第2章

 身体に巻き付いた輝きが晴れた。だが、その視界はしばらく戻ることはなかった。

 どれ程たっただろうか、色を認識できるようにはなってきた。


「ぅ………って、え!?」


 もたれていた樹の根から飛び起き、辺りを見渡す。

 そこは、深緑の葉が揺らめき、木洩れ日が囁く森の中。

 木々の層は深く高い。そして四方には奥深くまで森林が続いている。

 どこまでも深みを感じるこの場所は、それでも点々と射し込む光の筋によって、やわらかさを有していた。


「え、なに、ここ………森? なんでこんなところに……って、うっ!?」


 少し強い風が吹き、分けられた葉の隙間から、日の光が直接差し込んできた。


「まぶしっ………って………昼?」


 そこで違和感に気づく。先程までいたのは、夜に開催される夏祭りだ。


「寝てた、のか? いや、そんな感覚はないし、もし寝てたらルナが起こして………。」


 そこで、より大きな違和感に気づく。隣にいたはずの、隣にいて欲しい人が、いない。


「……っ!」


 気づいた瞬間には駆け出していた。

 方向もわからないまま、ただただ必死に名前を叫んで走った。

 走って、走って、息が切れながらも走って、一瞬足元に隙が生まれて、木の根につまずいた。

 その勢いで、背の低い木の葉を掻き分ける。すると急に開けた場所に出た。


「つぅ………ぇ?」


 その場所は、円形の広場のような草原で、直径百メートル程の外縁は木々に囲まれている。

 そしてその草原の中央には、見上げるほど高い一本の樹が、まっすぐ天に向かって延びている。

 それらを包み込むやわらかな日差しも相まって、その空間は幻想的なものにみえた。


「わぁ………。」


 その風景から感じ取れる非現実性に、酔いそうになる。

 だが、中央にそびえ立つ樹の影に、金髪の人影が横たわっているのを見た途端、視線を引き戻し、そのそばまで駆けつけた。


「ルナ、ルナ! 大丈夫!?」


 隣に膝を付き、肩を揺さぶりながら声をかける。

 しばらくして、


「…………ん。」

「ルナっ!」


 ゆっくりと、その小さな身体は起き上がった。


「あ……カナ、おはよう。」

「あぁ…よかったあぁ……。」


 カナは、糸が切れたように仰向けに倒れ、大きく息を吐いた。


「カナ、だいじょうぶ?」

「ぼくは大丈夫だよ……ルナは? 怪我とかない?」

「うん。ない。」

「そっか。うん、本当によかった…。」


 身体を起こし、ルナをみる。ルナはこちらをしばらく見つめたあと、辺りをきょろきょろ見始めた。


「ここ、どこ?」

「それが、わからないんだ。ルナは、何か覚えていない?」


 静かに首を横に振るルナ。そのふたりの間にやわらかい風が吹き抜ける。季節は夏だったはずなのに、この場に降り注ぐ天の視線は穏やかだ。


「どうする?」

「え?」

「これから。」

「あ…ああ、そうだね。」


 ルナを捜すことで精一杯だったので、これからのことなんか何も考えていなかった。


「これ、使う?」

「え? ああ、それ!」


 ルナが背負っていた鞄から取り出したのは、射的屋のコルク銃で撃ち落とした小型ラジオ。

 もしラジオの電波が届いていれば、何か情報が得られるかもしれない。

 そのラジオは非常時にも使えるように、手回し発電式だった。カナがしばらくハンドルを回し、電源を、入れた。


「なにも聞こえない。」

「うん……そうだね……。」

「ざーざーいってる。」

「ノイズだね。やっぱりこんな森の中には電波が届いていないのか……。」


 落胆しつつも、伸ばしたアンテナを色々な方向に向けてみる。


「あれ?」

「どうしたの?」

「こっちの方だけ、ざーざーがつよい。気がする。」

「え?」


 そう言われ、ノイズ音を集中して聞きながら、アンテナを弄る。


「………ほんとだ、全然違うね。何で気がつかなかったんだろう…。」


 そう言いながら、アンテナを一番ノイズが強い方向に向ける。


「あっち、かな。」


 その方向は、カナが、この開けた草原に入った方向とは真逆で、中央の樹の向こう側だった。


「ノイズが強いってことは、何か電波的なものがあるってことだよね。」

「じゃあ、だれかいるかも。」

「そうだね。行ってみよっか。」


 そう判断したふたりは、アンテナが示す方向へ歩き出した。

 草原から出ても、鬱蒼と生い茂っている訳でもないこの森の中は、比較的歩きやすかった。

 気温も快適で、幾筋もの光が射し込んで薄暗くもないこの場所は、心地よいものだった。

 しばらく進むと、ノイズの音に波が現れるようになった。波といっても規則的なものではなく、不定期に少し強くなるその音は、まるで、


「啜り泣き……?」


 そう思った矢先、ふたりの背後で草が踏まれる音がした。

 そして、その場所から何かが飛び出した。

 先に気づいたのは、カナだった。


「あぶないっ!」

「え?」


 緑の森の中で目立つ金髪へと向かって来たそれは、体長二メートルはある、狼の姿に似た獣だった。

 上体を高くし、掲げた爪を降り下ろす瞬間、カナはルナに抱きつき、獣とルナの間に割って入る。


「がぁ…っ!?」


 結果、ルナを庇うことはできた。だが、その爪痕を背中に直接刻まれた。


「ぅ……ぁたあ!!」


 呻き声を上げながら、闇雲に背後に向かって蹴りを飛ばす。確かな手応えと、犬のような甲高い鳴き声を上がったのを聞いて、やり返すことはできたと判断する。

 だが、そう感じた直後、背中からの激痛が意識を喰い破り、カナはルナに覆い被さるようにして、倒れ込んだ。

 その視界には、珍しく驚きの表情を浮かべるルナの顔が写し出されている。

 そして、蹴飛ばされた大狼がどういう状態にあるのかを見ることもなく、視界もまた、激痛に喰い荒らされて闇に染められていった。



     §     §     ★     §     §



「――――ただいま戻りました。」

「ああ、クラルテか。首尾はどうだ?」


 たった一つのモニターだけが光る、窓のない薄暗い部屋の中、クラルテと呼ばれた黒ローブの人物が、モニターの前に座る人影に声をかけた。


「それが、その……。」

「はっきりしろ。」

「は、はい! ………しくじり、ました。」


 黒ローブを未だ羽織るクラルテは、その視線を少し下げながら、報告する。


「そうか。」

「申し訳ありません。おれのミスで、こんな」

「仕方がないことだ。相手は例えカケラであろうがあの色を持っている、はずだからな。近くの《島》だったから行かせてみたが、やはり無理だったか。あれがあれば何かと便利なのだろうが。」


 残念そうに呟く人影に、フードの下の悔しそうな表情を濃くする。

 それに気づいたからなのか、モニター前の人影は、その口調を軽くした。


「まあ、気にするな。報告は以上か?」

「いえ、実はもうひとつ……。」

「ん? なんだ。」


 黒ローブは、さらに視線を下げて、弱々しい声で伝えた。


「その、ターゲットを、この《島》に連れてきてしまいました………。」


 それを聞いた人影は、一瞬、驚きの表情を作り、すぐその顔に笑みが浮かばせる。

 その笑みは薄いものだったが、確かに少年のような好奇心から生まれたものだった。


「そうか……面白い。見つけ次第報告しろ。おそらく、向こうからやって来るだろうが。」

「了解しました。」

「だが、しばらくは無理をするな。休んでいてもいい。お前の力は、疲れたままだと暴走してしまうかもしれないからな。」

「了解、です…。」

「さがっていいぞ。」

「はい。」


 クラルテは、一度礼をしたあと、消えるように部屋を出ていった。


「夜色、か。面白い。」


 静かになった部屋に吐き出された小さな呟きは、降りだしてきた雨の音にかき消された。



     §     §     ★     §     §



 最初に感じたのは、屋根を叩く雨の音。そして、次はぼんやりと光を感じる。

 眠りから目が覚めたとき、カナが最初に目にしたのは、白い枕と木製ベッドの枠だった。


「リノちゃん、そこのビンをとって。」

「これでいい?」

「ああ、ありがとう。」


 未だ朦朧とする視界の中、聞き慣れない二つの声がした。一つは、落ち着いた大人の男性の声。もうひとつは、少し高めな、女の子の声だった。


「どこ……ここ…………?」


 ふと、右手が誰かに握られていることに気づいた。それもかなり強く握ってくる。


「おきた。」

「え、もう起きたの!?」

「うん。」

「おお、そうか。よかったよかった。」


 聴覚から視覚、そして触覚が戻ってきて、やっと身体が起こせるまでになった。

 うつ伏せの身体の上体を左手で支えて、顔を上げる。そして、左右に視線を振り、周囲の様子を確認する。


 ここは、木で作られた狭い小屋のようだ。外へ出る扉が、部屋の一番奥にあるこのベッドの上からでも確認できる。

 そして、その小屋にいるのはカナと、やはり手を握っていた相手だったルナ。

 このふたりのほかに、もう二人がそこにいた。

 一人は、先ほどの落ち着いた声の主で、水色の髪を後ろで束ねて、整った顔立ちを引き立たせている、眼鏡を掛けた大人の男性。

 もうひとりは、手のひらに乗りそうなほど小さな身長で、背中から生えている透き通った羽で浮遊している。髪の色は、檸檬のような明るい黄色に、黒い髪が一筋右目に向かって流れている。その先の瞳は黒色で、もう片方は檸檬色というオッドアイだった。


「おはよう。気分はどうかな?」


 水色の髪の男性が話しかけてきた。気分を尋ねられ、大狼にやられた背中が少し疼く。


「背中が疼く程度ですが……。」

「そっか。うん、なかなか早い治りだね。」

「あの、あなたは?」

「ああ、そうだったね、ごめんごめん。僕はサックス。通り名だけど、君もそう呼んでくれて構わない。えっと……なんて言えばいいかな…。」

「やられたカナを助けてくれた、いいひと。」


 ルナが端的に解説してくれた。

 端的すぎる気もしたが、疑う余地もなさそうなので、信じてみる。


「なるほど……それは、ありがとうございました。」

「いやいや、僕は呼ばれたから君を助けられたんだよ。」

「呼ばれた…?」

「この子にね。」


 そう言って、サックスは隣にいた浮遊する生き物を示した。

 その生き物は、こちらを向いて照れくさそうにはにかんでいる。

 その姿をみて、カナが最初に思ったのは、


「…妖精?」

「違うーっ! ボクは精霊だよ!!」

「え、ご、ごめん…。」

「もーっ。」


 頬をふくらませて不満を露わにする、妖精、ではなくて精霊。

 どちらにしろ、もちろん本でしか見たことがないような存在で、それもファンタジーの世界の住人のはずなのだが、目の前に存在しているのは確からしい。怒った拍子に抱えていた小瓶の中身をこぼしそうになり、慌てている。

 より大げさに驚いてもおかしくはないのだが、寝起きでまだ意識がうすぼんやりしていて、かつ隣にいるルナがまったく気にしていない様子なので、カナも派手に驚くことはしなかった。


「この子は、リノ。木のうらにいてね、いろいろしてくれた。」

「いろいろ?」


 ルナの端的すぎる解説に、すこし疑問を投げかける。


「森のなかから薬草を持ってきたり、僕を呼んできたりしたんだ。おかげで、初期治療がうまくいって、怪我の治りが早くできたんだ。」

「ああ、なるほど。」

「えっへん!」


 誇らしげに胸を張る小さな精霊、リノ。


「うん、ありがとう。リノ。」

「あ、う、うん、どう、いたしまし、て。」


 いきなり照れ出した。表情がコロコロ変わっていく。

 ここで、カナは自分が自己紹介をしていないことに気がついた。


「そういえば、ぼくの自己紹介がまだでしたね。」

「ルナミカさんから聞いたよ。カナさん、だよね?」

「あ、はい。」

「気づいたら森の中にいて、歩き回っていたらヴォルガに襲われた、って感じだよね。」

「ヴォルガ…?」

「灰色の毛並みの、大きな獣のことだよ。」

「ああ、あの大きな狼のことですか。」

「オオカミ…?」

「あ、いえ。きっと別のものなんでしょうね。あんな大きいものは見たことがないですし。」


 カナは、そう短絡的に理解した。そして、一つ気がついた。


「そ、そういえば、ぼくらを襲ったそいつは…?」

「にげていった。」

「そうなんだ…。当たりどころが悪かったのかな……?」


 ルナの言葉を鵜呑みにするカナ。


「で、だな……カナさん。一つ、謝りたいのだが、いいか?」


 言いにくそうに、サックスが口を開く。助けてもらったのに謝りたいとはどういうことなのかと、カナは少し不安に思った。


「…はい。なんですか?」

「あの……すまないが、服を着替えさせるために……その、脱がせてしまったのは……許してほしい。きちんとと包帯を巻くため、だから。大丈夫、そんなにまじまじとは見ていないから、ね?」


 しばらく、サックスが何を言いたいのかわからなかった。

 だが、自分のではないシャツを着て、その下には腹から脇の下まで、背中の傷を覆うための包帯が、素肌に直接巻かれていることに気がつくと、サックスが言おうとしていること、謝ろうとしていることを悟った。

 それが、大きな誤解だということにも。


「……ぼくは、男の子ですから。大丈夫です。」

「え……そう、なのか?」

「そうだよね、ルナ?」


 静かに頷くルナ。ぼくが男だってことは言っていなかったらしい。大事なことなのに。

 サックスはその後信じられないというように頭を抱えて何かを考えていたが、カナもまた、


(ぼくはこの一ミリも膨らんでいない胸板を見られても女の子にみえるのか……いや、ちゃんと見ていないっていっていたよね? うん、そういうことだ。うん。ちゃんと見ていなかったから間違えただけだ。うん。)


 そう、自分に言い聞かせていた。


「男の子、だったんだね。」


 気まずい沈黙が流れる中、リノが口を開いた。


「うん。よく間違えられるけどね…。」

「そっかぁ。あ、ボクは女の子だからね?」

「ああ、それはわかるよ。大丈夫。」

「ほんと? よかったぁ!」


 少し場が和んだのを見計らって、サックスが口を開いた。


「じゃ、じゃあ、怪我が治ってきたのなら、森の出口まで案内しよう! 丁度雨も上がったところだし。うん、そうしよう!」


 誤解の恥ずかしさを隠すように、声を上げて提案してきた。提案だけでは終わらず、机の上に置いてあったカナの鞄を手渡し、「歩けるかい?」と聞いてくる。

 その勢いに流されるまま、荷物を手に取り小屋を出る。足取りは結構しっかりしている。

 リノも、森の出口に用事があるとのことなので、付いてきた。

 狼、のようなヴォルガに襲われる前に歩きまわった光が差し込む森。雨上がりで少し湿っている道中、カナは、本当に最初から気になっていたことをサックスに尋ねた。


「あの、サックスさん。」

「な、なんだい?」

「ここは、どこなんですか?」

「ああ………厳密な場所は教えられないんだ。ごめんね。」


 なにか、違和感がある会話だったが、カナは特に追求することはなかった。森を出れば何か分かるだろうと考えと、未だに気まずそうなサックスを困らせたくないという思いがあったからだ。


 ふと、しばらく黙っていたルナが、集団から少し離れた場所に駆けていき、しゃがみこんだ。


「ルナ?」

「ルナって呼び方、いいよね。」

「ああ。でも、ぼく以外がそう呼ぶとすっごく怒るから、使わないほうがいいよ。」

「…ふぅん。」


 隣を浮遊するリノとそんな会話をしていると、ルナが戻ってきた。


「リノ、これ。ありがとうのきもち。」

「え?」

「カナを助けてくれて、あの場所にいてくれて、ありがとう。」


 そう言ってルナは、リノの頭に鮮やかな青い花をつけた。

 それはちいさな花だったが、リノの頭にはちょうどいい大きさの髪飾りになった。


「あ……えっと……あ、ありがとう! 大切にするね!」


 こんな、和やかな雰囲気に包まれながら、穏やかな木洩れ日の下、カナたちは歩き続けた。

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