第六章 地下宮殿


 在位三年目、荘襄王 子楚しそは病を得て逝去する。

 太子 嬴政えいせいが王位を継ぐ。まだ十三歳の少年にすぎない。

 秦王政は、後見人の呂不韋りょふい相国しょうこくに任ずる。相国は丞相の上に位する最高位の官職だ。以後、呂不韋を敬って仲父ちゅうほと呼ぶ。春秋五覇の筆頭斉の桓公かんこうが、宰相の管仲かんちゅうを父のようだと尊敬して呼んだことにちなむ。父につぐ人、父の弟、おじを意味することばでもある。破格のあつかいだ。

 呂不韋は年少の嬴政を軽んじ、趙太后となった趙姫と組んで秦の国政を専断する。

      ∵

 太子政の国王即位は、かならずしも順調におこなわれたわけではない。病床に臥せた荘襄王が渋ったのだ。華陽太后がからんでいる。

 ある日、病気見舞いに宮中を訪れた呂不韋は、偶然、趙后に出くわす。かつての趙姫だ。一年ぶりになろうか。

 相手は、いまや押しも押されもせぬ皇后である。

「やあ、しばらく」

 ともいえず、黙って目礼し、すれ違おうとした。

 さきに衣の袖を引いたのは、趙后の方だ。

「ちょっと」

 という感じで、衝立ついたての陰に招き寄せ、

「わたし、もういや」

 とねて見せた。

 荘襄王が病床に臥せて、三月みつきになる。

 義母の華陽太后がこれ見よがしに、ひんぱんに見舞いにくる。ひとりで来るだけならまだしも、ときに孫の成蟜せいきょうの手を引いてくる。そこまでなら趙后も耐えることができる。しかし成蟜の母親、もと姫妾きしょうを連れてくるにおよび、ついに趙后は切れた。

 侍女からの注進を受け駆けつけたとき、姫妾は荘襄王の胸に顔を埋め、泣き崩れているではないか。かっとなった趙后はやにわに姫妾を引き剥がし、いきなり頬を打った。

 まさかのことに驚いた姫妾は、痛みを忘れて呆然とした。

 荘襄王は立ち上がり、趙后をなじろうとしたが、胸を押さえて昏倒する。

 血圧が急上昇し、病状が悪化したのだ。

 急ぎ呂不韋が召されたころには、もう趙后はいなかった。荘襄王は、ひとりぼんやりと天井の片隅を見つめている。

「丞相、太子はどうしているか」

蒙驁もうごう将軍について、諸国征討の軍略を実地に学んでおります」

 荘襄王は政の廃嫡を思案していた。

          ∵

 久しぶりの邂逅かいこうで、焼け棒杭ぼっくいに火がついた。

 改名するまえの異人に嫁いで十三年、荘襄王との間に隙間風が吹き、情緒不安定の趙后にとって、一番頼りになるのは、やはり呂不韋だ。その日を皮切りに、足しげく呂不韋のもとに通った。

 宮中のゴシップ雀にはまたとない極上のネタだ。息せき切って華陽太后までご注進におよぶ。華陽太后もまた十三年まえの古ネタ「政、出生の疑惑」の尾ヒレをつけて、「皇后と宰相、不倫復活の真相」を荘襄王の枕元でくどくどくりかえす。

 気弱な荘襄王は、本人らに事実を問いただす勇気もなく、疑心暗鬼におちいったすえ、ついに政の廃嫡を決意し、成蟜擁立の遺詔いしょう(王の遺言)を残そうとする。

 不穏な動きを察知した呂不韋は、数多あまたいる食客のひとりを使って御典医の薬を入れ替える。かねてより非常事態に備え、配下を通じて赤雨の秘薬を入手してある。

 赤雨の秘薬は、薬剤の配合しだいで、毒にもなれば薬にもなる。

 荘襄王はその晩年、酒に溺れた。酒と秘薬、いかにも危うい取り合わせではないか。直接の死因は、アルコール性心筋障害。これが、荘襄王三年(前二四七年)五月のことだ。

 荘襄王病死の報せは、将軍蒙驁軍の幕下ばっかで、軍学修行にはげむ政太子のもとに届く。政は急ぎ帰国の途についた。

 荘襄王の遺詔は、間に合わなかった。

          ∵

 荘襄王の葬儀は政の帰国をまって執りおこなわれた。秦の国王にふさわしい盛大なものだった。大勢の人が引きも切らず列をなした。みなが形式にしたがい、拝礼し、哭泣こくきゅうした。内容は空疎だが、参列者の数で、式場は熱気に満ちた。

 人の去ったあとの式場は、倍加して寒々と目に映った。

 母はぼんやりと物思いにふけっていた。

「ママ」

 政が声をかけた。思えば久しぶりのことだった。

 咸陽に来てなん年になるだろう。住む邸宅も違ったし、政はひとり立ちしだした。だから公式の式典以外には、ほとんど顔をあわせる機会がなかった。

 もっとも、最大の理由は、政があえてそうすることを望んだことによる。

「いいのかな、ぼくが秦の王になっても」

「どうして? あなたが王にならなくて、だれがなるの」

 母は、政に向き直り、厳しい口調で問いただした。

「だって、ぼくのパパは、ほんとのパパじゃないんでしょ」

 ――パッチィーン!

 森閑とした広い式場に、平手打ちの鳴る音が小気味よく響く。

 政は棒立ちになる。頬を押さえることも忘れ、母の反応に驚いている。

「いい、よくお聞き。あなたのパパは間違いなく、秦の荘襄王よ。異人から子楚、そして荘襄王に名前は変わっても、嘘いつわりなく、あなたのパパであることに変わりありません。それからもっと大事なことを話します。パパは、あなたを助けるために亡くなったのよ。このことだけは、ぜったいに忘れないでほしいの」

 はじめてみる母の毅然とした姿だった。

「政よ、おまえの寿命は、十歳まで、たった十年しかなかったのよ。それをパパは自分の分から二十年も引き出して、おまえにくれたんじゃない。パパ以外にだれがこんなことしてくれる?」

 母のほおに涙が伝った。

「パパが死んでもママは悲しまない。でもお前がいまのようにばかなことを考えていると思うと、悲しくて悲しくって、泣かずにいられない」

 母はその場に泣き伏した。

「ごめん、ママごめん。ぼくが間違っていた。もうこんなこといわないし、二度と思いもしない。パパは、ぼくのパパだけだ。だから泣かないで」

 政もまた声を上げて泣いた。母の肩を抱いて立ち上がらせようとした。母の肩は、軽く小さくなって感じた。

 式場の片隅には、お彩と無名道人が、政を気遣って潜んでいた。お彩もまたその場にうずくまり、声を押し殺して嗚咽おえつした。

          ∵

 宰相呂不韋は、秦国の政治経済を牛耳ぎゅうじっている。呂不韋は荘襄王の意を受けて、秦の国力を東に向けてのばすことに努めた。秦の国力増強が、呂不韋自身の商益拡大に直結したからでもある。戦にこと寄せて販路を拡大した。 邸宅を開放して賓客や遊説の士を招き、政・商あわせた天下盗りを夢想した。わが世の春の絶頂期といっていい。

 戦国時代、各国の有力者は有事に備え、私的に人材の確保につとめていた。私的とはいえ、集めた数は半端でない。数千人規模の個性的で優秀な頭脳を招聘したものだ。

 その中でも戦国の四君といわれる、斉の孟嘗君もうしょうくん・趙の平原君へいげんくん・魏の信陵君しんりょうくん・楚の春申君しゅんしんくんは、よく知られている。

 これに負けじと数を競ったのが、文信侯呂不韋だ。呂不韋は家僮かどう(下僕・召使い)一万人、食客三千人と豪語した。三千人の食客は、いずれ劣らぬその道の専門家ぞろいだ。

 呂不韋はかれらを総動員して、それぞれの見聞を著述させ、天地万物古今の事象を網羅する『呂氏りょし春秋しゅんじゅう』を編集した。百科全書と思えばよい。

 そしてこれを咸陽の繁華街に並べ、千金の賞金をかけて、諸国の知識人や文化人たちに向かって、

「一字でも添削できるものがいれば、千金を進呈する」

 と呼ばわった。

 大変な反響だったが、一字たりと訂正できるものは出なかった。

『一字千金』の故事である。一字が千金に値するほどの立派な文字や文章のこと、あるいは(一字の教えが千金に値するくらい)師匠の恩の深く厚いことを意味する。

          ∵

「まえにもたずねたが、おぬし、わしのもとで仕官する気はないか」

 無名道人を前にして、呂不韋は寛いだ口調でたずねた。いまや大国秦の相国である。相国の地位が丞相を上回ることはすでに述べた。秦王政はまだ少年で、実質的に秦を動かしているのは、呂不韋だ。

らちもない。隠れ墨者の方士に、宮仕えなどできる道理がない」

 にべもなく、道人は誘いを断る。むろん、呂不韋は断られるのを承知の上で、誘っている。

「いまさらながら、おぬしの腕には感服している。一度ならず、二度までも。まことにもって、みごととしかめようがない」

「なんのことだ。れごとを聞くだけなら、早々に退散いたす」

 百官をべる相国に、遠慮なくものがいえるのは、いまや道人だけだ。

「あいかわらず愛想のないやつだ。戯れごとなどではない。わしはおぬしの手際てぎわのよさを褒めておるのだ」

 先々代安国君孝文王につぎ、子楚荘襄王もまた短命で終った。昭襄王から数えると秦王政の即位まで、四代であしかけ五年という速さだ。偶然というにはあまりにできすぎている。

 呂不韋は、このことをついている。道人はかえって逆襲する。

「おぬしのしわざではないのか。しきりに薬を、赤雨にねだっていたことは知っている」

 赤雨は道人のもとで修行する方士だ。仙薬づくりの名人といわれている。呂不韋は否定も肯定もせず、「ふふっ」と、含み笑いをした。

「そのことはここまでにしよう。話というのは、政王のことだ。おぬしの存念を知りたい。いつまでおぬしの手もとにおいておく」

「それは、いぜんにも話したとおりだ。政王の元服まで。同じころわしの寿命も尽きる。それまではわしの手もとで、学んでもらう」

 この時期、呂不韋は絶頂期だ。その自信満々の男がため息をつく。

「おぬしの寿命がつきるころには、わしの余命も残ってはおらぬということであったな。すでに十年を割った。ところでおぬし、いまだに政王に天下一統の望みを託しておるのか」

「いかにも。そのためにこそ、生きながらえている」

 淡々と、つねに変わらぬ口調で、道人は応じる。

「政王にはまだ修行が必要か。このうえ方術の修行でもあるまい」

「国王に方術は無用じゃ。以後、王者の術を伝授したい。ただ、この道はわしには荷が重い。この道の達人をぜひご推挙願いたい。わしは影に回って、下から支える」

「それならばひとり、ふさわしい男がおる。おぬしにも引き合わせよう。李斯りしという」

          ∵

 李斯が秦に来たのは、荘襄王が亡くなり、秦王政が即位したばかりのころだから、前二四七年である。当時、李斯は三十三歳だったという。

 李斯の出身は楚国 上蔡じょうさい、いまの河南省南部、駐馬店市の郊外にあたる。はじめ郷里で小役人をしていたが、鼠を見て、同じ鼠でも便所にいるのと穀物倉にいるのとでは、行動も表情もまったく違うことに気付く。

「人の賢不肖は、たとえば鼠のごとし。みずかるところにるのみ」(人の「賢不肖」とは頭の良し悪しではない。どこに身をおくかでその人の価値がはかられる)

 便所の鼠は、つねにあたりを気にし、びくびくして糞を喰らっている。いっぽう穀物倉の鼠は、立派な倉のなかでまわりを気にすることなく、悠々として穀物をんでいる。この違いはなんなのだ。

 ――便所の鼠は、いつまでたっても便所の鼠にしかすぎない。穀物倉に移るにはどうすればよいか。

 かれは一念発起して郷里を出奔、楚国 蘭陵らんりょう)県(いまの山東 巷山こうざん県付近の蘭陵鎮)にある儒学の大家 荀子じゅんしの門を叩く。 そこで李斯が学んだのは儒学の礼法ではない。帝王術(政治学)だった。

 呂不韋は三千人の食客中から李斯を見出し、ろう(王の侍従官)として政王に推挙する。いわば王の教育係だ。

 呂不韋には、もくろみがある。

「李斯よ、おまえを秦王政の郎に任命する。しっかり教育し、ものの分かるおとなに育ててほしい。ただし秦国の政治はわしがるから、政治には関心をもたせるな。そうだな、なにか熱中できる趣味でももたせるとよい」

 李斯をいい含める。いわれるまでもない。李斯もまたこの役柄に徹し、呂不韋の側に組しようとした。穀物倉の鼠に納まる絶好のチャンスと考えたからだ。

 しかし、ことは意外な方向に発展する。

 三十三歳の李斯が十三歳の少年王の「おめがねにかなった」のだ。いや、「馬が合った」といったほうが適当かもしれない。

 会うなり李斯は、「便所の鼠」論を政に説いた。この率直さが、政の気に入った。

「便所の鼠は、ぼくも同じさ」

 ふだん軽口を叩かない政に、冗談をいわせた。

 趙国で人質の子として生まれ育った少年政は、いつ襲撃されて殺されるかわからない不安と恐怖の中で、つねにおどおどして暮らしてきた。食糧不足は深刻で、母の実家からの差し入れや呂不韋からのあてがい扶持の食糧も、ときに途絶えることがあった。そんなときには、なかば腐ったものさえ口にせざるをえなかった。ほかに食べるものがなかったのだ。便所の鼠、そのものではないか!

 だいいち、母になれなれしく接する呂不韋という存在が、少年には容易に受け入れがたかった。呂不韋が訪問すると、うきうきした調子で迎え入れる母に反発した。なぜか分からないが、緊張でからだが小刻みにふるえた。そう、まるで便所の鼠のように!

 ――でも、それを知られてはならない。

 こどもながらそんなことを考え、呂不韋がくるといつも、お彩の部屋に逃げ込んだ。

 お彩や無名道人がいなかったら、政は二重人格者になっていたかもしれない。 からだのふるえを隠すためには、自分の心を隠すことしかないと思い、表情を消すことを覚えてしまったからだ。政は呂不韋の前では、つとめて無表情をよそおった。

 似たような過去をもつ、もと便所の鼠同士なら、遠慮はいらないし、心を隠す必要もない。秦へ来てからも、公式の場ではけっして好悪の感情を見せない政が、李斯にたいしてだけは素顔をさらけ出した。

 便所の鼠もそうだが、李斯の「性悪説」「帝王術」の講義が政の心を開いたのだ。講義のたびに、政は率直な反応をみせた。政にとって李斯は、またとない教師といえた。

「人の本性は悪です。生まれつき善だという人はおりません。だからこそ人は学問し修養して礼儀を身につけ、善なる方向に向かって進まなければならないのです」

「まったく、そのとおりだ。趙にいたときぼくは、敵意の中で育った。敵意は悪の心がもたらすものだ。秦に来てからも、うさんくさい目であら捜しをしようとするものたちばかりだった。とうてい、善の心があるとは思えない。いずれ大きくなったら、ぼくは天下を統一して、悪を正し、人々を善の道に導くのだ」

 孟子が王道――王者の道を説いている。李斯は孟子のことばを用いて、覇者と王者の違いを説明する。

 ――力をもって仁をる者は覇たり。覇はかならず大国をたもつ。徳をもって仁を行なう者は王たり。王は大を待たず。

「武力で威圧しながら、仁政をよそおうものを覇者といいます。覇者はかならず大国からでます。力ずくで抑えるには、数が必要だからです。いっぽう徳のある心で仁政をおこなうひとを王者といいます。王者は大国を必要としません。数で抑えなくとも、みなが尊敬してくれるからです」

 ――力をもって人を服する者は、心服せるにあらざるなり。力贍らざればなり。徳をもって人を服する者は、中心悦びて誠に服するなり。

「武力を用いて人を服従させても、人はけっして心からしたがいはしません。力が足りないから、しかたなく服従しているだけなのです。仁徳で人を帰服させれば、心から喜んでしたがってくれます」

 覇者と王者の違いは、武力威圧と仁徳垂範の差だ。

 李斯は政に問う。

「政王よ、あなたはどちらをお望みか」

「もちろん、ぼくは王者を望む。しかしぼくの王者には大国が必要だ。中原七ヶ国をひとつにし、仁徳で心服してもらうのだ」

 李斯の指導は、少年王の心をとらえた。政は、李斯に師事した。

 李斯は、教師の役にはまった。呂不韋の意図に反し、李斯は政の教育に、己が人生の膏血こうけつをまともに絞ったのだ。

 こののち李斯は、自己の「帝王術」のすべてを政に伝授する。天子になる運命の子、天性の帝王政は「帝王術」のエキスを存分に吸飲し、秦帝国のあらゆる制度にこれを応用することになる。

          ∵

 はじめ李斯を教育係に抜擢したとき、呂不韋は、「政王にはなにか熱中できる趣味をもたせるとよい」と示唆している。国政から目を逸らさせるためだ。

 そのころ、李斯はまだ政のことをよく知らない。無名道人に手がかりを求めた。

「なにかほどよき趣味はござるまいか」

 無名道人には、呂不韋の腹のうちは手に取るように読める。

 しばらく考え、あることに的を絞った。

「よろしかろう。王にお勧めしてみる」

 道人は咸陽の郊外に政を誘った。お彩と三人の方士も同行する。

 咸陽の東、驪山の麓にいたった。

 いまの西安市臨潼区、省都西安から東北に二十五キロの地点だ。西安は昔の長安で、当時の首都咸陽は西安の北側に位置している。

「ここは覚えておいでか」

 趙の人質を解かれ、咸陽入りするその前夜一泊した地に近い。

「たしか温泉が湧いていた」

 そうだった。守護神白起が夢に出て、痛憤の涙を見せた。

 そのとき政は誓ったはずだ。

 ――自分の力で、すべての怨霊の怒りを鎮めてみせる。いずれ時期がきたら、どこかの地に大きな霊廟を築き、あらゆる亡霊が安住できる永遠の棲家としたい。

「ここがその場所なのか」

 政は目をつむって黙想した。

 霊気が漂っている。邪悪の霊気ではない。善なるもの、安らぎを招来する万物のおおもと、正気せいきが感じられる。

「ここだ。ここを霊場としよう。霊魂が安らかに眠れるよう、霊廟は地下に安置し、人の目には触れないようにする。のちのち開発で荒らされないよう、上にはしっかりとした建物を建てて保護する。そうとう大きな建造物が必要だ。そうだ陵墓だ。ぼくの陵墓をつくればいい。そうすれば、ぼくもいっしょにはいれる」

 政の考えは決まった。

 ばくぜんとだが以前から考えていたことだ。場所を決めれば、構想もまとまる。さっそく無名道人に打診する。お彩も三方士も大賛成だ。道人は造営工事の具体化に向けて、ただちに測量を開始する。もと墨者にとって、土木工事はお手のものだ。

 隠れ墨者とはいえ、道人の賛同者が無名の党派を組織し、秦を中心に活動している。道人は土木軍団に特殊工作を依頼した。全土から土木工事のプロが集結する。トンネル掘りの達人ぞろいだ。

 一方で、公式の許可を得るため、呂不韋に構想をもちかける。相国呂不韋に異存はない。予算をつけるよう李斯に命じて、差配させる。かくて、政の王陵墓造営工事がスタートする。

 のちの話だが、李斯は呂不韋失脚後、代わって宰相となる。以後、秦王政の右腕として墓陵工事の総指揮者をつづけるかたわら、帝国改革の企画実行に本領を発揮する。郡県制の実施、焚書坑儒の建議、度量衡・文字の統一など、始皇帝の独裁政権の確立に貢献するのだ。

 感激するとすぐに泣き出すくせのある白起が、例によって期待どおり大粒の涙をこぼし、乾いた大地に潤いをそえる。

謝謝シェシェ、ありがとう政王。これができたらわしのように幽明界を彷徨さまよっている多くの霊魂が救われる。ここへ来れば邪悪な霊も正義の霊に生まれ変わる。人にたたる物のもここでは善良な神霊となる。そんな霊場にしてほしい。人界では戦神といわれたわしだ。霊界でも守護神のお役目はつづけさせていただきますぞ。近衛軍団をひきい、未来永劫にわたって、ご陵墓をお守りいたす」

          ∵

 十三歳で王位についた秦王政は、即位の翌年、自らの陵墓造営を開始した。一九八七年、世界遺産に登録された驪山の陵園だ。いうまでもないが、当初は王陵としてスタートした。皇帝陵として完成したのは二世皇帝 胡亥こがいだ。無能な傀儡かいらいとして名高い二世皇帝にしてはあまりに偉大な陵墓ではないか。暗愚の帝王にできる仕事ではない。バックに演出者がいる。前述したが、のちに丞相となる李斯だ。

 ちなみに、二世皇帝 胡亥を「無能な傀儡」「暗愚の帝王」と酷評したが、これは「鹿をいて馬となす」の故事による。

 始皇帝没後、李斯に替わって丞相となった趙高が、二世皇帝に鹿を献上して「これは馬でございます」といった。二世皇帝も馬鹿ではない。「これは鹿ではないか。丞相、なにをいってるんだ」。笑って、周りの側近たちに同意を求めた。ふつうなら笑い話ですむ。ところが相手は宦官の趙高だ。ねちっこさにかけては、定評がある。なにか意図があって、われわれを試そうとしているに違いない。下手に答えようものなら首が飛ぶ。側近たちは、皇帝よりもむしろ趙高をはばかった。結果、答えが三通りに別れたのだ。趙高におもねるものは「馬だ」といい、その場の空気を読めないものは「鹿だ」といった。意志薄弱者は黙りこくった。正直に鹿だと答えたものが難癖をつけられ、のちに処罰されたであろうことは想像にかたくない。

          ∵

 陵墓の生前造営は始皇帝にかぎらない。恵文王・昭襄王など歴代の秦王や漢の武帝など多くの帝王が、金と時間を惜しまず、また盗掘をもおそれず、あえて実行している。いわば伝統であり、制度化されていたといっていい。問題とされるのは、厚葬か薄葬かという規模の差だ。始皇帝陵は、かけた経費と時間、そして埋蔵した内容において他を圧倒している。

 陵園の墳丘はもともと、東西に四八五メートル、南北に五一五メートル、高さは約一一五メートルあった。それが二千余年後のこんにち、全体的に三十パーセントほど縮小したかたちの墳丘として残されている。そしてこの墳丘の下に未発掘の地下宮殿が、存在しているのだ。『史記』が伝えている。

 地下宮殿は、「三泉を穿うがった」地下水の三層下、地下三十メートルにあり、「水銀をもって百川・江河・大海をつくり、からくりをもって相灌輸あいかんゆす。上は天文をそなえ、下は地理を具えている」という。「相灌輸」は、たがいに注ぎいれるという意味だ。

 現在、地下宮殿の存在は確実視されている。しかし実際に掘ることなく、リモートセンシングという電磁波や熱赤外線などを利用した科学的技法でのみ、探査が進められている。発掘は後世に委ねたのだ。

 陵墓の中心あたり、一・二万平方メートルにわたって水銀の異常反応が認められた。地下の河川を流れ、大海に注ぐ水銀が蒸発し、地表近くまで上昇した結果とみられている。地下に地上の空間世界を再現したという『史記』の記述を裏付けるものだ。

 埋蔵した財宝を守るため機弩矢きどしという機械仕掛けのいしゆみを敷設した。侵入者があれば自動的に発射し、侵入をくい止める攻撃型防犯装置だ。

 天上には日月星辰が運行し、地中の空間には江河に代表される河川が大海に注ぐ。江河は長江と黄河をさす。河川の水にかえて水銀を流し、循環させた。そのうえ、人魚のあぶらで火を点したというから念が入っている。

 陵墓の内部は、内外二重の突きかためた土の城壁で守られている。「版築」という。内城を外城で囲み、南北に長い長方形の回の字型を呈している。

 内城の城壁は、南北の長さ一三五五メートル、東西の幅五八十メートル、総面積七八・五九万平方メートル。南半部分と北半部分とに分けられる。城門は六ヶ所設置されている。

 外城の城壁は、東西南北四面の長さが異なる。西側二一八八メートル、東側二一八六メートル、北側九七一メートル、南側九七六メートル。総面積は約二一三万平方メートルとなる。

 外城によって囲まれた内側の総面積約二一三万平方メートルは、わが皇居の総面積約一一五万平方メートルのふたつ分には足りないが、かなりの広さだ。総面積十二万平方メートルの墳丘の下に、その十七倍の城都が隠されている。地下帝国の名に恥じない壮大な規模だといっていい。

 陵墓は、内城の南半部分にあたる地下宮殿の三分の二ほどを覆っている。地中の内城の北側には、寝殿しんでん便殿べんでん、外城との間には飤官しかんという建築群が構築されている。この場所からは、十四面体の石のサイコロが出土している。秦代の六博りくはくという双六すごろく遊びの道具だ。遊びのゆとりも考えてある。

 寝殿は墓主始皇帝の霊魂が日常的に起居飲食し、衣服を受け取る場所。便殿は始皇帝の霊魂が休息する場所。飤官は配膳の官署だ。地上世界とかわらない日常生活が営める設定だ。

 陵墓は、さまざまな陪葬墓坑に囲まれている。ふつうの陪葬墓に混じって、銅車馬坑・文官陶俑坑・馬厩ばきゅう坑・珍禽異獣(珍しい鳥獣)坑・跽坐きざ(正座)坑・葬儀坑・石質 鎧甲がいこう(石のよろいかぶと)坑・百戯ひゃくぎ(曲芸)陶俑坑などが配置されている。ぜんぶで百八十余基にもおよぶが、やはり圧巻は兵馬俑坑へいばようこうだろう。

 一九七四年、始皇帝陵の東側一・五キロメートル付近で井戸を掘っていた農民が偶然に兵士の頭の焼き物を発見した。これが兵馬俑へいばようだ。

 その後の発掘で、一号坑から四号坑まで四つの坑が確認された。ただし四号坑は空っぽだった。始皇帝の急死で、準備が間に合わなかったとみられている。三つの坑には全部で八千体の俑が地中に埋まっていた。その地中の空間を、兵馬俑坑という。

 兵馬俑といわれる実物大の兵士八千は、あたかも始皇帝陵を守るかのように、東に向かって配備されていた。その一部は、すでに一般に公開されている。

 俑は一体ごとに表情も体格も異なっている。それぞれに生けるモデルが実在したというまがまがしい説さえある。だとすれば、魂が乗り移った不朽の近衛軍といっていい。

 盗掘の痕跡もある。項羽のしわざとされる放火の痕が確認されているのだ。

          ∵

 秦王政は、異常な執着心をもって、この陵墓の造営を開始したとみてよい。この陵墓には、かれの強烈な自己主張が託されている。

 死後の世界は、いわば精神の領域だ。地下帝国の建設は、秦王政の自意識の体現からスタートした。六国制覇という地上世界の征服以前に、地下世界の征服にやや常軌を逸した興味をもったのだ。

 それはかれの不幸な幼少年期の体験に由来している。

 幼少年期の現実世界では、かれは日陰者の生活を余儀なくされた。趙という敵国で、つねに潜み隠れた存在だった。置き去りにされた人質の子というなかば捨てられたかたちのよそ者だった。怨霊の恰好の餌食となってたたられた。怨霊のご機嫌をとり、おどおどと大人の顔を盗み見て、じぶんたち母子おやこを品定めする世間のうわさに耳をそばだてて成長した。

 九歳で秦国に引き取られてからも、基本的な情況はかわらなかった。だれが敵でだれが味方か、少年の眼には容易に判断がつかなかったのだ。やがて少年は日常生活に疲れ、現実世界を疎ましく思うようになる。

 それが空想世界では一変した。

 少年のかれがつねに支配者だった。かれが王として架空の人民の上に君臨できた。かれの発する言動が法だった。すべての人民がかれを仰ぎ見た。少年は、容易に空想世界に浸ることができた。

 十三歳で現実に王になってからも、少年王に政治の実権は手渡されなかった。 相国の呂不韋に百パーセント押さえられていたのだ。

 呂不韋の前身は豪商だが、ただの商人上がりとはわけが違う。

 学識経験いずれをとってみても、群臣よりはるかに抜きん出ていた。さらに軍事においてもいっこうに引けをとらなかった。大将軍として大軍をひきい、東周を壊滅した。さらに近隣諸国を蚕食した。のちに実現する六国併呑の先駆けをはたしていたといって過言でない。王とはいえ年端のゆかない少年に、歯の立つ相手ではなかったのだ。

 ただし、陵墓の構想に関してだけは譲らなかった。少年王は、地下の大帝国に固執した。

「無益なことにこだわる」

 宰相にして豪商の呂不韋には、盗掘の対象に巨万の富をつぎ込む、いわば回収不能な投資に執着する政王の意図が理解できなかった。

 薄葬は呂不韋の持論だ。しかし陵墓の建設を積極的に勧めた手前もある。こどもの遊びと受け流し、政王のするに任せた。

          ∵

「ぼくの地下世界は、静止した沈黙の世界であってはならない。地上同様、人が暮らし、動物が駈けまわり、鳥が飛ぶ、そんな世界であってほしい。楽器が奏でられ、人が歌い、鳥がさえずり、川がせせらぎ、ときに風が鳴る、そんな光景をもちこみたい」

 政の要求はぜいたくだ。でもその実現方法を考えることは楽しい。

「うーん、むずかしいわね。暮らしを移すことはかんたんにできそうだけど、ほんとの食べ物は長持ちしないわ。本物に似せて、陶でこさえようかしら」

 お彩も知恵を絞る。実物にこだわらなければ、方法はある。

「動物たちも陶俑でつくれる。でも動きまわるのは無理だ。生きた鳥を放してもじきに死ぬ」

「音楽を自動的に流したり、止めたりすることは、できそうだ。川の水を流したり、風を吹かしたりも、工夫できる」

 趙統ら三方士も考えをめぐらし、アイデアをぶつけあう。

「ぼくの地下宮殿は、暗黒の宮殿なんかじゃない。天上には太陽が光り輝き、月や星が瞬く。宮殿はつねに真昼のように照らしだされているのだ」

「鏡の反射板を利用すれば、地上の光を地下に伝えることができるんじゃないか。燃える水を地底からひきこみ、燭台の灯心に送ることができれば、明かりは絶えない」

「霊廟は宮殿の下に置こう。東側に白起の近衛軍団をおいて、守ってもらう。白起だけで百万からの犠牲者がいる。これからもまだどれだけの戦争犠牲者が出るか分からない。広さだけは十分余裕をもって用意しておくべきだ」

「いずれはおれたちも、いっしょに入れてもらう。寂しくないように、遊び道具も忘れないでね」

 政たちの考えには、こだわりがない。発想は自由だ。できそうなものもあれば、とうてい不可能なものもある。

 こだわることはない。できることから実行する。それでよい。

 奔放な発想でスタートした地下帝国は、もはや空想の帝国ではなくなっていた。すこしずつ実行に移していったのだ。ただし空想を実現するには、たとえ手前勝手だったとしても、たゆまない根気と才知が不可欠だ。長い年月にわたり、多くの叡智と巨額の資金も必要とされる。

 少年の夢みた虚構の設計は、地下帝国の実現をめざし、少しずつ具体的に動き出したのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る