第二章 方士お彩


「政ちゃん、朝ごはんよ。早く起きて食べなさい」-

 厨房だいどころから朝餉あさげの香りとともに、張りのあるお彩の声がとどく。

 このところ朝の目覚めはよい。病魔にとりかれた数年前までを思うと、夢のような違いだ。

 ――あの方士の予言はあたったのかもしれない。ぼくの病気はもう治ったのだ。でも気持ちがいいから、もう少し寝ていてやろう。

 政はお彩に甘えている。からだが弱かったころの癖が抜けず、目が覚めても自分からとこを飛び出したことがない。いつもお彩に布団ふとんをはがされるまで、床の中でぐずっている。

 政の一日は、きょうもまたお彩の小言こごとからはじまる。

「だめよ政ちゃん、いつまでも赤ちゃんじゃないのよ。爸爸パパがいない分だけ、早く大きくなって媽媽ママを安心させなきゃ」

 おとなびた口調のお彩にたしなめられ、手をひっぱられてようやく政はゆっくりと起き上がる。

 ちなみに、ここでいう爸爸(パパ)や媽媽(ママ)は外来語ではない。古来、中国で使われてきた、れっきとした中国語だ。パーマーといういいかたもある。

 すでに日は高い。朝の陽光が庭いっぱいに広がっている。でも塀の外へは出られない。警護の兵が門を固め、外部からの敵対者を防いでくれている。そのかわり監視者として政の自由な行動を拘束している。月に一度お城に上がり、趙の王さまにご挨拶する以外、私的な外出は禁じられているのだ。

 ――いいや、また隣の塀を乗り越えてやる。

 隣家の警備はゆるい。隣の塀なら分けなく越えられる。そして、隣の屋敷の庭先にもぐりこみ、門番の目を盗みさえすれば、容易に外へ出られる。政はひそかな冒険をたくらんで、わくわくした。

 お彩に手伝われ身づくろいを済ませ、歯を磨いたあと、屋敷内の廟堂でご先祖さまに礼拝を捧げ、ようやく食事がはじまる。朝食のあとは、やはり屋敷内の学堂で勉強する。先生ひとり生徒ひとりのマンツーマン授業だ。物心ものごころついたときには、もうスタートしていた。

 素読そどくと習字が主な内容だ。教材には、いまはやりの『老子ろうし』や『荘子そうじ』の言行録げんこうろくを用いている。意味を考えず、まず声をだして読む。暗誦できるくらいに読み込むと、「読書 百遍ひゃっぺん意おのずから通ず」といって、ひとりでに意味も分かってくる。

 たとえば『荘子』に、「夢に胡蝶こちょうとなる」という一節がある。

「むかし、荘周そうしゅう(荘子の名)夢に胡蝶となる。栩栩くくぜんとして胡蝶なり。みずから楽しみてこころざしかなえるかな。周たるを知らざるなり。にわかにしてむれば、すなわち蘧蘧然きょきょぜんとして周なり。知らず、周の夢に胡蝶となれるか、胡蝶の夢に周となれるかを。周と胡蝶とは、すなわちかならずぶん(区別)あらん。これをこれ物化ぶつか(万物の変化)という」(栩栩然は、楽しげなさま。蘧蘧然は、あきらかなさま)

 夢と現実うつつはざまで人は生きている。現実と思えばこそ、悩みや迷いが生まれ、苦しむことになる。夢と思えば、苦しみは超越できる。

 数えで八歳になったばかりの政に、理屈はいらない。人は胡蝶に変身できる。おおとりりゅうにも変身し、宇宙(天地、時空)を越えて自由に飛翔できる。それだけでじゅうぶんだ。敵地に送られた人質の子に生まれ、自由に屋敷の外へ出られない政は、夢想の中でこそ手足を伸ばして自由に生きられる。地上の時空は限られていても、夢想の中の時空は無限だ。だから、塀を乗り越えるひそかな冒険は、夢を現実につなげてくれる、大事な遊びなのだ。

 午後からは撃技げきぎ、いわゆる武術の稽古がある。剣・ほこ(ぼうげき)・弓など武器を使うものから、手搏しゅはく(拳技)や角力すもうなどの体術まで含まれる。これも素読と同じで、基本は素振すぶりとかたの反復練習だ

 俗に一日素振り千本というくらいで、はじめは緩慢な動作のくりかえしにみえても、やがて身につけば、単純な剣の素振りでさえ実戦で通用するようになる。 上達してくると、振り下ろす剣に瞬発的な力とスピードが加わり、シュッという音を立てる。空気を切る音だ。槍や拳の突きからも音が出るようになる。

「目にもまらぬ早業はやわざ」とは、こういうことをいう。ただの棒振りなら、なん年やっても音は出ない。空気は切れない。

 とりあえずは屋敷の庭でできるものに限られるが、条件さえ許せば騎馬や操船も可能だ。老師せんせいはすべてお彩が一手に引き受ける。

彩姐ツァイチェ」(お彩ねえさん)

 小さいころから政は、お彩をそう呼び、実の姉のように慕っている。お彩は十三歳、五つしか違わないが、成長しきれない政から見ればいっぱしのおとなだ。

 政は生まれつきからだが弱かった。去年まで毎年のように大病を患っていた。そのうちでも死ぬほどの重病が二度あった。

 最初のときはまだ三歳のときだったから記憶はあいまいで、自分でもよく憶えていない。のちに母やお彩から聞いた話が、記憶のほとんどを占めているように思う。病気が治ったとき、もう父はいなかった。生まれ故郷の秦へ帰ったと聞かされた。

「いずれお迎えが来て、お前も秦の都咸陽へ帰るんだよ」

 そんなことを母からいわれて育ったが、母も咸陽へは行ったことがなかったから、まるで説得力に欠けていた。帰るといわれても、この邸宅しか知らない政には、さっぱり見当がつかなかった。咸陽の名だけが記憶に残った。

(ぼくの故郷は咸陽だ。だとしたらこの邯鄲はなんだろう)

 五歳のときまた大病を患った。母は半狂乱で、秦から迎えに来ない父の異人をののしった。母の実家の人たちに混じって、呂不韋りょふいという男が付き添うこともあった。呂不韋は商人で、秦と趙との間を自由に行き来しているらしい。

 まいにち微熱がつづいて、からだがだるく、朝起きるのさえ苦行のひとつかと思い込んでいた。それというのも寝ている間、夢の中で、意味の分からない呪詛じゅそのろわれ、熟睡できなかったからだ。

「お前を呪ってやる。お前をとり殺してやる」

 亡霊やものが日ごと夜ごとあらわれては、幼い政を呪って熟睡を妨げた。

「わしらは秦にあなうめされた。秦は悪魔の国だ。だから、秦の公子異人の子のお前は悪魔の子だ。いつかお前も坑殺してやる」

 死に切れず、土中でうごめく人びとの恨み声が、罪のないこどもの耳元でささやかれた。意味も分からぬまま、ただただ政は呪詛に耐えるよりほか、しかたなかった。

 お彩がひっしに祈祷し、看病してくれた。ときに呪詛は鎮静したが、重篤の場合は扱いかねた。そんなとき、無名道人むみょうどうじんという旅の方士が訪ねてきて、二、三日祈祷をあげてくれることがあった。この祈祷のあいだは、見違えるほど元気になれたから、からだの具合が悪くなると、いつもこの方士が来るのを心待ちしていた。

 無名道人は屋敷の一角にほこらを建てて、悪霊を鎮魂した。招魂塔という小さな石塔も建てた。秦の戦神 白起将軍を祀ってあるそうだ。そして、

「白起将軍は政君せいぎみの守護神で、一生きみを護ってくれるから、大事にして、まいにち欠かさずお祈りするんだよ」

 と教えてくれた。

 政はいわれたとおりに、まいにち手を合わせて真剣にお祈りした。そのころから呪詛のたたりが、すこしずつ消されていったように思う。

「無名道人のおじさんは、わたしのお師匠ししょうさんなのよ」

 いつだったか、お彩ねえさんが話してくれた。

「戦があって両親に死なれ孤児みなしごだったわたしは、無名道人に拾われたの。いっしょにつづける旅のあいまに、方士になるための勉強をしたわ。いずれはわたしも方士になるつもりだけど、修行しなければならないことは、まだいっぱい残っている。政ちゃんが大きくなるまでは、政ちゃんのお世話をしなければならないので、そのあいだは道人のおじさんがときどき訪ねてきて教えてくれたことを、自分で繰り返し復習するのよ。ずっと小さかったころから修行していたから、たいていのことは教えてあるというけど、自分では分からない。もっともっと教わらなければ」

「でもお彩ねえさんは、たいした腕前だって、みんながほめているよ」

 政にはお彩が誇りだった。まだ幼かったころ、襲ってきた賊を一撃で叩きつけ、助けてもらった話を、母から聞いたことがある。悪霊にとり憑かれ、熱でうなされているとき、ひと晩中祈祷して悪霊を退散させたのもお彩だった。自分より五つ大きいだけなのに、お彩ねさんは、なんてすごいんだろう。老師せんせいは政のアイドルを兼ねていた。

「ぼくも大きくなったら方士になれるかな」

「だめよ、政ちゃんはパパが秦の王さまになって、その太子たいし(王子)になるんだから。呂不韋のおじさんがいっていたでしょう」

「ぼく、あのおじさん嫌いだ」

 政はこども心に、呂不韋にたいしてなにか分からない不快感があった。母が呂不韋とふたりでいるとき、入り込めない雰囲気を感じていた。呂不韋が訪ねてくると、母はいそいそとして迎えた。呂不韋は来るたび、食糧や衣服やお土産をたくさん持ってきてくれたから、それを心待ちしていたとも取れるが、それだけではないような気がしていた。幼いとはいえ成長期である。呂不韋と戯れる趙姫の発する嬌声を、政はしだいにうとましく思うようになっていた。

 母は自分だけのものではない。いつか呂不韋がさらっていくのではないか、とさえ思った。だからけっして表には出さなかったが、心の中ではつねに呂不韋を拒否していた。

 いつのころからか呂不韋が訪れると、物陰に隠れた政のからだが小刻みにふるえるようになった。それが母に知れてから、やがて呂不韋は邸宅には来なくなり、政が病気のとき以外は、母もあまり家に居つかなくなってしまった。家にいても用を見つけては、好んで外出した。たぶん母にしてみれば、鬱陶うっとうしかったに違いない。

 母は趙人ちょうひとで、実家は邯鄲にある。人質の子として邸宅内に拘束されているのは政だけで、母は実家の金の力で自由に出入が許されていた。それに母は結婚するまでは、「邯鄲一の舞姫」といわれた歌舞界の花形スターだったから、邯鄲の政財界からお座敷がかかることがたびたびあった。呂不韋の指示で、趙の政界情報を収集しているのだという話を聞いたこともあったが、こどもの政には分からない。

 幼い政の記憶の中にあるのは、酒に酔ってやたら優しい母か、こどもを相手に恨み言をこぼす哀れな母かの、どちらかだった。

「ねぇ、政ちゃん。あなた大きくなってもママを見捨てちゃいやよ。ママがあなたを大事にするくらい、あなたもママのことを大事にしてね。男は女をやさしくするものなのよ。叩いたり捨てたりして、女を泣かせるような男になったら、ママは死んじゃうから」

 なかば呂律ろれつの回らない酔っ払いの口調でそういっては、政のまえでさめざめと泣いて、

「異人の薄情もの、趙のやつらがまいにち、あたしらをいじめているというのに、なんで早く迎えに来ないんだ!」

 と罵り、泣き疲れてそのまま寝入ることも珍しくなかった。

 しかし素面しらふのときは、別の一面を見せることもある。

 あるとき機嫌よく、お彩を呼んだ。

「ちょっと、お彩ちゃん、いらっしゃい」

 午後の稽古中だったから、お彩は稽古着のまま、趙姫の居室に行った。趙姫はお彩を前に立たせ、頭のてっぺんから足先まで、なんども見つめなおした。

「あんた、いつも男の子みたいにへんな着物ばかり着ているのね。すこしは女の子らしい着物を着てみたら」

 そういって、もってきた衣装に着替えさせた。そして髪型も直し、化粧をしだした。お彩はいやがったが、趙姫は無視した。

「はいできあがり。どう、綺麗になったでしょう」

 鏡に映ったお彩は、見違えるほどの美人に生まれ変わっていた。

 趙姫は羽毛の扇をお彩に渡し、

「わたしの真似をしてごらん」

 と、こんどは踊りを教えはじめた。お彩は趙姫について手足を動かした。

「あんた筋がいいわね。それとけっこう綺麗に見えるから、私の跡継ぎやれるかもね」

 そして、小窓から覗き見していた政を見つけ、叱りつけた。

「政ちゃん、覗き見してないでお部屋に入りなさい」

 政はドアを開けて、こそこそと中へ入った。

「ほんとに、お彩ねえさんなの。とっても綺麗だ」

 こどもの目にも、お彩は美しく輝いて見えた。

 お彩は目をそらして口紅を袖でぬぐった。袖口が紅く染まった。

「あっ、お彩ねえさん照れてらぁ」

 めずらしく政がはしゃいだ。お彩の着物をひっぱって、からかった。

 お彩は政を打つまねをして、趙姫のうしろへ隠れた。

「おばさん、叱ってやって。政ちゃんがいじわるする」

「また、おばさんていう。なんどもいってるでしょう。おねえさんていいなさい。おねえさんって」

「はい、おねえさん」

 お彩はよほど嬉しかったのか、涙目になっている。趙姫はお彩をしっかりと抱きしめ、涙をぬぐってやった。化粧が流れた。

「いつも政ちゃんの世話ばかり押し付けてごめんね。咸陽からお迎えがきたら、きれいな着物をきて、いっしょに行こうね。もうしばらくの辛抱よ。だからそれまで、お願い」

 ときどき母の気持ちに戻る趙姫には、お彩の苦労はよく分かったし、その存在はありがたかった。三歳からこのかた、一番大変な時期の政を任せっぱなしにしてきたのだ。生活の世話から看病まで、いまでは学問から武術のはてまで教育してもらっている。どれだけ感謝してもしきれない。お彩だってもう十三、四歳になる。そろそろ女の子らしい生活に戻し、嫁入りにふさわしい躾をしてやらなければならない。

「秦へ行ったら中国で二番目に綺麗な花嫁にしてあげる」

 お彩を抱きしめながら、趙姫は殊勝にもそんなことを思い、お彩の耳もとでささやいた。

「どうして二番目なの」

 耳ざとく聞きつけた政がたずねた。

「一番はわたしで、お彩は二番目、分かった?」

 人質だった異人とは、趙国では仮の祝言だけで済ませ、まだ正式な結婚式を挙げていなかった。

「秦へ戻ったら、中国一の結婚式を挙げる」

 それが約束だった。

「でも、お彩ねえさんはぼくのお嫁さんになるんだから、きっと中国一だよ。だからママは二番目」

 政は口を尖らせて抗議したが、趙姫は取り合わなかった。

「はいはい、おませな未来の天子さま。よおく分かりましたから、お部屋へ戻ってお昼寝してらっしゃい!」

「わたし、綺麗な服なんていらない」

 お彩は着物を脱ぎ捨て、もとの服に着替えると、部屋の外へ駆け出していた。

          ∵

 午後の稽古が終ると、夕食まで自由時間だ。自習をしたり、昼寝をしたりして、自由に過ごす。政は昼寝をする振りをして、部屋を抜け出した。きょうもまた、塀を乗り越えて冒険するのだ。塀のそばに古い樹木が立っている。塀越しに隣の庭に枝が伸びていて、ふといつたを垂らしている。あつらえの侵入口だ。

 政は木に登ると、足場を探って、塀の上から蔦にぶら下がり、向こう側へ飛び降りた。なんどもやっているのでお手の物だ。

 しかし、きょうは勝手が違った。

「待て、泥棒か。それにしては、ずいぶんチビな泥棒だな」

 片膝を突いて飛び降りた政の目の前に、木刀を手にした少年が突っ立ち、政を見おろして勝ち誇ったようにいった。

 とっさに政は身をひるがえし、逃れようとした。少年は容赦なく頭上から木刀を振り下ろした。

(あっ、打たれる!)

 首をすくめて目を閉じた政の頭上で、木刀がはじきとんだ。

「おあいにくさま、危なかったわ。そのまま木刀で打たれていたら、大けがするところだった。すこしは相手の身にもなって、手加減してよ」

 弾弓だんきゅうを手にしたお彩が、塀の上から飛び降りた。小石を射って、木刀をはじきとばしたのだ。

 弾弓とは弓の一種で、矢のかわりに小石や金属の塊を射る飛び道具だ。大き目のパチンコと思えばよい。丸めた粘土や小ぶりの卵も、相手の意表をついて驚かす効果がある。

「泥棒かどうか、様子を見れば分かりそうなものだけど、ずいぶん無神経ね。まぁ、よそのご邸宅に勝手に入ったことは、先にあやまっておくわ。お隣の子だね。名前はなんていうの」

「た、たん、たんというんだ」

 丹は、あっけにとられて、お彩を見た。こんな女の子は見たことがない、という顔をしている。

えんの太子ね。こちらは秦の公子の子で、政。趙の人質同士じゃない。仲良くしてやってね」

 国王のこどもは公子で、そのうち次の王になる跡取りの王子を太子という。燕は邯鄲の北方四百キロ、いまの北京付近にあったけいを都にした国だ。丹は、政よりふたつほど上だが、お彩が姉貴分であることには変わりない。

「ご返事は、――」

「うん。いや、はい。分かりました」

 逆に侵入者から叱りつけられた丹は、気をつけの姿勢で、精いっぱい元気よく返事した。

「お彩ねえさん、ぼくが塀を乗りこえて行ってたこと、知ってたの」

「わたしは政ちゃんの命をあずかっているのよ。いつだってお見通しなんだから。もう黙って出ちゃだめよ」

 口はきついが、いたわりの気持ちがあふれている。

「だったらいっしょに外へ出ようよ」

 政はお彩の手をひいてせがんだ。

「あのう」

 おずおずと丹が上目遣いにお彩をみて、遠慮がちにいった。

「ぼくもいっしょに連れて行ってくれませんか」

 人質の不自由さは変わらないようだ。

「ようし、みんなまとめて面倒みてやっか!」

 お彩は男の子の口調でうけあった。

          ∵

 邯鄲の故城はいまの市街の西南にあり、趙王城として知られる宮殿区だった。 いまの市街は大北城だいほくじょうと呼ばれる居住区だ。政の住む邸宅街は居住区にある。その一角に霊廟が建てられていた。長平の戦で坑殺された戦没者を祀る霊廟だ。門番の目をかすめて外へ出た三人は、霊廟めざして走った。お参りのついでに見物してこようと決めたのだ。霊廟の前まで来ると、入口にいた方士姿の少年にさえぎられた。

「待て、勝手に入ってはいかん。どこのものだ。もしかして秦と燕の人質じゃないか。かたきの片割れがなにしに来た。天誅の下らぬうちに、早く帰れ」

「意地悪いわないで、中に入れてよ。せっかくお参りに来たんだから。ね、ちょっとだけお願い」

 お彩は用心深く、少年の身なりを観察した。少年の武器は錫杖と腰に差した小刀だ。声を聞きつけて、仲間がふたり加わった。三対三ならいい勝負だ。

「政ちゃん、実戦稽古やってみる?」

 お彩は弾弓と粘土の玉を政に渡した。政は弾弓に玉をつがえた。

 お彩の武器は九節鞭きゅうせつべんだ。ふしごとに短く切った九本の竹をつないで一本にしてある。一節一尺、当時の一尺は二二・五センチだから、全部伸ばせば二メートルの鞭になる。手首を返してしなわせば、攻撃用の武器だ。手元に畳んでしまっておけば、太目の短刀くらいにしか見えない。

 丹はガチガチに緊張して木刀を構えている。実戦などやったこともない感じだ。

 お彩が一歩、踏み込んだ。

 お彩の手元から、節鞭がしなやかに飛び跳ねた。蛇がくねるように長く伸びた九本の竹節は一本の鞭となって、たちまち三人の手から錫杖を叩き落し、鼠が隠れるようにシュルシュルと手元に戻って収まった。三人は反動で地面に転がされ、あぜんとしてお彩を仰ぎ見ている。

「どう、降参して、中へ入れてくれる?」

 そのときになってようやく三人は、お彩が方士服を着ているのに気がついた。

「あのう、どちらで方士の修行をされた方ですか」

 うち、ひとりがお彩にたずねた。

「無名道人のところよ。あんたたちは?」

「ぼくたちは五台山の道場ですが、無名道人にも教わっています」

「へえ、道人は五台山に行ってるんだ。じゃ君たち、わたしと同門じゃない。それならなおさら意地悪なしで、中へ入れてくれなきゃ」

 同門意識が芽生え、あっという間にうち解けた。

 少年らの案内で、霊廟の門をくぐる。霊廟の中は、大きな祭壇が祀られ、無数といっていいくらい位牌が立ち並んでいる。三人は叩頭こうとう三拝の拝礼をし、お参りした。

 お彩には霊魂の存在が感じられる。行き先を求めて浮遊しているのと違い、危害を加えるような気配はない。じっと見守られている感じだ。お彩は政に丁寧な慰霊の作法を指導した。

「いい、政ちゃん。心からお慰めするのよ。これまであなたにとり憑いていた悪霊はすっかり退散し、いまではこの霊廟で安らかに眠っているのよ。あなたが害意をもたないかぎり、こんどは味方になってくれるわ。だからそのことに感謝し、末永くお護りすることを誓うのよ」

 いわれたとおりに政は、長い線香を胸元にかきよせ、一心に祈った。かつて蝕まれた呪詛の記憶が吐き出され、身軽になったような気がした。線香の煙がさまざまな物の怪の姿をかたどり、やがて天井に吸い込まれていった。

 ――これでぼくは、憑き物から完全に解放されたのか。

 実感が湧いた。味方になって守ってくれるというなら、いつかはきっとお返しをしなければならない。どういう形で返せば喜ばれるだろう。

 ――ありがとう。

 政は、霊魂に向かって深々と拝礼した。

 やがて参拝を終え霊廟の外で、少年らと自己紹介を交わした。

「わたしはお彩。きみたちは?」

「ぼくは趙統ちょうとう

「ぼくは趙勇ちょうゆう

「おれ、趙矛ちょうぼう

「あらいやだ、みんな趙姓じゃない。こちらも同じ趙姓の趙政。秦の公子の子だけどお母さんは趙の人だから、半分は趙人ちょうひとよ。仇だの、天誅だのといわないでね」

「十いくつで長平の戦に加わって、四十万の人が生き埋めになって殺されたあと、ぼくたちだけが許されて邯鄲へ戻ったんです。まだこどもだからという理由で。でも埋められてもがき叫ぶ人たちを目の前にして、助けることもできず、ただ見殺しにしてしまい、おまけに自分だけ生き延びている。悔しくてなりません。それで秦に復讐するため五台山に入り、方術の修行をはじめたのです」

 趙統が語りだした。もう八、九年たっているというのに、当時を思い出したものか嗚咽おえつで声が途切れる。お彩がなだめ役にまわる。

「方術は自分の心身を鍛えたり、人を助ける技術を身につけたりするもので、復讐のために使うものじゃないわ。復讐なんていわないで、その悔しさをばねにして、世の中のために生かさなくっちゃ」

「復讐は世のためになりませんか。生き埋めになった人の家族は、恨みを晴らしてくれといってぼくたちに頼んできています」

「復讐された側の人がまた復讐したら、どうなると思う。きりがないわね。争いは永遠になくならない。それでいいのかしら」

「じゃ、泣き寝入りして、我慢すればいいんですか」

「わたしもよく分からないけど、無名道人はいつも『非攻ひこう』『兼愛けんあいに学べ』、ということをおっしゃっているわ」

「非攻」とは他国への侵攻や領土の併合を戒めるもので、「兼愛」とは人々がひろく愛しあうことだ。強大国による傲慢な侵略行為に抵抗し、自他・親疎の区別なく、すべての人々を同じように愛するようになれば、争いは亡くなり、天下は平和になる。孔子のすこしあとにでた墨子ぼくしという人が説いている。信仰者は墨家集団といわれ、孔子や孟子の儒家集団とは対立する考えだ。儒家集団は、君臣・親子など上下関係を重くみる。

「この戦国の世の中の、どこを探せば平和なんかありますか」

「人がくれるのを待っていたんじゃ、いつまでたっても平和なんて来やしないわ。自分で作り出す努力をするのが大切なのよ」

「だったらどうすればいいですか」

「みんなで力を合わせること。そうね、例えば、世の中に平和をもたらす力強い意志をもつ人のもとにみんなが集まって、大きな運動にして行くこともひとつのやりかたね」

「そんな人いますか」

 趙統は疑わしそうな顔をして、みんなを見まわした。いままで、秦国に復讐することだけを考えて生きてきた。殺された人の霊魂に報い、殺された家族の無念を晴らすためだ。いまになってその生き方を否定されても困る。浮遊する霊魂と同じで、怨みのもって行き場がなくなってしまうではないか。

「ぼくがやる。大きくなったらぼくが王になって、天下をひとつにまとめ、戦国の世の中を終らせる」

 それまで黙ってみんなの話を聞いていた政が、立ち上がって大きな声で宣言した。

「そうよ。そうでなくっちゃ」

 お彩は、嬉しそうにうなずいた。

「古い話になるけど、もともと趙と秦とは同じ祖先から別れた親戚同士なのよ」

 お彩が学のあるところを披露した。

「へえ、知らなかった。どんな話なの」

 一番聞きたがったのは、秦の少年王に目覚めた政だった。

          ∵

 殷初、えい中衍ちゅうえんのとき、はじめてみかどの御者となった。その後裔の蜚廉ひれんに二人の子があった。兄は悪来あくらいで、弟は季勝きしょうといった。兄の悪来は紂王ちゅうおうつかえて周に殺されたが、その子孫が秦の子孫になった。悪来の後裔の非子ひしは周の孝王に仕えて馬を飼育し、秦嬴と号した。秦王政は非子の四世 襄公じょうこうから数えて三十一代目、五百二十年後の王になって即位することになる。

 一方、弟の季勝の子の孟増もうぞうは周の成王に可愛がられた。孟増の孫の造父ぞうほは周の穆王ぼくおうに駿馬を献じ、褒美ほうびに趙城を賜った。これ以後、一族は趙氏を名乗ることになる。七代の後、周の幽王をみかぎり、晋の文公に仕えた。その二百五十年後、晋の末代王 静公は韓・魏・趙三侯に滅ぼされ、晋は三つに分かれて、天下は戦国時代に突入することになる。

                    (『史記』秦本紀、趙世家 による)

          ∵ 

 古い話だとお彩はのたもうたが、政がまだ八歳のこの時代、殷初といえばざっと千数百年まえ、気の遠くなる太古の昔だ。

「ウーン、そんな昔に親戚だったといわれてもね」

「それじゃ周りじゅう、親戚だらけになってしまうよ」

 三方士は、あっけに取られて戦意を喪失するが、お彩はここぞとばかりに、とどめの一発をぶちかます。

「だからいったでしょ。秦だ、趙だで、憎しみあうのはやめなさいって。人はもともとひとつで同じ一族から出たのよ。個人個人の善し悪しを指摘し、正道に導くのは賛成だけど、その出身だけでかたき呼ばわりして、殺しあうなんて真っ平よ。『非攻』『兼愛』の精神に立ち戻り、わたしたちからはじめましょう」

 お彩の説得に三方士は納得し、政のもとに結束することを誓い合った。

 やがて、皆して情報交換がはじまった。

「きみ、人質だった秦の公子の子だといったね。秦の王さまが亡くなって新しい王さまが立ったこと知ってる?」

 趙勇が最新情報をもたらした。

「新しい秦王の太子は、子楚しそという名の人だよ。もとの名は異人。政くんのお父さんだろう」

「じゃあ、まもなく政くんは秦へ帰されるよ。趙は秦との友好関係を望んでいる。趙の側から人質の返還を申し出れば、秦も邯鄲の包囲を解くことになるだろう」

 趙矛も声をはずませた。

「政くん、いまの言葉を忘れないでね。きみが平和のために天下統一を考えるなら、ぼくたちは協力する。そのときは趙だの秦だの一国の利益にはこだわらず、全体の平和のためにつくすことを誓うよ」

「ぼくも」

「ぼくも」

 趙統も、趙勇もつづけて同意した。

 そんな光景を燕の人質の丹はうらやましげに見ていたが、賛成するとはいわず、あえて黙っていた。

 数日後、政の邸宅を監視していた役人がかこみを解き、引き揚げていった。そして趙の政府から正式に、人質の本国返還がいい渡された。

 やがて趙姫と政は、秦へ帰されることになる。

父の異人が脱出してから六年の歳月が流れていた。







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