第28話 森の魔物

 俺はうつ伏せに倒れたはずだった。

 目が覚めた。

 夢も見なかった。

 残念ながら、夢の中にもヒナは現れてくれなかった。

 俺のことを怒っているのだろうか。

 ヒナを怒らせた覚えはない。

 勝手なことをして、俺を売り、黙って自分の体をも売ったヒナに、怒る理由があるのは俺の方だ。


 初めて人を殺したかもしれない。

 この世界が異世界であることは疑っていない。だが、ゲームの中であるとは思えない。

 不思議と罪悪感はなかった。

 俺自身が追いつめられ、殺されかかった結果だからだろうか。

 このような状況で初めて人を殺したのは、これから先のことを考えると、幸運だったのかもしれない。

 今後も、人の命を奪うのに、理由がある以上、悩むことはないだろう。一度経験していることが大きい。

 これから先に、そのような状況が待ち受けているとは限らない。これから先があるかもわからない。

 先のことを考えられるのは、生きている者だけだろう。

 ――俺は、生きている。

 だが、体は動かなかった。

 起き上ろうとしたが、それすらも叶わなかった。

「……おや、起きましたか?」

 誰かに尋ねられた。

 俺は顔を地面に押しつけていたので、声の主を探すこともできなかった。

 誰かの声はした。聞いたことの無い声だ。

 あまりにも近くからした。

 俺の耳に話しかけているのだろう。

 息を吸い、土を吸い込んでいることに気づき、俺はせき込んだ。

 反動で、顔を上げた。

 色鮮やかな緑の森の、下草が広がっていた。

 下草の中央に、白い、小さな動物が立っていた。

 異世界にも、元の世界と同じ動物がいるようだ。

 ヤギがいたのだから、あるいは当然なのかもしれない。

 俺の目の前にいたのは、小動物の代表格、白ウサギだった。


 血の臭いと血の味がした。

 地面が赤く染まっているのは、草の上に俺が血を吐いたからだ。

 俺は気絶していながら、大量の血を吐いたらしい。

 うつ伏せに倒れたのは幸運だった。仰向けだったら、窒息していたかもしれない。

 いや、生きていたことが幸運だったのかもしれない。

 次第に意識がはっきりとしてきた。

 体を起こそうとして、やはり力が入らないことを知る。

 刺された二か所が痛んだ。

 槍が貫通したのだ。痛まないはずがない。

 傷口だけでも塞いで置かなければ、いまごろは死んでいただろう。

 顔を上げる。

 視界の先に、やはりその動物はいた。

 真っ白いウサギが、俺を見ていた。

「ああ。無理はしないほうがいいですよ。『魔法士』といっても、体は普通の人間と変わりませんからね」

 ウサギがしゃべったように、俺には感じられる。ウサギが近づいてきた。普通の近づき方ではなかった。

 ウサギは、後ろ足で立ち上がっていた。それ自体は、驚くことではない。後ろ足が極度に発達したウサギにとって、立ち上がることは座ることと同じぐらい当たり前のことだ。

 だが、移動するときは前足を地面に下ろすものだ。後ろ足で地面を蹴って得る推進力を確実に前に伝えるために、ウサギは前足を利用する。

 だから、二本の後ろ足を交互に動かして歩いてきたとき、俺は目を丸くした。

「……ウサギか?」

「ええ。そうですね……人間のように自分で名前をつけたりはしませんから、まあウサギとしか呼びようもないでしょう。よろしければ、わたしに名前を付ける名誉を与えてあげてもいいですよ」

「……いらん」

 俺は死にそうだと自覚していたため、能天気なウサギの話ぶりに腹が立って、再び顔を伏せた。

「それは残念。まあ、名前なんてなくていいですけどね。他のウサギと区別をつける必要もないのですから。それにしても……短時間でずいぶんと魔法を使いこなしているようですね」

 俺は顔を伏したものの、ウサギの物言いが気になった。本当にウサギが話しているとは、いまだに信じられなかったが、このウサギはヒナよりもこの世界のことに詳しいのではないかと思えた。

「……名前ならつけてやる」

 俺はもう一度顔を上げた。ただ、ウサギにへりくだるのは気に入らなかった。

「ええっ! そうですか。まあ、つけてもいいですよ」

「……アリスはどうだ?」

 不思議の国に連れ込まれた少女の名前を俺はつけた。連れこんだのはウサギである。ウサギに童話の知識があるとは思えない。何より、異世界だ。

「ふむ……ふむ……いい響きですね。では、私はこれからアリスと名乗ることにしましょう」

「名前が欲しくて、俺に呼びかけたわけじゃないんだろう?」

 俺は手に力を入れた。

 少なくとも、手があることは意識できた。

 ゆっくりと地面を押す。

 腹が痛んだ。

 だが、体を起こすことはできた。

 地面に座る。

 周囲の草が、真っ赤に染まっている。

「もちろんです。私は『魔法士』に知識を授けるのが役目なのです」

 アリスと名付けたウサギは、仰々しく腰を折った。その仕草は可笑しかったが、俺は笑わなかった。笑うと、腹に響きそうな気がしていた。

「俺は……『魔法士』で間違いないのか?」

「もちろんです。なんだと思っていたのですか? まあ、この世界に着たばかりでは、自分が『魔法士』だと知らない人がほとんどです。『魔法士』って何だと聞かないだけ、ましということにしましょう」

「お前……アリスは、異世界から来た人間を大勢知っているのか?」

 俺は、一般に出回っていないとはいえ、販売されているゲーム機でこの世界に来た。全員が同じ世界に飛ばされたとすれば、少なくとも数百人ぐらいは来ているのではないかと思ったのだ。

「いえ。あなたが初めてです。そう言えば、あなたの名前は……私がつけてもいいですか?」

「ソウジだ」

「ああ……初めからあるのですね。それは残念。まあ……人間ですからあるでしょうね」

 アリスは自分のひげを撫でつけた。それが、落ち着こうとしている動作だと感じ、俺は可笑しくなったが、やはり耐えた。

「魔法士に知識を授けるのが役目だと言っていたな。誰に命じられたんだ? 魔法士は……やはりゲームの中の存在なのか?」

「『ゲーム』? ……なんのことか解りませんが、命じたのは大きな人です。わたしから見たら、人間はすべて大きくて、ほとんどがひょろひょろとしていますけど、その人は特別ひょろひょろしていましたね。色は白かったですけど、まあ、わたしほどじゃないと思います」

 アリスは顔をぺちぺちと叩いた。今度は動揺しているのではない。白い毛並みが自慢らしい。

「そいつの特徴より、どういう立場の人間か教えてほしいんだが。仕事とか、性別とか、名前とか、解らないのか?」

「……わかりませんねぇ。興味もありませんし。わたしは、魔法士が来たら、ちぉんとやっていけるように知識を授けるよう言われただけです。見つからなかったら、それはもう仕方がないことです。でも、たまたまソウジさんを見つけましたから、色々と教えてあげますよ」

「俺が魔法士だと思った理由は、これか?」

 俺は魔法の石版を見せたが、アリスは首を傾けただけだった。

「それは何ですか? わたしがソウジさんを魔法士だと思ったのは、それだけ怪我をしているのに、死んでいないからです。ここで寝る前から見ていましたけど、自分で治療しているみたいでしたから、まあ、間違いないですよ」

 どうも、俺のことを魔法士だと判断した理由もあいまいらしい。

 所詮はウサギだ。話ができるし、人間のようなそぶりもするが、あまり賢くはないのだろう。

「まだ、怪我が治り切らないんだ。どこか、落ち着いて体を直せるところがないかな」

「なら、知り合いの魔物のところに連れていきます。いい人ですよ」

 アリスは、聞き捨てならないことを言った。知り合いの『魔物』? 『いい人』?

「魔物がいるのか?」

「……『魔物』なら、ここにもいますよ」

 アリスは、自分の顔を前足でさした。人間であれば、指でさすところに違いない。

 どうやら、俺には教えてもらわなければならないことが沢山あるようだ。

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