ある少女との出会い

第2話 魔法のタブレットとヤギの群れ

 いい天気だった。

 俺は気持ちのいい草地に寝転がり、空を見上げていた。

 柔らかな光が降り注ぎ、風が体を撫でる。

 唯一の欠点は獣臭さだろうか。


 ……ここはどこだ?

 

 大空に舞うコンドルらしい鳥影を見上げながら、俺は記憶を掘り起こした。

 自分の部屋で高額なゲームを手に入れ、起動させた。

 異世界へ実際に行き、二度と戻れないという、いわくつきのゲームで、俺のような居場所のない人間にはちょうどいいと思った。


 ここが異世界なのだろうか。

 体を起こそうとして、自分が何かを握っているのを思いだした。

 体を起こすのは一旦取りやめにした。

 急ぐ必要はない。

 まずは、何が起きているのかを確認することだ。

 俺の手には、タブレット型の携帯端末があった。

 見たことがある。

 自分の部屋で起きたことが、現実だったことの唯一の証明に思われた。

 もし、この端末を握っていなかったら、ひょっとして死んだのではないかと疑うところだ。


 俺は相変わらず寝ころんだまま、唯一現実と俺をつなぎとめていると俺が解釈している、手の中のものをじっと見直した。

 電源を含むすべてのボタンがなく、電波を受信していると思われる表示すらない。

 ただ、アイコンがあるだけだった。

 指で触れると、見たことがある説明が浮き上がる。

 実行するとどうなるのだろう。

 俺は、『精神魔法レベル1』と表示されているアイコンを強めに押し込んだ。

 つまり、タップしたのである。

 メーという、力強い鳴き声がして俺は驚いた。

 あまりにも近かった。

 至るところから聞こえたのだ。

 俺が首を上げると、草地に寝ころんでいることがわかる。

 それは予想通りだったが、予想していなかったのは、周囲をヤギに囲まれていたことだ。

 獣臭かったのも当たり前だ。

 俺は、周囲をヤギに囲まれて寝ころんでいたのだ。

 ヤギが何をしていたのかと言えば、草を食べていたのだろう。

 ただ、いまは違った。

 まるで俺が命令を下すのを待っているかのように、俺を囲むヤギたちが俺を見ていた。

「いや、何でもない。続けてくれ」

 突然のことに、言葉が出てこなかった。

 そもそも、ヤギに何を命令しろと言うのだろう。

 ヤギたちにしてみれば、自分たちの餌場に突然俺が現れたのかもしれない。


 俺は再び寝転がった。

 手にしていた端末を持ち上げ、思い至った。

 『精神魔法レベル1』とは、そういうことかと。


 精神という以上、物を考える相手がいなければ意味がないはずだ。

 では、実際に魔法が発動し、ヤギたちは命令を受けるために待ち構えていたということだろうか。


 面白い。


 俺は素直に思った。

 実際に命令を下す機会もあるだろう。

 本当に魔法使いになったような気分だった。

 だが、実際には何ができるのかはわからない。

 レベルが1というのも気になる。

 使っていけばレベルが上がるのかもしれない。

 最終的に、どこまでできるようになるのだろう。


 こんな力が、現実世界であるはずがない。

 なるほど、俺は異世界に来たのだと、初めて実感した。


 では、『生命魔法』というのはどんなものなのだろうか。

 非常に興味が持たれたが、怖いような気もした。

 魔法が本物だとわかったからである。

 異世界であれば、何をしてもいいのかもしれない。

 だが、異世界が虚構だという説明は、ゲームの説明書きにはなかった。

 異世界には異世界なりの文化があり、俺が侵入者なのだとしたら、下手に力を振るえば、犯罪者になってしまうかもしれない。

 だからといって、困ることもない。


 俺は思い返した。

 結局、『生命魔法』のアイコンをタップした。

 何も起きない。

 『精神魔法』の時もそうだったが、実際に魔法を使ってから、具体的に何かをしなければ意味がないのかも知れない。

 俺は首を横に向けた。

 一頭のヤギが草を食んでいた。

 このヤギが、異世界では人間に変わって支配しているということもないだろう。

 俺は命じてみた。

「死ね」

 ヤギは草を食み続けた。

 どうやら、魔法の使い方が違ったようだ。

 検証が必要だろう。

 しかし、魔法を使った途端に自分の『生命』が失われるという最悪の事態だけは避けられた。


 いまのところ使えそうな魔法が、もう一つあった。

 『未受信』となっていたたくさんのアイコンは、『未収得』へと変わっていた。

 『火炎魔法』と表示されたアイコンがある。

 俺はアイコンをタップした。

 何も起きない。

 おそらく、魔法を発動させただけでは何も起きない。

 この状態で、何をするかだろう。

 火炎魔法というからには、火を扱う魔法だ。

 俺は火のイメージをした。

 手のひらに、小さな炎が生まれた。

 熱い。

 俺は慌てて手を振り払った。

 炎が消える。

 もう一度念じてみる。

 もう少し上手くできないだろうか。

 だが、何も起きなかった。

 俺は端末を持ちあげた。

 再び『火炎魔法』をタップする。

 手のひらではなく、指先に意識を向けてみる。

 爪の先端に、小さな炎が灯った。

 熱くはない。

 この炎を、操ることができるだろうか。

 俺は炎に意識を向け、上に伸びるようにイメージしてみた。

 炎が消える。

 どうやら、現在のところ小さな炎を生みだすだけで精いっぱいのようだ。

 まだレベル1である。

 そのうち、巨大な炎も扱えるようになるだろう。


 とにかく、不思議な力を操ることができることだけは間違いない。

 以前は考えられなかったことだ。

 そうなると、現実と何ら変わらないように感じられることが、俺をかえって興奮させた。

 自分が超人になったような錯覚を覚えたのだ。


 初めて魔法を使った反動か、寝ころんだままなのに軽い疲労が襲ってきた。

 眠ってはいけないということはないだろう。

 眠りに落ちると、元の世界に戻ったりするのだろうか。

 それなら、それでもいい。

 元の世界に戻ったら、この不思議な力が失われるかもしれないとは考えなかった。

 本当に眠くなってきた。

 俺は握ったままだったタブレット端末を服のポケットにしまい、両手を枕の代わりにして目を閉ざした。


 どれだけそうしていたのかはわからない。

 眠っていたために時間の感覚はなかった。

 ただ、腹を蹴られて突然目が覚めた。

 相変わらず、空は青かった。

 降り注ぐ光は柔らかく、気持ちが良かった。

 俺の腹を蹴飛ばしたのは、俺の周りで草を食んでいたヤギたちだと理解した。

 首をめぐらすと、走り去る尻が見えた。

 一方向に向かい、集団で跳ねている。

 白い集団である特有の走り方のため、地面から見ると跳ねているように見えた。

 何かが迫っているのだろうか。

 ヤギが逃げるだけの敵が近づいているのだろうか。

 俺が寝ている周囲で、のほほんと草を食べていたヤギたちが、脅威だと感じた何かが近づいてきているのだろうか。

 俺は起き上り、ヤギたちが去った逆方向を見つめた。

 青々とした草地が広がっている。

 平らな大地ではなく凹凸が激しい丘の上だという印象を受けた。

 草地の向こうには、うっそうとした森がある。

 森の向こうから、何かが近づいているのだろうか。

 俺は恐ろしくなった。

 不思議な力をもらったといっても、まだ満足には使いこなせていない。

 何が潜んでいるのかわからない森に背を向け、俺はヤギのあとを追いかけるように走りだしていた。


 草地を走り、一つ丘を越えると、俺の不安はただの杞憂きゆうであることがわかった。

 ヤギたちがいた。

 ヤギたちは、細長い影を囲んでいた。

 ヤギたちに囲まれた、人間がいた。

 ヤギたちは人間に連れられていたのだ。

 ヤギたちの真ん中で、手のひらを舐められていた。

 ヤギが好む食べ物でも与えているのだろう。

 見る限り人間だ。

 まだ若い、少女のように若い、ヤギよりも白い肌をした、線の細い女性だった。

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