『夫婦』

矢口晃

第1話

 今日会社をクビになったんだ、と告げると、妻は意外にも

「あらそう」

 と全く意に介さない様子だった。

「あらそうって、分かってるのか? 俺が会社を辞めたんだぞ?」

 そう言っても妻は食器を洗う手を少しも休めず、何ら動揺しない素振りで俺の顔を見もせずに切り返した。

「いいわよ。私が働くから」

「お前……」

 一家の主が無職になったというこの緊急事態に、むしろ清々しそうな表情を浮かべて淡々と家事をこなす自分の妻が、俺には不思議でならなかった。

 今の会社に勤めて二十年。毎日時間とノルマに追われて、それでも嫌な顔一つせず、まじめにこつこつと忍耐を続けてきた。そしていよいよ定年まであと十年を切ったと思った矢先の、この出来事だった。

「新山君」

 いつも通りデスクに向かう俺の後ろから、めずらしく常務がトーンを落とした声で呼びかけてきた。

「はい」

 返事をして見返った時、常務の表情を一目見て、何か会社に由々しきことが起きたなと、俺は長年の経験ですぐに感づいた。

 同じ階の会議室に呼び出されて常務と向い合せにソファに腰を掛けると、果たして常務は俺の予想だにしなかったことを喋り出したのだ。

 俺を、解雇したいと。

 それを聞いた瞬間、俺の頭は真っ白になった。「なぜ」という疑問が頭の隅々まで埋め尽くした。

 俺より四つ年長の常務は、禿げあがった額に汗の粒を浮かべ、老いた瞳を涙に潤ませながら俺に語り続けた。その内容は、去年から続く会社の経営状況の悪化具合と、会社が社員の雇用を守るためこれまでに行なってきた数々の努力の歴史と、長年歯車となって会社に貢献をしてきた俺に対する感謝とねぎらいの言葉だった。

「分かりました」

 しばらくすると、俺の頭もなぜか妙にすっきりとしてしまって、食らいついてでも会社に残りたいという気持ちが薄れてしまった俺は、ほとんど無意識でそう呟いてしまった。

 会社に対しては、もちろん不平や不満はきりがないほど感じてきた。無理な残業も強いられたし、理不尽な要求も数多く受けた。それでも俺がそれらの苦労に耐えてこられたのは、おそらく俺自身が会社のことが好きだったのだし、少なくとも自分という存在が多少なりとも会社の存続、ひいては繁栄に役に立っているという実感があったからだと思う。その分俺は会社に愛着があったし、自分の仕事を誇りにも思っていた。ここ数年会社の業績が振るわないのは当然知っていたし、だからこそ俺が何とかしなくてはと心ひそかに思っていた。毎年会社が採用する新人は、世間知らずのバカばかりで少しも役に立たない。口にすることはなかったが、そんな嘆きを日々心に抱いていた矢先の今回の出来事だ。

 無職になってしまったら、一体家族の生活はどうなるのだろう。妻と一緒になってから今までおよそ三十年間、一切の家計を俺一人の収入で賄ってきた。息子や娘が高校、大学に進学する時には、それこそ夫婦二人血のにじむような努力で生活費の中から養育費を捻出してきた。毎月一定の俺の給料の中から、何とかやりくりして子供の将来のために蓄えを作ってくれる妻を、俺は尊敬していた。幸い今は息子も娘も大学を卒業して親元を離れているとは言え、子供の養育のためにほとんど自分たちの老後のための蓄えなど作れてはいないのだ。これからも第一線でばりばりと働いて、少なくとも退職後に路頭に迷わない程度の資金は作らなければならないと思っていたのに、会社からの突然の解雇通告。少しは割高な退職金をもらえるとは言え、これから二十年はあろう残りの人生への備えとしてはあまりにも心許ない額だ。

 なのに妻は、少しも焦りを見せない。至って平静そのものだ。

 会社を解雇になった事実を、どうやって妻に伝えよう、どうしたら妻への精神的な負担を一番軽くして伝えられるだろうかと、今日一日悩みに悩んできた俺の時間は、一体何だったのか。少しくらい驚いてくれなくては、全く割に合わない。

「働くったって、お前どうやって働くんだよ?」

 夕飯で使った食器をようやく全て洗い終わった頃、俺はようやく妻にそう尋ねた。妻は濡れた両手を掛けてあるタオルで拭きながら、

「そんなの、なんだっていいじゃない。スーパーでも、コンビニでも」

「しかしだなあ」

 そんな仕事で二人分の生活費などとても賄えるものではない。そう思って俺が反論しようとした時、

「いいじゃない」

 妻が普段に似合わぬ決然とした口調で俺に言い返して来た。

「今まであんたが汗水垂らして頑張ってくれたんでしょう? 今度は私ががんばるからいいわよ。それより少しはのんびりして、今まで楽しめなかった分の人生を取り返したらどうなの? 武士道でも研究したらいいじゃない。好きなんでしょう? あなた」

「ま、まあ……」

 あまりの妻の勢いに、俺は対した反論もできずにたじろいでしまった。

「あんたは今まで頑張ってきたの。会社のため、家族のため、社会のため。せっかく生まれた人生の半分以上を仕事のために費やして、それでも文句も言わずにせっせと働いて私たち家族を安心して生活させてくれていたの。それ以上、私たちが何をあなたに望めって言うの?」

 まくしたてるように言う妻の表情は、真剣そのものだった。かつて何度となくしてきた夫婦喧嘩の時でさえ、これほどの妻の鬼気迫る迫力を感じたことはなかった。

「いい? 残りの人生は、あんたの好きなようにしなさい。足りない分は、私がちゃんと稼いできてあげるから。あんたはあんたの人生を謳歌する権利があるの。私はもう十分謳歌させてもらったわ。子供も産ませてもらったし、一人前に育てさせてももらった。私はもう十分なの。あとはあんたよ。あんたが好きなようにしなさい」

「……」

 俺はすぐには言葉が出てこなかった。対して妻は、堰の切れたように言葉を発し続ける。

「あんたの苦労は、私が一番よく見て来たわ。仕事でミスをした翌日だって、風邪をこじらせて高い熱を出したときだって、あんたは文句も言わず会社に働きに行った。私はそれがどんなにつらかったことか。あんた一人に苦労をかけて、私は家で毎日掃除機を掛けたり洗濯機を回したり、たまに来る営業の人をあしらったり。あんたが外でいやな思いをしてお金を稼いできてくれている間、わたしは何にもあんたの役には立てなかった。そんな自分が、惨めで情けなかったのよ」

 突然、妻の目から涙がこぼれた。それは、実に十何年振りかに見る妻の涙だった。

「一緒に、上野の蓮を見に行ったのを覚えてる? きれいな蓮だねって、あんたが私にそう言うの。月曜日から土曜日まで、ずっと寝る間もないほど働きづめで、やっと空いた日曜日によ。まだ産まれて間もない長男の茂を乳母車に乗せて、わざわざ私たちを上野の公園まで連れて行ってくれたの。その日は蓮が満開だったわ。それは見事だった。私はね、あんたのことを、なんていい人なんだろうって、心からそう思ったのよ。今でも忘れない。毎日会社で駒のように使われて、精神も体力もすり減らして、寝不足のせいで目の下には真っ黒なクマを作って、それでも休日には私たちを遊びに連れて行ってくれる。なんて私は恵まれているんだろう、なんて私は幸福なんだろうって、そう思ったのよ」

 俺はその時の光景を頭の中に蘇らせていた。初夏だったが、真夏のように暑い日だった。俺は乳母車に乗せられた長男が日射病にならないかと始終気に留めていたのを思い出した。

 妻の言葉は続いた。

「あんたはもう十分頑張った。後はゆっくりしなさい。幸いあんたが頑張ってくれたおかげで、私たちがこれから生きていくには困らないくらいの貯蓄はできたわ。あとは私が何とかして、今の生活を維持していけるくらいのお金は稼いでくるから、あんたはなんにも考えずに、好きなことだけをして余暇を楽しみなさい」

「お前……そんなに貯めていたのか? 俺の知らない間に……?」

 同世代の平均的な年収から見ても決して高いとは言えなかった俺の収入の中から、俺たちの将来のための蓄えまで作ってくれていたなんて。

 俺はこの女を自分の妻に選んで本当によかったと、改めて心の底から感謝した。

「分かった。お前の言う通りにさせてもらうよ」

 俺は言った。溌剌とした口調で。もちろん本気ではなかった。妻ひとりに生活費の全てを稼いでもらう気など毛頭なかった。

 しかし、そう言わねば妻に悪いような気がした。そこまで言って俺をねぎらってくれる、俺なりにできるせめてものお礼だった。

「そうよ。あんたの好きな、天体の研究でもしてなさい」

 妻の言った通り、俺が仕事を失ってからも、生活はそれまでと何ら変わりなく続いていた。思ったよりも順調に行っている生活ぶりに安心しきった俺は、大好きな天体、特に火星についての研究に没頭する日々を送っていた。

 妻は毎日朝の八時にはアルバイトに出て、夜の七時前には帰宅していた。その表情は特に普段と変わることなく、別段強いストレスを感じている風でもなかった。

 俺はそんな妻の姿を見て安心した。何しろそれまで会社で働いて給料をもらうという経験など、ほとんどしてこなかった妻である。アルバイトを始めた当初は、妻が心配でならなかった。少しでも体調を崩すようなら、俺がすぐに代わって働きに出るつもりでいた。

 ところが妻は思いのほか元気に過ごしている。働きに出ていることが楽しいとさえ俺に言って来る。確かに今まで二十年間、ひたすら家に閉じこもって家族のために単調な家事をこなしてきたのである。外に出て知らない人たちと一緒に汗を流すというのも、妻にとっては新鮮だったのにちがいない。

 最近になってからのことだ。

 妻が、俺のもといた会社の社長と、二十年も前から不倫関係にあったことを知ったのは。

 そして社長から、「小遣い」と称して多額の小遣いをもらっていた事実を突き止めたのは。

 長男である息子が、歳を経るごとに、心なしか社長の風貌に似てきていると感じるようになったのは――。

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『夫婦』 矢口晃 @yaguti

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