第七話 初めてのキス

 ルリアの母親であるマリアさんがカストリアの王女ならば、ルリアは王家の血を引く者ということになる。だが、カストリアの王家は王位継承問題に端を発し、確か十五年前に王位を剥奪されたはずだ。王女であるマリアさんが辺境の地レーンホルムの伯爵家に預けられているということは、今まさにカストリアは国内の諸侯が対立し合う内乱の最中なのだろうか……。

 聞いてみたいことは山ほどあったが、今はなんとなくそれが躊躇われた。前を歩くリーブル先生の様子はとてもそんな雰囲気ではなかった。

 そのとき、近くの茂みを掻き分けるようにして、妖精を探して遊んでいたラルフ君と彼の友人たちが現れた。

「なんだリーブル、おまえも遊びに来てたのか」

 ラルフ君が先生に話しかけると、少年のうちのひとりが叫んだ。

「よせよ、ラルフ! そいつと喋ったら呪いをもらうぞ!」

 先生はその言葉をあからさまに無視すると、彼らの前を素通りした。

 また、別の少年が言った。

「俺の母さんが、リーブルとは遊んじゃ駄目だって言ったんだ。こいつの髪の色は不吉だから近づくなって。近づいたら、俺たちもこいつの父さんや母さんみたいに呪われて死ぬんだぜ!」

 すると、それまで顔色ひとつ変えずにいた先生が、振り向きざま鋭い目つきで少年を睨みつけた。

「そうさ。父さんと母さんは僕の呪いで死んだんだ。君たちも呪ってやるよ!」

 そう言うと、先生は近くに落ちていた小枝を拾い上げ、口早に魔法の呪文を唱え始めた。途端に少年たちの背後の茂みがザワザワと動き出し、蔓がまるで生きてるみたいに彼らを襲った。これは明らかに庭の薔薇を操ったときのばあちゃんの魔法と同じだった。

 少年たちが悲鳴を上げて逃げゆく中、ラルフ君は物凄い勢いで先生の所までやって来て、激昂した様子で彼の胸倉を掴み揺さぶった。

「どうしておまえが魔法を使えるんだ! おまえは学者になるって言ったじゃないか! 魔法使いが嫌いだって言ってたじゃないか!」

 先生は粗雑にラルフ君の手を振りほどくと、今までに聞いたことのないような大声で叫んだ。

「嫌いだよ! 大嫌いだ! 魔法のせいで多くの人が不幸になった。魔法も魔法を使うやつらも、みんなこの世から消えてしまえばいい!」

 そして、先生は嘲るように言葉を続けた。

「どうして僕が魔法を使えるかだって? ふざけるなよ! あれだけ毎日ハリエットが君に教えている所を見てきたんだ。少しくらい使えるようになって当然じゃないか! 僕こそ君に聞きたいよ。どうして君はいつまでたっても簡単な魔法すら使うことが出来ないのかってね! でも聞くまでもない。答えは簡単さ。君が無能だからだよ!」

 やつあたりだとはわかっていても、今のはひどい言い草だった。オレは先生に向かって口を開きかけたが、それより先にルリアの手が先生の頬を引っ叩いた。

「そんな言い方することないでしょ!」

 叩かれた左の頬がみるみるうちに赤く腫れ上がっていく。

 先生は驚きのあまり、しばらくのあいだ呆然とルリアを見つめていた。だが、やがて憤った表情を浮かべると、森の小径を抜けて丘の方へと走って行った。

 ルリアはすぐに先生の後を追いかけた。

 オレも慌てて後に続こうとしたのだが、鬱蒼と生い茂る茂みの中に、何かが引っかかっているのが目に留まった。

 それは、先程マリアさんが魔法使いに渡した羊皮紙の一枚のようだった。きっと先生が躓いて束を散乱させた際に、集め損ねたに違いない。薄茶色の古びた羊皮紙には、複雑な魔法陣の紋様とともに、失われた言語で何やらびっしりと言葉が書き連ねてあった。

 オレはひとまずそれを丸めて皮の鞄に押し込み、先生やルリアの後を追うことにした。



 息せき切って丘を駆け上っていくと、樫の木の根元に座ってレーンホルムの丘陵を見下ろすリーブル先生の姿が見えた。彼は近寄るルリアの気配に気がついたのか、見向きもせずに呟いた。

「僕、誰かに叩かれたのって生まれて初めてだ」

 ルリアは先生の元までゆっくりと歩いて行くと、正面に膝をついて屈み込み、彼の左頬にそっと手で触れた。

「ごめんなさい。……痛かった?」

 顔を上げた先生は、しばらくのあいだ言葉を返すこともなくルリアを見つめ返していた。だが、一体何を思ったのか、彼はふいに彼女の元に顔を近づけると、唐突にキスをした。

 ルリアは随分長いこと放心状態だった。しかし、はたと現実に気がついたようで、我に返った途端勢いよく先生の体を突き飛ばした。

「い、いい、いきなり何するの!」

 真っ赤になってうろたえる二番弟子に対し、先生は少しも悪びれた素振りを見せずに飄々と言い放った。

「平手打ちのお返しさ」

 なるほど、そういうことだったのか――。

 オレはこの辻褄の合う出来事に妙に納得してしまった。元の世界でオレたち三人が丘の上でランチをとっていたときに、リーブル先生がひとりで大笑いしていた理由が今ようやく分かった。先生のファースト・キスの相手は、きっとルリアだったのだ――。

 相変わらず赤い顔で動揺している二番弟子を見上げながら、先生は面白がるように微笑んだ。

「ねえ、君の名前をもう一度教えてよ」

 先生から強引に手を引かれ、無理矢理隣に座らされたルリアはちょっぴりおよび腰になりながらも、負けず嫌いな性格からどうにか平静を保っていた。

「……ルリア」

「ルリア……可愛い名前だね」

 優しい笑みを傾けられ、ルリアはどう反応したらよいかわからなそうに、ますます頬を赤らめて俯いた。二番弟子の困り果てた姿に嬉々とした笑みを浮かべる少年の様子は、まるで未来のリーブル先生そのものだった。いつの時代も先生はやっぱり先生に変わりないらしい。

 少し離れた場所から一部始終を見ていた第三者の存在に気がついていたようで、先生はやおら顔を上げるとオレを呼び寄せた。

「君もここに来て座りなよ」



 夕空はいつの間にやら葡萄色に染まり、小さな白い星がぽつりぽつりと輝きを見せ始めていた。しばらくのあいだオレたち三人は黙って空を仰ぎ見ていた。

 やがて、かすかに唇を動かしたリーブル先生が、消え入るような声で言った。

「僕の父さんと母さんは、神を信じて死んだんだ」

 心臓がドキリとした。それは初めて耳にする話だった。リーブル先生の両親は、やはりこの頃すでに亡くなっていたようだ。しかし、『神を信じて死んだ』とは、一体どういうことだろう――?

「君たちはマリア教の信者だって言ってたよね?」

 ふいに先生がオレとルリアに尋ねてきた。「どうして聖女マリアを信仰してるの?」

 質問とともに顔を向けられたルリアは、少し考え込んでから口を開いた。

「あたしはマリア教の修道院で育ったから、どうしてとか尋ねられてもよくわからない。生きていれば呼吸するのが当たり前のように、マリア様に祈るのが当たり前だと思って生きてきたの」

「自分の信仰に迷いはないのかい?」

 ルリアは困ったように口ごもり、逆に先生に問い返した。

「リーブル先生はどうなの?」

 すると、先生は薄い笑いを口元に浮かべた。

「僕は、神を信じてない。ル・マリア教会だろうとカストリア国教会だろうと、この世に宗教なんて必要ないと思ってる。どんなに祈り続けたって救いもなければ奇跡なんてものも起きないし、それどころか、宗教のせいで世の中は争いが耐えない一方だ。ランズ・エンドがいい例だよ。多くの魔法教徒は未だに聖エセルバートの復活を信じてる。大いなる魔法の力でこの世を支配し、彼らの信仰を他者に押し付けようとしているんだ。第三者に束縛される信仰って、一体何なんだろう? そんなのもはや信仰でも何でもないじゃないか。――だから、僕は宗教を必要としないし、魔法もいらない。魔法を使うやつらも大嫌いだ」

 正直に自分の気持ちを語る先生の体は、なんだか小刻みに震えているみたいに見えた。ブルーの瞳は夕暮れの残光を受けて、淡い紫色に揺らめいている。

 そのとき、箒を振り上げ何やら叫ぶラルフ君が、丘の麓から尋常ならざる様子で駆け上がってきた。彼はオレたちのいる樫の木までやって来ると、箒の柄を地上について、そこに寄りかかるようにして乱れた呼吸を整えた。

「大変だ、リーブル。マリアが……ハリエットのばばあが……」

 ラルフ君はごくりと唾を飲み込んで、一呼吸置いてから言った。

「マリアとばばあが……聖オーロラ狩りにあったんだ!」

 先生は驚きに突き動かされたように立ち上がる。「なんだって?」

「さっき屋敷に帰る途中、魔法の絨毯が飛んで行くところを見たんだ! 絨毯の上には異国の服を着た魔法使いたちと、捕らわれたマリアとばばあの姿が見えた。早く誰かに知らせなきゃと思って屋敷に駆け込んだら、じじいも使用人たちもみんな眠ってたんだ!」

「そんな馬鹿な」

 リーブル先生は半信半疑の目をラルフ君に向けた。「聖オーロラ狩りは金髪の魔法使いだけを狙っているはずだ。どうしてマリアまで? 彼女は黒髪じゃないか!」

「本当だ! 信じてくれ! 確かにこの目で見たんだ!」

 焦燥に駆られるラルフ君の様子は、どう見ても嘘をついているようには見えなかった。先生は彼の持っていた箒の焼け焦げた部分に視線を走らせ、それから、次の瞬間屋敷に向かって走り出した。

「待ってよ先生!」

 オレとルリアとラルフ君は、彼を追うようにしてウィンスレットの館へと丘を走り下りて行った。



 館の中に足を踏み入れたオレたちは、その奇妙な光景に一瞬先へ進むことを躊躇した。使用人たちが廊下や広間、階段の途中など、あちらこちらで死んだように眠っているのだ。

 じいちゃんは書斎の書き物机に寄りかかって眠っていた。名前を呼んで肩を揺さぶったが一向に目覚める気配もなく、依然として豪快な寝息をたてている。間違いない。これは眠りの魔法だ。

「おばあちゃんとマリアさん、本当にどこにもいないね」

 ルリアが心配そうに窓の向こうに目をやった。「一体どこに連れてかれちゃったんだろう?」

「決まってるだろう、最果ての地、ランズ・エンドさ!」

 そう叫んでから、リーブル先生は書斎を飛び出し、階段を駆け下りて屋敷の外へと出て行った。前庭を横切った先生は西に向かって一直線に駆けて行く。まさかランズ・エンドまで走って行く気なのだろうか? 人の足では山越えするだけでも数日はかかるはずだ。

 オレはすぐに箒を使えばいいことを思いつき、裏庭へ続く戸口に走った。ホールを抜けた先にある扉を開けると、中から白い煙がもくもくと飛び出してきた。なんと、何本か立てかけてあるばあちゃんの箒はすべて燃やされていた。どれも黒焦げになって使い物にならない状態だった。きっとラルフ君の箒等しく、後を追われないように魔法教徒に意図的に燃やされたに違いない。

 無残な様子にオレとルリアが言葉無げに立ち尽くしていると、背後からラルフ君がほんのちょっぴり先端の焼け焦げた自分の箒を差し出してきた。

「オレは空を飛べないから、リーブルを助けることが出来ない。でも、おまえら魔法使いなんだろう? オレの変わりにあいつの力になってやってくれ」

 その言葉に、オレは胸の奥が熱くなるのを感じた。

 ルリアが差し出された箒を受け取り、はりきったように胸を叩く。

「箒の運転なら任せてよ! 一本あればリーブル先生を拾って三人乗りも楽勝だよ! 魔法祭のとき、あんなに不安定だったのは大人のラルフが重かったからだし」

 ルリアの言葉に、幼いラルフ君が不思議そうな顔をした。

「行こう、メグ! ランズ・エンドへ!」

「……うん!」



 西へ続く小路を辿って行くと、リーブル先生が小さな肩を大きく揺らして懸命に走っていた。夕陽に照らし出された影が長く後に続いている。

「先生、乗って!」

 箒の後部から手を差し出すと、先生は反射的にその手を取って上手い具合に箒に飛び乗った。彼はオレの肩に捕まりながら、荒い息の合間に戸惑ったような声を出した。

「君たち……」

「ランズ・エンドはこのまま真っ直ぐでいいの!?」

 舵を取るルリアが振り向かずに叫んだ。リーブル先生は驚いてオレの顔を見た。オレがにやりと笑って見せると、彼は感極まった表情で俯き、そして、再び顔を上げて二番弟子に応じた。

「あの星の方角だよ!」

 先生が指差す西の空には、傾いた夕陽が空に美しい濃淡を彩っていた。上部の濃紺の空にひときわ輝く白い星。あの方角に、ランズ・エンドがあるのだ。

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