『過去』

矢口晃

第1話

 そのタイムマシンに乗れば、自分の帰りたい時間の場所にいつでも帰ることができると、その男の人は言っていた。

 鼻の頭を赤くして。薄いぼろの茶色いコートに首をうずめて。

 雪がちらちら降っていた。私もとても寒いと感じていた。家にある一番長いマフラーを探して、首に巻いて行った。ピンク色と、薄れた黄色の毛糸で編まれた、そんなに新しくない、どちらかと言えばもうだいぶ古びたマフラーだった。

 亡くなった祖母が、いつか私にプレゼントしてくれたものだ。どこかの小物売りの店先にでも吊ってあったものなのではなかっただろうか。何年そこにあっても、誰にも見向きもされなかったものではなかっただろうか。腰の曲がった私のおばあちゃんが、何かの拍子に視線を上げた時に、偶然視界に入ってきたのであろう。

 どうしてそんなもの買って来たの? なんて、中学生だった私にはとても言えなかった。いやむしろ、そのマフラーを見て、当時の私はまんざら気に入らなくもなかったのかもしれない。ありがとう、と言って受け取ったように思う。そのあと何度か使ってみたりもしたけど、友達からの評判があまりよくなくて、それ以来十年以上も箪笥の奥にしまったままになってしまっていた。

 第一、丈が長すぎるのだ。今だってそう身長のない私が、まだ成長段階にあった頃のことなのだ。今でさえ私には長く感じるそのマフラーが、十数年も昔の私にぴったり合っているはずがない。それに色合いだって、どうしても現代的なものだとはいうことができない。そう、どちらかといえば、老人臭い色調だと言える。

 でも捨てずに今日まで取っておいたのは、きっと私の中に、ずっとおばあちゃんへの強い想いがあったからなのだろうと思う。と言っても、別にこれと言っておばあちゃんとの特別な思い出があるわけではないのだ。私のおばあちゃんは、どこにでもいる至って普通のおばあちゃんだった。死ぬ直前まで、呆けたりもせずにしっかりとしていた。おばあちゃんとの心温まるエピソードなんていうものもない。でも、そんなおばあちゃんにも、きっと私なりの何か特別な愛着心のようなものがあったのだ。そう推測する以外に、私がこのマフラーを今日まで捨てずに取っておいた事実を、合理的に説明できる理由が何もないのだから。

 その男とは、私は初対面だった。家から一番近い公園のブランコの前で、男は私の来るのを待っていた。サングラスをしていたから、人相がどんなだったのかはよく記憶していない。ただ、鼻の頭がやけに赤くなっていたのだけは、はっきりと記憶している。とても痛そうだった。おそらく触っても、感覚はなかったのではないだろうか。約束の時間を十分近くも遅刻してしまったことを、本当に申し訳なく思った。

 それは、その年の最初の雪だった。初めての雪にしては朝からよく降って、昼過ぎには地面に足跡がつくくらいまで積もった。ブランコの鎖にも、らせん状に雪がまとわりついていた。足元はぐしょぐしょにぬかるんでいて、気をつけて歩かないと滑ってしまいそうで怖かった。

 男の人は、ブランコに腰をかけ、三回ゆっくりと前後に揺らせば、私の思った場所にタイムスリップできると私に説明した。白い息がたくさん口から出て、説明をしている間、私から男の顔は見ることができなかった。私はその男の言うことを疑いはしなかったけれど、ブランコに座ることはひどくためらった。綿の入った白いコートを着てきたのに、泥だらけな上に雪で濡れたブランコになんて、座る気にはなれなかったのだ。

 そういうと、男は無理して座らなくてもいい。ただあなたがタイムスリップできないだけだから、と雪のように冷たい声で私に言い、それでは用がないからこれで帰るとさえ言ってきた。私は慌てた。なぜなら、今日私は過去に戻りたいと思ってここまでやってきたからだ。すでに希望の光も見えない、ぼんやりとただ漠然と広がるありふれた未来へ、このまま歩を進めて行きたくないと思って来たのだ。まだ未来がきらきらとまぶしかった過去の時点に遡って、もう一度私の人生を歩み直し、もっと明るく、生きがいのある人生を歩み直したいと思って来たのだ。特にどの時点に帰りたいという気持ちはない。ただどこでもいいから、まだ何となく自分に可能性を感じ、おぼろげにでもいいから将来に夢を持っていたころの自分に立ち返りたかった。

 何も言わなければ本当にそのまま帰ってしまいそうな男に、私は待ってと声をかけ、男の言うとおりに、汚いブランコの三台ある内の一番西寄りの台に腰をかけた。鎖に触ると、それは氷のように冷たかった。

 いち、にい、と男が退屈そうに刻む合図に合わせて、私は両足のつま先をぬかるんだ地面に軽くつけたまま、前後にブランコを小さく揺らした。

 さん。

 はっとなって辺りを見回すと、そこは紛れもなく、さっきまで私が男と会っていた公園に他ならなかった。私は三台ある内の一番西寄りのブランコに腰をかけていた。

 辺りはすっかりと夜だった。ただ夜だけれども、いくつもの提灯や電球の明かりで、公園の中は黄色がかったオレンジ色に照らし出されていた。寒くはなかった。私は家を出るときに来ていたはずの、白いコートも、おばあちゃんからもらったマフラーもつけてはいなかった。

 意識がだんだんはっきりしてくるに従って、耳にはぼんぼんという太鼓の音や、ぴいひゃらという笛の甲高い音が聞こえ始めた。たくさんの人が、公園の中にごったがえしていた。じっとりとした熱気が、Tシャツからはみ出した私の首や腕にから、体の中にしみ込んでくるようだった。

 公園の中央には、木製の大きな櫓が組まれていた。その上では、赤い電燈に照らされた、青いはっぴ姿の男たちが、とんから太鼓を叩いたり、時折威勢のよい声を上げたりしていた。それも、みんな申し合わせたように白い鉢巻をつけて。そしてその下には、櫓をぐるりと取り囲むように、浴衣姿のたくさんの人たちが丸い輪の形になって、手を上げたり下げたりしながら前へ進んだり後ろへ進んだりしていた。

 それは、昔よく見た秋の祭りの風景だった。私の町では毎年秋の収穫の少し前に、秋の祭りを行うのだ。そして祭りの時には、公園に櫓が組まれ、町内の人たちが輪を作って盆踊りをすることになっていたのだ。

 その盆踊りには、私のおばあちゃんも毎年必ず参加している。私は子供の頃、母に手を引かれてよく見に行ったものだ。周りのみんなと動作を合わせながら、優雅に踊る祖母の姿を目にするたび、子供心に妙にわくわくしたことを記憶している。私は、盆踊りをする祖母を美しいと思い、どのおばあちゃんよりもずっと優雅に見える自分の祖母のことを、ひそかに誇りに思っていたものだ。

 いつしか私はブランコを離れ、盆踊りの輪の中に祖母の姿を探し始めた。ゆっくり、ゆっくりと回るその踊りの輪の中に、必ずおばあちゃんも交じっているはずだと。瞬きも忘れながら必死で人から人へ視線を動かす私の視界に、とうとうその姿は現れた。見覚えのある、あの浴衣だ。青地にピンクと黄色の梅の花が上品に刷り込まれた浴衣。間違いない。私のおばあちゃんだ。

 興奮して、私は視線を浴衣から祖母の表情へと移した。其の瞬間、私の心臓が一瞬止まった。全身から血の気が引いて、急に体温が下がるのを感じた。それは、私のあの美しいおばあちゃんなどでは、決してなかった。そこにいたのは、おばあちゃんの浴衣を着て盆踊りを踊る、一匹の真っ白な狐の姿だった。

 浴衣から真っ白な顔を出して踊る狐は、私の姿を見つけると、黄色く怪しげに光る二つの目を、じっと私の視線に合わせてきた。そして私と目があったのを確かめるように、私に向かってにっこりとほほ笑んできた。

 あまりの恐ろしさに、私は悲鳴さえ上げることができなかった。思わず、隣にいた人の、上着の端を引っ張った。ひきつった顔で、その人の顔を見た。するとその人も、真っ白な狐だった。

 その後のことは、もうほとんど覚えてはいない。とにかく私は無我夢中で公園から走りだして、人の間を縫うようにしながら、猛然と自分の家まで駆けて帰った。

 玄関を閉めるとただいまも言わずに二階にある自分の部屋へ駆け込んだ。ドアを閉めると、ベッドの中に潜り込んでしばらくがたがたと体を震わしていた。一階のリビングからは、耳の悪い母のために少し大きめにしたテレビの音声が、何を話しているかは分からないながらも、うっすらと私の耳にまで届いてきた。それを聞いているうちに、私は少しずつ恐怖が薄らいできて、平静を取り戻すことができた。一階には、いつもと変わらない日常がある。父がいて、母がいて、お互いにテレビを見ながら何か話をしている。私が顔を出せば、お帰りと言ってほほ笑んでくれるだろう。さっき公園で目にしたものは、きっと何かの間違いだったのだ。

 次に意識を取り戻したのは、誰かが私の部屋のドアを、こつこつとノックする音に気がついた時だった。どうやら私は、あの後安心したまま、ベッドの中で眠ってしまっていたらしい。上半身を起して、はいと返事をすると、ノブがひねられて、外側から部屋のドアが開いた。廊下の光が真っ暗な私の部屋にじわっと差し込んで来て、まぶしくて目を細めた。その細目の中から目に映ったものは、さっき公園で見た祖母の浴衣だった。私はどきっとなって、思わず後ずさりしそうになった。しかしその浴衣を着ていたのは、さっきの白い狐ではなかった。今度は紛れもなく、私の祖母の笑顔だった。

 すうっと肩を撫でおろすと、祖母へやっと微笑みを見せることができた。祖母は盆踊りを終えたままの姿で遠慮がちに私の部屋の中へ入って来ると、起してしまったかいと私を気遣った。

 ううん、少し横になっていただけだからと私が言うと、そうかいと安心したように言って、私のベッドに腰を掛けてきた。私も祖母と並んで座った。

 お祭りは終わったのと私が聞くと、うん終わったよ、と祖母は答えた。私が見ていたの、気がついたと尋ねると、ううん、ちっとも気付かなかったよ、と笑いながら祖母は答えた。踊っている時はね、見ている人のことまで、あんまり気にしていられないの。前の人と後ろの人の踊りの邪魔にならないように、ぴったりと息を合わせて踊ることに集中してしまうから、周りの人のことまで気にしていられないのよ、と祖母は語った。

 でも、おばあちゃん、とっても綺麗だった。表情も柔らかくて、すごく自然できれいだった。そんなに集中していたようになんて、とても見えなかったよ、と私は言ったが、本当は頭の中には、あの白い狐の表情がはっきりと焼き付いていて、思い出すのさえ恐ろしかった。

 それはね、体に力が入っていたら、盆踊りじゃなくなっちゃうから。目と耳だけ集中させて、体はできるだけ力を抜くの。みんな、そうしようと思って練習するのよ、という祖母の顔が、ややもすると白い狐に見えそうで怖かった。

 これね、と言って、祖母は私の両方の腿の上に、一本の長いマフラーをかけるようにおいた。

 もうすぐ、寒くなってくるから。祖母はそう言いながら、かさかさとした手を、私の左手の甲の上に重ねた。

 ありがとう、と私は言った。部屋の明かりを点けていなかったせいで、それがどういうマフラーなのかはよく分からなかったけれど、これから迎える寒く長い冬のために、祖母がわざわざ用意してきてくれたことが嬉しかった。

 ちゃんと着替えて寝なさい。そう言うと、祖母は私の部屋を出て行った。その時、私は外出した時の恰好のままベッドに入っていたことに、やっと気がついた。

 着替えようと思い、立ちあがって部屋の電気を点けた。丸い蛍光灯が部屋の中を白く照らし出した。

 ふとさっき自分が座っていたベッドの上に視線を移すと、祖母にもらったマフラーが、だらりと半分床に落ちかけていた。

 よく見ると、それはピンク色と、薄れた黄色の毛糸で編まれたマフラーだった。

どこの小物売りの店先で見つけて来たのであろう、そんなに新しくない、どちらかと言えば、もうだいぶ古びたマフラーだった。

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『過去』 矢口晃 @yaguti

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