第9話 ヒナのプライド
もう一つ、使っていないアプリがある。
もはや、アプリと呼んでいいのかどうかもわからない。
指をあてがうと、『生命魔法レベル1』の文字が踊る。
草地でタップした時は、何も起きなかった。
あの時は、ヤギに『死ね』と命じてみた。
火の魔法は、口に出して命じなくても炎を生みだした。
問題は、目的意識のような気がする。
魔法を使うことそのものより、魔法で何をするのかを明確にイメージする必要があるのだ。
草地では、俺は本当にヤギを殺すつもりだった。
いま思うと、魔法が利かなくて良かった。
ヒナが管理しているヤギである。
預かっている以上、死なせれば責任問題にもなり得るだろう。
魔法を発動させただけでは大丈夫だ。『生命』の魔法といえど、俺が死ぬというわけはない。
俺は自分に言い聞かせた。
そもそも、俺が魔法を使って俺が死ぬような自殺アプリが、入っているはずがない。
『生命魔法』をタップする。
何をしよう。
そうだ、手が痛い。
腕と肩も痛い。それどころか、痛みは背中にまで広がっている。
癒せるだろうか。
俺は手のひらに意識を集中した。
途端に、手のひらの痛みが和らいだ。
暗闇で良く見えないが、向けた皮の下にあった薄皮が、たちまち硬く強くなるような感覚がある。
痛みはなくなった。
俺は手を開閉してみた。
手の指でつついてみた。
手のひらで壁を叩いてみた。
丸太の凹凸がそのまま浮き出た壁である。普通でも痛い。
痛くない。
皮が盛り上がり、手のひらが丈夫になったような感覚である。
なるほど、『生命魔法』とは体を直すことができる魔法なのだ。
この世界でもっとも非力な部類に入るだろう俺には、在りがたい魔法だ。
何しろ、数えきれないぐらいの怪我をするに決まっているのだ。
ならば、この魔法もできるだけ、慣れておく必要がある。
いざ瀕死の重傷というとき、力不足でそのま死んでしまったという結末は嬉しくない。
俺は次に、魔法を使って背中の痛みをとることにした。
意識を集中したが、何も変わらない。
やはり、持続時間も限界があるのだろう。
俺は再びタップし、意識を背中に集中させた。
筋肉が正常に復元されるイメージを持つ。
筋肉が痛むのは、筋肉の繊維が分断されるからだと聞いたことがある。
分断された筋肉は、時間が経てば修復される。その修復の過程で、より強くなるのだという。
イメージを続けていくと、実際に背中の痛みがとれ、横になっていることが苦痛ではなくなった。
『生命魔法』は、自分の体を強く作り上げるのにも最適だろう。
しかし、自分の肉体を癒すだけだろうか。
俺は不思議に思った。
ならば、この『生命魔法』という名称はおかしい。
この魔法には、もっと多くの可能性がありそうな気がした。
続けて、腕と肩も癒す。
これで、明日もヒナの足手まといにならずにすむ。
いや、今日は足手まといだったし、明日もたぶん足手まといだ。
今日以上に失望されずに済むというだけだ。
俺自身が弱いのは仕方がない。
そのうちになれるだろう。
だんだん眠くなってきた。
『火炎魔法』を使った時は、明らかに疲労を感じた。
『生命魔法』も、精神に負担がかかるのだろう。
何より、肉体を強制的に修復させれば、別のところに負荷がかかるのは当然だ。
それが、睡魔という形で出ているということなのだろう。
俺は眠ることにした。
魔法の石版をポケットに入れる。
元の世界は嫌いではなかった。
だが、戻りたいとは思わなかった。
手に入れた力で何ができるのか、楽しみでもあった。
目が覚めたら、元の世界に戻っているというのが、最悪の状況に思えた。
目覚めても、この部屋にいるように。
目覚めても、ヒナに会えるように。
祈りながら、俺は眠りに落ちた。
朝、目を覚ますと、丸太がむき出しになった屋根の裏側を見て、心から安堵した。またヒナに会える。
俺はベッドから起き上がり、どこも痛まないことに満足して部屋を出た。
ヒナが食事の用意を終えているところだった。
ヤギの乳も絞ってある。
働き者だ。
いい嫁になるだろう。
俺の世界でなら。
こっちの世界では当然のことなのかもしれない。
俺は誉めるのはやめておき、代わりに謝った。
「起こしてくれたら、手伝ったのに。寝ていてご免」
「いいよ。いつもと同じことをしているだけだから」
「明日はもう少し早く起きるよ」
言ってみたが、自信はなかった。何より、時計がないのである。
元の世界では寝起きは悪くなかった。
だが、目覚まし時計の力を借りての結果である。
ヒナは何も言わずに、俺がテーブルにつくのを待ってパンに手を伸ばした。
少し、違和感があった。
俺は『明日』と言った。
昨日も『明日』と言った。
すなわち、今日である。
今日はこの山小屋にいてもいい。だが、明日は違うのか?
「ヒナ」
「なに?」
短く、ヒナは問い返した。
昨日会った時から、笑顔はとてもかわいいが、愛想が良いという娘ではなかった。だが、こんなにぶっきらぼうではなかった。
寝起きは機嫌が悪いだけなのだろうか。
「何か、怒っているのか?」
「別に」
「俺、何かしたか?」
「何もしていないでしょ」
「……うん」
ヒナはもくもくと食事を続けた。
俺も従う。
パンとチーズ、ヤギの乳だけの食事である。
ほぼ同時に食べ終えた。
ヒナが立ち上がる。
やや乱暴に、木製の食器を木の桶に放り込んだ。
「もう、行くのかい?」
「ええ。あの子たちを待たせては悪いから。ソウジは、用がないなら早く出ていって」
俺は凍り付いた。
昨日までのヒナの態度とは、明らかに違う。
俺が何をしたのだろうか。
ヒナに聞いても、さっきは教えてくれなかった。
俺は食器を木の桶に入れながら、ヒナの動きを見守った。
振り返りもせず、ヒナは木の桶を外に出すために持ちあげた。
「待ってくれ、ヒナ。俺も行くよ。役に立たないかもしれないけど、頑張るから」
「やめてよ。私に興味がない人に、いつまでもいられても迷惑なの」
どういう意味だ?
ヒナは木の桶を持って外に出た。
このまま行かせては駄目だ。
俺はヒナの後を追った。
ヒナは外に出て桶を水場に運んだ。
俺の方を見もしない。
「どういう意味だ? 言ってくれないとわからない」
ヒナが足を止めた。
冷たい目をしていた。
透き通るようなきれいな青い瞳で、俺を虫けらのように見つめていた。
「私が、一生このまま山小屋に住んでいたいと思う?」
「いや……わからないが……」
「私だって、里のみんなと一緒に住みたいの。楽だし、楽しいし。でも、誰かがヤギに良い草を食べさせないと、いいお乳が出ないから、私が引き受けるしかなかった。私は……あぶれていたから……」
ヒナの言う『あぶれる』がどのような意味なのか、詳しく尋ねることはできなかったが、推測はできた。ヒナは、孤独だったのだ。
ヒナは続けた。
「だから……山小屋で、誰か男の人が来るのを待つしかなかったのよ。そんな可能性はほとんどないことが解っていても、待つしかなかった。山賊とか強盗みたいなのが逃げてきて、無理やり……になっちゃうだろうって……ずっと想像していたから……ソウジが昨日、突然『ヤギの丘』に現れた時、本当は凄く嬉しかったのよ。優しそうだし、普通だったから。私を里に戻すために、奇蹟が起きたと思った。でも……私に興味がないのなら、意味がないわ。それなら、ここに居ないでくれたほうがよっぽどいい。そうしたら、別の男の人が来てくれるかもしれない」
言うだけ言うと、ヒナは走りだしていた。
俺は追えなかった。
ヒナにはヒナの仕事がある。
頭が追いつかなかったのもある。
しばらく水場の近くに立ち尽くし、俺は、ヒナの言葉の意味を整理した。
俺がやらかしたこと。
隣室で無防備な状態で、ヒナのようなきれいな少女が寝ていながら、襲おうとしなかったこと。
この世界では、それは責められるべき罪なのだ。
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