第8話 恋は陽炎 ~道化師の初恋~
第一章 高校一年の夏
夏休みの目標・・・みんなは口をそろえて彼氏を作るんだって言った。
亜美菜の目標は?と聞かれて、吉本に修行に行くと言った私。
それは名案と言われて満足気にドヤ顔をしてみせた。
でも・・・・・
蝉時雨に起こされ、私はカ―テンを半開きにした。
太陽は、私をバカにするかのように見下している。
「チッ」
私はギラギラする空に舌打ちをくれた。
小さな白いテ―ブルをまたぎ、テレビのリモコンを人差し指で押すと、プールではしゃぐ水着姿の連中が顔をくしゃくしゃにして笑っていた。
「そう言えば・・・」
クラスの友達はプールに行くと約束してたな。確か、それが今日だったような気がする。
「亜美菜も行くんだよね?」
「私に似合う水着はこの世には無いのだ」
そう言って断ったのがつい昨日のようだった。
亜美菜は分かっていた。
亜美菜は、リビングに降り、その辺の食べ物を摘むと、壁の時計に目を向けた。
「図書館、もう開いてる時間だな」
まだ読みかけだった本をバックに詰め込むと、玄関のドアを開けた。
「アチッ」
昨日、外に出しっぱなしだった自転車のサドルは、まるで溶けたアスファルトのように焼き付いていて、亜美菜の気持ちはぐったりとなった。
出来るだけサドルに触れないように立ち漕ぎする。
早くも汗が目に入ってきた。ユラユラと滲んだ景色。前髪さえもうっとうしい。
「うわっ、冷えてる―」
冷蔵庫の中のような図書館の空間に亜美菜は思わず深い呼吸した。冷気は、肺から身体全体にしみ込んで、額の汗も冷たくなった。
「こうも暑いとさすがに満席状態だな」
高校生や大学生だと思える人達がテ―ブル席を占拠し、自分の世界にワ―プしている。
「真面目さん達だな」
亜美菜は、その光景に圧倒されたりした。
第二章 図書館
幸い、本棚の通路には人がまばらであった。
亜美菜は、本に挟まれた通路にしゃがみ込むと、ぎっしりと並んだ本の背表紙達に目線を走らせた。
亜美菜には、お気に入りの作家など一人も居ない。でも、それもそのはずで、何と言ってもタダなのだから、気になった物を手当たり次第に読めばそれで満足。
亜美菜はまだ若いが、作家を読むのでは無く作品を読むのだ。そんな哲学にも似た持論を早くから持っていた。
選ぶ範囲が限られないことで、図書館の中は亜美菜にとっては広い空間。 慌ただしい日々の時間さえここには無いのだ。
「これ、この前には無かったよね?」
黒い下地に赤い文字が怪しくも書かれた一冊の背表紙に目が止まった。 そっと手を伸ばし本を棚から抜き出した時だった。
亜美菜は床に横倒しになった。
「あ、ごめん。大丈夫?よそ見してたから」 床に転がって無惨に開いた亜美菜が読もうとした本。亜美菜はそれを手に取ると、破れて千切れそうなページに泣きそうになった。
「ごめん。ケガは無いかな?」
亜美菜は、その声にやっと状況を把握した。「本を破いちゃった。どうしよう・・・」
「ああ、これか。こんなのそのまま棚に戻しとけば大丈夫だよ」
「え、でも・・・それじゃあ次に読む人が困るし、第一、私の物でも無いから」
「大丈夫だって」
そう言って亜美菜の手から本を取り上げると、何も無かったかのように並んだ本の間に押し込んだ。
「はい、これでお仕舞い」
亜美菜は、ポンッと叩かれた肩に嫌な気持ちになった。
押し込まれた本は、何も言わずに黙ったままだ。
「何してるのよ。見付かったの?」
女性の声に振り返ると、「ま―だだよ」と、さっきの男が返事をしていた。
「早くしなさいよ。レポートが提出出来ないじゃないの」
大学生らしい身なりの女性は不満を撒き散らした。
亜美菜は立ち上がったが、その場から離れることが出来ずに、あの本の背表紙をじっと見つめていた。
亜美菜は、この本がいじめられっこで自分がいじめっこになった気分だった。
その時、横から「すみません」と声がし、あの本を手に取った。
「あ、その本は」
亜美菜は、本を持った手に思わず言葉を発した。
「え、これ。君が読もうとしてたの」
「そうじゃなくて・・・」
「だったら、借りても良いかな?」
亜美菜は返事に詰まった。はい、とも言えずに。
「じゃあ、借りるね」
優しい笑顔で去って行く背中。亜美菜は、走った。静かな室内に響く足音。
「その本。ページが破れてるんです。だから、借りないで。借りないで下さい」
亜美菜は叫んだ。
本棚の間から飛び出した瞬間に足がもつれ、綺麗に磨かれた白い床に転がった。
直前の大声で既に注目を浴びていた亜美菜は、不気味に静まり返った居心地の悪い空気の中で一人になった。
「な―んちゃって」
図書館は大爆笑になった。学生も大人も入り乱れて笑った。
亜美菜は、照れながらも自己嫌悪の渦に包まれて行く自分に気付くと、このピエロの性格が疎ましくなった。
「君、大丈夫なの?」
膝頭がヒリヒリするけど、そんな場合じゃない。
「その本、私が破いたんです。だから、破れてて読めないんです
図書館の係の人がジロッと私を見たことに気付いた。
呼び止められた彼も、それに同じように気付いたみたいで、私にそれとなく理由を聞いてきた。最後まで話を聞いた彼は、スタスタとカウンターに歩き進むと、さっきジロッっとして目付きをした係の人に説明し始めた。
係の人は説明を聞きながらも怪訝な表情でページを捲っている。
「ここの破れの事ですか?」
「多分、他に無いならそれだと思います」
係の人は、無言になると執拗にページの裏表を繰り返し見始めた。
「いくらですか?」
「は?」
「は?じゃなくて、いくらなんですか?弁償しますよ」
彼は、係の人の歪な態度にムカついたようで、強い口調になって交渉している。
亜美菜は慌てて彼の前に割り込み、何度も何度も係の人に頭を下げた。
「私なんです。私が弁償しますので。ごめんなさい」
彼は亜美菜の両肩を掴んで退かすとポケットから財布を取出し、五千円札を係の手に掴ませようとした。
カウンター付近に居る他の人達も、事がどうなるのか興味津々で騒めき出している。
それに気付いた他の人がカウンター内から飛び出してくると「こちらで修復しますので」と言った。
亜美菜は、涙ぐみながら、その人にも謝った。
「そんなに泣かなくても良いよ。話はもうついたんだから」
「でも、私のせいでみんなが嫌な気持ちになって」
「それは違うだろ。悪いのは、そこに居るあいつなんだから」
そう言ってテ―ブル席の男を指差した。
「偉そうに足なんか組んでんじゃねえ。この卑怯もんが」
みんなの視線が一斉にその男に向けられると横に居た女は慌てて席を立ち、そそくさと去っていった。
「おい、待てよ」
女の後を追うつもりか、男も椅子から立ち上がった。
「待つのはお前のほうだよ。お前、自分がぶつかって本を破いたんだろ?で、そのまま戻せば問題ないと言って棚に押し込んだ。だから、悪いのはお前なんだよ」
「何を言ってる。それは俺じゃねえぞ」
男は、両手でテ―ブルを強く叩いて威嚇してきた。
彼は笑った。
「バカかお前は。目の前に承認が居ることを忘れたのか」
彼が私の肩に手を置いた。
私は、その彼の横顔を見つめた。
男は周囲が気になった様子で、「悪かったよ」と言って出ていった。その背中が消えてしまった後、亜美菜は改めて彼にお礼をいった。「疑いが晴れたし、良かったです。ありがとうございました」
深々と頭を下げる亜美菜に、「別に良いよ」とだけ言って笑顔をくれた。
「マズイ。非常にマズイ気がする」
道化師は周りの人を楽しくするのが役目なのに、今、私の心臓が息苦しく熱いのは何故?
愛?恋?一目惚れ?
これまで恋心の一つも持った事なんか無いのに、男子を好きになるなんて有り得ないよ。
友達の恋愛は小学生の頃から聞かされていた。
それは、中学生になっても高校生になっても同じ。
彼氏への悩み、おのろけ。たくさんたくさん聞いてきた。 そう。私は聞いてきただけなの。
自分の恋ばななんかした経験は一度も無い。
だから、私は人を笑わせるのだ。
それが、私の最大の喜び。
でもね。友達が言っていた気持ちと私の今の気持ちが相当似てるの。
だとしたら、やっぱり・・・・
第三章 恋心の伝え方
あれから休みの日は朝から閉館まで図書館に居るの。
あの人が誰なのかは知らない。
知らないから図書館に行くの。
八日目の午後、それは突然の事だった。
私はいつものようにテ―ブルの一番端を占領していた。周りは既に見覚えのある顔達になり、必然的に会釈はするが会話は交わさない。
だって、勉強の話なんて私には無理だもの。 いつものように手当たり次第に抜き取った歴史小説。さすがに、戦国時代には詳しくなってきた。
そうか。信長は自分の城で自決し、それを生涯最後の戦いとしたのか。
ページを捲ろうと左手を本の端っこに持っていった時、話し声が聞こえた。
場所をわきまえるような小声は、確かに聞き覚えのあるあの声。
私は、勢いよく立ち上がった。それと同時に椅子が後方へ倒れ、ガタガタンという音が静かな館内の空気を乱した。
「あ、ごめんなさい」
私は慌てて四方八方の人達に謝った。
丁寧に丁寧にお詫びしたら、また声が聞こえた。
「君、いつも謝ってばかりいるの?」
今度の声は近い。いや、近いどころかすぐ傍だ。 視線を少しだけ起こすと白いスニーカーが目に飛び込んできた。
私は、スニーカーからデニム、薄青のシャツを目で辿った。
そして、視線が交差した。
「こんにちは」
彼はそう言うと、私が倒したままの椅子を起こした。
「あ、ありがとうございます。すみません」
「いいよ。気にしないで」
彼は微笑みながら言った。
私は言葉を探した。頭に浮かぶ色々な中から一つを選び出すと、一度唾を飲み込み話を繋ごうとした。
多分、今の私の顔は必死の形相だろう。でも、そんなのはどうでも良い。あれから八日間も待ったんだから。
「あの―、えっと......そそっかしいんですよね、私。えへへ」
私のバカ。何がえへへだ。彼だって呆れて笑ってるじゃないか。
そうじゃない。私の選んだ言葉は、こんなバカなセリフじゃない。
そう、違うんだ。本当は、えっと、何だったっけ?「お前、探したぞ。何やってんだよ。こんなとこで」
「あ、いや。何でも無い。それよか、あったのかよ。絶対に読みたいって言ってた本は?」
「ああ、ばっちりゲットしたよ。なんせ棚の一番下になんか置いてあるからよ。探すのに苦労したぜ」
「そんなもん、苦労でも何でも無えし」
「まあな。で、誰よ、その娘。お前の知り合い?」
知り合いって・・・私、その言葉にドキドキしてきたよ。
そう。私達はあれから知り合いの関係なの。「何言ってんだよ。子供の知り合いなんて俺には居ないよ。この前、ちょっと助けてやっただけで、なんも関係ないし」
「えっ」
無関係?じゃあ、私のこのドキドキ感。どうしたら良いの「だよなぁ。お前がロリコンだなんて想像したくも無えし」
ちょっと、ロリコンって何よ。私、ちゃんとした高校生だからね。それに、友達だって多いんだから。
あんたが出て来たから変な方向になったっじゃないの。あんたは早く帰って。邪魔なの。「じゃあ、俺は帰ってゆっくりとこの本を読破するけど、お前はまだ探してないんだろう?こんな事してないで早く探せよ」
彼のバカな友達は、そう言って手にしている本をポンポンっと叩いた。
じゃあ、私が一緒に探してあげる。
なんて言えないし。
「そうだな。じゃあ、とっとと探して俺も帰るか。家に帰ったらやることもあるしな」
「そっか。じゃあ、またな」
そう言ってバカなヤツは図書館から出て行った。
「じゃあね」
え、じゃあねって、これで終わり?私、ずっとここで待ってたのに。ホントに終わりなの?
嫌。終わりたくない。まだまだいっぱいお話したいもん。
だから、行かないで。もっと私に構ってよ。
どんどん離れていく背中。私は、ここにつっ立ったまま。
私と彼との距離が遠くなってしまう。
彼が見えなくなる前に、彼が消えてしまう前に何とかしなきゃ。
わたし、わたし・・・・ 大きな声で待って。
一生懸命に駆け足で彼の元へ。
出来るはずないじゃないの。だって、彼はロリコンじゃないし、私はお子ちゃま。
女の色気も何も無いただの道化師。
そんな私が何をどうしたら良いっていうの?
あの棚と棚の間に彼は居るの。
きっと、しゃがんで一生懸命に探してるの。
だって、彼は長身だから立ってたら見えるもの。
なかなか探し出せないのかな・・・・
彼の姿を見たいよ。 私はじわりじわりと彼の居る棚に近寄った。
だからって、何を考えてるわけでも無いの。 でも、身体が勝手に動いて彼のところへと向かってしまう。そっと覗くことしか出来ないのは分かってる。
一瞬、いきなり飛び出して驚かそうとも思ったりしたけど、それも出来なさそう。
私の道化師。ここで力を発揮して。
それしか浮かばないの。お願い・・・・私の道化師。 棚の陰からそっと顔を覗かせる。
そうよ。そっとそ―っとよ。
ほら、もうすぐ彼の姿をまた見れる。
物音も立てないように静かにね。ほら、彼が居た。
「えっ」
何?居ない。
誰も居ない真っ直ぐの通路だけが亜美菜の視界に映った。「どうして。なんで居ないの?」 こっちの通路にも居ない。亜美菜は、そこら中の通路を駆け巡った。でも、彼の姿は見つからなかった。
私の頭の中は呆然となり、真っ白な霧のようになった。 それでも私は、もう一度端っこの通路から順に歩いた。
でも、やっぱり居ない・・・・
涙って、こんな時に溢れてくるんだね。
可笑しくて楽しくて、そんな時にしか出なかった私の涙。
どうしてこんな時に出てくるのよ。毎日毎日、朝から夕方までいっぱい待ったのに、何も言えずにただ笑われただけ。
道化師にだって傷つく心はあるんだよ。道化師だからこそ、人並み以上に傷つくの。
笑って貰えるのと笑われるのは違うんだから。私は脱力感の中に閉じ込められた。
暗くて狭い部屋。そう、まるで押し入れに閉じ込められたような感覚。誰も居ない。誰も開けてはくれない部屋。私は目を閉じて、一人ぼっちで膝を抱え込むの。そうしていると、いつの間にか淋しさが私から抜け出して、いつもの元気な道化師に戻れる。
そうやって生きてきたんだもん。
恋心なんて最初から私には無いんだ。
そう、無いんだよ。
第四章 恋は陽炎
何だかなぁ・・・・
私、何やってたんだろう。せっかくの夏休み、図書館なんかに入りびたって。
みんな楽しくやってるんだろうなぁ・・・・ そうだ、メールでも入れてみようか。
誰にしようかなぁ。夏休みに入って誰からも入って来てはいないメールボックス。
「やっぱり止めとこう。みんな忙しくてメールどころじゃ無いんだな、きっと」
私は、握り締めたままの携帯をポケットにしまった。 外に出るとカンカン照りで、すぐに瞼に小さな汗が滲み、それが目尻にヒリヒリとした。
さすがに夏だなあ。
ぎらめく太陽までが私を笑ってる。 ゆらゆらゆらゆら...
駐車場から図書館に向かってくる親子連れが歪んで見える。
ゆらゆらゆらゆら、私も同じだ。
もう、お家に帰ろう。
駐輪場に着くと私の自転車に人の影があった。
私の自転車。盗まれるの?
私は、そこに立ち止まったまま動けなくなり、その様子を眺めているだけで精一杯になった。 ガチャガチャガチャガチャ、私の自転車もそれに合わせて右に左に傾いて、そして男はしゃがみ込んだ。
男は私の気配に気付いたのか、おもむろにこっちを見ると、動けずにいる私と目が合った。 暫し私を見つめると、男はゆっくりと立ち上がり私に向かって手招きをしてきた。
「えっ、私?」
後ろを振り返り、右も左も確認した。でも、ここに居るのは私だけだった。
何だか怖いよ。自転車泥棒に手招きされるなんて、きっと口封じに殺されてしまうんだ。
男は焦れた様子になった。
私には、それが更に怖いように見えて仕方がなかった。
「ちょっと。もしかしたら、これ、あんたの自転車だったりする?」
ほら、やっぱり自転車泥棒だ。 私は、自転車泥棒と叫び、図書館の中に逃げ込んだ。
幸い、後を追って来ないようで、私は雑誌コ―ナ―の長椅子に腰を下ろした。
暫くは、帰れないな。私は諦めるかのようにそう思った。
吹き出す汗が止まらない。ハンカチで顔、首筋を拭うと、ハンカチはすぐに重さを増した。 このままポケットにしまうより、一度軽く水で洗い流したた次が気持ち良いだろう。私は、トイレの洗面台へと向かった。
ハンカチを洗いながら、鏡を見ると、決して可愛いとは言えない顔がそこにはあった。
「私、不細工だよねえ。こんな顔でドキドキしちゃうなんて、心底ピエロなんだ」
やっぱり、私にはいつもの私がお似合いなんだね。
トイレから出てカウンターの横を通り過ぎようとした時、あの男がカウンター越しに係の人と会話していた。
私は、ハッとして壁に身を隠し、その会話に耳を澄ませた。
「だから、俺の自転車のペダルが横に停めてある自転車の車輪に挟まって、それで無理やり外そうてしたら、車輪のスポークを曲げてしまったの。で、謝って弁償したいから放送で呼び出して欲しいんですよ。どうしてそれが分からないんですか?」
「いや、車輪のスポークって何ですか?それが分からないんですよねえ」
そんな押し問答を繰り返しているようだ。
ん?ということは、それは私の自転車のこと?
私は急いで駐輪場に走った。
「えっと、車輪って言ってたよな」
後輪を見ても特に異常は見当たらない。
「だったら前輪なんだな」
前輪にも変わったところは無いようだ。
「もしかしたら、あれは私の自転車じゃ無かったってこと?」
そっか。
「やっぱり、あんたの自転車だったんだな」
カエルが驚いたように私はビックリした。男は、つかつかと近寄ると、後輪の何本もある細い針金みたいなところを指差し、ここを少し曲げてしまって・・・と言った。
示された所を見たが、私には何が悪いのか皆目見当がつかなかった。しきりに首を傾げている姿を見兼ねてか、詳しく説明を始めた。
「結局、乗れないってことなんですか?」
「いや、それは無いんだけど、見た目の問題だから」
「じゃあ、大丈夫です。見た目も問題無いですし」
その時、別の声がした。
「お前、何してんだよ」
私は驚いた。どうしてあの人がここに?さっき帰ったはずじゃなかったの?
「なんだよ、お前。関係無えヤツはスッ込んでろよ」
「ふざけんな。お前、あいつを口説きに掛かってるんだってな?あいつの彼氏が俺のダチだと知ってての事なんだろ?なめやがって、このやろう」
男は鼻で笑い飛ばした。
「お前の彼女じゃ無いんだろう?だったら、その彼氏ってのが俺に文句言うのが筋だろう。だから、お前は関係無いんだよ」
男二人が今にも掴み合いそうだった。
「何?いったいどうしたっていうの?」
あいつとか彼女とか何の話よ。今は、私の自転車の話じゃないの?
何なの、これ?ちょっと待ってよ。
「あ、あのう、こんにちは」
彼は私の言葉を無視したが、男のほうは眉間にシワを寄せた。
「知ってるの?」
困った。ここで知り合いだと答えても、また違うって言われてしまうだけだろう。
私が返事に詰まってると、
「ああ、知り合いだよ。悪いか?」
えっ、知り合い?私達、知り合いの関係なの?どうして、さっき違うって言ったのに。
男は、今度は大笑いした。
「まさか、お前がロリコンだったなんてよ。こりゃあ、みんな大笑いするぜ」
「笑いたいヤツは笑えば良いさ。だから、この娘から離れてさっさと消えちまえよ」
「ああ、消えるよ。この足で言い触らさないといけなくなったからさ。さあ、忙しくなるぞ」
「くそ野郎が」
男は、「またね」と私に言い残すと、高そうな自転車でさっそうと走り去って行った。「用心したほうがいいぜ。あいつ、手が早いってここら辺りでは有名なヤツだからさ」
手が早いって言われても、そんな事は私なんかには関係無いことだし。
あなただって、さっきいきなり消えてしまったでしょ。
「あのう、どうしてまたここに?」
「ああ、あれね。あの時は図書館のカ―ドを忘れたことに気付いたから、すぐに取りに帰っただけだよ」
「私、探したんです。図書館の中、全部を探して・・・・」
また涙が出てきた。私は、乾き切らないハンカチで目頭を押さえた。それでも、何だか嬉しくて涙が止まりそうも無い。
「何も泣かなくても・・・」
彼はそう言ったが涙は更に溢れるばかりで、半乾きのハンカチはすぐにびっしょりとなった。
「私、ずっと気になってて。それで、あれから毎日ここに通って。いっぱい、いっぱい待ってました」
言えた。ついにこの気持ちを伝えられた。
嬉しいよ・・・・ 彼は無言で私を見つめた。
その優しい眼差しに私が写っているのが見えた。
「ごめんね・・・・俺、そんな良い奴じゃないんだ」
「えっ?」
嘘?そんな優しい瞳で何を言ったの?
私の聞き違い?そう、私の聞き違いなのね。「俺、結構遊び人でさ。君みたいな若い娘が相手するような奴とは違うんだよ」
彼は私に背中を向けた。
「でも、さっきはあの人に・・・」
「言ったよ。だって、あいつはライバルみたいなもんだからね」
ライバルって何?それって同じ穴のむじなって意味なの? そんな事、絶対に有り得ないよ。ある訳ないじゃん。
「ま、そういう事だから」
「とにかく、あいつには気を付けなよね、じゃあ」
また、また行っゃうの? また見えなくなって消えてしまうんだね。
西に傾いた太陽に彼が溶けていく。身体が徐々に白くなり、そして消えて無くなった。
後に残ったのは、ぎらめく太陽ばかり。
何故、こんなに眩しいんだろう・・・・
やっぱり私はここでも道化師。
道化師の亜美菜、ここに有り・・・・
第五章 時は流れて
あれから半年が経過したが、亜美菜は今だに図書館に居た。
勿論、何も起こらないまま季節だけが移り変わったにすぎないが、やっぱり亜美菜はここに居た。
安物のグレーのコ―トに安物の赤いマフラーは、ここに来る為の亜美菜の制服となって、いつしか誰もが知るいつもの女の子として常連の仲間入りをしていたが、特別仲の良いという相手は亜美菜には居なかった。
亜美菜は、ここでは道化師を封印した。いくら笑われたって、それは本当の自分では無く、ガラスの仮面を被った偽りの姿でしか無いからである。
そのガラスの仮面も半年前に砕け散り、自分を隠す物はもう何も無い。 疲れ過ぎた心は、この静かな空間の中のみで癒されるのだ。音楽もテレビも無いこの部屋は、時折小さな子供が騒ぐだけで、それが過ぎるといつもの静寂な森となって青い空気に満たされる。道化師を捨てた亜美菜は、森の妖精のように静かに時の流れを感じ、破れかけた白い羽根を休めていた。
時はあの出来事を過去へと追いやり、亜美菜の恋心もあの日を最後につぼみへと戻っていたのである。
亜美菜は恋愛ものは読まない。それは小さな心が痛むからである。
手当たり次第に読んでた本もミステリーに落ち着つくと、その内にひいきの作者も出来て、ある程度はストーリーの先読みも容易なものとなっていた。
それでもミステリーが好きなのは、自分で描いた結末に近づいていく過程が、亜美菜にはとてつもない満足感で、一人ニンマリすることも少なくは無い。
そして亜美菜は、今日もテーブルの片隅でニンマリとしていた。
「お姉ちゃん、ニヤニヤして何だか可笑しいよ」
突然の声に、ニンマリとしたまま顔を上げた亜美菜を見ると、彼はプッと吹き出した後、ゲラゲラと笑った。
「え、何が可笑しいの?」
「だって、マンガを読んでるんじゃ無いんだよね?なのに、そのニヤニヤは可笑しいよ。それに、いつもニヤニヤしてるし」
「うそ?私、ニヤニヤなんかしてないよ」
「ううん、いつもニヤニヤしてるよ。僕が来た時、いつもこの席でニヤニヤしてる」
亜美菜は赤面し、慌てて周囲を見渡すと、筋向かいの女性と目が合った。女性は亜美菜に向かって「うん」とでも言うかのように頷くと、優しげな微笑みを投げ掛けてきた。
亜美菜は急に恥ずかしくなり、下を向くしかなかった。
「ほ―ら、僕が言った通りでしょ」
彼はそう言うと、筋向かいの女性に「ねえ」と同意を求めた。女性は微笑むばかりで、今度は頷かなかった。「じゃあね、ニヤニヤのお姉ちゃん」
彼はそう言うと、お母さんらしき人のところへと戻って行った。
亜美菜は、筋向かいの女性を見た。女性は開いた本からノートへと何やら移し書いてるようで、その横顔は綺麗であった。亜美菜は暫し見とれた。
「どうかした?」
亜美菜の視線に気付いた女性は、小さな細い声で聞いてきた。
亜美菜はまた慌てた。
「いいえ、何も無いです。ごめんなさい」
「別に良いのよ。それより、何がそんなに面白可笑しいの?実はね、あの子と同じように私も相当前から気になってたの。だからと言っていきなり聞くのも失礼だから聞けなかったんだけど」
亜美菜は説明した。ミステリーの早い段階で結末が想像出来ること。そして、それに沿って話が進んで行くことが嬉しいこと。亜美菜は説明に没頭した。
「そうだったの。それは楽しいよね、きっと。これで気になってたミステリーの謎が一つ解けた」
女性はまた優しく微笑んでくれた。
「私、早見奈々。大学一年。よろしくね」
亜美菜も自己紹介した。
「亜美菜ちゃんかあ。可愛い名前だね」
「え、そうですか?でも、見た目よりは可愛いかもですね」
「そんなこと無いよ。亜美菜ちゃん自身も可愛いよ」
亜美菜は思いっきり照れてしまった。それというのも、可愛いなどという言葉を掛けて貰った記憶が全くなく、恐らく、赤ん坊の時以来では無いかと思った。いくら私でも、赤ん坊の時位はそう言われたに違いない。根拠も何も無いけれどね。
「そう言えば、いつも来てたんですね。すみません、気付かなくて」
「ううん、気付かなくて当然よ。私、反対側の端の席が定位置だもの。今日はほら、先を越されてしまっちゃってね」
奈々が顔を向けたほうを見ると、大学生らしき男達のグループが席を埋めてしまっていた。
「残念だったけど、そのお陰で亜美菜ちゃんとこうやってお話出来てるんだから結果オーライだよね」
「あ、私もです」
そろそろ閉館する時間が迫ってきた。
亜美菜と違って勉強していた奈々は、じゃあ、帰ろうかと言って席を立った。 急いで本を棚に戻し、奈々の後を追わないとと思ったが、出入口付近で奈々は待っていてくれた。
亜美菜は嬉しくて寄り添うように駐輪場まで歩いた。
「じゃあ、気を付けて帰るのよ」
「あのう、メールアドレス交換して貰いたいんですけど」
奈々は小さく首を横に振った。
「約束も無しにここに来たら会えるって素敵じゃない。私、そんな素敵な関係が良いな」
亜美菜はガッカリしたが、すぐにそのほう良いのかも、と思い直した。
亜美菜には、図書館に来る楽しみがまた一つ増えた。
それからの亜美菜は、図書館で勉強するようになった。そのほうが奈々との話題に事欠くことがないからである。
「最近どうしたの?ミステリーはもう読まないの?」
「私、頭が悪いから勉強も頑張らないとついていけないんです」
「頭が悪い人がミステリーの結末が解るはずないって。大丈夫よ」
奈々は相変わらずの綺麗な微笑みで亜美菜に言った。
亜美菜はその微笑みを見てふと思った。こんなに綺麗だからきっとかっこいい彼氏が居るんだろうな。
第六章 奈々
しかし、それを聞く勇気は微塵も無かった。この居心地の良い関係が、その事によって壊れていくような気がして、それが亜美菜には何よりも怖かった。
「もうすぐ春休みだね。それが終わると亜美菜ちゃんは二年生になる。そして私も二年生。亜美菜ちゃんは、二年生になったら何かやりたい事ってあるの?」
亜美菜は唐突の質問に戸惑った。二年生になった私。正直、想像すらした事が無かったからである。
「えっと・・・多分、これまでと同じような感じだと思います・・・・けど」
「う―ん。私の聞き方が悪かったかな。じゃあ、亜美菜ちゃんの夢って何?」
夢?それこそ一度も考えたことは無い。以前、冗談でお笑いだと言ってたことが頭をよぎったりもしたが、勿論、それは本気の夢でも目標でも無く、道化師だった頃の亜美菜の仮面が言わせた言葉に過ぎなかった。
「夢かあ・・・」
亜美菜はそう言うと言葉を詰まらせた。
「今はまだ無いの?」
「恥ずかしいけど、今はまだ」
「恥ずかしいことなんか無いよ。私だってその頃はこれと言った夢なんか無かったもの。だから、亜美菜ちゃんはどうなのかなあって聞いてみただけだよ」
「そうだったんですか。あのう、今は夢は見付かったんですか?」
奈々は淋しげな表情で窓の外を見た。
「私の夢。それは、先ずは大学を卒業したらキチンと就職することだよね、当たり前だけど。で、それとは全く別のことなんだけど、好きな人が私のところへ戻ってきてくれることが今、一番望んでいる夢なのかも知れない。これって夢って言うのかどうかは分からないけど、その人と結婚して幸せな生活を夢見たりすることがあるから、一応夢ってことにしといてね」
「その人と別れたんですか?」
「う―ん。別れたっていうか。私は別れてはいないつもりなんだけど、彼のほうはどうだか分からないんだ」
「何か難しいんだけど・・・」
「そうね。私自身が難しいんだから、亜美菜ちゃんは尚更だよね」
「え、まあ・・・」
亜美菜は曖昧な返事しか出来なかった。
「私、きっと魅力が無いんだと思うの。話してると分かると思うけど、冗談が言えない人なのよね、私って。だから飽きちゃうんじゃないのかな。亜美菜ちゃんみたいに楽しい人だったら良かったのに、私にはそんな才能なんて少しも無いんだから困っちゃうよね」
「そんなことは無いですよ。私、充分に楽しいし、奈々さんに憧れてますもん」
「ありがとう。そう言ってくれるのは亜美菜ちゃんだけだよ」
奈々は、目を細めて笑った。
奈々さん、笑うんだね。この時、亜美菜は初めてそう思った。 亜美菜は家に帰っても奈々の笑い顔が頭から離れなかった。
「奈々さん、本当は心の底から笑いたいのかな」
亜美菜は複雑な気分だった。奈々と出会ってこれまで、たった一つも奈々を笑わすようなことをしていない。ただ、勝手に奈々に甘えていただけ。そして、亜美菜はそれに満足していた。でも、奈々は満足していなかったのかも知れない。
「私じゃ、満足させてやれないのかな」
亜美菜は、奈々に悪いような気になってきた。
「よし、取り敢えず私の夢は奈々さんに笑顔を取り戻させることだ」
亜美菜は、そう決意すると薄くなった布団に潜り込んだ。
今日は朝から冷たい雨が降って、春間近な季節を冬に逆戻りさせていた。
「何これ。寒過ぎる―」
それでも亜美菜は図書館に向かうつもりだった。
「奈々さん、こんな雨でもきっと来るもん」
だが、こんな時に限って両親は用事があって車で出掛けてしまっている。お母さんに電話したが、今日は家にいなさいという返事が雨と同じで冷たかった。
何度窓際に立っても、雨は一向に止む気配すらない。
「諦めるしか無いのかな」
亜美菜は、最新の天気予報を確認した。それによると午後は曇り空になるという。
「よし、午後から行くぞ」
しかし、予報に反して雨は降り続けた。
亜美菜は、嫌気がさした。しかし、行くと決めた気持ちは止められず、透明なカッパを着こむと自転車で家を飛び出した。
頭に被ったフ―ドはすぐに後ろへとなびき、冷たい雨は容赦なく頭を襲った。
「シャワーだと思えば何でもない」
亜美菜は負けなかった。
駐輪場は当然のようにスカスカで、亜美菜は乱暴に自転車を止めると、急いで図書館に向かった。
「お願い、居て」
図書館に入ると、係員の女の人が驚いた顔をした。しかし、それには構わず、いつもの場所に小走りした。
「居ない」
亜美菜は落胆した。後ろから来た係員がタオルを頭に掛けてくれたが、「ありがとう」すら言えなかった。
「奈々さん、会いたいよ」
雨で人が少なく館内を何度も何度も廻った。
最初は興味げに見てた人達も、そのうちに誰も構わなくなって亜美菜は孤独になった。
「さっきから何やってるの?」
亜美菜は、もしやと思ったが、それは男の声であり、あの細い声とは全く違ったものであった。
亜美菜は、その声をきっかけに諦めた。しかし、その声は更に続いた。
「俺だよ、俺。忘れちゃったの?」
振り返ると、そこに立っていたのは、あの時に消えて無くなった彼であった。
「忘れては無いけど」
嬉しい気持ちなど起こらなかった。それは自分でも不思議ではあったが、それでもやっぱり嬉しくはなかった。
「髪、そんなに濡れてどうしたの?」
「何でも無い」
「何でも無いことはないよ。それじゃあ風邪ひくよ、絶対に」
「関係無いと思う・・・」
「他人じゃないんだし、関係あるって」
「他人だよ・・・」
「どうしてそんな事を言うかなあ」
「他人だから」
彼は、ちょっと待っててと言ってカウンターのほうへ行くと、小さな紙切れをヒラヒラとさせて戻ってきた。
「これ、俺のメアド。何かあったらメールしてきて良いよ」
「良いよって言われても・・・」
彼は返事を待つつもりも無いかのように亜美菜の手の平に紙切れを握らせると足早に去っていった。
紙切れを手の平に包んだ亜美菜の肩は小刻みに震え、肩からタオルが重たそうに床に落ちると、ベチャッという嫌な音を立ててクシャクシャになった。
第七章 雨の後
あの時の言葉は謙遜だと思ってた。
子供扱いされた事などどうでも良い。だけど、それは不器用な断り方なだけで、フラれてしまったという現実を素直に受け入れてしまった気持ちは、もう戻ることも無い。
それなのに、本当にあんな奴だったなんて。あの程度の男にフラれた自分が情けなかった。
翌週の休日は晴天だった。亜美菜はいつものように朝イチで図書館に向かって自転車を漕いだ。
出入口が開くのを待つのも習慣となり、開館して10分後に奈々がやってくるのも習慣であった。
「先週は雨だったね」
奈々はそう言って亜美菜の横に座った。あれからの奈々は、ここが新たな指定席となり、いつも二人肩を並べて座っている。次第にそれもここの風景の一部と化し、誰も違和感を持つことさえ無くなっていた。
「ずっと止まなかったから、これなかったです」
「そうねえ。終日雨だったものね。私もね、どうしようかと思ったんだけど、月曜日に提出するレポートがあったから、午前中だけ調べものに来ちゃった」
「えっ」
驚いた。午前中に来てたら会えてたんだ。
「何をそんなに驚いてるの?何か不思議な事でも言ったかなあ?」
「いや、そうじゃなくて、あんなに雨が凄かったから」
「ああ、そういうこと。私の家、この近くなの。それもかなりのご近所さん。だから、雨が降ろうが雪が積もろうが大丈夫なのよ」
奈々さんの家って、この近くなんだ・・・
亜美菜は、奈々の事が今までよりもより身近に感じ、奈々の綺麗な横顔をずっと見ていた。
「そう言えばこの前、ここである人にメアドを貰いました」
「この前っていつの事?」
「先週・・・・」
「え、来てたの?」
今度は奈々が驚きの表情を見せた。
「え、いや、午後からなんですけど」
「あ、そっか。行き違いになっちゃったんだね。じゃあ、お家の方に送って貰ったんだ?」
「あ、はい・・・」
ヤバイ、嘘をついちゃった。「それで、見知らぬ人からいきなりメアドを貰ったの?気を付けないと駄目だよ。世間には色んな人が居るんだからね」
「知らないというか、知ってるというか。微妙なとこなんですよね」
「何だか良く分からない言い方だよね。それって結局どっちなんだろう?」
「強いて言うなら、知り合いかな」
「あ、そうなんだ」
奈々は、それ以上のことは聞いて来なかった。
その時、亜美菜の携帯がテ―ブルの上で震え、慌てて両手の中で振動音を消そうとしたが、勢い余って床に落とすと、それを奈々が拾い上げてくれた。
「はい。壊れちゃうよ」
「あ、ありがとうございます」
「どう?壊れてないよね?」
亜美菜は、動くかどうかを確認する為に着信したメールを開いた。
「あ、大丈夫みたいです」
「そう。良かったね」
メールは、あの彼からであった。
「もしかしたら、例の彼からのメールかな?」
珍しく奈々が興味を見せた。
キッパリと諦めたのに、あれほど嫌な奴だと思ったのに、しわくちゃになった紙切れを見ていると、無性に話をしたくなり、ついメールを入れてしまったのが二日前。それが、こんなタイミングで返ってくるなんてツイテない。
「気にしなくて良いから返事したほうが良いよ」
奈々からそう言われてメールを開くと、「今日も図書館に居るの?」と書いてあった。
「うん」
そう一言だけ書くと、亜美菜は送信ボタンを押した。
何だか恋人のような気分。そんな感じさえしてしまう自分が妙に変に思えた。
それから返信は無かった。半分気に掛かりながらも奈々と一緒に勉強を進め、時にはお喋りをし、有意義な時間の中に喜びを感じていた。
「良かった。まだ居たんだね」
それは唐突だった。まさか、メールの返信もせずにここにやって来るなんて思ってもいなかった。
「どうしたの、いきなり?」
「いきなりじゃないよ。ちゃんとメールで確認したじゃん」
「来るって言わなかったし」
「そんな細かなことは気にしなくて良いよ」
「気にするよ」
「それより、家に来ない?勉強してるみたいだから、それだったら家でやれば良いし」
奈々が顔を上げた。
「まだそんな事をしてるんだね」
「えっ?」
奈々が振り返ると彼は腰を抜かさんばかりに驚き、二、三歩後すざりをした。
「どうしてお前がここに?」
「何処に居ようが私の勝手。それよりも、私の友達に手を出さないでくれないかなあ?マジ迷惑なんだけど」
「何が迷惑だよ。お前がしっかりと俺を捕まえておかないから悪いんじゃねえか」
「えっ、何?奈々さん、知り合いなの?」
「知り合いなんかじゃないよ、こんな奴」
奈々の顔は怒りに満ちて、それは亜美菜にも充分に分かる程のもので、もしかしたら、上手くいってない彼氏とはこの人の事なんじゃないかと思った。
「とにかく、すぐに出ていきなさいよ。そして、今後いっさい私にその顔を見せないで」
「別にお前に会いに来たんじゃねえよ」
「いいから出てって」
奈々が両手でテ―ブルをドンと叩くと、大勢の人がこっちを注目した。中にはヒソヒソと話を初める人達も居る始末で、亜美菜は急に居心地が悪くなった。
亜美菜は、この空間がこのまま無くなってしまうのが怖かった。そして、大好きな奈々さんも図書館と一緒に消えてなくなりそうで、それを思うと涙が溢れ止まらなくなった。
亜美菜は、今一番大切にしている二つを同時に失おうとしている。
あんな些細な、魔が差したとしか言いようが無いたった一通の返信が、大切な人を傷つけてしまうなんて。
やっぱり私は・・・・根っからの道化師なんだろうか。
道化師なんて、やめたい・・・・
そして、恋も・・・・・
その夜、あの彼からメールが来た。
「昼間はゴメン。変な感じになってしまって」
亜美菜は絶句した。何を今更。それに、メールを送る相手も私じゃなくて奈々さんの筈。昼間、奈々さんが貴方に言った言葉、一語一句今でもちゃんと覚えてるんだから。
亜美菜はメールを消去した。
一時間後、またメールが入って来た。
「あれは誤解なんだ。弁解させて欲しい。図書館の中でも良いから、今度会ってくれないかな?」
亜美菜は、そっと携帯を閉じた。
深夜0時を過ぎても眠れるような気がせずに、亜美菜はずっと天井ばかりを眺めていた。
恋って、こんなもんなんだろうか。
亜美菜が夢見た恋は、練乳が掛かった白いかき氷が夏の陽射し溶けるような、そんな甘ったらしくてどうしようも無いような、そして誰にも邪魔されることがない二人だけの関係。それが恋だと思っていた。
恋なんて、私にはまだ早過ぎるよ・・・・・・・
第八章 最後の返却
次の休日、亜美菜は図書館に向かった。しかし、それは心待ちにしていたこれまでの日とは違って、早咲きの桜が散るような気持ちであった。
「この本を返せば、私はもう図書館には行かない」
最後の返却であった。
図書館の自動ドアが重たそうに開く。亜美菜は最後の一歩を踏み入れると、最初に来た時の事を思い出した。
あれから色んな出来事がここで起こった。恥をかいた事から始まり、失恋、素敵な友達、そして涙。最後はまた一人へと、走馬灯のようにと人は言うが、まさしく、それが亜美菜の頭の中を駆け巡り、フッと溜め息を一つついた。
返却カウンターにバッグを置き、四冊の本を取り出すと、「ありがとうございました」というお礼の言葉を添えて係員に差し出した。
係員は、返事もせずにバッグを畳んでいる亜美菜の手元を目で追っているようであったが、亜美菜は、綺麗に畳んで終わりにするつもりだった。
「あのう・・・」
「はい?」
係員は何か言いたそうな顔をし、亜美菜から視線を外した。
「何ですか?」
「また来ますよね?」
「えっ?」
亜美菜は係員の言葉の意味が分からなかった。
「いつもは他の人が居たから言えなかったんですが、最初からずっと気になって見てました。騒いだり駆け回ったり泣いたり、変な人だなあとも思ったりしてたんだけど、やっぱりいつも見てました。僕、休みの時だけここでアルバイトをしてるんですけど、普段は普通の高校二年生なんです。迷惑じゃなければ、お友達になって貰えませんか。一方的でごめんなさい」
そう言って深々と頭を下げている姿は何と無く不器用そうで、それでいて何だか自分と重なるような気がすると、亜美菜は半年前の自分と同じだと思ったりもした。
「また来ます」
そう言って図書館を出ると、道端に散り落ちた早咲き桜の花びらを一つ手に取り、また図書館に来る理由が出来たことが嬉しくなった。
「やっぱり、図書館が好き」
亜美菜が花びらを空に向けて投げると、淡い春風に乗っていつまでもユラユラと舞い続け、そして天まで飛んでいった。
第九章 初めての異姓
亜美菜にとっての桜が図書館で満開になった。
それに、驚いたことに彼は同じ学校の一つ先輩。
おとなしく礼儀正しい性格は、校内では全く目立たない存在で、友達との会話に出てきたこともないし、第一、亜美菜の記憶にもなかった程である。
だけど、目立つ人だけが素敵だとは限らないことを知った。
決して出しゃばらない軟らかい空気を纏う彼は、亜美菜には出来すぎた彼氏なのである。
亜美ちゃん。彼氏は亜美菜のことをこう呼ぶ。
亜美菜は、どう呼んで欲しいかと聞いたが、亜美ちゃんが呼びたい呼び方で良いよと言われ、浩也の浩を取ってヒロくんと呼んでいる。
ヒロくんは三年生になって多少は忙しくなり、図書館でのバイトも辞めてしまった。
図書館に行く楽しみが出来たと喜んだが、それもほんの短い間で終わってしまい、少し残念な気持ちではあったが、その代わりに下校は一緒となった。「亜美ちゃん、二年生になった気分はどう?」
下校中のヒロくんが聞いてきた。
「う―ん、難しい質問」
「えっ、そんなに難しかった?ゴメン」
ヒロくんは、困った表情をしてる亜美菜に謝った。
「もう・・・ヒロくんってホントに素直なんだから」
「だって、困らせちゃったから」
「困ってなんかいないよ。ただね、な―んも考えたことが無かったから難しいって言っただけ」
「そっか。ゴメン」
ヒロくん、また謝ってるよ。
「おはよう」
亜美菜が机につくとすぐに知恵が飛んできた。
「ねえ、亜美菜。あんた彼氏が居るんだってね?」
「え、彼氏?彼氏なんか居ないよ。てか、彼氏が出来るはずないじゃん、私なんかに」
「私もそう思うんだけど、一緒に下校してる男の子が居るって話を聞いたんだよね」
悪気が無いのは分かってるんだけど、ホントに知恵って失礼なヤツだよね。
亜美菜は常々そう思ったりもしていた。「あ―、あれは友達というか・・・友達みたいな先輩かな」
亜美菜自身、ヒロくんが彼氏なのかどうか、イマイチ分からなかった。
だって、あれから三ヶ月も経つのに手さえ握ったこともなく、キスなんてとんでもない話だからである。
実際のところ、最初の図書館で「友達に・・・」て言われたまま、この手のことを話題にしたことも無かったし・・・
「それより、知恵はどうなの?去年の夏休みから付き合ってる彼氏とはラブラブなんでしょ?」
知恵は、顔の前で掌をヒラヒラさせながら
「あいつはダメだよ。だってギャグの一つも言わないし通じもしないもん」
「ギャグって、あんた。彼氏にギャグを求めてた訳?」
「当たり前じゃん。ギャグくらい言わないと退屈でしょ―がないでしょ」
「え―、それって恋愛なのかなあ」
「バッカだねえ。恋愛なんてそんなもんなの。適当に笑えて適当にエッチして、それでオールオッケー」
「エッチ?」
亜美菜はカ―っと赤面した。エッチだなんて、生まれてこのかた考えたこともないし、言葉にしたことも無かったよ。
「あ、ごめん。亜美菜はまだ処女だったよね?」
あ―、ダメだ。これ以上言わないで・・・
「まっ、どっちにしろ、あいつとは分かれて今はフリーだからよろしくね」
そう言って私の頭をポンポンと叩いて自分の席に戻っていった。
エッチかあ・・・・
あ、いや。私のドスケベ。
それから放課後まで、亜美菜の頭の中はエッチで満杯だった。
お陰で、今日一日の授業はパー。な―んも頭には入らず。
終業のチャイムが鳴ると同時に亜美菜はカバンを抱え廊下に出た。
なんか変。なんだかドキドキしてる。
亜美菜は、後遺症を引きずったままいつもの待ち合わせ場所に向かった。「ヒロくん、遅いなあ・・・何してんだろ?」
いつもならほぼ同時にこの場所に集合するのに、今日に限って遅れるなんて。
亜美菜のドキドキは妄想を膨らませる一方であった。
目の前を通り過ぎる生徒がいる度に目立たぬように背を向け、忠犬ハチ公になった亜美菜はじっと待った。
一時間が経過しても二時間が経過してもヒロくんは現れない。
その間、三回も送信したメールも音信不通のまま。
これって、もしかしたら病気で休んでるってこと?
メールの返信も出来ないほどの重体なんだ、きっと。
ヒロくん、早く良くなってね。
次の日も、そしてその次の日もヒロくんは待ち合わせ場所に来なかった。
「どうしたんだろうね、ヒロくん・・・」
亜美菜は今日も一人で淋しくて切ない道をトボトボと帰った。
その夜、久しぶりのメールの着信音。
亜美菜は、少しでも早く読まないと、そんな気持ちで慌てながらメールを開いた。
「こんばんは、亜美ちゃん。元気にしてますか?僕は今、自宅療養中です。でも、病気じゃなくて大したことないケガだから心配はしないでね。登校出来るようになったらまたメールします」
ケガって、いつ?どんなケガをしたの?
すぐに返信したが、メールは来ないまま次の朝を迎えてしまった。
どうしよう。一睡も出来なかったよ。
亜美菜は、ダルい身体を引きずりながらも学校に行くことにした。
教室に入るといつものように知恵が寄ってきて、この辺りで起こった事件の話を始めた。
「亜美菜、聞いた?この辺りで暴行事件があって、うちの生徒がやられたらしいよ」
「へえ、そうなんだ」
亜美菜は興味を覚えなかった。暴行なんて私には関係ないことだもの。
「へえ―じゃないよ。その子、結構なケガをして何日も学校を休んでるみたいだよ」
「ふ―ん、そうなんだ。で、その事件っていつの話?」
「えっとね、今日は金曜日だから、五日前の月曜日の夕方って話だよ」
月曜日かあ。月曜日はヒロくんと一緒に帰宅した日だな。とりわけ何も無かったし、やっぱり私には関係ないわ。「それでね。ケガした生徒は三年生だってよ。亜美菜の友達なんかじゃないよね?」
「ヒロくんは大丈夫だよ。その日は一緒に帰ったもん」
「へえ―、ヒロくんっていうんだ、その子」
しまった。こんな呼び方をしてるなんて知恵にも言ってなかったっけ?
「まあ、ヒロくんでもヒデくんでも良いけどさあ。一応、注意するくらいは言っておいたほうが良いかもよ」
「そうだね。うん、分かった。ありがとう」
三年生だと分かると、さすがに亜美菜も心配になってきた。お昼休みにでもヒロくんの教室に行ってみるか。
昼食もそこそこに済ませた亜美菜は、ヒロくんの教室のドアから顔を覗かせると、居ないと分かっていながらもヒロくんの姿を探した。
「そうだよね。まだ連絡も無いんだから居るわけないか」
このクラスも昼食は済んだみたいで、まばらな生徒達は雑談に盛り上がったりしていて、亜美菜が教室に入るには相当な勇気が必要な空気である。亜美菜は、誰かが出入りするのを待つことにした。
「ん?誰かに用事なの?」
背後からのいきなりの声に亜美菜の心臓は飛び上がった。 顔も上げずに「ゴメンなさい」だけを言い続ける亜美菜に、彼は苦笑した。
「謝らなくてもいいけど、誰かを探してるんだよね?誰を呼んできたらいいの?」
「あ、えっと・・・ヒロくん。あ、いや、早見さんです。今、居ますか?」
「あ、あいつなら今週はずっと休んでるよ」
「えっ、どうかしたんですか?」
彼は言いにくそうな仕草を見せたが、誰にも言わないでよと釘を差した後、暴行事件にあってケガしたことをそっと教えてくれた。 丁寧に書いて貰った地図は分かりやすく、初めての土地でも迷うことは一度まなかった。
「ここか」
一戸建てとは聞いていたが、意外とこじんまりした建物で、猫の額よりは大きいがやっぱり狭い庭らしきところには、もみじらしき木が一本だけ植えられたシンプルと言えばシンプルな白い家であった。
亜美菜は、物怖じすることなく玄関の前に立つと、少しばかり旧式なインターホンを人差し指で押した。「はい。どちら様でしょうか?」
「あ、あのう、浩也さんの学校の友達ですけど、浩也さんに用事がありまして」
「浩也はケガして安静にしてる状態なんですけど」
「スミマセン。それでもやっぱり会わないといけないんです。私、亜美菜と言います。浩也さんに会わせて下さい」
言った。私に似合わず言ってしまった。
インターホンは切れたがドアが開かない。
このまま帰れということなんだろうか。
インターホン、もう一度押してみようか・・・震えだした指先がインターホンに近づく。後2センチ、後1センチ・・・
ダメだ、怖い。きっと嫌われたんだ。だから、ドアが開かないんだ。
亜美菜は、ドアの前にうずくまった。
今逢わなければ、今逢わなければこれっきりになりそうで、そう思うと涙まで溢れ出してきた。
ヒロくん、どうしてなの?
逢いたいよ。ヒロくんの顔を見たいよ。
私かなあ。もしかしたら、私が何か悪いことをしたのかな。だから、ヒロくんは私に逢いたくないんだ。
もう、私と一緒に帰るのも嫌になった?
私がエッチなことを考えたりしたから?
私が子供過ぎるから?
私が・・・・やっぱり道化師だったから?
だから・・・・飽きちゃったの? もう、諦めないと駄目なのかな。
開かないドアにお辞儀をして空を見上げたら、空も今にも泣き出しそうで、つい、「あなたは何が悲しいの」と聞いてしまった。
門から出ると、足が鉛のように重かった。
空はやっぱり泣き出しそうな顔で亜美菜を見ていた。
「亜美菜のバカ野郎」
心の中でおもいっきり叫んだ。
蒸し暑い風と冷たい風の間の風が亜美菜の髪を踊らせると、それにつられるかのように後ろを顔を向けた時、二階のベランダに彼の姿を見た。
ヒロくん・・・ヒロくんだ。
亜美菜は立ち尽くした。
走ってヒロくんのところに行っても良いのか。それとも、これが最後のお別れなのか。
今の亜美菜には判断できなかった。 お互いに見つめ合う時間だけが過ぎて、亜美菜の気持ちは浮いたり沈んだりを繰り返し、この状況をどう理解すれば良いのか分からない。
遠くから人の影。
少しずつ近づいてくる。
見られたくないな、ご近所さんに。 視線が交差した。
「亜美菜ちゃん?そうだよね、亜美菜ちゃんだよね?」
「えっ?」
「私だよ、何してるの?」
「えっ、奈々さん?」
亜美菜は急いで頬を濡らしていた涙を拭いた。
奈々は、亜美菜に走り寄った。
「いったいどうしたのよ?もしかしたら、私に逢いにきてくれたの?でも、よくここが分かったね?」
亜美菜は返事に困った。 奈々さん....亜美菜は抱きついた。そして一時は止まった涙がまた噴き出してきた。
「何なの?何かあったの?」
亜美菜は、事の全てを打ち明けた。
「そっか。じゃあ、家に入りなさい。私が弟に話してあげるから」
「弟って、奈々さんの弟だったの?」
「うん、そうみたいだね」
亜美菜は仰天して抱きついてた腕を解いた。
「さあ、いらっしゃい」
奈々に手を引かれて亜美菜は家に・・・・
何かいけないことをしてるみたい。
こんな事したら、余計にヒロくんに嫌われそう。
しつこい女って思われたら悲しいし。
さっき来た玄関に着いた。
ドアもさっきと同じで閉まったまま。
亜美菜の脳裏にさっきのことがフラッシュバックしときた。
何だか、気まずい・・・
「ちょっと待っててね」
そう言うと、奈々は家の中に入っていった。
一度開いたドアが、亜美菜の目の前でまた閉じた。
実際はほんの少しの時間だろうけど、ずっとここに立ち続けてる気分になるのはどうしてなんだろう。
ずっとずっとず―っと立ってる気がする。本当にもう一度開くのかな?
このまま開かないなんてことは無いよね?
そしたら私はまた立ち尽くしたままになってしまうよ。
それが心配で心配で・・・・
ツライ・・・・カチャ、内側から取っ手を押す音がするとドアはすぐに開いた。
良かった。開いてくれたんだ。
「ゴメン。ちょっと話が込み入っちゃって。どうぞ、上がって」
奈々はドアを全開にして亜美菜を招き入れた。
「おじゃまします」
これって蚊の鳴くような声っていうのかな。
多分、奈々さんには聞き取れなかったかも知れない。
でも、亜美菜は入ります。 玄関に入ると下駄箱の上に並べられた小さな鉢植えが目に入った。
明るい赤とピンクと白が狭い玄関に花を添えていて、その上の壁には黄色を基調とした絵が掛けられていた。
勿論、その絵の作者が誰なのかは亜美菜には察しもつかない。
でも、綺麗な風景であることだけは分かった。
第十章 部屋
「二階だからね」
奈々の後に付いて階段を上がると二つある手前のドアがヒロくんの部屋だった。
「じゃあ、ゆっくりして行ってね。ただし、遅くなるようだったらお家には連絡入れることは忘れないように」
「はい、ありがとうございます」
奈々が階段を下りると亜美菜一人となった。
ドアをノックしようとしたら喉がゴクリとなり、叩こうとした手が一瞬止まった。
中にヒロくんが居るんだ。ノックしないと。
コンコン。驚かせないように優しく叩いた。
応答がない・・・
少し待ってもう一度叩こうとした時に「どうぞ」と声が聞こえた。
久しぶりに聞くヒロくんの声。
亜美菜の身体は熱くなった。
ドアノブに手をかけ、ゆっくりと回す。
ヒロくんの手の温もりが伝わってきそうで、亜美菜はギュッと握り締めた。
ドアは音もせずに開いた。 亜美菜の心臓の鼓動は頂点を迎えるように高鳴り、部屋中に響き渡りはしないかと心配した。
「入るからね」
返答は無かった。
それでも亜美菜は中に進んだ。
「ヒロくん・・・」
机に腰掛けている背中が見えた。
ヒロくんの背中って、こんなに小さかったっけ?
「入ったらドアを閉めて」
「あ、はい」
突然の声に亜美菜はビクッとし、急いでドアを閉めた。「好きなところに座って」
「あ、うん」
どうしてなんだろう。
ヒロくんがまるで違う人のように感じる。
亜美菜は、綺麗に片付けられている部屋の隅っこに腰を下ろすと辺りを見回した。
白い壁、白いベッド、白いカ―テン。目に入るもの全てが白くて、そして余計なものが殆ど無いシンプルな部屋だった。 白い世界に住んでるんだな・・・
亜美菜はヒロの知らない部分を垣間見た気がした。
「こっちから連絡すると言ったよね?」
亜美菜は答えを見つけられなかった。
「まだ連絡してないんだけど」
「うん、それは分かってる」
「だったら・・・何故?」
亜美菜は泣き出したい気持ちになった。「何故?」
「それは・・・・」
押し黙ったままの時が二人の間に流れた。
先に口を開いたのは亜美菜のほうだった。
「心配だったから。急に私の前から消えたヒロくんが・・・・心配だったから」
「バカだよね」
そう。私はバカなんだよ。
でも、バカだからこそ、心配で眠れない夜もあったもん。「一つだけ約束してくれないかな?」
「約束って、何を?」
「決して驚かないって」
驚く?私が?なんで?
「うん、分かった」
その返事を聞くと、ヒロくんはゆっくりと立ち上がった。
その様子を亜美菜は固唾を飲んで見守ったが、内心はドキドキで仕方がなかった。 そして、ヒロくんは振り向いた。
うわっ、亜美菜は両手で口を押さえた。
危なかった。あやうく声が出てしまいそうになった。
「やっぱり驚いた?」
亜美菜は唾を飲み込んだ。
「ううん、大丈夫」
口では大丈夫だと言ったが、亜美菜は思わずヒロの顔から目を背けてしまった。
「これでも随分と良くなったんだよ」
ヒロの顔はアザだらけで、あっちこっちが真っ黒に変色し、目だけが異常に白くて何だか恐ろしい雰囲気が漂っていた。
「暴行事件の話は聞いた?」
「え、うん。学校で聞いた」
「それで僕だと分かったんだね?」
「うん・・・」「ねえ、ヒロくん。あの日、私と別れた後に何が起こったの?」
ヒロは亜美菜に背を向け、さっきと同じように机に腰を下ろした。
「あれから暫く歩いたところで自転車とぶつかったんだ」
「それでケガしちゃったの?」
「いや、そうじゃなくて、その自転車、二人乗りだったんだよね。それで、ぶつかった拍子に自転車のほうが転んでじゃって・・・」「じゃあ、ヒロくんは無事なんじゃ?」
「この顔が無事に見えた?」
「ごめん」
ヒロは話を続けた。
「自転車の二人組は男で、お前のせいだと怒ったんだよ」
「なんで?」
「いいから、聞いて。それで僕もつい言っちゃったんだよね。そっちがぶつかって来たからだと。そしたら、運転していた男が激怒して殴りかかってきたんだ」「なんで?悪いのはあっちなんでしょ?ヒロくんは悪くないよ」
「路地から飛び出してきたのは向こうだからね」
「二人がかりで殴りかかってくるなんて卑怯・・・」
「いや、違うよ。殴りかかってきたのは一人だけなんだ」
「そうだったんだ・・・」
「ガッカリなんかしないでよね。こっちはケンカなんてした事ないんだから」
そうだよね。ケンカなんかしないよね。ヒロくんは優しいもん。「臆病者なんだよ、きっと」
「ううん、違う。ヒロくんは臆病者なんかじゃない」
ヒロくんが少しだけ笑った気がした。
「警察には言ったんだよね?」
「言ったというか、近くにいた人が通報したみたいだね」
「じゃあ、犯人はすぐに捕まるね」「捕まらないと思う」
「なんで?だって顔を見たんだから捕まるよ」
「顔は見てない」
「そんな・・・そんなはずは無いよ」
「警察にはそう言ったし、通報した人も顔ははっきりと見えなかったみたいだからね」「見てないなんて、警察は納得しないんじゃ・・・」
「食い下がってきたけど、いきなり後ろから殴られて意識もうろうとなったと言ったら諦めた」
「諦めたって言い方、なんか変」
警察は納得しても、亜美菜には疑問が残った。
「ヒロくん、なんか隠してる?隠してるなら言って欲しいよ」ヒロくんは何かを考えてるようだった。
亜美菜はじっと待った。
だって、待つのには慣れっこだもん。
「誰にも言わないでよね」
「うん、言わない。約束するから」
「自転車の後ろに乗ってた男。見覚えがあるんだ」
「え、知り合いってこと?」
「知り合いと言えばそうなるのかな。でも、向こうは覚えてないみたいだった」
「ヒロくんとは、どんな知り合いだったの?」
「僕とは直接的な関係はないよ」
「え、意味が分からない」「あの男、姉貴の恋人だと思う」
「うそ?」
そんな・・・・
奈々さんの彼氏が弟を襲うなんて考えられない。
まさか、奈々さんにフラレて逆恨み?
「解ってたんだね、ヒロくん・・・・」
「ああ。だけど、弟が姉貴を悲しませる訳にはいかないでしょ?」
「もしも、今は付き合ってないとしても?」
「図書館での話をしてるの?」「うん、そうだよ。今思えば、確かにあの時にケンカ別れした感じだったもん」
「亜美ちゃん、男と女って、僕達が考えるような単純な事じゃないみたいだよ」
「それでもはっきりと私の前には現われないでって言ったもん」
そう、あれは確かにお別れの言葉だった。
私だったら、最後はきっとそう言うもん。「あのね、亜美ちゃん。あの人はあの時に止めてくれてたんだよ。でも、あの暴力男のキレ方が普通じゃなくて手に負えなかったんだ」
「だから?」
「だから、根っからの悪者じゃないみたいなんだ。姉貴は、そこが分かってるから別れるに別れられずにいる」「ヒロくん、何だか詳しいんだね?」
私、あんなに奈々さんとお喋りしたのに、なんも知らないのかなあ。
メアドも教えてくれなかったし、家も知らなかった。
ただ、仲良くしてるのが楽しかっただけ。
奈々さんも色々と辛かったんだよね、本当は。「お姉さんには何て説明したの?」
「さっきも言ったよね。警察に言ったことと同じだよ」
「そうだよね・・・・」
「そうだよ」
「でも、私何度もメール入れたし、何日もずっと待ってた。メールの返事、もっと優しいほうが嬉しかったよ」
本心だった。せめて、メールでキチンと説明してくれたら、こんなに思い詰めることも無かったのに。「最初は動けなかったんだよ。顔見たら分かるでしょ?顔だけじゃないよ。身体のあちこち、少し動くだけで痛すぎるほど痛くてメールどころの話じゃなかったんだ」
そうだった。ただの風邪で休んでたんじゃないもんね。
それなのに、自分だけ自己中な事を言って、ホントに私ってどこまでバカなんだろう。
「で、少しは動けて気分も良くなったからメールしたって訳。それでも、下手すれば亜美ちゃんが今日みたいに乗り込んで来ることも想像出来たから、キチンと治ってから連絡しなおすつもりだったんだよ」
そっか。そうだったんだね。やっぱりヒロくんは優しいよ。
「傷はどう?まだ痛むの?」
「そりゃあ、まだ痛むよ。でも、打撲だけで済んだからまだマシだったんじゃないかな」
「打撲だけで済んだんだ。良かったね」「まあ、これを不幸中の幸いって言うんだろうな」
「うん、きっとそうだね」
ヒロくん、こっちを向いて欲しい。
どんな顔でも良い。見せたくない気持ちも分かるよ。
でもね、私にとっては、たった一人の異性の・・・・・・・・・・・友達だから。 こっち向いてと言いたい・・・・ヒロくん。
「亜美ちゃん」
「なに?」
「亜美ちゃんと僕ってなんなんだろう?」
「えっ?」
友達。そうじゃないの?ヒロくんが最初にそう言ってそのままだもん。 私、答えられないよ。
下校の途中なら笑って答えられたかも知れない。
でも、今は無理だよ。
答えられない・・・
ヒロくんは、また黙り込んだ。
また何かを考えてるんだね。
もう、何も言わないで。怖いよ。「僕、亜美ちゃんと手を繋いだことってあったっけ?」
「ないよ」
え?どうしたの?
「キスしたことは?」
「それもない」
何言ってるの?
どうしたの、いったい?
変だよ、ヒロくん。「そうだよね。何も無かったよね」
「うん、何も無かったよ、今まで」
「そっか・・・」
昔の私なら、ここでツッコミを入れてたに違いない。
バカなことを言って笑いをとって、それでその場を凌いで。 でもね、今はもう昔の私じゃないんだ。
もう・・・道化師は捨てたんだよ。
だって、哀しくて切なくて虚しかったんだもん。 だから、もう私に問い掛けないで。
私、恋の仕方も知らない人だから。
だから、恋愛話は苦手だよ。
今までも、ずっと避けてきたし、だから、恋が何なのかも想像つかない。 ヒロくんとずっと一緒に居たけど、友達なのか恋人なのか、それすらも判断出来ないまま。
ヒロくんと出会った最初の言葉。あれが無かったらどんなに楽だったろう。
ずっと、そんなことばっかり考えてた。 だから、私の口からは何も言えない、
言わせないで・・・・
亜美菜が隠し続けていた気持ちがここで終わるなら、それも運命の悪戯。
確か前に、神様は悪戯っ子だと聞いたことがある。だとしても、今は、この場所では悪戯しないで。
お願い、神様。
亜美菜は、無意識に両手を胸の前で結んでいた。
この思いが天まで届けとばかりに。 瞼を閉じていた亜美菜に、椅子が回る音が聞こえた。
亜美菜は不安だったが、そっと目を開けてヒロを見た。
黒くアザだらけの顔で微笑む姿。
亜美菜の目に映ったのは、思いがけないヒロの行動だった。「ヒロくん、恥ずかしいんじゃなかったの?」
「いや、もういいんだ」
「もういいって?」
「亜美菜には、僕の恥ずかしい姿も見て欲しくなったんだよ」
第十一章 亜美菜
「恥ずかしくなんかないよ。だって、ヒロくんはお姉さんを守ったんだもん。立派だよ」
「亜美菜・・・」
やっぱり亜美菜って呼んでくれるんだね。
私、嬉しいよ、ヒロくん。
亜美菜は、立ち上がった。「こっちにおいで」
ヒロくんも立ち上がった。
ヒロくん、背が高かったんだね。
私、今気付いた気がする。
亜美菜は、一歩ずつ一歩ずつ確かに近づいて行った。 ヒロくんの目の前まで来た。
ヒロくんは、まだ腫れの引ききれてない目でしっかりと私を見てくれた。
ヒロくん・・・
サッと手が伸びた。
それは私の手じゃなく、ヒロくんの手。 そして、握りこぶしを作ってた私の手を握ると、指を一本ずつ解いてくれて、お互いの指を絡ませた。
男の子の手って、こんなに温かいものなんだ。
もっとゴツゴツとしてるもんだと思ってた。
軟らかいよ。指の一本一本がマシュマロのように気持ち良い。 亜美菜は、絡めた指に力を入れた。
ギュッと、痛いくらいに。
そしたら、ヒロくんも握り返してくれて。
嬉しいよ、ヒロくん。「亜美菜・・・・好きだよ」
そう言って私の唇にヒロくんが唇を合わせた。
亜美菜はまたしても涙ぐんだ。
「ヒロくん。私も好きだよ。愛してる」
私の背中に回したヒロくんの腕が・・・・私の彼氏だと言った。
完
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