第二話 聖マリア修道院

 聖エセルバートの街の中心にそびえ建つ聖マリア修道院は、マリア教最大の教派ル・マリア教会の女子修道院で、付属された聖堂で行われる礼拝には、週に一度この教区のマリアーゼ(ル・マリア教会の信徒)たちがこぞって足を運ぶ。

 オレとルリアとリーブル先生は、聖堂に響き渡る聖歌隊の美しい歌声に紛れながら、空いている信徒席まで床に這いつくばって進んでいた。

「もっと早く進んでよルリア、賛美歌が終わっちゃう」

 オレが小声で囁くのと同時に、先生が背後から先頭を行くルリアのお尻をポンと叩いた。憤然とした表情で振り返り、二番弟子は声を押し殺して悲鳴を上げる。

「触らないでよ、メグのエッチ!」

「オレじゃないよ!」

「しーっ! シスターに見つかるよ」

 のっぽのカウリー聖父が聖書マリアバイブルの一節を読み始めた頃には、どうにか席に辿り着くことが出来た。オレは心穏やかに神の教えに耳を澄ませる。

 世の中にはさまざまな宗教が存在するが、現在世界で最も普及しているのはマリア教である。マリア教とは創造主たる神=聖女マリアを信仰の対象として崇める一神教だ。その教えはマリア様の一番弟子賢人ノエルによって記された三百六十五日の旅の記録――聖書マリアバイブルに基づいている。

 それによれば、現在オレたちが住んでいるこの街は、マリア様の三人の弟子のひとりとされる聖エセルバートの誕生の地かつ終焉の地として伝えられていた。聖エセルバートは偉大な魔法使いだったが、旅の終わりにマリア様を裏切って悪魔と契約を交わした愚か者だ。

 突然、聖堂の扉が大きな音を立てて開いた。驚いて背後を振り返ると、酒瓶を片手に持った赤ら顔のゴドウィンさんが、よろよろとした足取りで戸口に立っていた。相当酔っ払っているのか、辺りに酒をふりこぼしながら大袈裟に星十字を切り、調子っぱずれな声で叫んだ。「愛すべきマリア様、あんたいつ見てもいい女だなあ!」

 下品な笑い声とともに、彼はのろのろとどこかへ姿を消した。

 ゴドウィンさんは聖エセルバートの街を徘徊する酔っ払いの浮浪者だ。普段は街外れの森の入り口付近をうろついているのだが、時々こんな風に街中までやって来て聖女マリアを愚弄する。先生から聞いた話によれば、元々は敬虔なマリア教徒だったそうだが、何年か前に信仰のすれ違いで家庭崩壊したのだとか。

 宗教で救われた人と不幸になった人の数は、果たしてどちらの方が多いのだろう――? 三人の弟子たちに微笑む祭壇奥のマリア像に祈りを込めながら、不謹慎にもそんなことを考えてしまう一幕だった。



 礼拝後、オレたちはお茶に向かう信者たちに紛れてこっそり集会所へ向かおうとしていたが、あえなくシスター・クレーネの涼やかな声に呼び止められた。

「ご機嫌よう、皆様。今朝は匍匐前進ご苦労様でございました」

 千里眼のごとき鋭い観察力。やはり彼女の目を誤魔化すことは出来なかったようである。シスター・クレーネは聖マリア修道院のお局様的存在とでも言っておこうか。この街で厳格な彼女に逆らう者はひとりだっていやしない。リーブル先生でさえ、この人には頭が上がらないくらいだ。

 修道院長のマザー・アンジェリンがもはや生きているのか死んでいるのかわからぬ状態であるために、(骸骨みたいな風貌で夜な夜な修道院を徘徊するマザーの存在は、信者たちの恰好の怪談ネタとなっていた)現在、修道院の実権を握っているのは、ほぼシスター・クレーネと言っても過言ではなかった。

「礼拝に遅れることは神への冒涜ですよ。毎週毎週よくもまあこう律儀に遅刻できるものですこと。あなたがたは普段からの心がけが足りないのです。今日は聖書マリアバイブルをお読みになってからお帰りなさいませ。最終章、暁の魔法使いの章にしましょう」

 オレとルリアはがっくりと肩を落とし、遅刻の原因であるリーブル先生に責めるような眼差しを向けた。それに気づいた先生は首元の細いリボンを緩めるように引っ張りながら、「さてと、それじゃあ僕は家に帰ってオールド・バイブルの解読の続きでもすることにしようかな」と、まるで他人事のようにオレたちの前を通り過ぎようとした。しかし、シスターは素早く先生のローブを掴んで低い声で嗜める。

「何を寝ぼけたことを言っているのです。リーブルさんも一緒に読むのですよ。まったく、あなたという人はやることなすことおばあ様のハリエットにそっくりですこと。血の繋がりとは恐ろしいものですわね」

 シスターのその言葉に、先生はひどくショックを受けたようだった。

「ハリエットと一緒にされるなんて心外だな。僕はあそこまでひどくはないと思いますけど」

 先生はばあちゃんのことをハリエットと名前で呼ぶ。それは彼女の容姿がうら若い乙女の姿をしていることに起因しているのだろう。ずっと昔、預言者と名乗る何者かから呪いの魔法をかけられて以来、ばあちゃんの体は歳をとることをすっかり止めてしまったのだそうだ。

 シスター・クレーネは昔からばあちゃんを知っていた。今からは到底想像もつかないが、ばあちゃんはこの街に住んでいた若かりし頃、聖マリア修道院の見習いシスターだったのだ。シスター・クレーネともうひとり、ルリアの育ての親であるマザー・エレオノーラと三人で、仲良くマリア様に祈りを捧げていたという美しい昔話を幼い頃に散々聞かされたものだった。しかし、この街にやって来たオレは、その話がいかに美化された作り話だったのかを否応なしに知ることとなる。

 シスター・クレーネの話によれば、ばあちゃんは修道院きっての問題児だったそうで、真夜中に塀を乗り越えて酒場へと繰り出したり、信者の恋占いに懺悔室を乱用したり、礼拝中に居眠りはするわ、お菓子は食べるわで救いようのない魔女だったということだ。そんなばあちゃんの素行を面倒見てきたシスターは、彼女の孫であるオレやリーブル先生に対しても、往々にして厳しく、時に優しく目をかけてくれているのだった。

「メグさんのその金髪はハリエット譲りですわね」

 シスター・クレーネは懐かしそうに、そしてちょっぴり羨ましそうに目を細めた。金髪はマリア様の髪の色と同じで高貴とされているため、聖職者や魔法使いたちにとっては憧れの的なのだ。

 金髪の魔法使いの中には、自らを暁の魔法使いだと豪語する不逞の輩も多かった。暁の魔法使いとは、聖書マリアバイブルの最終章でその出現を預言された、マリア様の血を引く大いなる魔法使いのことである。実際、ランズ・エンドと呼ばれる最果ての地に暁の魔法使いが現れたという噂を耳にしたことがあるが、噂話のどこまでが本当でどこまでが嘘かなんてことは判然としない。

 マリア教徒の心の拠り所である聖書マリアバイブルだって、長い歴史の中でさまざまな人物が手を加え、さまざまな言語によって訳されてきたわけで、そこに本当に事実が記されてあるのかほとんど怪しいところだし、もしかしたら、神の教えやその存在自体も単なる噂話の成れの果てかもしれないわけだ。

 そんな不可知論者みたいなことを言っておきながらも、オレは幼い頃に魔法使いのばあちゃんから聞かされてきたとある昔話を信じていた時期もあった。ばあちゃんの話によれば、彼女の家系のグレンフェル家は畏れ多くも聖女マリアの血を引いているというのである。あれは確かオレが今よりもうんと幼い頃のことだ。今となってはなぜ泣いていたのかその理由すら思い出せないが、激しく泣きじゃくるオレに向かって、暖炉の前の揺り椅子に腰をかけたばあちゃんがこう言った。

「おまえはマリア様の血を引く暁の魔法使いなのだから、自分に自信と誇りを持ちなさい」

 当然ながら、リーブル先生はこの話を端から信用していなかった。「きっと気を利かせたハリエットが、幼いメグのために作り話をしてくれたのさ」

「ところでメグさん――」

 シスター・クレーネの言葉で我に返った。「その格好、随分とお似合いですこと」

 すっかり忘れていたのだが、オレの服装はリーブル先生にかけられた魔法で女の子の礼拝用ドレスのままだった。

「あ!? いや、違うんです! これは先生の魔法で……」

「修道女になりたかったら、いつでも仰いなさい。あなたのような真面目で可愛らしい見習いシスターなら大歓迎ですよ」

 そう言うと、シスター・クレーネは笑いながら聖堂を去って行った。がっくりと項垂れたオレは隣で笑い転げる先生を睨みつけ、のろのろとした手つきで聖書マリアバイブルを開いた。

 暁の魔法使いについて記された聖書マリアバイブルの最終章は、幼い頃から繰り返し読んできたのでページが擦り切れてぼろぼろだった。信者のいなくなった聖堂でオレとルリアは真面目に黙読を始めたが、シスター・クレーネがいなくなったとたんに先生は長椅子の上に寝転んだ。

 前の席に座っていたルリアが、後ろを向いて先生の顔を覗き込む。

「真面目に読んでよ、先生。そんな姿を見られたら、あたしたちまでシスターに怒られちゃうじゃない」

「敬虔な信者は聖書マリアバイブルなんて丸暗記してるものさ。今更改めて読み返さずとも、こうして自分の頭の中で読んでいるから僕のことは放っておいてくれていいよ」

「じゃあ聞くけど、第三百六十五章、三節の内容は?」

 ルリアがすかさず挑戦的な口調で問う。

「神の御声に耳を貸さず、悪魔の声に従う者たちは、罪なき人々へ苦しみの矢を放つ。ひとつの星が天から落ち、星空暁に染まりしとき、大いなる魔法使いの金色の髪ひとしく暁となりて、地上に神の涙が降り注ぐであろう。すべては母なる海に帰し、終わりの始まりが訪れる。神はあなたがたのために、聖なる者を遣わした。光の彼方より、遥かなる時を超えて」

 どうやら一字一句間違いがなかったようで、ルリアは目を丸くして聖書マリアバイブルに顔を埋めた。

「僕を試そうなんて、百万年早いんだよ」

 リーブル先生という人は、怠惰なくせに恐ろしく頭が良いのだ。まあ、学生時代に聖書考古学科を専攻していたわけだから、今の質問は答えられて当然のことなのかもしれないが。

 しばらくすると、先生はすっかり眠りの世界へと旅立ったようだった。その静かな寝息を確認したルリアは、聖書マリアバイブルを閉じて大きな欠伸をひとつした。

「なんか面白いことないかなあ」

 ステンドグラスを見上げてから、降り注ぐ色とりどりの陽の光に視線を移し、彼女は急に思いついたように笑顔を見せた。

「ねえメグ、今日はいいお天気だし、あとで星降る森まで箒の遠乗りしない?」

 ルリアはいつも突拍子もないことを言い出す。星降る森は禁断の森だから決して近づいてはならないと、オレもルリアもリーブル先生からきつく言われているのだ。

「先生にバレたら、きっと怒られるよ」

「メグは箒が苦手だから乗りたくないだけなんでしょ?」

「そんなことない!」

 思わず声を張り上げると、ルリアが物凄い勢いでオレの口を塞いだ。オレたちはその姿勢のまま静かに先生の様子を伺ったが、熟睡しているらしくぴくりとも体を動かさなかった。安堵の溜め息とともに肩を下ろしたところで、突然背後から声がした。

「星降る森に近づいてはいけないよ」

 驚いて振り返ると、いつからそこにいたのか燭台を手にしたカウリー聖父がオレたちを覗き込むようにして微笑んでいた。どうやら今までの会話をすっかり聞かれてしまっていたらしい。

「あそこは実に危険な場所だ。森の中には悪魔がいるからね」

「悪魔?」

 予想もしなかった聖父の言葉に、オレたちは耳を疑った。

「聖エセルバートのことだよ。マリア様を裏切って悪魔に魂を売った聖エセルバートが、ほかの二人の弟子たちによって永遠に閉じ込められたとされている魔法陣が、星降る森に存在すると信じられているんだ。もうすぐ魔法祭だから、森の中へ入り込む愚かな巡礼者も出てくることだろう。誠に厄介なことだ」

「魔法祭?」

 オレとルリアが目をぱちくりさせて問い返すと、「おやおや、魔法祭を知らないなんて」とカウリー聖父が驚いたように言った。

「魔法祭とは聖エセルバートが誕生した日であり同時に終焉の日でもある日に、百年に一度だけ行われるお祭りのことだよ。小さな街だが三日後には近隣諸国からたくさんの人々がやって来て、街をあげての大賑わいになるはずだ」

 お祭りという言葉にルリアの顔はきらきらと輝いたが、オレは不思議に思って首を傾げる。

「聖エセルバートの日にお祭りって、それって偉大なる魔法使いの降誕祭として祝うの? それとも、裏切り者を魔法陣に捕らえた日として祝うの?」

「そのどちらでもあると言えるかもしれないな。聖書マリアバイブルによれば、悪魔と契約を交わした聖エセルバートを魔法陣に封印したのは、聖ノエルと聖ユーフェミアだっただろう? マリア様御自身ではないことから、慈悲深いマリア様は聖エセルバートをお赦しになっているというのがル・マリア教会の教えだね? 魔法の力に魅入られ、邪悪な者の力を借りて世界を征服しようとしたり、愛するマリア様をその力ごと手に入れようとした聖エセルバートは、罪深い人間の象徴とされている。人は皆エセルバートになりうるという教訓を込めて、この偉大なる憐れな隣人を祝い、魔法の素晴らしさを再確認しようというのがこの街における魔法祭というわけだ」

 今や世界宗教となってしまったマリア教は、ル・マリア教会やカストリア国教会など多くの流れが存在し、地域や世代、個人の考え方、捉え方の違いなどからさまざまな解釈がなされている。ル・マリアの中にも異なる見解を示す人々がいて、聖書マリア・バイブルに書かれていることを字義通り受け取る賢人派にとっては、聖エセルバートは絶対悪たるマリア様の敵だったりする。まあ、世の中にはさまざまな人間がいるのだから、多種多様な考え方があるのは当然だ。

 くれぐれも星降る森には近づかないようにとオレたちに念を押してから、聖父は聖堂を立ち去った。その姿が消えたのを確認すると、ルリアは抑えきれない様子で好奇心を解き放った。

「今日はこれからメグと二人で星降る森の大冒険に決定!」

「ええっ!?」

 オレは驚いて思わず大声を上げてしまった。咄嗟に口を抑えたが、時すでに遅し。目を覚ましたリーブル先生が、聖書マリアバイブルを開こうと慌てるルリアの頭を自分の本で軽く小突いた。

「ページが違う。それは第十五章、星の館だろ」

 そんな彼の背後には、いつの間に現れたのかシスター・クレーネが立っていた。先生は大慌てで手にしていた聖書マリアバイブルを開くと、寝起きの不機嫌さを一掃させて笑顔で振り向いた。

「リーブルさん、本が逆さですわよ」

 先生は笑みを浮かべたまま、ゆっくりと聖書マリアバイブルをあるべき方向に直した。シスターは呆れたように溜め息をつくと、オレたちに帰宅の許しを与えてくれた。それから、真っ先に席から立ち上がった先生のローブを掴みつつ、神妙な顔つきで言葉を続けた。

「リーブルさんには大切なお話があります」

 先生はげんなりとした顔つきで、半ばあきらめたように項垂れた。

「どうせ僕はハリエット譲りの駄目信者ですからね。こうなりゃどんな話でも聞きますよ」

「魔法祭についてですわ」

 それを聞いた先生の表情が一瞬曇ったのを、オレは決して見逃さなかった。だが、ルリアが早く帰ろうと急かしてきたので、なんとなく気になりつつもそのまま聖堂を後にした。

「早く、早く!」

 何をそんなに急いでいるのか、ルリアは小走りに箒の立て掛けてある正面扉へと駆けて行く。まさか本気で星降る森に行くつもりなのだろうか。ただでさえ薄気味悪い森なのに、悪魔がいるかもしれないだなんて尚更ごめんだ。

 蝋燭の明かりに照らされたほの暗い翼廊から、ふいに冷たいような生ぬるいような妙な風が流れてきて、明かりの揺らめきとともに黒い影がゆらりと揺れ動いた。一瞬ぎくりとしたが、薄暗い翼廊は相変わらずしんと静まり返っている。地下聖堂へ続く階段の先にあるのは確か聖エセルバートの棺だった。こんなとき、先程までは何とも思わなかった自分の影ですら、急に恐ろしい何かの形に見えてくるのだから、人間の心とは実に不思議なものである。

 なんだか落ち着かない気分になって、オレは足早に扉まで駆けてゆくとルリアの箒に飛び乗った。

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