第三話 星降る森の冒険
オレとルリアはカンテラをぶら下げた箒に二人乗りして星降る森の入り口までやって来た。まだ正午を過ぎたばかりだというのに、生い茂る木々が陽の光を遮って森の中は薄暗い。時折、鹿の鳴き声が辺りに響き渡るのだが、その声はまるで人間の叫び声のようにも聞こえた。
『森の中には悪魔がいるからね』
頭の中でカウリー聖父の言葉が何度も繰り返される。そんな先入観のせいもあって、オレにはこの森がとてつもなく恐ろしい存在に感じられた。
「ねえルリア、本当に森の中に入る気? 悪魔に遭遇したらどうするの?」
「そんなのきっと迷信だよ。もしかしてメグ恐いの?」
「恐くはないけど、もし聖エセルバートの魔法陣が存在したら危険じゃないか。オレたちはまだ見習い魔法使いだから、悪魔と戦う術なんて何ひとつ知らないし」
「大丈夫だよ。ちょこっと探検するだけだもん」
ルリアはスキップしながら森の中へと入って行く。離れ離れにならないように、オレは彼女の箒を両手で握り締めて仕方なく後を追った。
森は深閑とした空気が漂っており、まるで別世界にでも迷い込んだようだった。外の世界が恋しくなって入り口を振り返ったが、もはやこの目で確認することが出来ないくらい奥深くまで歩いていた。帰りは家まで箒でひとっ飛びするつもりだったので、最初から道に目印などは残していなかった。
突然森の奥から咆哮があり、オレは驚いてルリアに飛びついた。自分の不甲斐なさに顔を赤らめ慌てて彼女から離れると、軽く咳払いをした。
「急に音がしたから驚いただけだよ。別に恐かったわけじゃ……」
しかし、ルリアはオレの話などまるで耳に入っていない様子で、獣道から少し右にそれた方角をじっと睨みつけている。
「どうかしたの? ルリア」
「今、あそこの茂みに誰かいた」
その言葉を聞いた瞬間、体中に鳥肌が立つのを感じた。
「こんな森の奥に人がいるわけないじゃない。きっと何かの動物だよ。ほら、さっきから鹿の鳴き声がしてるし」
「動物じゃないよ。絶対人の影だった!」
確かめてくると言って走り出そうとしたルリアを、オレは慌てて引き止めた。
「森にいることがバレたら、きっと怒られるよ」
オレはとにかくルリアを行かせたくなかったし、一緒に行きたくもなかった。彼女を説得して今すぐにでもこの森から出たかった。しかし、ルリアはうちに帰るまいと茂みに向かって走り出した。
「ルリア!」
ここではぐれたら箒を持っていないルリアは森の中で迷子になってしまう。オレは心の中で半分泣きながら、彼女を見失わないよう必至で後を追いかけた。
茂みの向こうにまた別の茂みがあり、ルリアの後姿がそこへ入って行くのを見たはずなのに、緑のアーチを抜けるとどこにも見あたらない。恐怖のあまり呆然と立ち尽くしていると、すぐ近くの茂みからクスクスと忍び笑いが聞こえてきた。どうやら二番弟子はオレを恐がらせようと隠れて様子を伺っているようだ。
「ルリア、ふざけてないで出てきてよ!」
返事の変わりに甲高い悲鳴がそこら中に響き渡った。悪ふざけが続いているものだとばかり思っていたが、悲鳴は冗談ではなかった。ルリアは恐怖で顔を強張らせ、凍りついたように茂みの向こう側に立っていた。彼女の視線の先には紫と緑の斑点模様のついた巨大な蛇が、シャーシャーと威嚇するような音を出している。まさに一触即発といった雰囲気だ。
こっそり一歩踏み出そうとして小枝を踏みつけてしまい、蛇の頭がオレの方に向かってくるりと回転した。次の瞬間、蛇は鋭い牙を剥き出しにして物凄い速さで襲い掛かってきた。だが、そのとき横から飛んできた酒瓶が上手い具合にぶつかって、蛇は地面に強く叩きつけられた。酒瓶の飛んできた方角に視線を走らせると、そこにはゴドウィンさんが立っていた。
ゴドウィンさんはよたよたと蛇の元に近づいていき、割れた酒瓶から流れ出たお酒をもったいなさそうに指ですくってなめた。それから、懐に手をやりマッチ箱を取り出して、酒まみれの蛇に向かって火をつけたマッチ棒を投げ捨てた。あっという間に燃え広がった炎の中で、蛇は苦しそうにのた打ち回った。だが、驚いたことに確かにそこにいたはずの蛇の姿は、しばらくすると煙のように跡形もなく消えてしまった。
「こりゃあ、魔法だな」
ゴドウィンさんはそう呟いてから、意味ありげにオレとルリアを見つめた。
「お前さんたちは、確かマリア教の魔法使いだったなあ?」
オレたちは黙ってこくりと頷いた。
すると、彼は「ご愁傷様なこった」とだけ言い残して身を翻し、ゆっくりとした足取りで森の奥へと姿を消した。
「変な人」
ルリアが胡散臭そうに呟いた。
「でも、酒瓶を割ってまでしてオレたちを助けてくれたよ? もしかすると案外いい人なのかも」
「それはそうと、どうしてこんな森の奥にゴドウィンさんがいるわけ? あの人、蛇が消えたのは魔法だって言ってたけど、誰かが蛇に魔法をかけたってこと?」
「さあね。でも、森が危険に満ち溢れているってことはよくわかったよ。ねえルリア、そろそろお腹もすいたしうちに帰ろう?」
「何言ってるのメグ、やっと面白くなってきたところなのに! 冒険に多少の危険はつきものじゃない」
ルリアが悪びれた様子を少しも見せずに言ったので、オレは思わず声を荒げた。
「いいかげんにしろ! もしかしたら、二人とも蛇に噛み殺されて死んじゃってたかもしれないんだぞ! ルリアが帰らなくても、オレはうちに帰るからね!」
叫んだ後ではっとしたが、気づいた時には遅かった。ルリアの癇癪玉はあっという間に破裂した。
「帰りたきゃさっさとひとりで帰ればいいじゃない! メグの弱虫! メグのオトコオンナ!」
それだけ叫ぶと、彼女は物凄い勢いで茂みの奥へと走って行った。ここで追いかけたらルリアの思う壺だ。甘やかしてはいけない。オレは自分にそう言い聞かせてなんとかその場に踏みとどまった。そして、暗澹たる思いで深い溜息をついた。
ルリアはいつだって唯我独尊だった。何か気に入らなかったり、自分の思い通りにならなかったりすると、すぐに癇癪を起こして周りの人間を困らせた。勝手に怒って勝手に口をきかなくなることなんかしょっちゅうだった。そのくせ、本当は人一倍寂しがり屋で泣き虫なのだ。
先生から聞いた話によれば、ルリアは生まれてすぐに修道院の入り口に捨てられていたのだそうだ。彼女が九歳のときに育ての親であったマザー・エレオノーラが亡くなって、マザーとうちのばあちゃんが古くからの友人だったことから、ばあちゃんの孫であるリーブル先生がルリアを引き取ることになり、今の暮らしが始まったのだ。
初めて会った頃のルリアの姿を、オレは今でも忘れることが出来ない。唯一の心の支えだったマザーの死によって、彼女は完全に自分の殻に閉じこもっていた。その孤独な姿は見ていて痛々しいほどだった。しかし、リーブル先生の深い愛情がやがてルリアを孤独の淵から救った。
先生の愛の形とはまた少し違うかもしれないが、オレもルリアを愛している。ルリアはオレにとって妹のような存在であり、かけがえのない親友だ。いつも何をするにも二人一緒だった。オレが弱音を吐いたときはいつだってルリアが元気づけてくれた。
「仕方ないな」
オレは再び大きな溜息をついた。二番弟子はきっとまだ声の届く範囲にいるはずだ。日が暮れる前に探さなければ――。
ルリアの箒に跨り意を決して地面を蹴ると、箒は思ってもいない方向に大きく飛び立ち前面の木とぶつかった。柄にぶら下げていたカンテラが危うく割れてしまうところだった。気を取り直してもう一度飛び立つと、今度は上下に激しく揺れ動き、森の木々を突き破って雲の上まで飛んで行った。そうして、遙か遠くに聖マリア修道院の尖塔を確認したところで、そのまま真っ逆さまに落ちてゆく。
「わああああ! だから箒は嫌なんだ!」
木の枝に引っかかり、どうにか一命を取り留めた。だが、近くに鳥の巣があったため、雛を狙う外敵として親鳥に追い立てられた。わけもわからず森の中を走り逃げているうちに、やがて洞窟のある場所に辿りついた。
茨が一面に繁茂する入り口には、人を寄せ付けまいとする不気味な力が働いているようだった。洞窟の中は真の暗闇で覆われており、そこから吹いてくる一陣の冷たい風にドキリとさせられた。辺りに人影は見あたらなかったが、入り口から少し離れたところに古い彫像が立っている。聖エセルバートに手を差し伸べるマリア様の彫像だ。
足元の石碑に文字らしきものが彫られてあることに気がついて、屈んでカンテラを近づけた。
『聖女マリアの弟子、聖エセルバートここに
そのとき、ふいに視線を感じてオレはおもむろに顔を上げた。マリア様の彫像が腰を低く屈め、今にもオレを捕らえようとするかのごとく大きく右手を伸ばしている。
「ぎゃああああっ!?」
尻餅をついた弾みに、肩に背負っていた箒からカンテラが滑り落ちて洞窟へと転がった。だが、そんなことは気にもとめずにその場から走って逃げた。少し離れた大木の後ろに転がるように隠れてから、恐る恐る振り返って見てみる。奇妙なことに彫像は元の通り静穏な様子で立っていた。
彫像が動くわけないじゃないか。今のは目の錯覚だ。そうだ、そうに決まってる――。
必死で心を落ち着かせようと試しみたが、ほとんど無駄な努力だった。動悸が治まらないうちに、そう遠くない場所から今度はルリアらしき悲鳴が聞こえてきたので、オレの心臓は驚き跳ね上がった。
前方の草むらで何かが必至にもがいている。軽い混乱を伴ったまま目を細めると、生い茂る草むらの奥にルリアの姿が見えた。
「ルリア!」
慌てて駆け寄ると、ルリアは焦ったように声を上げた。
「こっちに来ちゃだめ!」
草むらの先は辺り一体が沼地になっていて、ルリアの下半身は茶色い泥の中にすっかりはまり込んでいた。
オレはぬかるんだ泥の中に足を踏み入れないように注意しながら、へっぴり腰でルリアに向かって箒を伸ばした。「ルリア、これにつかまるんだ!」
二番弟子はどうにか箒に手を掛けることが出来たが、体はすでに半分以上泥の中に沈んでいた。沼は底なし沼と呼ぶにふさわしい勢いで彼女の体をのみこんでゆく。オレが少しずつ沼地に吸い寄せられていくのを見ると、ルリアは迷わず箒から手を放してしまった。その反動でオレは地面に強く尻餅をついた。
「ごめんね、メグ」
ルリアの目にうっすらと涙が滲む。「メグの言うことをきいて、うちに帰ればよかった」
彼女はもうすっかり動くことをやめていた。
「あきらめちゃだめだ、ルリア!」
ルリアはぽろぽろと涙を流しながら、精一杯の笑顔を向けた。
「リーブル先生と仲良くね」
「ルリア!」
オレの呼びかけも空しく、彼女の顔は瞬く間に泥の中へと沈んでいった。こんなにあっけなくルリアとの別れが訪れるなんて、まるで信じられなかった。
「ルリアァァ!」
宙に伸ばされた白い指先だけが、かろうじて泥の中から伸びている。あとほんのわずかな時間で、それも跡形なく沼の中に消えてしまうに違いない。オレは残されたルリアの指先めがけて、両手を掲げて浮遊術の呪文を唱えた。しかし、沼はしんと静まり返ったまま何の変化も起こらない。
あきらめるもんか――!
懸命に呪文を唱え続けると、やがて茶色の泥が鍋の中で煮えたぎるシチューのごとく、ぐつぐつと動き出した。沼は山のように膨れ上がり、ルリアの体が弾け飛ぶようにして泥の中から浮かび上がった。
「ルリア!」
オレはルリアの体を両腕で抱えて抱きしめた。全身泥まみれの体は異様なほどにぐったりとしている。慌てて心音を確認すると、かすかな鼓動が耳に届いた。ほっと肩の力を抜いた瞬間に安堵の涙が頬をつたい、ルリアの泥だらけの額にぽつりと流れ落ちた。
意識を取り戻したルリアがうっすらと目を開けた。
「メグ……」
「よかった……無事で」
涙は次から次に溢れて流れ、ルリアの顔の泥を少しずつ落としていった。それに合わせるかのようにして、ぽつり、ぽつりと空から水滴が落ちてきた。降り出した小雨は次第に激しさを増して横殴りに打ち付けてくる。どこかで雨宿りをしなければ――。オレはルリアを背負うと、やむなく彫像のそばにある洞窟へと歩いて行った。
洞窟は薄気味悪い雰囲気だったが、ルリアを失う恐さに比べたら先程までの恐怖心など薄らいでしまった。少し離れた場所に立つ彫像は動き出しそうな気配もなく、激しく打ち付ける雨に濡れてまるで泣いているように見える。
この雨がやむまではうちに帰れないな――。そう思ってはっとした。箒がないのだ。ここでようやく箒を沼の中に落としてしまったことに気がついて項垂れた。現在自分が森のどの辺りにいるのか全く検討がつかなかった。方角をあやまって進めば、うちに帰るどころか何ヶ月も森の中を彷徨うことになり兼ねない。
隣に横たわっていたルリアがゆっくりと体を起こし、顔を下に向けて口の中に入った泥を吐き捨てた。
「あたし……どうやって助かったの?」
「浮遊術の魔法をかけて、沼の中から引っ張り上げたんだ」
「たくさん心配かけてごめんね、メグ」
ルリアは涙混じりに何度も謝罪の言葉を口にした。オレが肩を抱いて笑顔を向けてやると、彼女は泣きながら微笑んだ。
「メグはきっと立派な魔法使いになれるよ」
「何言ってんの。ルリアには敵わないよ」
「ううん、本当に。さっき助けに来てくれた時のメグ、すごく男らしかったよ」
その言葉は、オレにとっては特別な魔法の言葉だった。なんだか急に元気が出てきた。必ずルリアを連れて無事に家まで帰らなければ。リーブル先生の待つ、星降る丘のあの家へ。
「ここはどこ?」
ルリアは不思議そうに辺りを見回した。
「森の洞窟だよ。近くに聖エセルバートに手を差し伸べるマリア様の彫像が立ってた」
「ええ!? じゃあ、この辺りに悪魔になった聖エセルバートが封印されてるってこと?」
「わからないけど、表の石碑には『聖エセルバートここに
わざわざルリアを恐がらせることもないと思い、オレは彫像が動いた件に関しては何も言わずにおいた。
「あれ?」
ルリアは訝しそうに洞窟の奥をじっと見つめた。
「今、何か光った!」
目を凝らしてみると、確かに暗闇の中で何やらちらちらとした光が輝いている。
「もしかして、悪魔の眼?」
ルリアは怯えたようにオレの背後にしがみついた。しかし、光の輝く様子は美しく、とても悪魔の眼には見えなかった。
洞窟の入り口には幸い先程落としたカンテラが雨に濡れて転がっていたので、オレとルリアは奥へ入ってみることにした。足元を照らしながら、二人寄り添うようにしてゆっくりと歩いてゆく。光は真っ直ぐ突き進んだ先にあった。その正体がぼんやりと目に見えるほどに近づくと、ルリアは歓喜の声をあげた。
「すごい!」
光の正体は白く輝く苔だった。驚くべきことに幾重かに分かれた脇道には自生した光苔がびっしりと育っている。まるで星の絨毯のようだ。うっとりと魅入っていると、突然、辺りに苦悶の呻き声が響き渡り、思わず持っていたカンテラを地面に落としてしまった。
「な、何今の声?」
「も……もしかして、悪魔?」
ルリアがうわずった声で応えた。
「まさか」
しかし、そのときオレとルリアは確かに見た。前方の暗闇に突如として現れた二つの鋭い眼の光を。
「ぎゃああああ!」
オレとルリアは光苔に照らされた脇道を無我夢中で駆け抜けた。走って走って走りまくった。どのくらい走ったかは分からないが、相当な距離であることは間違いなかった。しばらくしてから、勇気を振り絞って後ろを振り返ってみた。何かが後を追ってくるような様子は見受けられない。それで、オレたちはようやく走るのをやめた。
「大きな目がこっちを見てた」
ルリアは息をきらせて肩で大きく呼吸していた。オレは何度も深く頷いた。
「悪魔は本当にいたんだ」
いつものルリアならそう容易く信じたりはしなかっただろうが、このときばかりはそうもいかないようだった。暗闇の中に現れた二つの眼――。果たしてあれは聖エセルバートだったのだろうか?
オレたちは到底引き返すことなど出来なかったので、光苔に照らされた脇道をただひたすら先に進むしかなかった。洞窟がこんなにも大きいとは思いもしなかった。空洞はやがてゆるやかな下り坂になり、それからまた平坦な道に戻った。しばらく歩き続けていると、光苔はだんだんと減り、道の幅は並んで歩けないほどにまで狭まって天井も低くなった。
やがて道は終わりを告げ、その先には階段が続いていた。暗い天井には扉らしきものがあって、オレは両手でゆっくりとそれを押し上げた。視界に映ったのは、どこかで見たことのある風景だった。
「聖マリア修道院だ」
オレの後から顔を出したルリアが、驚いたように呟いた。
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