第29話 森のエルフ
自分のことを『魔物』だと断言した白ウサギのアリスは、俺にむかってとことこと歩いてきた。
「ご案内します」
「ちょっと待て」
「どうしました?」
俺の方に近づいてきたのは、単にアリスが向かう予定の方向に俺がいただけらしい。俺が止めると、アリスはウサギらしく柔軟な首の動きを見せ、顔だけで振り向いた。
首の柔軟さはウサギらしいが、態度も動作にもウサギらしさは微塵もない。
「アリスは、魔物なのか?」
「そうですよ」
「知り合いの魔物というのは、『ゴブリン』か?」
アリスはウサギの横顔を向けたまま、驚いたようだったが、顔の表情はあまり変わらなかった。驚いたところで、ウサギはウサギだ。
「『ゴブリン』がいるんですか? どこです?」
「いや、いないだろう。以前に会ったことがあるが、俺が知っている魔物は『ゴブリン』だけだったからな。これから会いに行く魔物は、違うのか?」
「なんだ。驚かさないでください。これから会いに行くのは、エルフです。木の上に家を作るので、動物にも襲われません」
俺は立ち上がった。
腹が痛い。空腹を感じるような感じではなく、胴体の内側が痛かった。
立ち上がっただけで、口に血の味が広がった。
内臓が傷ついているのだろう。
激しく動けば、吐血するかもしれない。
魔物と戦闘になれば、逃げることもできないかもしれない。
しかし、アリスは『エルフ』と言った。
元の世界、特に日本では、定番の種族だ。森に住む種族として描かれ、耳が上方向に長く、触覚のように突き出て、魔法の素養にあふれているが、人間とは似て非なる種族として描かれることが多い。
実物に会えるとは思えなかった。
とても美しい種族だと聞いているが、日本人は不思議と美化しているとも言われている。会ってみるまでは、どんな人たちかわからない。
「魔物のアリスが、動物に襲われるのを恐れるのか?」
俺は、ゆっくりと足を動かした。
体がどこまで傷ついているのか、自分でもわからなかったのだ。
魔法の石版を使えば癒すことはできる。だが、簡単に治せる傷ではないこともわかる。
いまは、ゆっくりと癒す場所があるなら、そこに移動したほうがいいと考えた。
「もちろんです。ソウジさんは、魔物がどうして強いなんて思うんですか?」
「『ゴブリン』に会ったからな。少なくとも、『ゴブリン』は強いと感じた。俺が弱かったのかもしれないが。動物と同等の力があり、知恵があるなら、とても強いだろう」
「ああいうのもいますが、ほとんどの魔物は弱いものですよ。知恵がある魔物が多いのも、そうでないと動物に殺されてしまうからです」
「どうもわからないな。魔物というのは、魔法的な特殊な生き物だろう? なら、動物よりはるかに強そうなものだが」
俺がアリスを追い越すと、アリスが俺を追い抜き返した。
急ぐ時はやはり前足も使うらしい。四足で地面をぴょんぴょんと急ぎ、俺を追い越してから後ろ足だけで歩く姿に戻った。
俺が道を知らないこともあるだろうが、アリスはアリスなりに、俺を導くことへのプライドがあるのかもしれない。
「魔法的な特殊な生き物、というのは確かですね。自然に生まれた生き物ではありませんから。まあ、そういうことを魔法士に教えるために、わたしはこの辺に住んでいるので、教えるのは問題ありません。魔法士というのは、どういうわけか、決まって世界のことを知らないようですから」
やはり、この世界には複数の人間が、元の世界から訪れているのだ。この世界に来たばかりだから、世界のことを知らないのは当然だ。
つまり、魔法士とは異世界から来た人間の総称なのだ。推測にすぎないが、魔法士は俺が持っている魔法の石版を全員が持っているのだろう。そうでなければ、そもそも『魔法士』などという名前では呼ばれないはずだ。
「で、魔物とはどういう意味なんだ」
「ああ……そうでしたね。『魔物』というのは略した言い方です。正確には、『魔法生物』です。魔法で生みだされた、自然界に存在しているのとは少し違った生物のことすべてを意味しているのだと、わたしを作った人間は言いましたよ。細くって、わたしよりすこしだけ白くない人間のことですがね。おかしいな。このへんのはずなのに」
アリスはまるで独り言のように一方的に話し続け、立ち止まってくるくると首を回した。
「魔法によって生み出された? では、『ゴブリン』も? 何のためだ?」
「そんなことは知りません。ちょっと待っていて下さい」
ウサギのアリスは俺を置いて、草地のなかに入っていった。生命にあふれた森だ。樹木は大きく、下草はみずみずしかった。
アリスがどこに行ったのか、いつ戻ってくるのかもわからず、俺は太い木の根元に腰を下ろした。『このへん』だと言っていたのだ。遠くに移動する必要はないのだろう。
俺は一人となり、アリスが語ったことを整理しようとした。
魔物とは『魔法生物』の略であり、この世界の動物はほとんど俺がいた世界と変わらない。
いったい誰がそんなものを作ったのか、いずれ解明しなくてはならないだろう。俺にそんなことができるのかどうかは解らなかったが、誰かが故意に『ゴブリン』を作ったというのなら、作った人間にヒナに詫びさせなければ気が済まない。
だが、それ以上に……この世界は、ゲームの中でも異世界でもなく、現実ではないのか?
確かに『魔法士』と呼ばれる俺が存在し、元の世界には魔法などそもそもなかった。
だが、俺が持っている魔法の石版が、魔法だという根拠を俺は持っていない。ひょっとして、開発されたばかりの技術で、兵士の強化に使う前の実験装置なのだと言われても、俺は受け入れてしまうだろう。
いくら考えても、結論は出ないことは解っている。
アリスは、魔法士を導くためにいるらしいが、アリス自身にたいして知識がないことは、これまでの会話から明らかだ。
思考の堂々巡りが始まり、俺は魔法の石版を見つめた。
もう、回復してしまおうか。
痛む腹を抱え、そう思いだした時、俺の前に長い蔦が落ちてきた。
植物の蔦である。
自然に落ちてくるようなものではない。
俺が見上げると、植物を伝って細い影が舞い降りてくるのが見えた。
どんどん大きくなり、俺の上に影が被り、最終的に、俺の頭に降りた。
「……んっ? 地面にしてはよく弾むな。あっ……悪い」
俺をクッションにして地面に降り立ったのは、華奢で細い体つきをした棒のような印象を与える、若い娘だった。
――エルフ。
俺は衝撃で吐血した。
エルフは気高く、他者に干渉しないという印象があった。
俺の上に飛び降りたエルフは、ただあわてふためき、おろおろと心配していた。
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