第6話 火炎魔法レベル1
炎の気配。
そうとしか言いようのない感覚が集まってくる。
指先の空気が凝集したような感じの後、爪の先端に小さな炎が灯った。
草原で生みだした炎より小さかった。
意識しすぎたのだろうか。
とにかく、炎が出た。
俺は指先に灯った炎を、燃えさしの小山に向けた。
指先で小さな炎がちりちりと燃える。
熱い。
爪が燃えそうだ。
空中を飛んで行くように念じたが、炎はただ俺の指をあぶり続けた。
慌てて、指を前に出す。
風にあおられて、炎は消えた。
実にあっけない。
俺は全身に汗をかいていた。
消耗しているのがわかる。
ヒナが扉から出てきた。
俺の方を見ていたが、何も言わずに外に出ていった。
俺が頑張っていると思ったのだろうか。
俺は頑張っている。
今のところ、結果は伴っていない。
俺は深呼吸し、再び『火炎魔法』をタップした。
今度は初めから指先を燃えさしに近づけ、指というよりその先、燃えカスの山に意識を向ける。
ぽうっと音を上げて、乾燥した木の皮に火が灯る。
何もない空気中に炎を生みだすより、はるかに簡単に感じた。
俺は汗だくになって尻をついた。
炎は木の皮をちろちろと舐めるように燃えている。
俺は灰の中から救い出した薪の燃え残りを、炎に近づけた。
ごちそうをもらったピラニアのように、炎が薪に腕を伸ばす。
しばらくは燃えているだろう。
俺は尻を上げた。
ごく簡単なことのようでありながらも、不可能事を成し遂げたのは間違いない。
外に出ようと思った。
ヒナに教えなくてもならないし、薪が足りないと思ったのだ。
風が起きないように、慎重に扉を開閉して外に出ると、ヒナが干し草の追加を持ってきたところだった。
山小屋の、居住部分とは反対側に、干し草を保存する部屋でもあるのだろう。
「諦めた?」
ヒナは失礼なことを言う。
あるいは、俺が傷つかないように気を使ったのかもしれない。
どらちでもいい。
俺は興奮していた。
「火が点いた」
「ほんと?」
「ああ。薪を取ってくるところだ」
「早く見たい……扉、開けて」
「ああ。そうだな」
足では開けなかった。
はしたない、という意識があるのか、玄関の扉は重くて足だけではあけられないのかは解らなかった。
俺が扉を開けると、ヒナは急ぎ足で干し草を抱えたまま小屋に入っていく。
俺は急いで薪を取りに行った。
戻ると、ヒナが俺に背を向けて、暖炉に手のひらをかざしていた。
「薪だよ」
「うん。ありがとう」
ヒナに渡す。
ヒナは嬉しそうだった。
俺は隣に座る。
「よく点けられたね。私でも、一時間はかかるのに」
「運が良かったんだよ」
俺は嘘をついた。
ヒナは特に何も言わなかった。
信じたのだろうか。
ヒナは俺の肩に寄りかかった。
目の前の炎は温かかったが、俺には寄りかかるヒナの体温のほうが気持ちよかった。
炎を温かいと感じているうちは、これほど幸せを感じさせるものもないだろう。
だが、ずっと座っているだけで生活できるほど、この異世界は甘くないようだ。
ヒナは俺に微笑みかけてから立ち上がった。
「食事の支度をするね」
「飯だね。俺も食べていいのかい?」
「もちろん。久しぶり火を使った食事ができる」
「今までは、どうしていたんだ?」
「火を通さなくても食べることはできるからね」
ヒナはあくまでも嬉しそうだった。
「俺も手伝うよ」
「じゃあ、ヤギの乳を搾れる?」
なかなかの難題だ。
「やったことはないな」
「本当にこのあたりの人じゃないみたいね。ここじゃあ、ヤギの乳を搾れない人なんて見たことがないよ」
異世界の住人はたくましい。
俺が元の世界でもとりわけひ弱だとしても、たくましい。
「教えてくれればできると思う」
「うん。教えてあげるよ」
俺は奇妙なことに、異世界でスローライフを満喫することになりそうだと思い出していた。
木の板を組み合わせただけに見える桶は、じつにしっかりとしていた。
ヤギの傍らに座り、乳を搾る前に、俺は桶に感心した。
ヒナは俺が変なことに感心すると楽しそうに言いながら、ヤギの乳しぼりを実演して見せた。
なるほど、解らない。
ヒナは別の用事があるらしく、一通り教えると行ってしまった。
俺は、二頭のヤギと残された。
手とり足とり、教えてほしかった。
ヒナも忙しいのだろう。
食事の支度をすると言っていた。
ヤギの乳だけというわけにはいかないのだ。
俺は恐る恐る、ヤギのぶら下がった乳房に手を伸ばした。
ヤギは何も感じていないように、ただじっと立っていた。
俺が握ったのはヤギの乳首に当たる部分だ。
俺の掌と同じぐらいの長さがある。
人間より体は小さいが、乳首はとんでもなく長い。
俺は勝手に想像して面白くなったが、声を出して笑うと危ない人のようになってしまうので自重した。
ヤギの乳首を、ヒナがやって見せたように引っ張る。
俺の手の皮ははがれていたが、ヤギの乳首は柔らかく、温かかった。
むしろ、痛さが引いていくような気がした。
ただ引っ張っても、乳が出ない。
俺は色々と握り方を変え、引っ張り方を変え、強弱をつけてみた。
どうやら、ヒナを呼びに行かずともできそうだった。
桶の中に半分くらい白い乳がたまったところでやめてみる。
二人の食事用だとすれば、これぐらいで十分だろうと思ったのだ。
俺が乳を持って小屋に戻ると、テーブルの上に二人分の食事が置かれていた。
ヒナは暖炉の前で何かをあぶっているようだ。
テーブルの上には、硬そうなパンとチーズが木の皿に乗っていた。
正直腹が減っていたので、大抵のものは美味しく頂けそうな気がしていた。
「これぐらいでいいかい?」
俺が桶を見せると、ヒナはうなずいた。
うなずきながら、暖炉の火であぶっていた塩漬け肉を皿に移した。
ヒナがテーブルに運ぶ間、俺は命じられて木のお椀にヤギの乳を注いだ。
パンとチーズ、ベーコンとヤギの乳というのが食事である。
時間はわからないが、外は暗くなりつつあった。
夕食ということになるだろう。
内容は質素だが、もともと豪華なディナーを期待していたわけではない。
腹に入るだけで十分だ。
俺はヒナと向かい合わせにテーブルについた。
夫婦みたいだなと思い、勝手に照れる。
暖炉の火が温かかった。
だが、いいのだろうか。
「薪をこんなに使って、大丈夫かい?」
薪割りについては、俺は結局役立たずだった。
ヒナとて、得意というわけでもない。
「明日、また割ればいいよ。お風呂に入るには足りないけど、これぐらいは平気だよ」
「明日は、もうちょっと上手くできると思うか?」
俺はちょっと緊張しながら聞いた。
ヒナは当たり前のように答えた。
「あんなに簡単に火を起こしたんだから、ソウジはすぐに上手くなるよ」
俺が緊張しながら尋ねたのは、明日もここに居ていいとは、これまでヒナは一度も言っていなかったからだ。
だが、ヒナ自身が、俺が明日もいるのが当たり前のような口調だった。
俺は安心した。
行く場所がほかになかったのもある。
俺は案外惚れっぽいのかもしれない。
ずっとヒナのそばに居たいと思い始めていた。
「食べる前にお祈りとかするのかい?」
安心したら途端に腹が空き、俺は我慢できなくなった。
「お祈り?」
「いや、何でもない」
ヒナも腹が空いたのは同じだったらしい。
手がパンに伸びていた。
俺は苦笑を噛み殺しながら、俺が自分の手で絞り出したヤギの乳に手を伸ばした。
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