第13話 『ゴブリン』のこと
喉を潤した湧水の小川で体を洗い、血を洗い流す。
血は臭う。『ゴブリン』の嗅覚はあまり鋭くないようで、近くに隠れていた俺とヒナに気づかなかった。だがそれも、洞窟の中が血で満ちていたために、臭いが誤魔化されただけかもしれない。
俺は服を脱ぎ、服をぞうきん代わりにして体を洗った。血は止まっていたが、狼に噛まれた傷は痛んだ。傷口は開いたままだ。
実は一度『生命魔法』を使った。ヒナに噛まれた舌があまりにも痛かったため、我慢できなかったのだ。舌は完全に治ったが、残念ながらすべての傷を塞ぐことはできなかった。
狼の牙にばい菌でも入っていたのかもしれない。
ヒナも体を洗ったが、服は脱がなかった。
足を伝っていたヒナ自身の血と、『ゴブリン』のものと思われる体液を洗い流した。ヒナの足を洗うことを俺が手伝っても、ヒナは拒まなかった。
体を洗ってから、念のため泉に腰までを浸すと、傷だらけの足が悲鳴を上げた。
傷を洗うのは悪いことではあるまい。
痛みを伴うのは、肉体が生きている証拠だ。
だが、痛くない方がありがたい。
魔法には限りがある。できるだけ節約したい。
ズボンに染みついた血が、ただの沁みにしか見えなくなるぐらいまで洗い流し、俺は湧水から上がった。
すでにヒナは体を洗い終え、木陰に座って俺の苦しむ姿を静かに見守っていた。
何を考えているのかはわからないが、自殺しようという気配はない。
共通の目的を持ったことは、いまのところ上手く働いているのだろうと、勝手に解釈した。
「『ゴブリン』のこと、教えてもらえるかな? 思いだしたくもないだろうけど、俺は今日初めて見たんだ。それほど危ない相手なら、確実に殺せるように作戦を立てておいた方がいい」
「うん」
ヒナの声がしっかりしていたので、俺は安心した。もう大丈夫だろうと思いなかせら、泉から上がり、ヒナの隣に、ヒナと同じ方向を向いて座った。
「……食べる?」
『ゴブリン』の話をする前に、唐突にヒナが尋ねた。
ヒナがスカートのポケットから取り出したのは、小さなパンとチーズのかけらだった。弁当なのだろうか。
「いいのかい? ヒナのだろう?」
「私はいいの。後で肉を食べるから」
「……肉?」
「うん。『ゴブリン』の肉」
ヒナは俺にパンとチーズを渡しながら、歯をかちかちと鳴らした。
ヒナは大丈夫だと、俺は確信した。ある意味では、俺よりよほど大丈夫だ。
俺は硬いパンと濃厚でコクのあるチーズをかじった。
どちらにしても固いので、いきなり口に放り込むというわけにはいかなかった。
噛み続けなければ飲み込めもしないため、弁当としては最適かもしれない。少量でお腹が膨らむからだ。
俺が食べている間、ヒナは『ゴブリン』のことを教えてくれた。
体は人間の子供ぐらいしかないが、それはあくまで身長のことにすぎない。
全身が筋肉に覆われ、足が短い分、腕が長い。
皮膚が厚く、裸でも生活できるはずだが、動物の革を剥いで服にしているのが一般的だ。服を着るという習慣は、人間の真似をしていると思われる。
人間には理解できない独自の言語を話し、性質は獰猛で、知恵が回る。
筋肉の量に応じた力を持ち、つかまれると人間の肉体は簡単に破壊される。
なぜか人間に憧れを抱いているらしく、人間と性的な関係をもとうとすることが多い。ただし、怒ると見境がない。
ヒナから聞く限り、『ゴブリン』は緑色の体をしたゴリラの一種なのではないかと思った。
ゴリラは、動物の中で人間にもっとも近い、霊長類である。
ただし、本物のゴリラは独自の言葉を持っていないし、人間に性的な関心を持つことも決してない。なぜなら、人間とゴリラの間に子供が産れることはあり得ない。子供を作れない相手に、自然界の動物が性的に興味を持つことはない。
力が強いのは想定内だ。
そもそも、この世界で俺より力が弱い奴などいるのだろうか。
だが、知恵が回るのは面倒だ。
逆に裏をかけるかもしれないが、簡単には倒せないだろう。
「弱点は?」
「弱点って?」
「ネズミが怖いとか、水に弱いとか」
「そんなのがあったら、誰も『ゴブリン』を怖がらないよ」
「それもそうか。里の人たちは、『ゴブリン』をどう扱っているんだ?」
「里には……『ゴブリン』みたいなのが入ってこられないよう、バリケードが張ってある。里の男達が、いつも警戒しているよ。里に近づいたら、男達ができるだけ大勢集まって、殺す。もし、警戒していない時に突然あったりしたら……逃げるか死ぬね」
ヒナは簡単に言った。
結論は簡単だ。
逃げきれなければ、死ぬ。
それほどの敵なのだ。
どうしたものだろうか。『生命魔法』を何度も使えば、自分の肉体を強化もできるし、怪我を覚悟で突っ込むことも怖くない。死なない限り修復できるからだ。
だが、十分に魔法を使えるほど回復するのに、どれだけの時間がかかるかわからない。
再び『ゴブリン』が俺たちを探し出すかもしれないし、別のヤギを探しに行くかもしれない。
どこかに行ってくれても俺としては構わないが、ヒナのためにも、あの二体の『ゴブリン』は殺さなければならないと思う。
……どうしたものか……。
俺の足元に、アリの行列ができていた。
チーズの最後のひとかけらを落としてしまったのだ。
いつの間にか、アリがチーズの臭いを嗅ぎつけ、集団で担ぎあげようとしていた。
魔法の石版を取り出した。
「それ、なに?」
「見たことがないかい?」
ヒナは首をふる。俺にも説明はできない。
これ以上、ヒナに隠し事をする気にもならなかった。俺はヒナに石版の画面を見せながら、『精神魔法』をタップした。
ヒナは首を傾けている。
「何か書いてあるの?」
理解できなくても当然だ。日本語で表記されている。
「どう見える?」
「ただの板」
「……そうだね」
ヒナには、ただの板にしか見えないのかもしれない。石版に表示されているアイコンさえ、見ることができないのかもしれない。俺だけが見ることができるとしても、俺は驚かない。そういう仕様なのだ。
指をアリの行列に向け、俺は命じた。
「こっちに来い」
昨日の夜は、二匹の虫を同時に操ろうとして失敗した。アリならばどうだろうか。
俺の指の先にいた一匹が、行列から離れて俺の方向に進路を変えた。
一匹だけではなかった。方向を変えた一匹を先頭に、行列の方向がそもそも変わったのだ。
ヒナが驚きの声をだす。口を覆った。
俺も驚いていたが、想定の範囲内だ。あるいは、上手く行くかもしれないと思って試したのだ。
アリの行列が俺に従っている。二匹の虫を同時に操ることはできなかったが、一団の虫であれば可能だということだろう。
集団で統率がとれた行動を常とする虫の集団であれば、俺は従わせることができる。
魔法を解くと、アリの集団は立ち止まり、まごまごとしていた。
俺はただ見ていただけだが、アリの集団は蹴散らされたかのようにばらばらと行動した。目標を見失ったのだ。
「ソウジ……ひょっとして魔法士様?」
ヒナの声が一段高くなったことに気づき、俺がヒナの顔を見ると、ずっと沈んだままだったヒナの顔が、少しだけ輝いて見えた。
『魔法士』という言葉は知らなかった。だが、不思議な力をつい最近……昨日から、手に入れたことは間違いない。
「俺もよくわからない。できるようになったばかりだし……そうなのかな?」
「きっとそうだよ」
『魔法士』という言葉にどんな意味があるのかはわからないが、ヒナが嬉しそうなので悪いことはないだろう。ヒナは俺に抱き付いてきた。俺はヒナの顔に唇を寄せた。俺の動きに気付いたヒナが顔を上げる。
口づけをかわした。
ヒナはとても嬉しそうだった。
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