第10話 魔物現わる

 とりあえず俺は、水辺で食器を洗った。


 昨日やり切れなかった薪割りに挑んだ。


 体は痛くない。『生命魔法』を発動させた。

 昨日の長柄のノミで、木を削った。

 手の皮が厚くなったのか、少しも痛くない。

 こつも解ってきた。

 一日分の薪ぐらいは作れただろう。

 削りだした木のカスをしまい、俺は汗を拭いた。


 こんなことをしている場合ではない。

 解っていた。

 だが、向きあえなかった。

 この山小屋に居たければ、ヒナに許してもらうしかない。

 ヒナのことが嫌いなはずがない。

 ただ、出会った初日に寝込みを襲うのが、男として正しいことだとは思えなかったのだ。

 許してくれるだろうか。

 ヒナは誤解しているのだ。

 誤解を解けばいい。

 このまま、山小屋でヒナの帰りを待つこともできるだろう。

 俺は悩んだ結果、このまま山小屋で待つという選択肢を放棄した。

 待ち続けるということが、あまりにも負担だったのだ。


 盗まれるものが無いから、戸締りなどは必要ない。

 ヒナも取られて困る財産はないだろう。

 そもそも、盗みに来る人がいない。

 俺は森に向かった。

 

 ヒナが向かった方向は覚えていた。

 昨日も通った道である。

 石で舗装された山道を下る。

 そろそろ、『ヤギの丘』と呼ばれる草地に向かう横道があるはずだと思った頃、森の中で下草を食む白い姿を認めた。

 ヤギだ。

 うっかりしてはぐれたのだろうか。

 うっかりしていたのがヒナかヤギかはわからない。

 森の下草は、日光が十分に届かないため発育が良くない。

 ヤギにとっては食べることはできても、美味い餌ではないはずだ。

 さすがに、俺にヤギの見分けはできない。

 昨日一緒に移動した、18頭のうち1頭だろうが、断言はできなかった。

「おい、どうした? こんなところで」

 ヤギは顔を上げて、メーと鳴いた。

 会話したいのかもしれないが、俺にヤギの言葉はわからない。

 ヤギを連れていけば、少しはヒナも俺の言葉を聞いてくれるだろうか。

 『精神魔法』を使えば、ヤギの1頭ぐらい誘導して連れていくこともできそうな気がした。

 だが、草地に向かう道を見て、俺はそれが無理だと判断した。

 はぐれたヤギは1頭ではなかったのだ。

 森の中に、点々と白い影がある。

 草地から逃げてきたのだ。逃げてきて、脅威が去ったと思い、とりあえず食事を再開したのだ。

 何かがあったのだ。

 俺は焦った。

 ヤギをそのままにして、俺は森の中を走りだした。


 森の中を走りながら、俺は可能な限りヤギの数を数えていった。

 合計で10頭のヤギが、森の中に逃げ込んでいた。

 草地に出る。

 小高い地形になっていた。

 俺は全力で駆け上がった。

 誰もいない。

 何もない。

 草を食べているはずのヤギも、ヤギを管理しているはずのヒナもいない。


 何か手がかりがないだろうか。

 俺は魔法の石版を取り出した。

『精神魔法』も『火炎魔法』も意味をなさない。

『生命魔法』が、傷を治すだけのものであれば、役にはたたない。

 俺の予想は違う。肉体全般を操る魔法であれば、使い道はある。

 祈るような気持で、俺は『生命魔法』をタップした。

 意識を鼻と耳に集中する。

 かすかなヤギの声と、ヒナの体臭を感じた。

 俺は目を閉ざし、余計な情報を遮断し、声と臭いを追った。

 風に乗り、流れてきた。

 一方向に、俺は目的を定めた。

 その方向の、ヒナの臭いが強かった。

 山小屋で風呂を沸かすのは大変だ。

 ヒナも体を拭くことしかしていない。

 人間の体臭は獣より強い。

 俺は草地を蹴った。

 『ヤギの丘』を下る。

 ヒナの臭いが強い。

 俺は地面に伏せた。岩の影に隠れる。

 大きな岩があり、草地から森に変わる場所だった。

 がけ状に下っていた。

 森とがけの境目に、洞窟らしい黒い穴が口を開けていた。

 おそらく、あの中にヒナがいる。

 ヤギを放り出して、自分で隠れるはずがない。

 ただ仕事を放棄しただけなら、ヤギがちりぢりに逃げている理由がつかない。

 昨日、ヒナは『ゴブリン』が近くに住み着いたと言った。

 俺は楽な相手だと思ったが、ヒナは俺よりはるかに力も強く、体力に優れていた。

 ヒナが恐れているのだとしたら、簡単な相手などではないのだ。

 足音を殺して、俺は洞窟の入口に近づいた。

 物音はしない。

 周囲に変化はない。

 俺は魔法の石版を握りしめたまま、洞窟の中に入った。


 薄暗いが、日の光が忍び込み、中の様子ははっきりとわかった。

 洞窟は狭く、石器時代の住居跡を思いださせた。

 中央にくぼみがあり、毛深い動物が食事をしていた。

 肉を食らっている。

 新しい肉だった。

 白い毛が血で濡れていた。

 うつろになった目を俺に向けたまま、二度と動くことがなくなったヤギが、はらわたを捧げていた。

 ヤギのはらわたを食らっていたのは、灰色の長い毛をした双頭の獣だった。

 俺には、狼に見えた。

 俺に背を向けていたから、たまたま気づかなかったのだろう。

 背骨から首が二つの別れた、獰猛な獣が、罪のないヤギのはらわたを美味そうに食らっていた。


 狼は鎖につながれており、中央のくぼみからは出られないようだ。

 食事をする狼の向こうに、ぐったりと横たわる少女の姿があった。

 ヒナだ。


 洞窟の一番奥で、まるで壁に張りつくような位置にいるのは、つながれた双頭の狼を恐れてのことだろう。

 顔を地面に伏せ、うつ伏せになっているが、ただ両足だけを揃えて、二つの膝がこちらを向いている。

 服が破られているが、何より、動かない。

 俺は心臓をわしづかみにされたような気がした。

 ヒナが死んだのではないかという恐怖に駆られた。

 声をかけたかったが、声が出なかった。

 凶悪な、元の世界では想像もできなかった双頭の狼が、ヤギを食らっている。

 洞窟の中はヤギの死体であふれていた。

 多くのヤギが、この洞窟に連れ込まれ、逃げられないように、命を絶たれた。

 洞窟の中は血の臭いで満ちていた。

 大量のヤギの死体も、洞窟を満たす血の臭いも、俺はすぐには気づかなかった。

 俺が緊張していたこともある。

 何より、双頭の狼とヒナに気を取られていた。


 息を飲み、気持ちを落ち着かせ、血なまぐさい空気を肺に吸い込む。

「ヒナ」

 囁くような声しか出ない。

 ヒナは反応しない。狼も動かない。

 大声を出せば、いずれにしろ狼に知られる。

 狼はつながれている。ヤギを食べているが、殺したのは狼ではないはずだ。ヒナをさらったのも、狼ではない。

 この惨劇を引き起こした連中が、いつ戻ってくるかもわからない。

 時間はない。


 俺は足を踏みだした。

 魔法の石版を握りしめる。

 『精神魔法』に指を添える。狼の動きを鈍らせることができるとしたら、これだけだ。

 昨晩は、複数の虫に同時に命じることはできなかった。

 狼の頭は二つある。

 効果はないかもしれない。

 だが、やるしかない。

 もしくは、ヒナを見捨てて逃げることもできる。

 俺には、不思議とその選択が思い浮かばなかった。

 たった一日の知り合いだ。

 酷い別れ方をした。

 それなのに、俺はヒナをこのまま残しておくことができなかった。

 ひょっとしたら、死んでいるかもしれない。

 しかし、生きているかもしれないのだ。

 三歩目で、ヤギのはらわたに食らいついていた狼の動きが止まった。


 足が振るえる。

 立ち止まらずに、足を動かす。

 狼が立ち上がった。

 振り向き、体勢を変えた。

 双頭の狼は、正面に対峙すると想像以上に迫力があった。

 頭の大きさは元の世界の狼と変わらない。だが、二つの頭を支えるためか、体が二回りほど大きく見える。

 狼を目の前で見た経験がないため、憶測でしかないが、それほど間違ってはいないだろう。

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