第七話 天使の涙

『魔法使いの試練』の申し込みを終えたオレたちは、聖堂の正面扉から外に出ると、カレッジの敷地内に建つ荘厳な図書館を訪れた。魔法に関する貴重な文献が揃っているばかりか、多くの写本も保有している世界一の図書館だけあって、建物の造りも大変立派だった。

 天井の高い吹き抜けの空間にはいくつもの書架と机が立ち並び、左右の壁には三階まで棚という棚にびっしりと蔵書が詰まっている。棚の間にある大きな窓はステンドグラスになっていて、美しい妖精の楽園とマリア様に花を手向ける庭師の姿が描かれていた。マリアバイブルの第二百章に登場するエデンの園だ。

 そこへ足を踏み入れた者は、二度と元の世界へ戻らないと伝えられる永久の楽園――。旅の途中でエデンの園を訪れたマリア様は、そこで庭師と真の愛について語り合うのだ。

 ほかのステンドグラスに描かれていた絵も第二百章に纏わる場面ばかりだった。確かエデンの園で暮らす庭師はもともと大都市エデンに住んでいたそうだから、きっとこの地には数々の逸話が伝承されているに違いない。

 魔法の参考書を広げ勉学に勤しむ学生たちの間をすり抜けて、階段を上ったオレたちは陽の差し込む明るい三階のテーブル席に辿り着いた。広い図書館内の場所を把握するのに、ステンドグラスの絵柄は目印になってちょうど良い。まるで隠れ家のようなこの一角には、エデンの庭師が楽園に旅立つ前に暮らしていた黄色い屋根の家が描かれていた。

「この場所で、よくリーブルと勉強をしたり、冗談を言い合ったりしたものです」

 柔らかな陽光が降り注ぐ寄木細工のテーブルに手で触れて、マーラさんがおもむろに語り始めた。

「ここは元々私のお気に入りの場所だったのですが、やがてリーブルも度々姿を現すようになりました。彼いわく『変わった髪の色について人からとやかく言われるのが面倒だから』とのことでしたが、実際には色めきたった女生徒たちから逃げていたんですよ」

 そう言って、彼は悪戯気にふふと笑った。オレとルリアはテーブルの上に頬杖をついて、師匠が登場する昔話に聞き入っていた。

「私たちは専攻している学科が違ったのですが、いつしか言葉を交わすようになり、大学時代のほとんどの時間をここで共有していました。リーブルは夜空に浮かぶ月のような人でした。太陽のように力強い輝きではなく、静かに包み込んでくれるような、そんな満ち足りた感覚です。頭が良く、博識だった彼はいつも色々な話を聞かせてくれたものです」

 ステンドグラスに空ろな視線を注ぐマーラさんは、遠い過去の記憶に浸りきっている様子だった。

「彼と過ごした日々は、本当にかけがえのない時間でした。この場所は私にとって、とても大切な思い出の場所なんです」

 そう言って、マーラさんは夕陽を受けたステンドグラスに目を細めて微笑んだ。彼にとってこの図書館は、オレにとってのレーンホルムのような存在なのかもしれない。古き良き思い出はどんなに時を重ねても、永遠に心の中に在り続けるのだ――。



 オレたちはエデンの物語が散りばめられたステンドグラスをひとつずつ眺めて帰ることにした。神秘的な妖精の姿や、炎に包まれた魔女など、色鮮やかなステンドグラスは陽の光に反射して何色にも輝いて見えた。生み出された外光は床の上にも色を映している。その美しさに心を奪われ足元ばかり見ていたオレは、山のような書物を持って歩いてきた人物と正面からぶつかってしまった。静かな館内に本の崩れ落ちる音が響き渡る。

「ごめんなさい! 大丈夫ですか?」

 散乱した本の中に仰向けで埋もれる相手を助けようとして、オレは驚きに包まれた。

「ラルフ君?」

 そこに倒れていたのは、オレとリーブル先生の幼馴染のラルフ君に間違いなかった。ラルフ君は驚きのあまりどんぐりのように丸い目を一層大きく見開いた。「メグ!?」

 彼は焦ったように飛び起きると、物凄い勢いでオレの両肩をつかんだ。

「なんで、おまえエデンにいるんだ? 何かあったのか!?」

 勢いに圧倒され、どもりながら魔法の杖を買いに来たことを告げると、ラルフ君はほっとしたように肩の力を抜いた。「そうか。……杖を買いに来ただけか。そうか……」

 それから、オレの後ろにいたルリアの姿に気がついて、彼なりに挨拶の言葉をかけた。

「よう、久しぶりだな、ガキ。リーブルは一緒じゃないのか?」

 ルリアはガキと言われたことにカチンときたようで、ジロリとラルフ君を睨みつけた。

「先生は用があって後から来るの。それより、どうして科学者のラルフが魔法使いのカレッジにある図書館にいるわけ? あ、そうか。魔法使いになりたくてもなれなかったから、未練がましく魔法の勉強をしに来てるんだ?」

「ぬぁにい?」

 ルリアとラルフ君はばちばちと火花が飛び散りそうなほど睨みあった。どうしてこの二人はこうも相性が悪いのだろう。

「俺は魔法の研究をしてるから、魔法使いの文献も必要なんだよ!」

 ラルフ君は憤りながら散らばった魔法の参考書を拾い始めた。そこでようやくオレたちの背後にマーラさんが立っていることに気がついたらしく、不審そうに彼を見据えた。

「マーラじゃないか。おまえ、こんなところで何してるんだ? 出歩いていて大丈夫なのか?」

 先生の親友だっただけに、どうやら二人は顔見知りのようだった。

「もうすっかり良くなりましたので、お気遣いなく」

 わずかに瞳を伏せながら、マーラさんは弱々しく微笑んだ。

 交わされた会話から察するに、何かの病気だったのだろうか? そうとも知らずに、オレとルリアは今日一日中、病み上がりのマーラさんを引っ張りまわしてしまったのだ。カレッジの中を歩き回らせたり、『魔法使いの試練』の申し込みで列に並ばせたり――なんだか急激に申し訳なくなってきた。リーブル先生は後からオレたちと落ち合うと言っていたが、一体いつになったらやって来るのだろう?

 そのとき、実にちょうどよいタイミングで先生が図書館の玄関ホールに現れた。

「やあ、ここにいたのか。ごめんね、すっかり遅くなって」

 駆けつけた先生は、参考書を拾い集めるラルフ君の姿に気がついた。

「おや、ラルフ。こんなところで君に会えるとは思ってもいなかったよ」

 すると、ラルフ君はがばりと立ち上がって慌てて弁解し始めた。

「勘違いするなよ! 俺は別にここで魔法使いになるための勉強をしていたわけじゃないからな!」

「はあ? 一体何を言ってるんだい、君は」

 呆れたように肩を竦めて見せてから、先生はオレたちの方に向き直った。

「初めての大学はどうだった? 授業も見学出来たんだろう? 楽しかったかい?」

 興奮気味で首を縦に振り、オレはマーラさんに案内してもらった場所を細々と先生に報告し、それから、ちょっとだけ躊躇いながらも『魔法使いの試練』に申し込んだことを伝えた。

「驚いたな。まさか本当に申し込むとは思ってもいなかったよ。どうせルリアが『試練受けたぁぁ~い!』とか言って駄々こねたんだろ?」

「そんな言い方してません!」

「そうかい? そりゃ失礼しました」

 先生が笑いながらルリアの頭をぽんぽん撫でると、彼女は不思議そうな顔をした。

「あれ? 先生、なんだかいい匂いがする」

 言われてみれば、確かにさっきから甘い香りが鼻腔をくすぐる。なんだかひどく懐かしいような、優しい香りがリーブル先生の体から溢れていた。

「香水みたいな匂いだね」

 オレが鼻をきかせると、先生は普段の先生らしからぬ、妙に焦った様子を見せた。そのことに気がついたラルフ君は、先生を窮地に陥れようとすかさず余計な言葉を挟んだ。「女の所にでも行ってたんじゃないのか?」

 その言葉を聞いた瞬間、ルリアの表情が手に取るように変化した。

 先生はわざとらしくこほんと咳払いをして冷静さを取り繕う。

「ラルフ、もしかして君も『魔法使いの試練』の申し込みをするつもりかい? 言っておくけど、魔法が使えなきゃ試練には申し込みすら出来ないんだよ?」

「おまえ、俺を侮辱する気か!」

 大声を出して先生の胸倉をつかみ上げたラルフ君は、図書館の司書から「お静かに!」と怒られた。先生はザマーミロと言わんばかりに舌を出して挑発する。

「さあ、馬鹿はほっといてお茶でもしに行こう」

 聞こえよがしにそう言い放ち、先生はルリアの肩に腕を回して歩き始めた。しかし、ルリアはその場に立ち止まり、責めるような表情で師匠を見上げた。

「今までどこに行ってたの?」

「え?」

 リーブル先生は驚いたように目をぱちくりさせた。

「なんだいルリア。君、もしかして妬いてるのかい?」

 ルリアの顔はあっという間に真っ赤になった。

「そんなんじゃないもん!」

「別に隠さなくたっていいんだよ。僕がほかの女性に心を奪われていると思ったんだろう? でも、安心していいよ。僕が愛してるのは君だけさ」

「違うって言ってるでしょ! あたしは別に先生のことなんかこれっぽっちも何とも思ってないんだから、先生が誰とどこで会ってたって一切関係ありません!」

 真っ赤な顔で否定するルリアに向かって、先生はいつものようにいつものセリフを吐き捨てる。

「そんなにムキになることないだろう? やっぱり君はガキだなあ」

 ルリアは下唇をきゅっと噛み締めて俯いた。

「子供扱いしないでよ」

「仕方ないだろ、君はお子様なんだから」

「お子様じゃないもん!」

「はいはい、そうだね」

 先生は笑いながらルリアの頭をぽんぽんと撫で続ける。

「さ、行くよ」

 そう言って、再び肩を抱き寄せたとき、ルリアは勢いよくその手を振り払った。真珠みたいな光の粒が、大理石の床の上にぽろぽろと降り注がれる。ルリアの瞳から大粒の涙が頬をつたって流れ落ちていた。

「ルリア?」

 ルリアはようやく参考書を積み終えたばかりのラルフ君の元へ駆け寄ると、あろうことかこう言った。

「ラルフ、今晩あたしをラルフのうちに泊めて!」

 ルリアの突然の言動に、ラルフ君は持っていた本を再び落としかけた。リーブル先生は驚いた様子で二番弟子を真っ直ぐに見つめた。「一体何のつもりだい、ルリア?」

 先生の問いには答えずに、ルリアはラルフ君の後ろに身を潜めた。巻き添えを食らったラルフ君は、まるで厄介払いでもするかのように彼女のことを睨みつける。

「あのなあ、何で俺がおまえをうちに泊めなきゃならないんだ!」

 ルリアは潤んだ眼差しでラルフ君を見上げると、彼の服の袖口をぎゅっとにぎりしめた。

「お願いラルフ、今晩だけでいいから。あたし、先生のいる部屋に戻りたくないの」

 ルリアの天使の涙に、ラルフ君はドキリとして一瞬のうちにひるんでしまった。

 リーブル先生が低い声でルリアのことを嗜める。

「いいかげんにしなさい、ルリア。自分が何を言ってるのかわかってるのかい?」

 ルリアは先生の言葉には耳も貸さず、ラルフ君の腕を引っ張って走り出した。参考書の山は再び大きな音を立てて雪崩のように床中に散乱し、館内中の生徒たちが見守る中、二人はあっという間に図書館から姿を消した。

 残された先生は、今目の前で起こった出来事が信じられないみたいに、茫然とその場に立ち尽くしていた。

 子供扱いされたルリアが先生と衝突することは日常茶飯事だったが、彼女はそのことで泣いたりしたことは今まで一度もなかった。思うに、ルリアはどうして自分が泣いていたのか、涙の本当の理由にはきっと気がついていないに違いない。



 図書館から出ると、リーブル先生は無意識のうちに魔法で落ち葉を空中に飛ばしながら、淡々とした口調でオレに言った。

「メグ、ラルフの家の住所を教えるから、悪いけどルリアのことを迎えに行ってくれないか」

 先生が行ってあげればいいのに、と思ったが、未だかつてないほどに不機嫌な様子がありありと伝わってくるので、オレは恐ろしさから何も言わずに了解した。落ち葉がいつの間にやら彼の背後でぐるぐると旋回しているあたり、どう考えても歯向かわない方が身のためだ。

 だが、恐いもの無しのマーラさんはばっさりと言い放つ。

「君が悪いんですよ、リーブル。年頃の女の子を子供扱いすれば傷つくのは当然です。彼女に戻ってきて欲しいなら、素直にそのことを伝えて謝るべきだ。君が直に迎えに行ってあげなければ」

 ぴくり、と先生の眉が動いたように見えた。

「冗談じゃない。どうしてこの僕がわざわざ出向かなくちゃならないのさ」

 先生の心情を表しているのか、旋回していた落ち葉が竜巻のようになり、広場にいた学生たちが悲鳴を上げて逃げてゆく。「それに、謝る必要なんか全くないね。ルリアは正真正銘のお子様だよ。年頃の女の子としての自覚が皆無じゃないか。ラルフはあれでも男なんだぞ?」

 オレとマーラさんは先生の生み出した竜巻に飲み込まれそうになって、近くの大木にしがみついた。しかし、先生はそんなことには気がついちゃいない。何やらひとりで支離滅裂なことをぶつぶつと言い続けている。

「だいたい、傷ついたのはルリアじゃなくて僕の方だ。僕よりラルフがいいって言うなら、ルリアなんかいっそラルフに弟子入りすればいいんだよ! メグ、可愛い二番弟子に会ったら伝えなさい。『今晩宿に帰ってこなければ破門する』って。それから、ルリアを連れて来れなかったら君も破門だぞ!」

「ええ? 何でオレまで?」

 思わず大木から手を離してしまい、オレは竜巻の中にぐるぐると巻き込まれた。「わああああ!」

 悲鳴に気がついた先生が我に返ると、竜巻は空気に溶け込んだみたいに瞬く間に消え去った。マーラさんが慌てて駆けつけてくれたが、オレはすっかり目が回って地面にへたり込むのだった。

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