第12話 ヒナの敵

 しばらくの間、森の中を徘徊し、苛立つ『ゴブリン』の声が聞こえていた。何らかの意味をもった言葉にも聞こえるが、さすがに『ゴブリン』の言葉までは習得していなかった。


 逃げることができたのはたまたまだ。ヒナを担いで逃げ切れるほど、実際には甘い相手ではなかった。

 俺たちを追いかけるために、『ゴブリン』は担いでいたヤギを落としてしまったのだ。食い意地が張った『ゴブリン』は、逃げようとするヤギを追いかけ、捕まえ、殺したが、その間に俺とヒナはできるだけ遠くに逃げた。

 森に入って数歩で『生命魔法』は切れ、再び起動するとおそらく失神するほど疲労していた俺は、なけなしの体力でヒナを抱えたまま森の中を移動した。


 幸いにも、『ゴブリン』は臭いにも音にも、あまり敏感ではないようだった。

 俺とヒナを探していたものの、諦めて洞窟に戻っていった。

 もちろん、それは狙いではなく、幸いだっただけだ。

 体力が尽きた俺がヒナを抱いたまま木の影に座りこんでいたのを、見つけられなかったに過ぎない。

 『ゴブリン』は、洞窟に戻らずに俺たちを探しに来た。洞窟に戻れば、死んだ双頭の狼を見つけるだろう。

 さらに怒り狂うだろうが、俺が洞窟に戻る予定はない。


「流した血を洗いたいな。『ゴブリン』以外にも、獣がかぎつけるかもしれない」

 俺は自分で抱いたままのヒナに尋ねた。

 ヒナはしっかりとした骨格と筋肉をしていたため、それなりに重かったが、俺にはヒナの重さが心地よかった。いかに抱き心地がよくても、それとは別に、次第に手がしびれつつあった。

「あっちに、湧水が出ている場所がある」

 ヒナは指さしてから、俺の腕から降りた。俺が限界なのを察してくれたのだろうか。

 今度はヒナが俺の手を掴んだまま、森の中を歩く。

 少し下ると、綺麗な水が流れた小川があった。

 くぼみに泉として溜まった場所があり、清らかな水があふれて小川を成していた。透明度が高く、冷たかった。

「喉が渇くと、飲みにくるんだ」

 ヒナは言い、小川に屈むと、直接、顔を水につけた。

 前傾姿勢になったヒナの破れた服の間から、長い足が見えた。

 普段なら、欲情してもおかしくないなまめかしさだったが、俺はヒナの足にこびりついた、血の筋に目を奪われた。

 真っ赤な鮮血が、乾いて固まっていた。

「ヒナ、『ゴブリン』に犯されたのか?」

 小川から顔を上げ、ヒナは目を見張る速さで振り向いた。

 鋭い目つきが、急に絶望に変わった。

 手で足を隠した。だが、破れた服ではすべてを隠せなかった。

「だから、自殺しようとしたのか?」

 俺に気づいたヒナが真っ先に取った行動が、隠し持っていたナイフで自殺をしようとしたことだ。

 俺に指摘されても、もうヒナは反応しなかった。

「だから、自分が『汚い』なんて言ったのか?」

 ヒナはうつむいた。

 両手を地面についていた。

 ヒナの両手が、地面をえぐった。

「……もう、放っておいて」

 レイプされたのだ。しかも、化け物に。

 心の殺人と呼ばれる、最悪の犯罪であることを知っていた。

 この世界でも、変わるはずがない。

 だが、どうしていいかわからない。

 俺はヒナのそばに膝をつき、ヒナに顔を上げさせた。

 ヒナは舌を出した。

 舌を噛みきろうとしているのだと俺は思った。

 そうはさせない。

 俺はヒナの口を、自分の口で塞いだ。

 ヒナの口を開けさせるために、強引に舌をねじ込んだ。

 舌を噛まれた。

 痛い。

 俺は、自分の舌がかまれ、血が出るのを感じた。だが、間に合った。

 噛んだのが自分の舌ではないとわかって、ヒナも途中で力を抜いたのだ。

 ヒナの頬に触れ、ヒナの口に俺の指をねじ込みながら、ゆっくりと口を離す。ヒナは苦しそうに口をぱくぱくとさせたが、俺は少し乱暴に口を閉じさせなかった。 俺も痛かったのだ。自然に回復するのを待っていたら、一週間はまともな食事ができないところだ。

「死のうとするな」

 しゃべっただけで、舌が痛い。口の中は血の味しかしない。ヒナにかなり深くまで傷つけられたようだ。

 ヒナの口からゆっくりと指を抜く。ヒナは言った。

「……どうして?」

 本気で聞いているのがわかった。本気で、ヒナは死のうとしているのだ。

 どう声をかければいいのか、わからなかった。

 ヒナが死ぬと、俺は困る。この世界にきたばかりだ。

 ヒナが死ぬと、俺は寂しい。ヒナのことが好きなのだと思う。

 いずれにしても、俺のことばかりだ。ヒナが死んではいけない理由はない。

 いや、そもそもどうしてヒナは死にたくなったのだ。

 俺は、ヒナの行動を思いだした。

 俺に腹を立てて、俺を置いて一人でヤギの世話をしに出てしまった。

 一緒に俺がいたからといって、何が変わるわけでもないが、俺がこの世界にこなかったら、ヒナに何があろうと、それを知る人間はいなかったはずだ。

 ヒナが誰も知らないことのために、人知れず自殺するとは考えにくい。

 ならば、俺の理由でいいはずだ。

 俺は開き直った。

 もともと、人との接触は得意ではない。

 得意ではない人間が信頼を勝ち取る方法は、最低限社会人として身に着けているつもりだ。

 用は、一切の嘘をつかずに正直であることだ。

 人間的に信頼させる。これ以上の交渉術はない。

 あったとしても、俺には身に着けられない。

 俺は詐欺師にはなれない人間だと、経験上知っている。

 俺はヒナに言った。

「俺が困る」

「……どうして?」

「ヒナのことが好きだから」

 言った。果たして、正解なのだろうか。せめて、死ぬのを思いとどまらせるだけでもいいのだが。

「……昨日会ったばかりじゃない」

「一目見て、好きになった」

「……わたしに触りもしないくせに」

「それは謝る。俺は、本当に遠いところから突然来たから……」

 ヒナはじっと、俺の顔を見つめた。

 ひょっとして、ヒナも何か特別な能力を持っていて、俺の嘘を見破ろうとしているのではないかという不安に駆られた。もっとも、嘘は一つもついていない。そのつもりだった。

 ヒナの大きく見開かれた綺麗な瞳が曇り、涙があふれた。目にたまり、溜まりきれず、頬を伝った。

「わたし……もう……駄目かもしれないのに……」

 なにが『駄目』なのかは、ヒナは言わなかった。男に触れることか、あるいは生きることそのものか。

 俺がヒナの頬に触れると、ヒナは焼きごてでも当てられたかのように震えた。やはり、男が怖いのかもしれない。俺は声を落とした。

「なら、今すぐ、殺してやる。ヒナをこんな目に合わせた奴ら、一体残らず、殺してやる。そうすれば、ヒナも安心できるだろ?」

「……やめて、『ゴブリン』は凶暴だよ。ソウジが死んじゃう」

「俺だって、いざとなれば戦える。さっき、狼を殺したの、見ただろう」

「でも、『ゴブリン』はもっと力が強くて、頭がいいのよ」

 俺の知る限りのゲームでは、『ゴブリン』はただの殺され役だが、この世界では少しばかり違うようだ。

 魔法の石版を使いこなせれば、勝機はあると思っていた。使う隙があるだろうか。少なくとも、『ゴブリン』は二体いることは間違いない。

 狼から受けた傷も、治しきれていない。

 少しは休んだが、『生命魔法』を使えるのは二回が限界だろう。

 助けがいる。

 俺の目は、味方を見つけた。俺よりも強く、体力があり、この世界のことに通じている、頼もしい味方だ。

「なら、二人で殺そう」

 ヒナは、しっかりとうなずいた。

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