第3話 ヤギ飼いの少女
ヤギに囲まれた少女は、まるで殉教者に囲まれた聖女のように見えた。
と言うと、言い過ぎだろう。
俺は自分の体裁が上がらない風体を恥じながら、少女を脅かさないようにゆっくりと近づいていった。
どう見ても日本人ではない。
俺は日本語しか話せない。
学校の授業で覚えさせられた英単語のうちいくつかは覚えているが、会話ができるというレベルではない。
ヤギに囲まれた少女が俺に気づいた。
少女に対して敵意がないことを示すため、俺は両手を上げた。
異世界で、この所作が通じるかどうかすら、自信はなかった。
少女は俺を見ても恐れる様子がなかったため、失敗ではなかっただろう。
俺を見て、少し考えるように首を傾け、口を開いた。
「あなたは誰? どこから来たの?」
知らない言葉だった。
だが、意味は解った。
初めて聞くはずの言語なのに、俺の頭は日本語に変換して意味を理解した。
俺は、高額のスターターキットを思いだした。
ヘルメット型の機械は、結局何の意味があったのかわからなかったが、言語を強制的に学習させるための機械だったのだろう。
そんなものが実用化されていれば、もっと大きくニュースになったはずだが、俺はそこまで考えなかった。
とにかく、ゲームは高額だったのだ。
多少の優遇はあってもいいだろう。
この世界が、現実ではなくゲーム内の異世界だという証拠にもなる。
「俺はソウジ。気が付くと、そっちの草の上で寝ていた。ここがどこか解らないから、どこから来たのかも言えない」
俺自身の口からも、当然のように知らない言語が飛び出した。
実に驚くべきことだが、その驚きを表現しても少女には伝わらないだろう。
「ここは……ヤギの放牧地ね」
少女はあたりを見回しながら言った。
「それは見ればわかるけど……地名は?」
「地名……ヤギの丘って呼ばれているわ。そうね……あっちには人里があって、『孤児の集落』っていう名前」
あまり陽気な感じがしない地名だ。おそらく、本来の言語だと素敵な響きを持っているのだろう。
無理に日本語に直訳するから、妙な名前に聞こえるのだと、俺は自分に言い聞かせた。
「日本って、知っているかい? 俺の住んでいた国なんだけど」
「……『国』って何?」
国の概念がない。
ならば、日本を知っているはずがない。
俺は、ここが異世界だと確信した。
「そろそろ行かないと。最近、このあたりにゴブリンが住み着いたっていう噂があるの。夜行性だから、暗くなる前に帰らないと」
少女は言いながら、ヤギの数を数えだした。
仕事熱心でまじめだ。
俺も少し前までそうだった。
いつ変わってしまったのか。
このゲームの世界に入ってからだ。
なんだ、割と最近だ。
それにしても、少女は『ゴブリン』といった。
妙な日本語に直されなかったことから考えても、一般的な名称なのだろう。
俺も少しはゲームはやったことがあるし、ファンタジーものの物語も読んでいる。
『ゴブリン』は、旅に出た冒険者が通常初めに倒すことになっているモンスターだ。
恐れることはない。
少女にとっては脅威かもしれないが、このゲームのプレイヤーである俺が手こずる相手であるはずがない。
俺は、『ゴブリン』のことは気にせず、少女が数え終わるのを待って話しかけた。
「ここがどんなところか解らないし、何か手伝えることがあるかな?」
少女はヤギに声をかけながら、俺の顔をまじまじと見た。
瞳が透けるように美しい青色をしている。
化粧はしていないだろうに、唇がほんのりと赤い。
俺はあまりにも典型的な美少女の姿に、心臓が高鳴るのを恥じ入りながら、少女の答えを待った。
「手伝ってもらわなくても大丈夫だけど、行くところがないのね?」
少女の問いは的確だった。
「実はそうなんだ」
「この先に私が寝泊りしている山小屋があるから、一緒に行く?」
少女が一人で山小屋暮らしをしているのだろうか。
そんな美味しい、いや有りがたい、いや魅力的な……どう言っても誤魔化しにならないが、俺の期待と妄想を膨らまさせる状況があるはずがない。
仮に少女が山小屋暮らしをしていても、一人でいるはずがない。
誰も使っていないから、勝手に寝泊まりしていいとかいうことだろう。
いかにゲームの世界でも、そんな都合の良い設定があるはずがない。
俺は期待したくなるのを無理にこらえて、感謝の気持ちを顕した。
「助かるよ。俺にもできそうなことがあったら、遠慮なく言ってくれ」
少女はヒナと名乗った。
俺はソウジと名乗り返した。
「……期待してもいいかな?」
「頑張るよ」
ヒナと名乗った少女の意図を俺はよく理解せず、自分では当然と思ったことを口にした。
ヤギ飼いの少女ヒナが白い群衆と共に草地を移動する。
険しい山道を楽々と進むヒナに着いていこうとしたが、草地から森の獣道に入ったところで、体力的には全くかなわないことを自覚した。
ヒナには普段歩きなれた道なのだろう。
俺は、仕事ではデスクワークが多く、プロレス観戦が趣味なだけで普段はほとんど体を動かしていない。
ゲームの世界でも、体力はあまりにも現実に忠実に反映されているようだ。
先頭を行くヒナが、時々俺を振り返る。
少し心配そうだが、俺は強がって大丈夫の合図を送る。
「この子たち、全部で一八頭だから、数えながら来てね」
俺が最後尾になっても、役立たずにならないような配慮だろうか。
とてもいい子だと感動しながら、俺は遅れまいと懸命に下草をかき分けた。
ようやく道らしい道に出た。
石で舗装された山道である。
アスファルトの道路に慣れている俺の足には優しくないが、森の中よりははるかにましだ。
そう思ったとき、俺は自分が靴を履いているのに気が付いた。
部屋の中にいたので、当然裸足だったはずだ。
さすがに裸足では生活できないということで、サービスがついたのだろうか。
ちなみに、靴以外は、部屋着のままだった。
鎧を着せてほしいとまでは言わないが、もう少し格好いい服ぐらいは用意してほしかった。
舗装された山道に出て、ヒナは何かを探しているかのように立ち止まって首を動かしていた。
ようやく追いついた俺は聞いてみる。
「どうしたんだい? 探しもの?」
「ものじゃないけど……ああ、来たわ」
山道は斜めになっていた。高い方へ上る道と低い方へ下る道がある。
ヒナは上る道の先に首を向けた。
俺が見習うと、元気のよさそうな男の子が走って下ってきた。
「ヒナ、良かった。遅いから心配したんだ。待ちきれなくて小屋まで行っちゃったかと思ったよ」
「そんなことしないわ。二度手間だもの。じゃあ、頼んだわね」
少年は鼻をすすりながらにこやかに笑った。
「どうするんだい?」
状況がわからずに問いかける俺に、ヒナは少しだけ煩わしそうに答えてくれた。
「このヤギたちは、さっきの『孤児の集落』から預かっているの。わたしはヤギを草地に連れていく係なだけよ。里までは遠いし、毎日は大変だから、この子が里まで連れていってくれるの」
「……へぇ。小さいのに、偉いなぁ」
「小さくないよ。おじさん、誰?」
少年は感心した俺に暴言を吐いた。
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