第四章 二人の皇子 2

 厳しい冬の到来を予告するかのような、肌寒い風が吹き荒れている。ジシュカ率いる三万の政府軍は、リノーサという街に駐屯した。オリーヴがよく実るセヴェンヌ県の県都で、エトルシア本国のもっとも東に位置する街の一つでもある。ここから先は、ネフスキーが勢力を拡大している東方諸州の地となる。

 うやうやしく出迎えたリノーサ太守にジシュカが突きつけたのは、彼に対する告発状だった。太守が不正に民から搾取して私腹を肥やしていたことを、ジシュカはあらかじめ入念に調べ上げていたのだ。ぐうの音も出ない太守を拘禁して、彼は民の歓呼の声を聞きながら悠々とリノーサに乗り込んだ。

 リノーサにはエトルシア全土でも類を見ないほど立派な大聖堂がある。ジシュカはこれを接収して臨時の作戦本部とした。

「皆、抜かりなく頼むぞ。兄上の二の舞にならぬよう、必勝の策を練る」

 集会所に諸将を集めて、ジシュカは険しい顔つきで言った。

 ジシュカの秘書を務めている女騎士のユスティーナが、ステファン軍がネフスキー軍と激突し、敗北した経緯を諸将に説明した。

 ……ネフスキーとの一大会戦に臨むにあたって、ステファンは参謀たちと綿密に戦略を練った。彼らがまず企てたのは、ネフスキーの陣営に自分の部下を紛れ込ませることだった。

 ステファンの部下の中に、イヴァイロという男がいた。貧しい豚飼いの青年だったが、ステファンの配下に加わって戦功を挙げ、瞬く間に幹部クラスにまで出世した男である。エトルシア第一皇子への忠誠厚い彼は、主君から計略を明かされると、危険な作戦の実行役をぜひ自分が引き受けたいと申し出た。

 彼は、ただ一人ステファンの陣営を脱出すると、ネフスキーのもとへ駆け込んだ。『東方の王』となったネフスキーに、彼は次のように話した。

「俺は政府軍に加わって功績を立て、それなりに地位も得たが、貧しく無学な俺のことを貴族や官僚たちはバカにしている。どんなに頑張っても、将軍になれるのは結局家柄のよいお坊ちゃんだけだ。もうやってられない。ネフスキー将軍、あんたは身分や立場に関わらず才能のある人間を取り立ててくれると聞いた。ぜひ俺をあんたの下で使ってくれ」

 これを聞いて、ネフスキーは言った。

「ほう、吾輩に使ってほしいのか」

「ああ、俺の才を役立ててくれ」

「よかろう、お前を吾輩の役に立ててやろう。くだらぬ小細工をする小策士がどんな末路を辿るのかという、よい見本としてな!」

 そう言うと、ネフスキーはイヴァイロの首を一気に刎ねた。いかなる理由によるものか、彼はイヴァイロの寝返りは偽装にすぎないと知っていたのである。

 有能な部下を無為に死なせてしまったステファンは、やむなく決戦によってネフスキーを下そうと考えた。

 彼が布陣したのは、薔薇の咲き乱れるユアーク高原である。よく晴れた日で、遥か遠方に陣を構えた敵軍の姿もよく観察することができた。

「奴ら、妙だな……」

 敵兵は厚手の毛皮服を身に着けていた。まだ十月だというのに、まるで真冬のような服装だ。

「田舎者どもは、今がどの季節であるかも知らないらしいぞ」

 政府軍の兵士たちは笑いながら布陣を終え、ステファンの号令の下、一気に敵に襲いかかった。

 一時いっときは優勢に戦いを進めたステファンであった。だが、あともう少しで敵の正面を突き崩せるというところで、ステファンは妙なことに気が付いた。

「日が、陰っている――?」

 ぶつかり合う敵味方の兵士たちの上に、どす黒い影が投げかけられている。つい先ほどまでは、雲一つない快晴であったのに、これはどうしたことか。

 次の瞬間、吹き荒れる寒波がステファン軍を襲った。突然の出来事であった。予想外の事態に、政府軍は戸惑い、動揺した。

 寒さで動きが鈍った政府軍に、ネフスキー軍は容赦のない反撃を加えた。毛皮服で身を固めた彼らにとっては、寒波は恐れるべきものではなかった。

 たちまち政府軍は潰走に追いやられた。

「ばかな……こんなことが!」

 歯ぎしりするステファンであった。彼も準備に余念があったわけではない。地元の人間を徴用して、この辺りの地形や気候については教えてもらっていた。だが、地元の人間ですら、この寒波は予期していなかったのである。いや、ごくごく稀に神々がこのような気まぐれを起こすことは、知られていなかったわけではない。しかし、事前に予期することは誰にも不可能だったのである。どうしてネフスキーは、知っていたのか。

 兵の二割を失って、それでもステファンは軍を立て直した。一度の敗北は、一度の勝利によって償えばよい。再戦の機会を待った。

 慎重に戦場を選び、今度はカグマール盆地でネフスキー軍と対峙する。ステファンの手並みは悪くなかった。敵を欺く速さで行軍し、風上に陣を敷いたのである。

 ステファンが採用したのは、十面埋伏の計である。山あいの複雑な地形の各所に伏兵を配置して敵を攪乱するとともに、風上から火矢を放ち、反徒どもを一気に殲滅する。悪くない策に思えた。

 だが、この策がネフスキーに露見した。どういうわけか、伏兵の位置が完全にばれていたのだ。

 位置のばれた伏兵など、ただの各個撃破の的である。次々と打ち破られ、ステファンの本体は敵中で孤立した。

「どうして……どうしてこんなことが……ありえん!」

 ステファンは唸った。何が起きているのか、まるでわけが分からなかった。

「殿下、ここは拙者めに任せて、お逃げください!」

 ステファンにも、忠実な部下がいる。ゴットフリートという名の重臣が、しんがりを買って出た。筋骨隆々のいかつい外見に反してやたらと涙もろいことから『洪水伯』の異名を持つ男だが、このときばかりは一滴の涙も見せなかった。

「殿下のために死ねるのです。こんなに嬉しい日はありませんぞ」

 晴れ晴れとした顔で言ってのけるゴットフリートに感謝して、ステファンはわずかな精鋭とともに敵中の突破を図った。深手を負い、兵たちの多くを失いながらも、どうにか彼は戦場を離脱したのである……。



 ユスティーナが語り終えると、将軍たちは静かにため息をついた。

「ステファン殿下のお立てになった作戦は、決してまずいものではなかったようだ」

「だが、それでも負けた。完敗だった」

「……分からん。ネフスキーは、いったいどうやってステファン殿下の軍を破ったのだ?」

 諸将は首を捻るばかりである。

「ネフスキーの軍略の才は」ヴェルフェン伯ルーヴェという人物が、ジシュカに尋ねた。「それほどとてつもないものだった、ということでしょうか」

 伯爵といっても、ルーヴェは若い。まだ少年である。父である『洪水伯』ゴットフリートが壮絶な戦死を遂げたので、後を継いだばかりなのである。

 ジシュカは首を振った。

「それもあるが、もう一つの要因を考慮に入れるべきだろうな」

「もう一つの……?」

「デスピナが使っていたという、不思議な力のことだ。おそらく、敵の将帥であるネフスキーも持っていると思っておいた方がいいだろう」

 サイノス河でジシュカを罠にかけた、あの恐るべき白銀の騎士。ジシュカは、彼が何か得体の知れない力を持っていると考えた。ジシュカはその考えをいったんは撤回したが、死んだデスピナも不思議な力を持っていたという噂を聞いて、考えを再び改めた。一度の偶然はただの偶然だが、二度続けて起こったとなれば、それは必然である。あらゆる敵が不思議な力とやらを持っている可能性を考慮して動いた方がいい。

「そのような相手に、我々は勝てるのでしょうか」

「大丈夫だ、ネフスキーがどんな力を持っていたとしても、私は負けぬよ」

 不安がるルーヴェを安心させるように、ジシュカは笑い飛ばした。

 あながち虚勢でもなかった。あの白銀の騎士は、単に不思議な力を持っていただけではない。不思議な力によって得られた知識を最大限に活用できるような、極めて優れた策を練るだけの謀略の才があった。彼と比べると、ネフスキーからはさほどの凄みは感じない。

「とはいえ、むろん、ネフスキーが恐るべき強敵であることは間違いない。警戒は十分に必要だ」

 一枚の羊皮紙を、ジシュカは取り出した。

「例えばこの檄文だ」

 ネフスキー陣営が大量に筆写してばらまいているものだ。皇帝と帝国政府がいかに民を苦しめているかを容赦なく、徹底的に糾弾する内容である。

 ネフスキーの下で参謀を務めているベータルという男が書いたという。もともとは辺境のある州で、下級役人を務めていた人物らしい。

 この檄文を読んで、ジシュカは激怒した。ただし怒りの矛先が向けられたのは、ベータルやネフスキーではなかった。

「檄文が、どうかしたのですか」

「主張は明解で分かりやすく、文章は平易でありながら格調が高く技巧を凝らしている。庶民の心によく響く言葉で、読み手をぐいぐいと惹きつける……これは間違いなく天下の名文だ。このような優れた才の持ち主を、なぜ辺境の下級役人などに留めておいたのか。輝かしい才能の原石に、誰も目をかけなかったのか。彼が自らの不遇ぶりに絶望し、反徒どもに身を投じたのも当然ではないか」

 ネフスキー台頭の種は、結局のところ、帝国が自ら蒔いたのだ。ジシュカはそう思う。公平な人事が行われていたら、こんなことにはならなかった。東方諸州では、支配層であるエトルシア人が、現地の民からずいぶんと手ひどく搾取をしていたと聞く。だがそれは、自らの手足を食べるがごとき行為であったと言わざるを得ない。

「東方諸州の民の心は、我ら帝国軍ではなく、ネフスキーになびいている。十分に留意せねば」

 恐れるべきは、ネフスキーの軍略の才でも、彼の持つ軍事力でもない。彼の背後にいる諸州の民の帝国への反感をこそ、最も警戒しなくてはならないのだ。

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