第6章

 柔らかな日差しがまぶたの上に塗られ、じんわりと意識が覚醒してくる。


「ん……。」


 少しだけ、身体を起こす。それで目が覚めたのか、隣で密着していたルナもまぶたをうっすらと開く。


「おはよう、ルナ。」

「…おはよ。」


 挨拶を交わしたあと、現状を確認する。

 身体に目立つ痛みや違和感はない。疲れは完全に癒された訳ではないが、だいぶましになっている。

 外の様子は、月があった場所に太陽が昇っていること以外は、大きな変化はない。今日もいい天気だ。

 腕をほどき、大樹の外へ出る。相変わらず森は静かで、穏やかな風が肌を撫でていく。

 だが、そこにはどことなく張りつめた空気が存在していた。いつどこで敵が現れるかもしれないこの状況が、そのように感じさせているのかもしれない。


「………ぐっ!」


 大きく伸びをして、天を仰ぐカナ。


「さて……これからどうしようか。」


 この場所は知っているが、この場所からどこかへ行く道のりは知らないカナ。

 先生に見つけてもらうのを待って、ここでじっとしているべきだと思い、同時にもう見つけてもらえないのではないかという不安にも襲われた。


 カナの顔が少し陰っていると、後から出てきたルナが、カナの服の裾を引っ張った。


「ん……なに?」


 ルナは、黙って正面の森の方向を指さしていた。その方向に、不自然な点をカナは見つけられなかった。だが、しばらくルナが指さしていると、草木がいきなり不自然に揺れだした。


「ちっ……バレたのなら、仕方がねえな!」


 広場の端、草原を囲む木々の影から、黒のローブをまとった人影が飛び出してきた。わざわざカナたちに届くように、大きな声を上げながら。

 それは、朝から走り回ったであろう疲労感を顔ににじませた、クラルテだった。


「あ、きみは」

「マゼンタ様、ここです!」


 クラルテはそう叫びながら、懐から銃の形をしたものを取り出し、空に向けてぶっ放した。

 その弾道に沿って、真っ赤な煙が発生し、天高くに向かって一つの赤い筋が生まれた。


「なんだあれ…?」

「あはは! これで、もうじきここにマゼンタ様が来る! そしたらお前らは終わりだあ!」


 声高らかに笑うクラルテ。その足はまっすぐとカナたちへ近づいてくる。


「そして、それまでにお前たちを捕まえることができれば…。」


 懐から、先ほどとは違う拳銃を取り出し、カナたちへ向ける。その足取りは、まだ変わらない。


「だから、そんなおもちゃでどうしようっていうの?」


 クラルテの足取りが一気に重くなる。


「だ、だからこれはおもちゃじゃねえ! 本物だっ!」

「まあいいけどさ……で、なんでまたそんな男の子みたいな格好しているの?」

「なっ!?」


 確かに、黒ローブの下から覗くクラルテの格好は、男物の赤いシャツにジーパンという組み合わせだった。カナたちが気づくことはないが、服の下にはサラシが何重にも巻いてある。


「けっこう女の子らしいから、もっとそれらしい格好をすればいいのに…。」

「うるさい! お前には関係ないだろ!!」

「ちゃんと性別相応の容姿をしているのにそれらしくしていないのが贅沢で羨ましくて………ずるいんだよ! ぼくは、もっと男らしくなりたかったのに!!」

「え………お前、男なのか…?」

「そうだよ!」


 拳銃を構えたまま、呆気にとられるクラルテ。カナはもはや泣きそうである。

 だがすぐに、クラルテの顔は真顔に戻った。


「おれだって、女の子らしくなりてえよ…。」

「なんて?」

「いいかよく聞け!」


 急に叫びだすクラルテ。その手は少し震えている。


「おれが女だってこと、絶対マゼンタ様には言うなよ!」

「なんでさ。」

「いいか! 絶対だ!!」


 感情的になり、その勢いでフードをむしり取る。その下にあった、空に広がる透き通った青で染めたような、ショートヘアと瞳があらわになる。

 そのどこか愛らしい顔には、透明な涙がひとつ、流れていた。


 お互いに黙ったまま、しばらくして、カナの隣にいたルナが口を開く。


「…そっか。そういうことなんだね。でも、どうして」

「見つけた!!」


 左の方向から声がする。今度は、よく聞き慣れたあの声。


「影南! ルナミカ!」

「先生!」

「ちっ……煙弾に釣られたか。」


 フードをかぶり直して、一気に後ずさるクラルテ。

 生徒の元へ高速で駆け寄ってくるカルチェ。また周囲の時を遅らせながら走っているのだろう。その髪と瞳は、クラルテのそれと同じく、青空の色を透き通している。


「無事なのよね!?」

「はい、ぼくとルナはなんとか…。」

「よかったぁ………さて、と。」


 生徒の無事を確認して、身体をクラルテへと向ける。その視線は険しい。


「あなたが、噂の空色術士ね?」

「どういう噂か知らねえが、こんなところで叛逆のクーラルハイト様と会うなんて思っても見なかったぜ。」

「あら、私のことを知っているなんて光栄だわ。」

「マゼンタ様に教えてもらった。」

「ちゃんと部下の教育ができているのね。でも、今の私は、この子たちと一緒に自分の《島》に帰りたいだけなの。」

「そいつはできねえ相談だ。」

「このふたりだけでもちゃんと帰してくれるなら、私のことはどこにどう報告しても構わないわ。」

「おれはあんたに興味があるわけじゃねえ。ただ、マゼンタ様の邪魔をする奴は許さない。」

「邪魔なんて…。」

「それに、最初からそいつが狙いだしな。」


 そう言いながら、ぶっきらぼうに銃口でカナを指す。


「……なんでよ。」

「そこまでは知らん。「カケラであろうがあの色」とか、「あれば便利だ」とかおっしゃっていたけどな。」

「カケラって何よ?」

「こいつだ。」


 銃を構えながら、空いている手で懐から何かを取り出す。

 それは、打製石器のように荒く尖っている、手のひらサイズの小さな黒い結晶だった。


「お前を最初に見つけた時だって、さっき探した時だって、こいつの反応を頼りに見つけだした。」

「あなた、そのカケラが何なのか、知っているの?」

「さあな。だが、これは同じものに反応するらしい。つまり、お前の中にも宿っているんじゃないのか?」


 置いてきぼりだったカナが、いきなり示されて狼狽する。


「し、知らないよ!」


 だが、実はそのカケラを見た時からカナは、身体の中で何かがうごめくような感覚に襲われていた。

 その後、クラルテはカケラを懐へと戻した。カナが感じていた違和感も、それにともなって弱くなっていく。


「それにしても、色々と喋ってくれるのね。」

「別に時間稼ぎとかそういうもんじゃねえからな。」

「時間稼ぎなのね。」

「違うって言っているだろ!」


 頬を赤らめて必死に反論するクラルテの様子に、思わず笑みがこぼれてしまいそうになる。しかし、その直後、カナの顔は一気に険しくなった。


「っ!!」

「な、なんだよ!?」

「……来る。」

「え?」


 しばらくして、その音は他の人にも聞こえるようになった。

 それは、少し不快な、空気を高速でかき回す高めの音。

 何が来るのか、それはその場いた全員が察することになる。


「マゼンタ様…!」


 そして、広場の端から、木々をかき分け、大きめの飛行物体ドローンとその上に立ち乗りしているマゼンタが飛び出してきた。

 その近くへと駆け寄っていくクラルテ。マゼンタが乗っているあの機械が、クラルテの腰ほどまで高度を落とす。

 そして、二人が横一列に並び、カナたちと向かい合う。


「クラルテ、よく見つけたな。」

「いえ、その、マゼンタ様のお役に立てたならば、あの、うれしいです…。」


 頭を乱暴に撫でられ、それでも顔を赤らめてフードを深くかぶるクラルテ。その様子を見て、カナは何かを察した。


「……で、私たちをどうするつもりかしら?」

「俺の居場所を知っている奴を野放しにはできない。」

「でしょうね。」


 一気に緊張感が高まる。


「…やるしかないわね。ふたりとも、よく聞いて。」


 先生が前を睨みつけたまま後ろのふたりに声をかける。


「ルナミカは、隙を見てこの場から逃げて。それまではなるべく樹の後ろで隠れていて。」

「あの、ぼくは…?」

「影南は、私と一緒に戦って。」

「え…?」

「心配しないで。あなたには、魔力の加護がついているもの。一緒に、大切な人を守るのよ。」

「…はいっ!」


 俄然やる気になって、先生の隣に行くと、後ろからルナが裾を掴んでくる。


「あぶない。あいつの炎、こわいよ?」


 その言葉で、脳裏にあの地下空間で見せつけられた龍の炎が思い出し、身震いがする。

 視線が落ちていると、隣から頭を撫でられる。


「大丈夫よ。もし、あの時みたいなことをあいつがするなら、私達はとっくに黒焦げだわ。」

「どういうことですか?」

「あいつは、いま、ここでは、あの時みたいに派手な魔法はしないだろうってことよ。」

「え、どうして…?」

「それは…。」

「俺は、この森の精霊たちに恩義がある。その俺がこの森を燃やす訳にはいかない。」


 いきなり、マゼンタが声を出した。


「……どういうこと?」

「今の俺は、この森の精霊を守ることが最大の使命だ。」

「どうしてそうなったのかは知らないけど、守るべき相手の住処を自分が燃やしてしまう訳にはいかない、ということね。」

「俺は本気を出さずとも、お前たちごときに遅れを取ることはない。」

「さすが。『原色モデル』は余裕が有り余っているのね。」

「あの、そのモデルってなんですか?」

「あらゆる色の元になる、原色を持つレルフのこと。超強いって思っていればいいわ。」

「…はい。」


 そんな説明を聞き、カナは察する。


「まさか、この《島》の人たちを攻撃したのって…。」

「さっきも言っただろう。今の俺は、精霊を守ることが最大の使命だ。精霊の存在を否定し、森の開発などというふざけたことを抜かす奴らに戒めを与えてやったのだ。」


 臨時ニュースの中継映像が思い出される。他の放火事件も、同じような動機だろう。


「話は終わりだ。あの世の土産ぐらいにはなっただろう。」

「そうね。いろいろとスッキリしたわ。……影南。盾を展開しておいて。イメージが切れたら消えちゃうから、集中して。」

「はい!」


 まだ裾を掴んでくるルナの頭を撫でて落ち着かせてから、右手の指環に意識を集中させ、あの時と同じように、半透明の板を出現させる。


「ほう、もう魔力の具現化ができるのか…しかもその色で。まだ変換器に頼っているみたいだが。」

「挑発に乗らないで。あと、最後に一つ言っておくわ。もし私に何かあったら、キークさんを頼りなさい。」

「え、それってどういう…。」

「なるようになるから。さて、いくわよ!」

「残念だったな。お前たちは俺に近づくことすらできない。」


 腕に巻き付くデバイスを操作しながら、マゼンタはそう言い放った。


「どういうことよ。」

「こういうことさ。」


 直後、この広場を囲う森の全方向から、小型の飛行機械ドローンがプロペラ音をかき鳴らしながら出現した。その数は、軽く十を超える。

 そして、その全ての機体の上には、機関銃らしきものが装備されていた。

 全ての銃口が中央のカナたちを狙い、そして距離を詰めてくる。

 狭くなっていく包囲網。マゼンタは冷酷に告げる。


「さあ、降伏しろ。さもないと撃つ。」

「先生……。」

「まずいわ。昨日と同じことは……回復しきっていない私の魔力だと、後々動けなくなってすぐに捕まりそうだし。」

「じゃ、じゃあ!」

「万事休す、ね。」


 動かない、もとい動けない三人に、冷酷な声はまた響く。


「早くしろ。五秒以内だ。五、四、三、二―――」

「やめろおおお!!!」


 いきなり聞こえてきた高い声に、その場の全員が静かになる。

 そしていきなり、カナたちを包囲していた飛行機械ドローンの一つのプロペラの回転が止まり、音を立てて地面に墜落した。


「なっ……?」


 原因不明の出来事に、腕のデバイスを必死に操作するマゼンタ。

 その時、カナたちの上から、つまり大樹の生い茂る葉の中から、檸檬色のベースに一筋の黒髪を流した、小さな精霊が降りてきた。


「ずっとなんだろうって思ってたの……ボクの周りに飛んでいる、この声は…。」

「通信障害だと…ッ!?」

「でも、ちゃんと聴こえる。意味がわかる。それを、変えることができる。」

「いったい何が…システムがシャットダウンされている…。」

「昨日、助けてくれた。だから今度は、ボクが助ける!!」

「まさか、あの精霊が…?」

「わああああああああああ!!」


 リノが叫ぶ。すると、周囲を囲んでいた飛行機械ドローンが、片っ端から墜落していく。


「なんなの…通信障害? システムの強制停止? ……まさか、この子って」

「電波の、精霊…?」


 包囲していた機関銃装備の飛行機械ドローンを全て撃墜し、次はマゼンタを睨みつけるリノ。


「落ちろおおおおおおおおおお!」


 四方に装備されたプロペラの回転数が落ちていき、バランスを崩すマゼンタ機。


「……電波を読み取って、操って、発信する力、なのね。」

「だから、目に見えなかったんだ。ちゃんと、力はあったんだね!」

「ラジオの、ノイズ。」

「ちッ!」


 カルチェ、カナ、ルナと、それぞれの感想を述べていく。

 そして、どうにか体勢を立て直そうとするマゼンタ。しかし墜落は時間の問題だろう。

 叫びきったリノは、気が抜けたようにふらふらと堕ちていく。それをルナが両手で受け止める。


「やっと、わかったんだよ……ボクの、力。」

「ああ、そうだね。助かったよ。ありがとう。」

「えへへ…。」


 カナの言葉にはにかみながら、リノはルナの手の中で意識を手放す。

 そしてとうとう、マゼンタ機が墜落し、マゼンタはしぶしぶ後ろへと飛び降りた。


「今よ! 逃げて!!」


 突き刺すようなカルチェの叫び声。それに弾かれたように、リノを抱えたルナは、敵とは反対方向に飛び出していく。


「あ、待ちやがれ!!」


 いち早く反応したクラルテが銃口をリノへ向ける。


「させない!」


 しかし、超高速で近づいてきたカルチェに拳銃が蹴飛ばされてしまう。

 カルチェは、その速度を保ったまま、またカナの隣へと戻ってきた。


「先生…すごい…。」

「武術はほぼ素人なの。当てにしないで頂戴。」


 そう言われても、先ほどの蹴りはなかなか決まっていたと思わずにはいられない。


「それに、あっちは炎よ。さすがにそんなものは蹴れないわ。」


 飛び降りてやっと体勢を立て直したマゼンタは、自身の周りに二つの火球を携えていた。それらはマゼンタの顔ほどの大きさがある。


「いい?はっきり言ってこちらに攻撃方法はないわ。絶望的な状況だけど、とにかく避け続けて、チャンスを待つの。」

「そんなチャンスが来るとでも?」


 マゼンタが威圧してくる。


「来るわ。私はそのチャンスをものにして、今まで生きてきたんだから。」

「ああ、そうだな。本当に悪運は強い女だよ。カルチェ・クーラルハイト。」

「ほんと、私も有名になったものね。」

「お前ほどの有名人も珍しい。」

「あっそ。」

「………時が時なら、仲間になれたかもしれないのにな。」

「それ、どういうことよ。」

「俺は知っている。お前、惚れた男に付いて行って、自分が所属する研究所を裏切っただろう。秘密の実験を暴こうとした、といったところか。おかげでお前らは研究所から追われ、下手に生き延びたお前は《島》流しの刑に処された。そして由緒正しきクーラルハイト家の血筋は断絶。」

「研究所? 実験? それに《島》流し…?」

「辺鄙で、人がいるかどうかですら分からない《島》に流されたのだ。おそらく、お前が育った《島》だろうな。」

「クラシキが、辺鄙な《島》…?」

「他の《島》の存在すら知らない場所など、辺鄙以外の何物でもない。秘境とも言える。」


 マゼンタが、カナの疑問に、面白半分で答える。そして、カルチェに向けて、言葉を続ける。


「だが、お前は幸運にも生き延びた。それに、昨日俺の砦に攻め込んだ時の髪と瞳の色から考えると……お前、まだあいつを諦めていないようだな。魔法であいつの色を無理やり再現しやがって。」

「だから、私とあなたについて、それがどう関係あるのよ。」

「慌てるな。いいか、俺もお前と同じく、研究所の極秘研究を暴くため、真正面から攻めていったことがある。お前が《島》流しに処された後にな。だからお前らと俺が計画実行を同時期に行っていれば、もしかしたら」

「ふざけないで!」


 声を荒げるカルチェ。その声には、今まで見せたことのない動揺を帯びていた。


「あなたは、最初からあの研究所のレルフじゃない。私は、研究所職員として、裏で行われていたあの実験を調べようとしただけ。どんなことがあれ、あなたと手を組むなんて考えられない。それより、あなたは研究所を襲って、その後どうなったのかしら?」

「それはどうでもいいことだ。俺にとっては、あの頃の俺の行いですらどうでもいい。」

「もしかして研究所の戦力にボロ負けして逃げまわったのかしら? この《島》もかなり辺鄙な場所みたいだし。」

「お喋りが過ぎたな。そろそろ黙ってもらおうか。」


 マゼンタの周囲を浮遊していた火球が、それぞれ剣と盾の形をなして、その両手に握られる。

 緊張感が、草原を支配する。


「クラルテ、お前は下がっていろ。」

「え、でもっ…。」

「いいから。下がっていろ。」


 クラルテをその場に残し、単身でカナとカルチェとの距離を縮める。


「お前らごとき、俺一人で充分だ!」

「……なんでそういうこと言うんですか。」


 その小さな呟きは、マゼンタには聞こえない。


「おれは、あなたの役に立ちたいんだ。そして、一緒にいたかった…。」

「二対一だろうが関係ない。同時にかかってこい。」

「隣にいるのが足手まといだというのなら、それでもいい。それでもおれは…。」


 突如、黒いローブをその場に残してクラルテは姿を消した。

 そのローブが地面に落ちるより速く、クラルテはカルチェの真後ろに現れた。

 そして、絶対的な決意を込めて、その腕をカルチェに固く絡ませる。

 その瞳には、涙。


「おれは、マゼンタ様のお役に立ちたいんだああ!!」


 足元に展開される透明な円形の紋章。


「しまっ…油断―――」


 その言葉が言い終わる前に、透明な光によってカルチェとクラルテは包まれ、そして消え去った。



     §     §     ★     §     §



 ルナは、どこに向かうでもなく、走り続けた。先生が叫んだその時から、ずっと。

 広場を出て森に入るとき、木の裏に精霊たちが集まっていたのをみた。おそらく、あの赤い煙に釣られたのだろう。精霊たちは戦いを遠くから傍観していた。

 ルナは、その精霊たちを一瞥することもなかったが、精霊たちはルナを、そして抱えられたリノを、凝視していた。

 しかし、動いているものとすれ違ったのはそれが最後で、その後は木々の間をずっと駆け抜けているだけだった。


「……はぁ……はっ…。」


 さすがに息が上がり、後ろを気にしながら足を止めるルナ。追手の気配はない。その安心感からか、思わずしゃがみこんでしまう。

 だがすぐに、さらに遠くへ逃げるため、ゆっくりと立ち上がった。

 しかし、前に向き直ったルナの瞳は、少し見開かれることになる。


「きれい…。」


 そこにあったのは、赤・青・緑、そして枯草色の、幻想的な泡たちだった。

 顔ほどの大きさのある、シャボン玉のようなそれは、ルナの身長より少し高いところにふよふよと浮かんでいる。

 そして、驚くことに、その泡は等間隔で並んでいて、まるで道筋を示しているかのようだった。


「…………よし。」


 ルナは、しばらく考えた後、その泡の列にそって走り始めた。



     §     §     ★     §     §



「――――してしまった、わ。」


 透明な光の中、言いかけていた言葉とともに、カルチェとクラルテは姿を現した。


「…ここは?」

「あんたたちの、《島》だよ…。」


 この場所は、かつてあの夏祭りが行われていた場所。今ではすっかり片付けまで終わり、ただの公園に戻っている。

 時刻は深夜なのだろうか。真っ暗な空の下、人の気配は一切ない。


「そう。私だけ、帰してくれたのね。」

「勘違い、すんな……マゼンタ様の、労力を、少しでも減らすため……だ。」

「瞬間的な短距離《転位アルージュ》の直後に長距離の《転位アルージュ》……あなた、かなり魔力を消耗したはずでしょう。」

「うるせえ……で、ついでにあんたを始末すりゃあ…。」


 クラルテが背中のホルスターにしまってある拳銃を抜こうとした瞬間、カルチェはその超速度をためらいなく発動した。

 そして、一瞬でクラルテの後ろにまわり、その背中を蹴飛ばした後、片腕を後ろ手に固め、地面に押さえつけた。


「私に盾突こうってのは千年早いわ。……魔力が回復したら、すぐに私を元の場所に戻しなさい。」

「けっ……やっぱ、勝てねえか……だがっ!」


 固められていない方の腕を勢い良く地面に打ち付ける。すると、またあの透明な光が溢れてきた。

 反射的に、クラルテから離れてしまうカルチェ。


「ふふっ……くるなくるなくるな巻き込むぞおらああ!!」


 そう叫ぶクラルテの下に展開される紋章は、かなり歪んだ形をしている。


「待って! そんな不安定な光だったら一体どこに飛ぶか…。」

「それが狙いだあ! 近づいたらどこに飛ぶかわかんねえからなあ!!」


 誰もいない公園で、クラルテの叫びだけが響き渡る。


「ああぁあああぁああああああぁぁ―――――――


 そして、その叫びは光の中へと吸い込まれて消え去った。

 残されたのは、不安そうに空を仰ぐ女性がひとり。

 深夜の公園は、ふたたび静寂に包まれていく。


 ぽつり、雨が降ってきた。

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