第五話 魔法使いが嫌いな少年

 気がつくと光は跡形もなく消えていた。目の前の鏡には、呆然とした表情で立ち尽くすオレとルリアが映っている。ルリアは慌てて鏡から離れた。

「今、一体何が起こったの?」

 オレたちは確かに鏡の中に引き込まれたはずだった。しかし、そこは変わらずウィンスレットの館の階段の踊り場で、辺りは何事もなかったかのように静まり返っている。気後れしたように窓の外に視線を移し、なんだか奇妙な感覚に包まれた。

「雨が止んでる」

 つい先程までどしゃぶりだったはずなのに、雨雲どころか雲ひとつ見当たらない。窓硝子の向こうに広がる空は気持ちが良いほどに晴れ渡っていて、折り重なるような美しい緑の稜線がくっきりと見渡せた。

 そのとき、突然階段の上からばあちゃんの声が降ってきた。

「そこで何してるんだい!?」

 オレとルリアは抑えていた気持ちが爆発したように、途端に興奮気味に喚き立てる。

「聞いてよ、ばあちゃん! 今オレたち鏡の中に引き込まれたんだ!」

 すると、ばあちゃんは急に顔を真っ赤にさせて怒り出した。「誰がばあちゃんだって? あたしの孫は今のところリーブルだけだよ!」

 レーンホルムの魔女はドレスの裾を捲り上げると、ガーターベルトにぶら下げていた魔法の杖を取り出した。そして、杖の矛先をオレとルリアの方に向け、威嚇的ににじり寄った。

「あんたたち、一体どこの子だい? 勝手に人の屋敷に入り込んだりして!」

 オレとルリアは追い詰められながらわけが分からずうろたえた。

「ばあちゃん? 何言ってるの?」

「またばあちゃんって言ったね! こんなに若くて美しい魔女を前にしてばあちゃんとはいい度胸だ!」

 彼女は何やら呪文を口ずさむと、オレたちに向かって大きく杖を一振りした。杖から生み出された魔法の光が階段の踊り場に向かって放たれる。咄嗟に避けると、後ろに隠れていたルリアがもろに魔法を受け止めてしまい、あっという間に白い小鳥に変身した。

 ルリアは慣れない様子で羽根をばたつかせ、開いていた窓から外に向かって飛んで行ってしまった。

「ルリア!」

 再びばあちゃんが杖を振り上げたので、オレは逃げるようにして階段を駆け下り館の外に出た。

 一体全体何がどうなっているのだろう――? オールド・ローズが燦然と咲き乱れる前庭を走り抜けながら、オレは今しがたのわけの分からぬ出来事について考えを巡らせた。

 ばあちゃんはまるでオレたちのことを忘れてしまったみたいだった。自分の孫はリーブル先生だけだと言っていたが、だとしたら、今ここにこうして存在しているオレは一体何だと言うのだろう? 歳をとらない呪いのせいで今までまったく気づかなかったが、ばあちゃんは実際は結構な歳なのだ。とうとうボケが回ってきて、孫の顔すら忘れてしまったとでも言うのだろうか――?

 ルリアと思われる白い小鳥が、空中をぐるぐると旋回して丘に向かって飛んで行った。その姿を追いかけて緩やかな斜面を登って行くと、誰かが樫の木の根元に座って本を読んでいるのが見えた。片足を草の上に伸ばし、もう片方は膝を軽く立てて分厚い古書を乗せている。

 満月のような淡いオレンジ色の髪をした少年だった。本に隠れていたその顔を捉えた瞬間に、オレは軽い眩暈を感じた。驚くべきことに、少年は幼い頃のリーブル先生にそっくりなのだ。というよりも、確信を持って言うが絶対本人に間違いない。なんだって先生はわざわざ魔法で子供の姿に変身して読書なんかしているのだろう?

 小鳥のルリアは樫の木の上で毛づくろいを始めたが、ばあちゃんの魔法が効力を失い、淡い光とともに人間の姿に戻ってしまった。小枝は彼女の重みを支えきれずに、あっという間に折れてしまう。

「きゃああ!」

 枝の折れる音とルリアの悲鳴に反応して、先生はふいに顔を上げた。彼は咄嗟に差し出した両腕で、落ちてきたルリアの体をしっかりと受け止めた。

「ルリア!」

 オレは慌てて二人の方へと走り寄った。

 リーブル先生は驚きに満ちた様子でしばらく呆然とルリアを見つめていたのだが、やがて小さな声で呟いた。

「驚いた。天使が落ちてきたのかと思ったよ」

 二番弟子は先生の腕の中で、怪訝そうに目をぱちくりとさせた。

「先生……だよね? なんでそんな姿でいるの?」

「え?」

「どうして魔法で子供に変身してるの?」

 リーブル先生は答えに困ったような、曖昧な微笑を浮かべて言った。

「僕は君から『先生』なんて呼ばれるようなことをした覚えはないんだけど」

 そう言って、彼はルリアの体を地上に降ろすと、シャツの襟を正し、緩んだ首もとのリボンを結び直しながら淡々とした口調で問う。

「君たちは誰? この辺りじゃ見かけない顔だ。一体どこから来たんだい?」

「どこって……」

 ズボンについた草をひとしきり払ってから、先生はルリアのことをまじまじと見つめ直した。

「君、なんだかマリアみたいだね」

 先生のその言葉に、ルリアは露骨に傷ついた顔をして頬を赤らめた。たとえ傷つける意図がなかったとしても、今一番言ってはいけない言葉を師匠は平然と吐き捨ててしまった。憤懣やるかたなく立ちはだかったオレの影が、書物を拾い上げようとしていた先生の手元に覆いかぶさる。

「先生、ふざけてるの?」

 彼はここで始めてオレの顔を見た。

「ふざけてなんかないよ。君たちの方こそ、僕をからかってるのかい?」

 拾い上げた分厚い古書をぱらぱらと捲りながら、先生は言葉を続けた。

「先に名乗れって言うんなら教えとくよ。僕の名前はリーブル・ル・マリア・ウィンスレット。君たちは一体何者なんだい? どうして僕のことを『先生』と呼ぶのか、出来ればその理由も教えて欲しいね」

 オレとルリアは困惑気味に顔を見合わせた。

 一体どうなっているのだろう? さっぱり意味がわからない。先生の悪ふざけが続くことに苛立ちを覚えながらも、だったらとことん付き合ってやろうと思い、オレは荒々しい口調で自己紹介をし始めた。

「どうも初めまして! オレはメグ、こっちはルリア。オレたちは魔法使いの卵で、リーブル先生から魔法を――」

 それを聞いた瞬間に、ページを捲っていた先生の手元がぴたりと止まった。向けられた顔は嫌悪感で歪んでいる。

「へえ、君たち魔法使いなんだ」

 そう呟く彼の口調は明らかに棘があった。先生はオレの肩越しに視線を移す。

「ちょうどいいや。君たちが本当に魔法使いなら、当然予言とかも出来るんだろう? あの少年の名前を当ててみせてよ」

 まるでオレたちを試すかのような口ぶりだった。

 背後を振り返り、先生の指差す先に目をやると、大きな箒を抱えた少年が丘を駆け上って来るところだった。ごわごわとした硬そうな鳶色の髪の毛に、大きな丸い瞳。頑固で生意気そうなその顔は、実に信じ難いことだが幼い頃のラルフ君に間違いなかった。

「ラルフ……君?」

 混乱したまま呟くと、リーブル先生は少しばかり驚いたようにオレを見た。

 丘の天辺までやって来たラルフ君は、息を切らせて喚き立てた。

「リーブル! 俺の箒に火をつけたの、おまえだろう!」

 先生の目の前に突きつけられた箒は、先端が焼け焦げてほんの少しだけ黒くなっていた。先生は眉間に皺を寄せ、思案顔で黙り込んだ。

「やっぱりおまえが犯人だな!」

 幼馴染が目くじらを立てると、先生はひどく不機嫌な表情でそれを否定した。

「どうして僕がわざわざそんなことをしなくちゃならないんだ? そもそも、僕は君に関わったりするほど暇じゃない」

「なんだと!」

 ラルフ君は顔を真っ赤にさせて、痛烈に先生を責め立てた。しかし、先生の方はまるっきり彼を相手にせず、そっぽを向いて何か別のことを考えているようだった。

 そんな彼らの様子を眺めながら、オレはここでようやくひとつの答えに辿り着いた。リーブル先生はともかく、魔法を使えないはずのラルフ君まで子供の姿をしているということは……。

 オレはこっそりルリアに耳打ちした。

「ルリア、どうやらオレたちは鏡の中をすり抜けて、過去の世界に来ちゃったらしい」

「まさか……!」

 ルリアはさも信じ難い、といった表情でオレを見た。オレだって信じ難い。でも、幼い頃ばあちゃんが言っていた。古い物には稀に魂が宿ることがあるのだと。果たして、これは鏡の記憶なのか――。

 ラルフ君が一段と声を荒げて先生のことを罵ったので、オレの思考はそこで一旦中断された。

「学者を目指してるだかなんだか知らないが、いつもいつも偉そうにしやがって! おまえなんかいつか俺の魔法で絶対負かしてやるからな!」

「お生憎さま。君には魔法使いの素質がこれっぽっちもないんだよ。いい加減にあきらめたらどうだい?」

「うるさい! だまれ! 魔法使いでもないおまえの口からそんな言葉は聞きたくない!」

 ラルフ君のそのセリフに、オレは自分の耳を疑った。オレとルリアはほとんど同時に悲鳴に近い声をあげた。

「リーブル先生、魔法使いじゃないの!?」

 すると、先生はオレたちを一瞥し、あたりまえだろうと言わんばかりに冷めた口調で言い放つ。

「僕、魔法使いが嫌いなんだ」

 目の前がぐらりとした。ああ、なんということだろう。幼い頃のリーブル先生は学者を志し、魔法使いでないどころか、魔法使いを嫌っていただなんて! 今まで何年も先生と暮らしてきたというのに、そんな話は聞いたことがなかった。

 こちらの焦燥感などお構いなしの先生は、オレたちを値踏みするように目を眇めた。

「どうやら君たちは本当に魔法使いのようだけど、レーンホルムのこの界隈で魔法を使える子供はいないはずだ。もしかして、君らは『魔法教徒』かい?」

 まさかこんなところで再び魔法教の名が出てくるとは思ってもいなかったので、その言葉を聞いた瞬間に驚きから心臓が跳ね上がった。「オ、オレもルリアもマリア教徒だよ」

 先生は自分で話をふっておきながら、さほど興味がなさそうに「ふうん」と言って言葉を続けた。

「この辺は最近物騒なんだ。女の子が二人でほっつき歩いてたら危ないよ。ましてや、君は金髪だし――」

「ちょっと待って!」

 先生の言葉を遮るようにしてオレは叫び声を上げた。「今、『女の子が二人』って言った?」

「なんだい、『女の子』じゃ不満かい? 『美しい女の子が二人』とでも言えば満足だった?」

 追い討ちをかけるその言葉に、オレはわなわなと拳を握り締める。

「オレは男だ!」

 すると、先生だけに留まらず、隣にいたラルフ君までぎょっとしたようにオレの姿を上から下まで凝視した。

「冗談だろう?」

 リーブル先生は心底驚いているようだった。ラルフ君に至っては、ふざけているのか本気なのかルリアに向かって真顔で問いかける始末。

「まさか、おまえも男とか?」

「そんなわけないでしょ!」

 ルリアが怒って否定すると、途端に先生はさも愉快そうに腹を抱えて笑い出した。

 そうして、ひとしきり笑った後、彼はオレたちに背を向けて丘を下り始めた。しばらく歩いてから、幼い師匠はふいに立ち止まり、振り向きざまにこう言った。

「一緒に来るかい?」

 オレとルリアは互いに顔を見合わせて、二人揃って頷いた。

 澄み渡る空の下、草原に一陣の風が吹き抜ける。相も変わらずオレンジ色の髪を靡かせる若き日の師匠を追って、オレたちはウィンスレットの館に向かって丘を下りて行くのだった――。

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