第8話 精神魔法レベル1

 体は疲れていたので眠ろうと思えば眠れたが、俺はそうしなかった。

 このまま眠り、朝目覚めれば、今以上に体が痛むだろうことは解っていた。

 元の世界では、まじめに働き、それ以上に金を求めた(結局失敗したのだが)が、運動はしてこなかった。

 筋力も体力も、普通の成人レベルをはるかに下回っているはずだ。

 このままでは、明日はもっと足手まといになるだろう。

 ヒナは俺が働きはじめた年齢よりずっと若いのに、一人で山小屋生活をこなし、ヤギ飼いとして自立している。

 俺が役に立たなくても困りはしないだろう。

 だが、俺がいるためにヒナを困らせることになるのは嫌だった。

 少しでも役に立ちたい。

 俺は、懐からタブレット端末を取りだした。

 服を着替える時に、当然移しておいたのだ。

 もっとも、種たるコンピューターが存在していないため、『端末』という呼び方は適当ではない。本体があってこその『端末』なのだ。

 スマートフォンは単独で成立しているので、端末とは呼べない。

 俺が手にしている平たい物体は、元の世界で握っていたときは、ゲームをやるための道具だと思っていたので、その意味では『端末』と呼んでも間違いではなかったかもしれない。だが、実際は俺がそう思いこんでいただけで、違ったのだろう。

 俺は少し考えた結果、手にしている小型の板を『魔法の石版』と呼ぶことにした。

 誰かに見られて尋ねられても、その方が誤魔化せる気がした。

 もっとも、『魔法』とは何かと聞かれても、俺には説明できないが。


 石版を取り出したのは、名前を考えるためではない。

 この道具が力を与えてくれるなら、少しでも上手に使いこなしたいと思ったのだ。

 まだこの世界に来たばかりの俺でも、ヒナより上手くできることが一つはあった。火を点けられたのだ。

 火を点けた『火炎魔法』以外にも、『精神魔法』と『生命魔法』がある。

 使い方は解らなかったが、俺の頼りない体力を補うことぐらいはできてほしい。

 俺が石版を見ると、平らな画面にアイコンが3つ、相変わらず表示されている。

 暗闇で見ると、電気の明かりで照らされているように、明るく感じた。

 見た目は、スマートフォン以外のなにものでもない。

 皮がむけたままの手は相変わらず痛んだが、指先までずる剥けしてしまったわけではない。

 指の先端で、俺は『精神魔法』に触れた。相変わらず、『レベル1』というあまり元気が出ない表示も浮かびあがる。

 昼間、草地でアイコンをタップしたとき、俺の周りで呑気に草を食っていたヤギたちが、一斉に俺に注目した。

 名前のとおり、生き物の精神に影響を与える力なのだということまでは確信している。

 問題は、具体的に何ができるのかだ。

 少なくとも、生物がいなければ試すこともできない。

 ヤギなら、二頭はヒナの小屋にもいる。

 だが、ヤギを相手に実験をするのは難しい。

 外に出てヒナに見つかれば、どこに行くのか尋ねられるに決まっているのだ。


 扉の外を歩く、ヒナの足音を俺は聞いていた。

 聞こえていた足音が止まった。

 隣の部屋に入るのだろうと思っていたら、俺が寝ていた部屋の扉が開いた。

 俺は慌てて石版を手の中に握りしめ、体を起こした。

「ヒナ、どうした?」

「ううん。なんでもない。ちゃんと寝ているかと思って」

 髪も水で洗ったのか、ヒナの髪はぴったりと体に張り付き、水から上がったばかりの女神を想像させた。

 暖炉の火がまだくすぶっているのか、背後からわずかに光を受け、ヒナの全身が神々しく輝いているかのようにも見える。

「ああ。寝ておかないと、明日、もたないしね」

「うん。お休み」

 ヒナは扉を閉めた。

 ただの挨拶なのだろうか。

 突然現れた俺が、突然消えるかもしれないとでも思ったのだろうか。

 そう思ってくれたのなら、少しは俺に好意を抱いてくれているかもしれない。

 情けないところばかり見せてきたが、そんな俺でも、まだ見限られてはいないのだ。

 俺は再び即席のベッドに倒れ、しっかりと石版を使いこなそうと決めた。


 実験のためにヤギに会いに行く必要はなくなった。

 どうしようか考えた俺の顔に、窓から飛び込んできたバッタと思しい虫が落ちてきたのだ。

 元の世界なら俺もパニックになるか、寝ぼけていたら叩き潰して終わるところだが、どんなものでもいいから生き物がいないかと考えていた俺には、ちょうどいい遊び相手となった。

 いかんせん『レベル1』なのだ。

 虫ぐらいでちょうどいいだろう。

 俺の顔の上でうろうろしているのはむず痒かったが、俺はあえてそのままにしておいた。

 石版のアイコンをタップする。

 当然、『精神魔法』だ。

 それだけでは何も起きない。

 俺は、顔の上に止まっている虫に向かって言った。

「飛べ」

 まさしく、虫は飛び上がった。

 俺の顔を踏み台に跳ね上がり、空中で羽を広げた。

 偶然かもしれない。

 俺は続けて命じた。

「あそこから出ていけ」

 虫が入ってきた明りとりの小さな窓には、網戸もガラスもない。

 寒ければ、板を当てて塞ぐのだ。

 虫はふらふらと飛びながら、空きっぱなしの窓にたどりつき、外に向かって羽ばたいた。


 生き物に命令し、言うことを聞かせる。


 俺はその力の可能性を感じて、鳥肌が立つ思いがした。

 まだレベル1だ。

 どこまでできるのかわからない。

 このレベルが上がるという保証すらないが、数値化されているなら上がるのが仕様のはずだ。

 レベルと力の相関関係も検証しなくてはならないが、少なくとも、催眠術師以上の力が振るえることは確実だろう。

 俺は再び命じてみた。

「戻って来い」

 何も起きない。

 一度使用した後の、持続時間も検証しなくてはならない。

『火炎魔法』のように、見ればわかるというものでもないからだ。

 俺はもう一度『精神魔法』をタップしてから、命じた。

「戻って来い」

 何も起きない。

 遠くに行ってしまって、声が届かないのか、力が足りないのか。

 検証すべき課題は多い。

 だが、確実に力が働くのなら、どんな細かな検証でもできそうな気がした。

 飽きるわけがないのだ。

 

 まだ眠くはならない。

『精神魔法』というのは、疲労が少ないのかもしれない。

 俺は他の生物を探した。

 探せばいるものだ。

 しばらくこの部屋は使われていなかったのだろう。

 ヒナがベッドを作ってくれたが、綺麗に掃除をしてくれたわけではない。

 天井には蜘蛛が張り付いていたし、壁にはヤツデが這っていた。

 思えば、ヒナは俺の部屋を指定した。

 ヒナの寝室には当然プライベートなものもあるだろうから、気にはしなかった。

 ひょっとして、虫がいるのがわかっていて、俺に押し付けたのだろうか。

 まあ、文句を言える立場でもないし、ちょうどよかった。

 俺は再び『精神魔法』をタップし、発見したいくつもの虫たちに、同時に命じた。

「窓から出ていけ」

 変わった様子はない。

 どうやら、俺の力が足りないらしい。

 俺は天井にいる蜘蛛に向かって命令した。

 蜘蛛はかさこそと出ていく。

 どうやら、複数の相手に一度に命令するのは難しいようだ。

 徐々に慣れていけばいいだろう。

 しばらく俺は暗がりで虫を探し続け、見つかると片っ端から部屋から追いだしていった。

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