第11話 生命魔法レベル1

 双頭の狼の迫力に気おされながら、俺はゆっくりと距離を取った。

 狼はつながれている。

 洞窟の奥まで逃げれば、届かないはずだ。

 奥まで届くのなら、ヒナが食われているはずだからだ。

 だが、狼の鎖は洞窟の横の壁には届くように見える。洞窟が円形ではなく、縦に長くなった楕円形なのだ。

 洞窟から出る時はまた考えよう。


 ヒナの居る場所まで5歩、狼から届かない場所まで4歩だろう。

 なかなか絶妙のつなぎ方だ。

 ただ、俺のいた元の世界の狼と同様の身体能力であれば、一瞬で詰められる距離だ。

 俺は迷わず『精神魔法』をタップした。

 これで駄目なら、怪我を覚悟で強行するしかない。

 狼が攻撃姿勢をとる。

 俺は空いた手のひらを双頭の狼に向けた。

「静まれ」

 必死に願いを込めた。

 命令と言うより、もはや祈りである。


 通じた。

 双頭の狼は、考え込むような顔をして、俺のことを見つめていた。

 俺はゆっくりと、ヒナの方に行こうとした。

 小石を踏んだ。

 乾いた音が上がる。

 狼に変化はない。

 ただ、ヒナがいる場所から声が聞こえた。

「ソウジ……」

「ヒナ、無事か?」

「来ないで」

「何を言っている」

 『危ない』とかなら解る。『助けて』も解る。『来ないで』とはどういうことだ。

 俺は狼から目線を外さないように気をつけながら、僅かにヒナを見た。

 ヒナは汚れた顔をしていた。

 服が破かれていた。

 手にナイフを持っていた。

 護身用だろうか。手のひらほどの小さなナイフだった。

 ヒナは小さなナイフを、自分の喉に当てていた。

 ひと思いに、突き刺そうとした。

「やめろ!」

 俺は慌てて『精神魔法』をタップし、手のひらをヒナに向けた。

 ヒナの目が一瞬だけ焦点を失い、ナイフを取り落とす。

 『精神魔法』が人間にも利いたのは大きな発見だ。だが、それどころではない。

 俺はヒナに向かって飛んだ。

 魔法が切れた狼が飛んだのは解っていた。

 俺がヒナの足元にたどり着く前に、双頭の狼の牙が俺の足を捉えていた。


 俺は地面に叩きつけられた。

 俺の足に、狼の牙が深々と刺さっているのが解った。

 逃げようとする俺を、狼は引き寄せようと後退する。

「ソウジ!」

 ヒナの生気のこもった声に、こんな状況でも俺は嬉しくなった。

 素手で狼の相手などできない。

 俺は再び石版をタップしようとしたが、手元を目で確認する余裕はない。指が滑ったのか、魔法が発動していないのを感覚で悟る。

「ヒナ!」

 俺は背後に手を伸ばした。

 ヒナは俺の意図を察し、俺が伸ばした手にヒナのナイフを渡した。

 俺は体を起こし、腹筋に全力をこめ、起き上ると同時にナイフを双頭の狼の胴体に突き刺した。

 狼の生命力は人間の非ではなく、ナイフの刃は短かった。

 一撃では殺せない。

 俺は柄本まで沈んだナイフをすぐに引き戻した。

 狼の体から、鮮血が飛ぶ。

 もともと血で充満していた洞窟だ。

 俺は抜いたナイフをさらに突き刺した。

 双頭の狼は、刺されていることを感じていないかのように、俺の足を噛み、引きずった。俺は引きずられ、狼の牙が俺の喉に達するほど近づいたとき、狼がとどめを刺しに来た。

 俺の喉を狙い、二つの頭が迫る。

 俺は何度も、何度もナイフを刺した。

 それでも、狼は止まらない。

 狼が俺の喉を狙っているのが明白だ。それが、イヌ科の動物の狩猟法である。狼は、イヌ科を代表する動物だ。

 俺は首元を両手で庇った。

 両手が震え、石版を握った手が何度も揺れ動いた。

 突如、俺の腕に力が宿ったような気がした。

 すでに、腕には狼が食らいついている。

 このまま肉を食い破られれば、二度と腕は使えないだろう。

 心配することではない。

 死んでしまえば同じことだ。

 俺は、自分の感覚を信じた。

 石版を震える指で押しているうちに、『生命魔法』が発動したのだと信じた。

 腕に力が宿ったのだと信じた。

「うぁぁぁぁぁっ!」

 両腕を振るう。

 双頭の狼の二つの頭が別れた。

 俺の腕に深く牙を刺しいれたまま、首がもげていた。

 俺の腕に、二つの頭部が残り、俺に覆いかぶさるようにしていた頭の無い体が、ゆっくりと倒れた。


 双頭の狼は死んだ。

 俺の体に無数の穴を開け、肉を削りとった。


 俺はヒナの姿を求めた。

 俺が振り向くより先に、ヒナの体温を感じた。

 抱き付いてきたのだ。

 血まみれの俺に、傷だらけの俺に、服を破かれて泥に汚れた美少女が抱き付いてきたのだ。

「ソウジ、ソウジ、ソウジ……」

 ただ、俺の名前を繰り返すヒナの背に、俺は痛む腕を回した。まだ、狼の頭部が残っていた。

 片手で、さらに『生命魔法』をタップする。

 この魔法が力を与えてくれたのだ。

 辛うじて、生きることができた。

 今度は、体を直すことに使わなくては。

 そう考えれば、『生命魔法』の名前も納得できる。

 肉体全般を操る、まさに生命の魔法なのだ。

「ヒナ……ご免、昨日のこと。俺のいた地方では、会ったばかりの女性の寝室に行くのは……とても失礼なことだと言われているんだ」

「もういい。そんなこと。ソウジ……死なないで」

 とりあえず、ヒナに許してもらうという目的は達した。

 こんな状況だからか、用意してきた以上の言葉でいいわけができた。

 だが、『死なないで』というのは、少し大げさではないだろうか。

 それとも、俺は今にも死にそうに見えるような怪我をしているのだろうか。

 ヒナが俺の肩に顔を押し付けてくる。ヒナの破られた服に血がついた。

 俺は愚かにも、この時ヒナが服を破られた理由を考えなかった。

 服を破かれ、何をされたのか考えなかった。

 俺はただ、意識を自分の痛む箇所に集中させた。

『生命魔法』はタップし続けている。

 血が止まり、傷がふさがっていくのがわかった。確かに、俺の体は全身が真っ赤になるほど血に染まっている。幸いにも内臓は狙われなかったが、『生命魔法』がなかったら手足の怪我だけでも重症だろう。

「ヒナ、こいつの主人は何者だ?」

「『ゴブリン』……二人いた。私は……逆らえなかった」

「ああ。わかるよ」

 俺は解っていなかった。

 立ち上がる。多少の痛みが走り、手足から血が吹き出たが、俺はあえて魔法を使わなかった。

 魔法に限界があることは承知していた。魔法の限界と言うより、俺の精神力の限界だと思っている。いまはまだ、使い切るべき時じゃない。

 敵の巣の中にいるのだ。

「戻ってくるかな」

 ヒナは何も言わず、ただ小さく頷いた。

 顔色が悪い。まるで血の気が引いたような顔だ。

「逃げよう。ここにはいられない」

「……うん」

 俺が洞窟の入口に行こうとすると、ヒナが震えながら着いてきた。

「どこか怪我をしているのか?」

 ヒナは小さく首をふる。だが、歩き方は明らかにおかしい。

 俺はヒナに手を伸ばした。

 ヒナは、俺なんかの助けがなくても一人で逃げられるはずだ。

 俺よりずっと体力があるし、足も速い。

 だが、今は体調が悪いらしい。俺が差し出した手を、ヒナは迷うように見つめた。

「どうした? 俺では、頼りないかい?」

 言っていて情けなくなるが、肯定されても言い返せないのが現実である。

「そうじゃないの。私……汚いよ」

 おかしなことを言う。ヒナが俺の手を掴む寸前で迷っていたので、俺は強引にヒナの手を掴んで引き寄せた。

 洞窟の入り口に張り付き、外の様子をうかがった。

 緑色の皮膚をした、がっしりとした背の低い生き物が、肩に白い純粋な生物をかついでいるのが見えた。洞窟に向かってくる。緑色の肩の上で、白い可憐な生き物は、じたばたと暴れていた。

「……あれが、『ゴブリン』か?」

 俺の問いに、ヒナは否定しなかった。ならば間違いない。俺が見る限り、緑色をした小さなゴリラだ。

 つまり、筋肉の塊である森の賢者のように見えた。

 だが、ひいき目に見ても『賢者』という風情ではない。

 地獄から抜け出してきた緑の小鬼のほうがしっくりくる。

 いずれにしても、俺がゲームで退治していたような簡単な相手には見えない。

「あのヤギは可哀想だが、ヒナ、ここは逃げよう。走れば、逃げきれるだろう」

 まだ距離がある。俺はそう判断した。

「駄目……私、走れない」

「わかった」

 俺は言い返さず、『生命魔法』をタップした。同時にヒナを抱き上げる。ヒナは驚いた声を出したが、逆らわなかった。


 洞窟からヒナを抱えたまま出ると、『ゴブリン』が騒いだ。見つかったのだ。

 背後に、もう一体がいた。

 二体の『ゴブリン』を相手に、怪我をしている俺が敵うはずがない。

 怪我をしていなかったらどうだろうか。

 まず勝てない。だが、魔法の石版の力を借りれば、いい勝負だと思う。

 もっとも、頼みの石版も、それほど長くは使えないだろう。

 俺は、疲れているのを自覚した。

 全身に力を入れ、ヒナを持ちあげたのが最後の力だ。

 ヒナを抱えたまま、俺は洞窟に接していた森の中に逃げ込んだ。

 

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