったらしい。


「これは……助かってる。ありがとう。」

「あ、う、うん……。」


 急に歯切れの悪くなる奏。


「なんなの……急に素直になって……。」

「何か言ったか?」

「言ってない! そんなことよりも!」


 強めに机を叩き、話題を無理矢理変える。

 かなり大きな音がしたが、それ以上に騒がしいこの場では、特に気にする人はいなかった。


「あの子、誰なの?」

「は?」

「あの子よ! 一緒に靴箱に歩いていった、黒髪ロングのあの子よ!」

「あー……。」


 どうやら、二人でいるところを見られたらしい。しかもかなり詳しく見ていたらしい。

 しかし、続く奏の目撃情報によると、ぶつかり重なりあった現場は目撃されていないらしい。


「いや、あいつはただのクラスメイトで…」

「まさかわたしがいない内に女の子を家に連れ込んだとか?」

「…………。」


 もし、あの状態を見られていたら、どんな言い掛かりを押し付けられるのかと思うと、少し背筋が凍える。

 どう解説しようかと一紗が頭を悩ませていると、後ろから人の気配がした。


「相席よろしいかしら?」


 聞いたことがある声。振り向かずとも、誰が立っているのかを把握する。


「あっ…。」


 噂をすれば影、といったところか。先程までうるさかった奏が黙る。


「別に気にしない。」

「そう、ありがとう。」


 そのまま、一紗の隣へ座ったのは、パンが入った袋を掴んでいる夢華だった。

 生徒で埋め尽くされている昼休みの学食では、よく知らない人が隣に座ることは珍しくない。


「…………で、何で遅刻なんてしたのさ。」


 さすがに気まずくなったのだろう。奏は、やっと話題を変えてきた。


「朝寝坊した。」

「ほんと?」

「嘘言ってどうするんだ。」

「いや、だって…」


 奏が、夢華を一瞥する。


「……何で、寝坊なんか。らしくない。」


 しかし、言いかけた言葉は呑み込まれ、ぶっきらぼうに別の言葉が放たれる。

 だが、その問いに、一紗は少し悩むことになる。

 意を決して、奏に伝える。


「夢を、みたんだ。」

「ええっ!?」


 奏が勢いよく立ち上がる。今度ばかりは周囲の生徒の視線が痛い。

 そんなことはお構い無しに、奏は叫ぶ。


「お兄ちゃんが、夢をみた!?」

「奏、落ち着け。さすがにうるさいぞ。」

「なんでわたしがいないときに限ってお兄ちゃんにレアなことが起きるの!?」

「何を言っているんだ?」

「いや、今は、とりあえずそんなことより…」


 大きく前にかがんで、一紗の顔を覗きこむ。


「お兄ちゃん、病院行こ?」

「何でそうなるんだ。」

「だって、お兄ちゃん、だって…。」


 俯いて言葉を詰まらせる奏。そんな奏に、一紗がもう一度落ち着くように促す。

 奏はそれに従うようにゆっくりと席に座り、さらに長い時間黙りこみ、そして大きく深呼吸をしてから、やっと口を開いた。


「どんな夢、だったの? もしかして、またあの夢…?」

「いや、あの夢じゃない。大丈夫。大丈夫だから。えっとな…」


 一紗が、淡々と夢の断片を語り出す。


 誰かに、何かを訴えられたこと。

 誰かに、何かを求められていたこと。

 そして、何故か記憶に焼き付いた、銀の指環シルバーリングの霞んだイメージ。


 そのすべてを、覚えている限りのすべてを、一紗は奏に伝えた。

 どこまでも、事務的に。


「……なにそれ。」

「さあな。たかが夢だ。特に意味はないだろう。」

「で、でも…」

「夢って、こんな支離滅裂なものなんだろう?」

「まあ、そう、だけど…」

「だったら、普通に戻っただけ。むしろいいことだ。」

「そう、かも、だけど…」

「だから、内容がどうとか、そんなこと考える必要はないだろう。夢判断とか、いつの時代の話だ…。」

「さあ、どうでしょうね。」


 夢華が、袋から取り出したクロワッサンを手に、正面を向いたまま横槍を入れてきた。

 寝癖らしき一本の髪はこちらを向いているが。


「なんだよ。」

「意味がない夢なんて、無いものよ。どんな内容であれ。無意味だと決めつけるのは、あなたがそう思い込んでいるだけに過ぎない。」

「え?」

「お先に失礼するわ。」

「え、ちょ、夢華…!?」


 そのまま、一紗の返答を待たずして、夢華は学食から去っていった。

 一口も食べなかったクロワッサンを手にしたまま。


「お兄ちゃん、下の名前で呼び捨てって、やっぱりそんな関係なの? ねえ!?」


 誤解をしたままの奏に詰め寄られる。

 しかし一紗は、その誤解を解こうともせず、ただ黙って何かを考え込んでいた。


「聞いてる? お兄ちゃん!」

「あ、いや、悪い。弁当、ごちそう様でした。おいしかった。」

「だからなんでそんな急に素直に…。」

「ん?」

「なんでもない!」


 二人はそのまま、未だ騒がしい学食を後にして、それぞれの教室へ戻っていった。



     ◆◇◆◇◆◇◆



「で、あるからして、前回の世界大戦において、この学校の近辺は重要な場所だったので…」


 昼休みが終わり、二つ目の授業。教科は歴史。

 しかし、この授業も、この前の授業も、一紗はどこか上の空。


「無意味にしているのは、自分自身…。」


 音にならない声で、口にのせる。

 午後、一紗の思考を支配していたのは、学食で指摘されたあの言葉。


「なら、意味を見いだすことも、できるのか…?」

「―――じ、辻! 辻一紗!」

「あ、はい。」

「何ぼーっとしてるんだ。」

「ちゃんと聞いていましたよ。」

「じゃあ、この地域が戦時中重要であった理由はなんだ?」

「軍に多く武器を供給していた開発会社が存在していたからです。」

「………その通りだ。」


 生徒を晒し者にしようとした先生の目論見が叶わず、教室にクスクスと笑いが起きる。

 その直後に授業終了のチャイムが鳴った。

 おもむろに帰り支度を始める生徒が現れ、先生も諦めて教材を片付けて教室を出る。

 そのとき、思い出したように「日直は配布物を取りに行けよー。」と捨て台詞を残して。

 黒板の端を見ると、そこには辻一紗の名前が。


「俺、今週日直だったっけ……まあいいや。」


 忘れていた事実を思い出し、職員室がある隣の棟へ、渡り廊下を通って行った。

 職員室前に置いてある、クラスごとに分けられた配布棚から、自分のクラスへ配るプリントを取り出す。

 学校の月間予定表や、その他もろもろの配布物の中にあった、一枚の紙に目が留まる。


「またこれ、か…。」


 その内容を確認した一紗は、大きくため息をつき、とぼとぼと教室へ戻っていった。



     ◆◇◆◇◆◇◆



「―――――このように、ここ数日、北の国は敵対する国に対し、挑発的な発言を繰り返しており、国際社会に批難されています…」


 テレビから夕方のニュースが流れるダイニングキッチン。そこでは、包丁とまな板が織りなす規則的な音も響いている。


「さて、次はお天気です。近年の温暖化の影響で、各地でゲリラ豪雨が発生しており―――」

「雨はいやだなー…。」


 テレビの音声を聞きながら、奏は手際よく食事を作っていた。


「……ん。おいし。」


 味見をして、満足気に笑顔を作る奏。エプロン姿のまま、廊下に向かって声を上げる。


「おにいちゃーん、晩ごはんもうできるよー!」


 奏に呼び掛けられ、自分の部屋で机に向かっていた一紗は、ダイニングへと向かう。

 再生紙に刷られたプリントを一枚、苦々しい顔で睨み続けながら。


「なにそれ。」

「進路希望調査。」

「あー…。」


 奏は何かを察したらしく、黙って料理を机に並べ始める。


「とりあえず、たべよ?」


 食事を並べ終えて、エプロンを脱いだ奏が一紗に問いかける。


「…そうだな。頂きます。」

「いただきます。」


 箸を進める二人。本日の晩ごはんは水炊き。

 ご飯を食べながらも、一紗の顔は険しいまま。

 見かねた奏が尋ねる。


「何をそんなに悩んでいるの?」

「えっと、この欄。一番下のやつ。」


 そういって、再生紙に印刷されたプリントを見せる。


「えっと、あ……『将来の夢』、か…。」

「ああ。」


 二人の間に沈黙が流れ、箸の音だけが鳴り響く。

 堪えきれなくなった奏が、その静寂を打ち砕く。


「そっちの『夢』も、またみつかるといいね。」

「もう、無理だろうけどな。」

「そんな、でも…」

「ごちそう様。おいしかったよ。」

「……うん。」


 先に食べ終わった一紗は、自分の食器を流し台へ持って行き、そのまま自室へと戻る。

 しかし、その後から寝る直前まで、再生紙に刷られた最後の欄に手を付けることはなかった。睨み続け、視線から外すこともないまま。


「みえねえもんは、みえねえんだよ…。」


 そのような戯言を吐き出し、ようやく紙から目を逸らす。何かを振り切るように。

 そのまま、一紗はまた、深い眠りに誘われていくのであった。

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