第7話 異世界の食事
ヤギの乳を飲むのは初めてだった。
元の世界ではもっぱら豆乳だった。
牛乳も好きだったし、ヤギの乳は牛乳よりアレルギーが出にくいと聞いたことがあったので、不安はなかった。
並々と注がれた器に口をつけ、一口含む。
美味い。
搾りたてのヤギの乳は、甘く、強い香りをもっていた。
空腹だったこともあるだろうが、五感のすべてを舌にもっていかれたような、濃厚な乳の味が広がる。
「美味いな……さすがに、毎日放牧させているだけある」
「そうでしょ」
ヒナは大きめのパンに噛みついて、契り取りながら笑った。
なかなか、野性味あふれる食べ方をする。
俺がお上品に一口大にちぎって食べると嫌味のようなので、俺もパンに噛みついた。
硬い。
岩をかじったかと思った。
だが、契りとり、奥歯まで届かせれば、味は悪くない。
味つけなどはされていないが、原料となった穀物の臭いが鼻腔に抜ける。
集中して食事をしたいのは山々だったが、せっかく向かい合って座っているので、俺は少しヒナに聞いてみた。
「ヒナはずっと、ここに住んでいるのかい?」
ヒナはチーズに噛みついていた。
パンの半分ぐらいの大きさのチーズにかぶりつく。
内容が質素とはいえ、ある意味ではとても贅沢な食事である。
「そうだね……里に住む者の中から、ヤギに良い草を食べさせる役に選ばれた娘がここに住むんだ。ここしばらくは、私がやっているからね」
「どうして娘なんだい? 大変なのに」
「人気がなくて寂しいけど、仕事はそんなに大変じゃないよ。里では、男はもっと大変なことをしているからね」
ここでの生活が大変だと思っているのは、俺だけなのかもしれない。
里の男達がどれだけ大変な仕事をしているのかは、俺は知りたいとは思えなかったので、尋ねもしなかった。
「チーズとかパンとか、肉はどうやって手に入れるんだい?」
俺はチーズというものがあまり得意ではなかったが、少しかじると発酵した臭いが凝集されており、鼻腔を直撃する。
腹が空いていることもあるだろうが、言葉にできないほど濃い旨味を感じた。
「ここに住むこと自体が仕事だからね。里から定期的に届けてくれるんだ」
「じゃあ、俺がここにいたら、ヒナが食べる分が足りなくならないかい?」
「食料は二人分、届くんだ。いつ誰かが泊まりにきても、住み着いてもいいようにね。三人になると足りなくなるけど、二人なら、ちょうどいいよ。いつも食べ切れないから、地下の貯蔵庫が一杯で困っていたところだもん。捨てるのももったいないしね」
なるほど、と思いながら、俺はヒナがあぶった肉に食らいついた。
牛肉ではないようだ。豚でもない。
やはり、ヤギだろう。
初めて食べる。
火であぶったのは正解だろう。
保存するために乾燥させて塩をすりこんだらしく、味も濃い。
香ばしく、食感も心地よい。
火を通していなかったら、俺には食べられなかったかもしれない。
硬かったのだ。
パンが硬いのとは次元の違う硬さだが、それゆえに火を通してあるのがありがたい。
ヒナが炎に喜んだのは、火を起こせない時は食卓に肉が乗らないのかもしれない。
食事は大切だ。
3品のうちの1品があるのとないのとでは、明らかに違う。
「ソウジのことも教えて。どこから来たの? ずっと遠く? どうやってきたの?」
ヤギの草場でも尋ねられた。
日本と答えて、理解されなかった。
「すごく遠いのは間違いないかな。気が付くと、草場に寝ていたんだ。気が付いたら、ヤギに囲まれていた」
「自分で来たんじゃないの?」
「そうだね……自分で来たのかというと、違うな。でも……ここに来たくなかったかといえば、そんなことはないよ」
俺は異世界へ行けるというゲームを起動し、この異世界へ来た。
異世界へ行くことを望んでいたのだ。
俺はヤギの乳を口に含んだ。
ヒナが続けて尋ねた。
「帰りたい?」
「帰るのだけはごめんだな」
もとの世界に帰れば、俺の内臓を売り払うためにガラの良くない男達が探しているはずだ。
ヒナが少しだけ嬉しそうにした。
本当に嬉しいのだろうか。
「仕事、俺も手伝うよ。明日も」
俺の心臓は、無様なほど高鳴っていた。
ずっとここに居たい。
そう言ったも同然であり、事実そう言ったのだ。
「うん」
ヒナは笑いながら、最後の一切れを、パンの上にチーズとベーコンを乗せたものを口に積めこみ、ヤギの乳で流し込んだ。
俺もほぼ同時に食事を終える。
「この後、まだ仕事はあるのかい?」
「もう暗くなるから、寝るだけ」
ヒナが俺の使った食器を重ねる。
ヒナの言葉に、俺は少し緊張する。
「ソウジの部屋はそっち。私はこっち」
「……うん。そうだよね」
一緒の寝室のはずがない。
ヒナは床の上にあった桶の中に食器を放り入れた。
「お風呂はないけど、体を拭くなら手ぬぐいと着替えもあるよ」
男物の服があるのだろうか。
俺が尋ねると、ヒナが小屋に住む前から置いてあるのだという。
時々、猛獣に襲われたりして人間の死体が見つかることがあるという。
服を脱がして血を洗い、清潔にしてしまってあるのだと聞いたことがあるという。
死体の服かもしれないが、形見だと思えば気持ち悪くもない。
俺は外に出て体を拭くことにした。
水は山から染み出す源泉である。
空気は温かかったが、やはり水は冷たい。
正直、皮がむけた手は痛かった。
それ以上に、腕と背中が痛かった。
どうやら筋肉痛らしい。
明日、本当に働けるだろうか。
俺が不安に思いながら体を拭いている傍で、ヒナが食器を洗っていた。
辺りは暗い。
見られてはいないだろう。
「こっちを見ないでくれよ。恥ずかしいから」
あえて言ってみた。
「見ないよ。私のほうが恥ずかしいから」
「いや、見られる俺の方が恥ずかしい。証明して見せようか?」
「どうするの?」
「ヒナが覗かれてみればいい」
ヒナは答えなかった。
冗談のつもりだったが、ヒナはまじめに受け取ったらしい。
ヒナの睨む目が……ということは、ヒナに見られたのだ。
握っていた水滴を俺に投げつけ、ヒナは顔を背けて立ち上がった。
……恥ずかしいのは俺の方だというのに。
ヒナが引っ張りだしてくれた男物の服は、サイズはぴったりだった。
故人の服であろうが、在りがたく着させていただく。
ヒナは俺に先に寝ているように告げた。
何をするのか問い返すと、体を拭くのだと答えた。
覗かないようにと、付け加えられる。
当然、俺は覗きたい衝動しか持ち合せなかったが、自重した。
しばらく、ヒナの小屋にお世話になるつもりでいたのだ。
いつまでとも言わない。
できるだけ、長くだ。
俺はヒナが外に出ていくのを見送ると、ヒナが用意してくれた俺の寝室に向かった。
干し草を丸太の上に積み上げ、シーツを乗せただけという、上等なベッドが俺を待っていた。
嫌味ではない。
部屋の中は干し草の臭いで満たされ、シーツに寝転がると程よく体が沈む。
シーツを突き出た干し草の残骸が少しちくちくするが、とても寝心地はよさそうだ。
だが、まだ外が暗くなったばかりだ。
現代人の俺にとっては、宵の口といったところなのだ。
当然、眠る時間には早い。
逆に、暗いので何をすることもできないし、そもそもやることがない。
明かりは小さな窓から入る星明りだけだった。
この世界にも星がある。
草地で寝転がっていた時にはちゃんと空を見ていなかったし、それ以降も見ようとは思わなかったが、太陽もあるはずだ。
俺が住んでいた世界と何も違わない。
違うのは、俺が知っていた(俺が囚われていた)文明が存在しないのと、『ゴブリン』などのやや特殊な生物が存在していること、俺の手の中にある得体の知れない物体が、俺に不思議な力を与えてくれることだけだ。
結構な違いだろうか。
――いや。
俺の想像した異世界のイメージより、はるかに普通だ。
俺は満足だった。
少なくとも、俺の内臓を売りさばきに探しに来る、怖い顔をした男達がいないだけでもありがたい。
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