第六話 カストリアの姫君
屋敷の前庭を抜ける途中、突然前を行くリーブル先生がオレたちを振り返り、自らの口元に人差し指を立てて静かにするよう暗黙の内に示してきた。オレとルリアとラルフ君は理由もわからぬまま声を出さないようにして、リーブル先生の後に続き薔薇の茂みに身を潜めた。
茨の隙間から向こう側を覗き見ると、鉄製のガゼボに隠れるようにして、じいちゃんとばあちゃんの姿が見えた。
「ハリー、君のその美しさは歳を重ねても決して変わることがない。だが、私は毎日少しずつ年老いているようだ」
そう言って、じいちゃんは悲哀に満ちた表情でばあちゃんの頬に手を添えた。ばあちゃんはその手に自らの手を重ねると、普段からは想像もつかないほどしおらしい様子で微笑んだ。
「馬鹿だねえ。そんなこと気にしてたのかい? 歳をとろうがとるまいが、あたしが好きなのはあんただよ」
「ハリー……」
「レイ……」
二人は固く抱き合った。茂みから覗き見ているこっちが恥ずかしくなるくらいの熱々ぶりだ。口付けが交されようとしているまさにそのとき、冗談のようなタイミングでラルフ君がくしゃみをしてしまい、物音に気がついたばあちゃんがオレたちのいる茂みに向かって魔法の杖を振り翳した。
「そこにいるのは誰だい!?」
ばあちゃんの声とともに、茂みに咲いていた美しい薔薇たちが動き出し、獰猛な動物のように棘を剥き出しにして襲い掛かってきた。恐いやら痛いやらで、オレたちは慌ててその場から飛び出した。
「リーブルにラルフ……なんだおまえたちだったのかい」
ばあちゃんはほっとしたように肩の力を抜き、それからオレとルリアの姿に気がついた。
「おや、あんたたちこの子らの友達だったんだね。さっきは悪いことしたねえ」
ばあちゃんは更に、ラルフ君が担いでいた箒の先の焼け焦げに目を留めると、呆れたような顔をした。「ラルフ、おまえはとうとう箒を燃やしたりして、魔法使いになるのをあきらめたのかい?」
「違う!」
そのとき、幾人かの子供たちが庭の向こうからラルフ君に遠巻きに声をかけてきた。「ラルフ、遊ぼう!」「森に妖精を探しに行こうぜ!」
ラルフ君は元気に返事をすると、箒を担いだまま彼らの元へと走り出した。だが、途中で思い立ったように足を止め、リーブル先生に振り返って声をかけた。
「リーブル、おまえも一緒に来るか?」
すると、彼の後ろに立っていた子供たちが、揃ってぎょっとしたような顔をした。先生はそのことに気がついたようだった。
「僕は君に関わったりするほど暇じゃないって言っただろう?」
返された先生の言葉に、ラルフ君は一瞬むっとしたような顔をしたが、何も言わずにそのまま駆けていってしまった。遠ざかっていく子供たちの後ろ姿を見つめていた先生は、彼らに背を向けて屋敷の方へと歩き始めた。
その様子を黙って見ていたじいちゃんが、独り言のように呟いた。
「リーブルは可愛そうな子だ。生まれつきあんな髪の色をしているせいで、あの子には友達というものがいないんだ」
それから、オレたちに向かって尋ねた。「君たちは森へ行かないのかい?」
「うん……だってオレたち、リーブル先生の弟子だから」
オレの言葉に、じいちゃんとばあちゃんは不思議そうな顔をした。
オレとルリアは屋敷のエントランスでようやく先生に追いついた。ちょうどそのとき、緩やかな曲線を描く黒髪を胸の辺りで揺れせながら、ひとりの少女が奥の部屋から姿を現した。驚くべきことに、それは屋根裏部屋で見つけた肖像画の少女――マリアさんに間違いなかった。
先生よりだいぶ年上らしく、頭ひとつ分くらい背が高い。彼女の醸し出す慎ましやかで清楚な佇まいは、まさに深窓の令嬢といった雰囲気だ。ルリアと似たような顔立ちをしているはずなのに、どことなく気品に溢れている。細やかな刺繍の施されたドレスを着ているせいだろうか。
「お帰りなさい、リーブル」
「やあ、マリア。具合はどうだい?」
先程までの顰め面はどこへやら。先生がマリアさんに向ける笑顔は優しさで溢れていた。
「今日はとても調子がいいみたい。絵の続きを描いてくれると言っていたから、あなたが戻ってくるのを待っていたのよ。でも、お友達と一緒ならまた今度にしましょうか」
そう言って、マリアさんはオレとルリアに視線を向けた。
絵を描いているところを見たいと慌てて申し出ると、先生は唇の端を上げて苦笑した。
「人が絵を描いているところを見ていたって、楽しくなんかないだろう?」
「そんなことないよ。ね、ルリア」
ルリアは母親との初対面にすっかり惚けきっていたが、オレの言葉に我に返ると慌てて「うん」と首を縦に振った。
緩やかな午後の陽が射すコンサバトリーで、オレとルリアは籐製の椅子に並んで座り、紅茶を飲みながら先生がマリアさんを描くのを眺めていた。
自分の母親に会うって、一体どんな気持ちなのだろう――?
ルリアはぼうっとした表情で、ただひたすらマリアさんを見つめていた。それに気づいたマリアさんは、彼女に向かってにっこりと微笑み返す。笑うと凄くルリアに似ている。
しばらくの間、先生は一言も発することなく真剣な面持ちで絵を描いていたが、やがて、ペインティングナイフで絵具を盛りながらおもむろに口を開いた。
「ねえマリア、昨日お茶の後、一体どこに行っていたの?」
その問いかけに、マリアさんは傍からわかるくらいに顔を強張らせた。
「どこにも行ってなんかいないわよ。ずっと自分の部屋にいたもの」
どうやら嘘が苦手なようだ。彼女が真実を語っていないであろうことは明白だった。しかし、先生はあえて彼女を問いただすようなことはせず、「そうかい」とだけ言って、そのまま黙って絵を描き続けた。
マリアさんは居心地が悪そうにしばらく俯いていたが、先生に何か言おうと口を開きかけた途端、急に気分が悪くなったのか、口元を押さえて屈み込んだ。
「大丈夫かい?」
先生は手にしていたナイフとパレットをテーブルの上に置き、すぐさまマリアさんのそばに駆け寄った。
そのとき、コンサバトリーにやって来たひとりの男が、オレたちの横を通って二人の元に近寄った。「おやおや、こんなところにいらしたのですかマリア様。随分お探ししましたぞ」
男は髪や顔色と同じく、灰色の薄暗い三つ揃えのスーツを身に纏っていた。服の上からでもわかるほど、体は骸骨のようにがりがりに痩せていた。
「リーブル殿、マリア様はお体が弱いのですから、あまり無理をさせないで頂きたいものですな」
そう言うと、男はマリアさんに部屋に戻って休むよう促した。マリアさんは先生に対して申し訳なさそうな顔を向ける。
「ごめんなさい、続きはまた今度でもいいかしら」
「もちろんだよ」
マリアさんは腰掛けていた椅子から立ち上がると、オレとルリアに遠巻きに微笑んだ。「どうぞ、ゆっくりしてらしてね」
立ち去るマリアさんの後を、骸骨みたいな男はギラギラ光る三日月のような目つきで追って行った。どうやら使用人のようだが、このような人物がウィンスレットの館にいた記憶はみじんも思い出せなかった。
「あの男は誰?」
「マリアの付き人のトリヴスだよ。いつも彼女の後をくっついて周ってる。気持ち悪いやつさ」
先生はいかにも気に食わないといった様子で言った。
「マリアさんはウィンスレットの館に住んでるの?」
「ああ。彼女はレイの――あ、レイってのは僕の祖父で、レーンホルム伯爵レイモンド・ウィンスレットさ。さっき君たちも庭で会っただろう? マリアはレイの知り合いの娘さんでね、体が弱くて療養のために空気のいいレーンホルムのこの館に滞在してるんだ。ときどき、ああして気分が優れなくなったりすることがあって……」
描きかけの肖像画に視線を落とした先生は、キャンバスの中で煌く黒曜石みたいなマリアさんの瞳を心配そうに見つめていた。その眼差しはどこか切なく苦しげだ。「マリアは……僕の髪の色を気にすることなく接してくれるんだ。誰に対しても優しいし、いつも凛としているし……とても素敵な女性だよ」
画材道具を片付けながら、先生は話題をそらすようにオレたちに尋ねてきた。
「それで、君たちはどうやって逃げてきたんだい?」
「逃げる?」
「なんだ。聖オーロラ狩りに遭ったわけでもなかったのか」
「聖オーロラ狩りって何?」
オレが首をかしげると、先生は驚いたように目をみはった。
「聖オーロラ狩りも知らないなんて、一体どこからやって来たんだい? 魔法が使えるから魔法教徒かと思ったけど違うみたいだし……君たちは一体何者なんだ? どうして
「オレたち、鏡の中を通り抜けて過去の世界に来ちゃったんだ」
ありのままを告げたのだが、どうやらそれは失敗のようだった。先生はめずらしい物でも見るような顔つきをした。
「なるほどね。僕について来るなんて変わってるなとは思ったけど、君たちは頭がおかしかったのか」
彼は自嘲するような薄ら笑いを浮かべると、画材道具を抱えて立ち上がった。「まあ、とにかく退屈しなくて済みそうだ。レーンホルムにいるあいだは、好きなだけここに滞在すればいいよ」
そう言って、通りがかったメイドにオレたちを部屋に案内するよう指示をして、コンサバトリーから出て行った。
メイドに案内された部屋は、未来と何一つとして変わらぬオレの部屋だった。
ベッドに仰向けになり、窓の向こうの青空に視線を留めたときにふいに気がついた。
どうやらこの過去の世界では、オレはまだこの世に生を受けていないようだ。母さんや父さんの姿もない。リーブル先生の両親も見当たらない。この頃から、すでに彼らは屋敷にはいなかったのだろうか……。
隣の部屋に案内されていたルリアが、扉をノックしてオレの部屋に入って来た。彼女はベッドの端にちょこんと腰を下ろすと、不安そうに尋ねてきた。
「ねえメグ、あたしたち元の世界に帰れるのかな?」
口を真一文字に結んで床を睨みつけるその表情は、泣きたいのを我慢しているときの顔だ。
「あたしたちが急にいなくなって、みんな心配してるかな? どうすれば元の世界に戻れるんだろう」
確かに、いつまでもこのままここに居るわけにはいかない。元の世界に戻る方法を考えなければ。鏡を通り抜けて過去の世界にやって来たということは、未来へ戻るためには――。
「もう一度鏡の中を通り抜ける!」
二人同時に声を上げ、オレとルリアは笑い合った。
オレたちはすぐさま鏡を求めて階段の踊り場へと走った。
大きな楕円形の鏡は、窓から差し込む西日を反射してきらりと輝いていた。こちらの世界を普通に映しているだけで、特に変わったところはない。手で触れてみても、硬く冷たいただの鏡だ。
通り抜けることが不可能だとわかるや否や、ルリアの顔が鏡ともども泣きべそになった。
そのとき、オレたちの後ろを横切るマリアさんの姿が鏡の中に小さく映り込んだ。振り返って見ると、彼女は辺りを警戒しながら忍ぶように屋敷から出て行くところだった。日も暮れかけているこんな時間から一体どこへ行くのだろう?
オレとルリアは二人で顔を見合わせると、暗黙のうちに後をつけることにした。
屋敷のそばにある森の中を、マリアさんは小走りに駆けて行く。人目を気にしているのか、時折後方を振り返っては後をつけられていないか確認しつつ、奥深くへと走り続けた。やがて、少し木々が開けた場所に辿り着くと、マリアさんは切り株のそばに立って息を整えた。どうやら誰かを待っているようだった。
間もなくして、箒に跨るひとりの魔法使いが、風のように空から舞い降りて来た。ローブを纏った魔法使いの男は、マリアさんに跪くと手の甲にキスをして、彼女から丸められた羊皮紙の束を受け取った。
「姫、実に申し上げにくいことなのですが、情勢はあまり良くありません。いつ誰がどのようにして寝返るか分からぬ有様。カストリアの民は王室に不信を抱き始め……」
「あの方はご無事なのですか? あの方にもしものことがあったら私は――」
姫? カストリア? 一体何の話をしているんだ――? 近くの茂みからこっそり覗き見ていたが、距離が遠くて会話の端々がよく聞き取れない。
そのとき、隣りの茂みがガサリと音を立てたので、驚いたオレとルリアは飛び上がるようにして抱き合った。すぐそばに潜んでいたのはなんとリーブル先生だった。
「リ、リーブル先生!?」
オレたちが同時に声を上げると、先生もひどく驚いた様子でこちらを見た。「どうして君たちがここにいるんだ?」
騒ぎに気がついたマリアさんが、動揺したように先生の姿を捉えた。
「リーブル、どうしてここに……?」
先生は断念したような表情で歯噛みすると、唐突に物凄い勢いで茂みから飛び出していき、男の持っていた羊皮紙の束を奪い取った。
「何をする! それはカストリアの――」
言いかけて、男ははっとしたように口をつぐんだ。
「こんなもの、湖に捨ててしまえばいいんだ!」
先生の叫ぶ声に、マリアさんが悲痛な声を上げる。「駄目よ、お願い、返してちょうだい!」
マリアさんが呼び止める声に耳も貸さず、先生は湖の方角へ向かって走り出した。だが、木の根に躓いて転んでしまい、羊皮紙の束は辺りの草むらに散乱してしまった。
魔法使いの男はぶつぶつと呪文を唱えながら魔法の杖を振りかざした。すると、一陣の小さな風が嵐となって、先生が掻き集めていた羊皮紙を踊るように舞い上がらせた。集まった羊皮紙はすぐに元通りの束に戻り、魔法使いの手中に納まった。彼は再び箒に跨ると空高く浮かび上がり、瞬く間に雲の彼方に消え去った。
先生は茫然自失とその場に座り込んでいた。マリアさんは彼に言葉をかけることはせず、代わりに毅然とした態度でオレとルリアの方へ振り向いた。
「お願いです。今、あなた方が見たことは、決して誰にも話さないで下さい」
そう言うと、彼女は足早にウィンスレットの館がある方角へ戻って行った。
残されたオレとルリアは何が何だか
「ねえ先生、マリアさんってもしかして――いや、もしかしなくとも……」
「君たちが聞いたとおりだよ」
先生はまるで自暴自棄になったみたいに、嘲るように吐き捨てた。
「マリアは……カストリア国の王女なのさ」
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