第一章 双子の姉 3

「やはりジシュカ兄上の罠だったか。危ないところだった」

 同時刻。胸を撫で下ろしているのは、伏兵のかすかな気配を察知して、兄の策略のすべてを悟ったエッツェルである。ほとんど手掛かりもなしに、どうやら兄は真理に近づきつつある。その空恐ろしさに背筋が凍りつくのを自覚した。

 エッツェルが身を隠しているのは、何と当の輜重部隊の中である。粗末な鎧を着こんで、物資を輸送する帝国兵士たちの中に紛れ込んでいるのだ。

 かすかな月明り以外に照らすもののない、闇夜である。一般兵士用の、すっぽりと頭全体を覆う兜もつけている。よほどのことがない限りは、彼がエトルシアの皇子であるなどと気付く者はいない。

 ……ジシュカに仕えるエリアーシュという中年の騎士がオーミル城を訪れたのは、三日前のことである。いつもニコニコと笑みを浮かべている、やけに愛想のいい男であった。

 用件は、先日亡くなったデスピナの葬儀についての相談であった。エトルシア第一皇女にして、『蒼炎の皇女将軍インペラトル・レギア・フラメア』の呼び名で知られる猛将であったデスピナである。当然、大規模な国葬を行わなければならない。ジシュカは兄として妹の葬儀の実務を執り行うつもりだが、今は反乱勢力に首都の一部を制圧されているという非常事態である。葬儀はいったん延期し、反徒どもを撃滅した後に、盛大に執り行いたい、という具申であった。

 エッツェルの兄であり、オーミル城のあるじであるフィリップは、これを了解した。彼自身、先の革命軍との戦いでは、部下であった『突進伯』ジョフロワの裏切りによって、手痛い敗北を被った。

「俺としたことが、情けない限りだ。反徒どもに一矢報いない限りは、亡き姉上に合わせる顔がない」

 そう語るフィリップに「なるほどなるほど」とにこやかに頷いて、エリアーシュは次にエッツェルに意見を求めてきた。

「私は今は――」

「あー、はいはいはい。なるほどなるほど。自分は一介の従卒にすぎない、とおっしゃりたいのですね」エリアーシュは穏やかな笑みを浮かべたまま、大仰な手振りでエッツェルを促した。「なるほど。ですが私は、デスピナ様の弟であるあなたにお尋ねしているのですよ。さあ、遠慮なくご自分の意見をおっしゃってください」

「なるほど」エッツェルは答えながら、使者の口癖をつい真似てしまった自分に気付いて咳払いをする。「ではお答えする。私も、フィリップ兄上と同じ意見だ」

「なるほど」何が面白いのか、エリアーシュはニコニコ顔のまま大仰に頷く。「姉君を亡くされておつらいでしょう。お気持ち、お察しします」

 エリアーシュの手が、エッツェルの肩をぽんぽんと叩く。そのまま、エッツェルの手を強く握り締める。地位も面目も失い、卑屈になっているエッツェルを励まそうとしているかのようだった。手が触れた瞬間、エリアーシュの心の一部が『心眼の加護』を通じてエッツェルの中に流れ込んでくる。決して悪意のある男ではなく、姉を失ったエッツェルたちのことを単純に気遣っているようだった。

「使者どの。私に、何かお手伝いできることはないものだろうか。ジシュカ兄上のお力になりたいのだ」

 とっさにエッツェルはそう口に出していた。エリアーシュの心が読める今のうちに、情報を引き出しておくべきであろう。

「なるほど。殊勝な心掛けですな。そうですね……」

≪十三日の輜重部隊の件……おっと、これはお知らせしなくていいという話だったな≫

 エリアーシュの心の中に、そんな呟きが浮かんだ。

「あ、いえ、今は特にありません。フィリップ様をお支えしてオーミル区を反徒どもから防衛することが、エッツェル様の今なすべきことではありませんか?」

「なるほど」また使者の口癖がうつった。「そのとおりだな」

 どうやらジシュカ兄上は、どこかに物資を運び込もうとしているらしい。エッツェルは、推測する。自由革命軍の次の標的は、北のオーミル区か東のディヴァ区のいずれかになる。オーミル区なら、司令官であるフィリップには当然知らせが来るだろう。となると、目的地はディヴァ区しかありえない。ディヴァ城のリヴィアのもとへ、彼は輜重部隊を送り込もうとしているのだ。

「オーミル区もそうだが、ディヴァ区の守りはどうなのだ?」

 エッツェルは尋ねた。当たりだった。とっさにエリアーシュは、ディヴァ城へと向かう輜重部隊の侵攻ルートを頭に思い浮かべた。

「なるほど、ディヴァ区ですか。司令官のリヴィア様は、エッツェル様の双子の姉君でいらっしゃいますな。私が聞いた話だと……」

 そこまで言って、エリアーシュは手を離した。有益な情報が得られたのは、そこまでだった。エリアーシュが帰った後、エッツェルは輜重部隊のことをすぐに革命軍のルクスのもとに知らせようとした。襲撃して物資を奪えば、今後の展開を有利に進められると考えたのである。

 だが、直前で考えを改めた。いくら秘密主義といっても、なぜジシュカは輜重部隊のことをフィリップやエッツェルに知らせなかったのか。敵に知られればまずいのは確かだが、極秘にするようなことでもない。

 また、エリアーシュの頭の中にあった輜重部隊の通行ルートもやや不自然であった。自由革命軍の勇士たちは帝都の至るところに潜伏しており、政府軍にとって絶対に安全なルートなどは存在しない。だが、そうは言っても、このルートでは革命軍に占拠されたカタラス区の近くを通過することになる。襲撃してくれと言っているようなものではないか。

 そうなると、エリアーシュの過剰なスキンシップすら、不審に思えてくる。ジシュカ兄上がこの男を使者に選んだのはなぜか。まさかとは思うが、エッツェルの『心眼の加護』を知っているのではないか。エリアーシュの心を、エッツェルにわざと読ませようとしたのではないか。

 これは罠なのでは、とエッツェルは直感し、革命軍の動員を見合わせた。どうやらそれは正解だったようである。

「ジシュカ兄上は俺を疑い始めている」

 兵士に化けて荷台を押しながら、エッツェルは戦慄を禁じ得ない。何という智謀であろう。エッツェルの次兄は、ほとんど手掛かりのない状態から、真実に辿り着きつつある。

「まったく、やっかいだな。兄上のことばかりかまっているわけにはいかないというに」

 エッツェルの目的は、六人の兄姉たちの中から、最愛の婚約者であったクレアを殺した犯人を捜し出し、復讐を遂げることにある。ジシュカは、すでに犯人ではないことが分かっている。敵に回す必要はない相手なのだ。

 当初、彼が最も怪しいと睨んでいたのは、長姉デスピナだった。戦を好む彼女は、政府軍と革命軍の和平を取り持とうとしたクレアを嫌い、殺害したのではないか。そう考えていたのだが、彼女はクレアの死とは無関係であることがすでに判明している。

 ならば。次に怪しいのは、第三皇女であり、エッツェルの双子の姉であるリヴィアだった。彼女には、クレアを殺す動機がある。リヴィアの様子を探らなくてはならない。それゆえ、彼はディヴァ区の兵士の群れに紛れ込み、彼女の居城であるディヴァ城への侵入を試みているのである。

 城門をくぐり、城内へと荷台を運び込む。ここまでは、正体を隠したまま上手く潜入することができた。

「リヴィアなど、正直顔も見たくない。見たくないが、仕方がない」

 エトルシア皇子エッツェルとして、堂々と会うことも考えた。だが、ある事件をきっかけに、リヴィアに絶縁を宣言したのは彼自身なのであった。姉弟としてリヴィアに会うことは、どうしても避けたかった。

「おらっ、さっさと歩け!」

「いやです、やめてください」

 兵士たちの怒鳴り声と、女の泣き叫ぶ声が聞こえてきた。見ると、薄い衣装をまとった、亜麻色の髪に浅黒い肌の若い娘が、兵士たちに小突かれている。

 美しい娘だった。肌の色といい見慣れぬ奇妙な衣装といい、おそらくは異国出身だろう。流暢なエトルシア語を話している点だけはひっかかるが、それなりの身分の出身であれば、国際語であるエトルシア語を習得していてもおかしくはない。

エトルシア軍の奴隷狩りに遭ってここまで連れてこられたのだろう。輜重部隊が輸送していたのは、どうやら物資だけではないようだ。

「どうしてこんなことをするのですか。私を放してください!」

「そうはいくか。お前はリヴィア様に、たっぷり可愛がっていただくんだ」

「俺らを恨むなよ。お前は、親に売られたんだ。親を恨め!」

「上玉の娘だな、いいケツしてやがるじゃねえか、ひひひ」

「おい、変な気を起こすなよ。この娘は、リヴィア様への献上品なんだからな。手を付けると、生命いのちはないぞ」

 わき起こる吐き気を、エッツェルはかろうじて抑えた。リヴィアが若い娘たちを奴隷にして侍らせている、という噂を、彼は耳にしていた。粗相をした娘には、ひどい虐待を加えている、という噂も。おぞましい話であり、信じたくない気持ちもあった。だが、リヴィアならやりかねない、とも彼は思っていた。噂の真偽を、エッツェルはいま目の前で確かめたのである。

 廊下の向こう側から、桃色の髪の派手な身なりの女が供を連れて歩いてくる。高飛車そうなその女は、奴隷少女の悲鳴を聞きつけて現れたようであった。

「何をしているの、お前たち」

「あっ、これはクロイリアさま」兵士長が敬礼する。「この娘、リヴィア様への献上品なのですが、泣いて抵抗しやがりまして」

「ふん、なかなか美しい娘ね」クロイリアと呼ばれた女は好色な笑みを浮かべた。「リヴィアさまに献上する前に、わたくしが可愛がって差し上げましょう」

「いやっ」

「ふふ、いい声で鳴くのね。もっといい声で鳴かせてあげるわよ」

 どうする? エッツェルは迷った。ここで騒ぎを起こすわけにはいかない。粗末な鎧を身に着け、顔を隠す兜もつけているので、大人しく黙っている限りは、彼がエッツェルであることはそう簡単にはばれない。人間というものは、身なりで相手が誰であるかを判断する。薄汚い格好をした今の彼がエトルシアの皇子であるなどとは、誰も考えないものである。

 しかし、騒ぎが大きくなれば姉のリヴィアがやってくるだろう。リヴィアがエッツェルに気付かないということはありえない。ここは、かわいそうだが見て見ぬふりをするのが正解なのではないか。

 だが、そのときエッツェルの心をよぎったのは、彼が愛したクレアの言葉だった。

『貧しい人たち、困っている人たち、虐げられている人たちのために何ができるのかを、考えてください――』

 彼女はそのように、遺言に書き残していた。それを思い出した途端、彼はもう他の選択肢が考えられなくなっていた。とっさにエッツェルは、近くに落ちていた小石を拾うと、それを城の壁面に備え付けられているかがり火に向けて投げつけた。

 かがり火が倒れ、繊細で鮮やかな花鳥文様の絨毯に引火した。

「なっ――」

 何事が起ったのか分からず、クロイリアたちは動揺した。その隙をついて、エッツェルは娘に駆け寄り、その手を取る。門とは反対の方向に、走り出す。

俺は策士にはなれないな。エッツェルは苦笑した。本当の策士なら、情に流されて目的を放棄することなどないはずだ。

「こっちへ」

 娘の手を引っ張って誘導する。『心眼の加護』から流れ出る彼女の内面は、当初は強烈な戸惑いの念であった。それは、やがて圧倒的なエッツェルへの思慕の念に変わっていく。照れくさくなって、つい手を放した。

 兵士たちが、怒りの形相で追いかけてくる。エッツェルは運び込んだばかりの物資の木箱をひっくり返し、彼らの追跡を妨害した。娘が意外に健脚なのは幸いだった。巧妙に追っ手を振り切って、エッツェルは彼女とともに人気のない倉庫の裏へと身を隠した。ディヴァ城は、かつてクレアの父であるルーアン公爵が司令官を務めていた城である。エッツェルは何度も出入りしており、その構造はよく頭の中に入っている。だからこそ、単身で侵入しようなどという大胆な発想にも至ったのである。

「よし、ここまで来れば大丈夫だ」

「私を助けてくださるなんて! 何て素敵なお方……」

 目をきらきらさせる奴隷の娘に、エッツェルは気まずくなって目を背ける。完全に恋する乙女の顔である。それでなくとも、肉付きの良い豊満な肢体に、かなり刺激的な衣装である。直視しづらい。

 倉庫の裏は、城をぐるりと取り囲む城壁である。そこに近寄り、エッツェルは手を当てた。

「ここだ。城壁に使われている石の中に、少し色の違う部分があるだろう」

城壁は、ゴマ粒のような黒雲母を含んだ白い花崗岩でできている。エッツェルが指した部分だけはゴマ粒のない灰色の石である。

「この石は、はずせるんだ。ここをこうやって」エッツェルが石を押して向こう側に追いやると、人間が一人通れるくらいの穴が開く。「ここから脱出するといい」

 エッツェルがクレアと逢引きをするために使っていた、秘密の出入り口である。本来は脱出用の通路なのだろう。城の内側から石を押す人間が必要なので、今回、城に侵入するために使うことはできなかったが、帰るときは自身もこれを利用するつもりでいた。

「もし帰るところがないのなら、自由革命軍を頼るといい。これを」感激しっぱなしの娘に、翡翠の指輪を渡した。「持っていくといい。シルバーの口利きだと言えば、温かく迎えてくれるはずだ。誓約の女神ルクレティアにかけて、必ずあなたを守る」

 翡翠といっても、ハンマーで形を整えたときに生ずる屑を再利用したものであり、金銭的な価値があるわけではない。自由革命軍の中で、身分を証明するものとして使われている指輪である。

「ありがとうございます。このご恩、どうお返ししたらよいか――」言いかけて、娘は驚いたような声を上げた。「あなた様は、まさか――」

 正体を見破られたか。エッツェルは冷や汗をかく。

「いえ、人違いだったようです」娘は、微笑する。「またお会いしましょう」

「あっ、待って――」

 エッツェルは呼び止めようとしたが、娘は風のように城壁の外へと消えていった。

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