第7話 恋なんてミステリアス

第一章 二度目の恋の終わり


お前には何の面白さも無い・・・・

 そう言われたのは半年前の事であった。 

 


 二年半前の春、社会人一年生となった村下真理恵は、新入社員歓迎会の席で親しくなった二年先輩の男性に恋した。 

 一時は、友達も羨ましがるようなハッピータイムが続き、真理恵はこのまま結婚してしまうのではないのではと思う程の熱愛ぶりだった。 

 しかし、季節の移り変わりは人の気持ちも変えてしまった。次第に惰性化した二人の関係は、角氷が溶けるように蒸発し始めると、それを止める手段は無いかのように消えて無くなってしまった。


 何かが起きる度にその原因を考える。でも、その全ては私が発端だったといういつもの結論。私は正直、疲れに疲れた。 


 彼の最後の捨て台詞は、その集大成。私の記憶から消し去りたい二年間がこの瞬間に終わったのであった。

 時折、涼しげな風が私の頬を撫でるようになり、空を見上げながら、今年の秋は急ぎ足だなと思った。

 

 傷ついた心も幾分か癒され、二度目の恋は心の奥に封印されつつ静かに眠りについていた。



第二章 雑踏の街


 駅に着くと、改札でまごつく姿が目に止まった。何やら改札口の機械を相手に戸惑っているかのように見える。横を過ぎる人の群れ達は、それを単なる物であるかのように上手くすり抜けるだけで、誰一人として立ち止まる素振りさえ無かった。以前の私であれば、きっとあの群れ達に紛れて通り過ぎたことであろう。私は、自分の人間としての愚かさに苦笑した。 

「どうかされましたか?」

男性はぎょっとした表情を私に向けたが、それはすぐに笑顔に変わり、キップを入れるところが分からないと恥ずかしそうに言った。 

「キップでしたら3番目より向こうの改札口ですね。こっちの改札は定期専用なんですよ」 

男性は恐縮するように背中を丸めて改札を抜けて行くと、遠くで振り向き頭を下げた。私は、手を振りそれを見送った。


 街に来るのは久しぶりであった。人混みよりも静けさが性に合う私の性格には、この雑踏は賑やか過ぎてすぐに疲れてしまう。普段は郊外のショッピングセンターで事足りる生活をしているのだが、今日はそんな事も言ってはいられない。中学生の時からの友人がこの街の病院に入院したからである。

 

普段、車を運転する私は、めったの事では電車やバスには乗らない。乗るとすれば、飲み会の時だけに限られるのであるのだが、今日は朝から車検に出して代車を借りている状況。馴れない車で街中の運転は少々心許ない。それで電車を利用したのだが、駅から歩くのに疲れるのは普段のだらしない運動不足のせいであろうか。たまにはジョギングでもしようとかいう決行も出来ないアイデアが脳裏をかすめたりもした。 


 途中、見舞いの品を購入し、街の中心程に位置する個人としては比較的大きめな病院の出入口に到着した。前もって聞いていた部屋番号を忘れないように書いたメモ。駄目だ。いくらバッグの中を探しても見つからない。忘れないように書いたメモを忘れるなんて、どうにかしてる。

 一階のナ―スステーションで入院患者の名前を告げ部屋を聞くと、忙しく動かしている身体を止めて詳しく教えてくれた。私だったらどうだろうか。もしも、私があの立場だったら丁寧な対応が出来るだろうか。多分、自分の忙しさを優先し、面倒臭い表情を顕にするに違いない。そんな事を考えながら教えて貰った通りのルートを辿った。


 304号室は廊下の突き当たりの角部屋であった。四つ並んだ名札には二つの空きがあり、杉山千夏は他の患者と二人でこの病室を使っていることが見て取れた。 


 他の二人はどうしたのだろうか。めでたく退院したのか、それとも亡くなられたのか。それを知るよしは無かったが、何故か気になった。

 ドアは開放されていた。そこから顔だけを覗かせ、室内の雰囲気を感じ取る。大丈夫。暗い感じは微塵もない。これなら明るく入っても問題は無いだろう。左側の二人のベッドが空きであることはドアから確認済み。足音に気を付けながら手前のベッドを覗き込むが、人の姿は無く掛け布団が半分に折られているだけである。もしかしたら、ここが千夏なのか。だとしたら、ロビーにでも行って寛いでいるのかも知れない。それとなくベッド頭上のネームプレートを読んだ。見知らぬ名前だった。なんだ、と思いながらも奥のベッドに歩を進めると、上半身を起こした千夏と目が合った。 

「あらっ」

 千夏が先に作った笑顔のせいで、私は真顔の対応を迫られたような気がした。

「起きてて大丈夫なの?」

「大丈夫、大丈夫。ただの胃潰瘍だもん。どうも無いって」

「入院なんだから、どうも無いって事は無いでしょう。それに、大丈夫な人がお見舞いに来てってメールするかね?」

 千夏は、尚も笑いながら

「大丈夫だから話し相手が欲しかったのよ。それより知ってた?病院って人は多いけどね、入院となると意外と淋しいもんなんだよ」

「知らないよ、そんなもん」

 私は少しムキになって答えた。 

「知らないか。じゃあ、しょうがないな。取り敢えずここに座って」

 千夏は、ベッドから起き上がると、「よいしょ」という掛け声とともにベッド下から備え付けの椅子を引き出した。

「ここ、ここ」

 千夏はポンポンっと椅子を叩くと、早く座れとでもいうかのように目で催促してきた。 

「元気そうだね」

 私は、そう言いながら椅子に腰を下ろすと、バッグを右に置き、見舞いの品を袋から取出し差し出した。

「はい、お見舞い」

「私達の仲じゃないの。気を遣わなくても良かったのに」

「何言ってるの。手ぶらで見舞いだなんて、そんなみっともない事なんて出来るはずが無いじゃない」

 千夏は、「まあね」と言いながら受け取ると、開けても良い?と聞いてきた。私が「どうぞ」と答えると、何だろうなんて言いながら丁寧に包装紙を剥がした。

私は、千夏が開けてしまう時間を待てなかった。 

「本当につまらないものよ。ただの本の詰め合わせだから」

 千夏は、ムッとした表情で言った。 

「なんで先にいうかなあ」 

私は笑いながら受け流した。 

「あ、助かった。暇で暇で凍死しそうだったんだよ。これで時間を有効活用出来るってもんだ」

「何が有効活用よ。ただのマンガ本じゃないの」

 私は以前、千夏の部屋に遊びに行った際、余りにも大量の本が棚に並んでいることに驚いた事があった。そこで初めて、千夏がマンガにハマっている事を知り、それに似たような別のマンガを今日、探して来た訳である。ともかく、千夏が喜んでくれたことは有り難い。

「じやあ、これは真理恵が帰った後に読むか」

「それって、私に早く帰れって聞こえるんだけど」

 今度は、千夏が笑って受け流した。 

「それより、真理恵。彼とはどうなの?結婚まで行きそう?」

 いきなり何を。私は、どう答えようか悩んだ。嘘は言いたくないが、だからと言って今更あいつの事を話題にしたい気分では無い。

「まさか、上手く行ってないんじゃ?」     もたもたする私に業を煮やしたのか、千夏は私の様子を察すると、聞かないではおれないという勢いで直球を投げてきた。 

「あんたねえ、少しはオブラートに包む技を身につけなさいよ」

 私は、何とかしてこの場を凌ごうと必死になった

「これでも優しく言ってるつもりだよ。ケンカが絶えないって言ってたから、その後ずっと気になってたんだ。真理恵が何も言わないから聞いたら悪いとも思ってたし」

 心配してくれてたのは正直に嬉しい。でも、もう口にしたくないの。やっと癒えてきた傷に、また血を流したくないもの。二人しか居ないこの部屋に沈黙だけが容赦なく迫った。 


「分かった。もう良いよ。言わなくても良い」 

 ごめんね、千夏・・・・


 街は華やかな色と音と形を絶やすことなく繰り広げていた。

 見舞いに行って病気の話もせずに帰ってきたことを後悔しつつ、それでも足は規則的に並べられた石畳の上を進むしかなかった。 

「なんだかなあ・・・」


 不意を突いて出る言葉に気持ちは更に重くなるばかりで、これからどうしようかと考えても、これといって名案など浮かぶはずも無いことは自分でも分かり切っている。それでも、このまま帰宅の途につくには余りにも虚し過ぎる。


 ガラス張りのショップに並ぶブランドのバッグ。照明に照らされ浮かび上がる貴女たちは、まるで買い手を求める娼婦のようね。真理恵は、そこに並ぶ一つ一つの顔を入念に見ると、彼女達に手を振りその場を立ち去った。



第三章 千夏の思惑


「誰か来たのか?」と聞かれ、私は真理恵が来たと答えた。「真理恵とは?」と聞かれると、昔からの親友と返事した。 


 彼は私の交友関係に興味が無いらしく、男友達の話を持ち出してもこれといった目立った反応は見せたことが無い。これをク―ルと呼べば聞こえは良いが、裏を返せば私にそれ程の関心が無いのではとも思える。しかし、これまで争いごとの一つも無いのは、この関係の温さが私達には丁度良いのだろうと勝手に解釈してるのは私だけだろうか。 

「その真理恵がね、どうやら傷心の中にいるみたいなの。ここのところ彼氏の話もしなくなったから、今日、勢い余って聞いちゃった。そしたらね、黙り込んじゃって。それって、別れましたって事じゃない。誰にだって分かるよね。で、どうしたら真理恵が元気になるのかを相談したかったって訳よ」

 鮫島晃太は理解出来ない表情をした。 

「どうして俺が考えなくちゃいけないんだよ。顔も知らない人を元気にしろって言われても、そんな事が出来る訳無いじゃない」 

 あんた、少しは興味ってものを見せなさいよ。とは、さすがに言いはしないが、やっぱりあんたは温い男。 

「別に貴方が直接元気にする必要は無いんだよ。それは分かるよね?で、例えば、貴方と私は無関係の立場にあるとして、貴方の目の前で私が傷心してるとする。さあ、それを見た貴方はどうするでしょう?」

「ん?別に何もしないよ」「どうして?」

「面倒臭いだけだから」

「あ―、そうですか」

 やっぱり聞かなきゃ良かった。 

「でもね・・・」

「何よ?」

「向こうから話し掛けてきたら相手するかな、一応は」

 千夏は、確かにそれはそうだと思った。女性から話し掛けられて、そうそう無視する男は少ないだろう。そうなると、真理恵が好みそうな相手を見つけることが先決だな。

 ああ見えても真理恵は結構見た目は気にしないタイプで、内面から入る癖があるから優しい感じの男が良いだろう。年齢は、同年代か少し上。仕事は公務員かサラリーマン。住まいも近いほうがストレスを感じない、まあ、ざっとこんなもんだろう。 

「じやあ、もういいわ。自分で考えるから」


 胃潰瘍も食事療法を基本とした治療により完治し帰宅した千夏は、さっそく市役所勤めの美佐子に連絡を入れてみた。やっぱりこの子は期待を裏切らない。面白いと言うや否や、思い当たるところを狙ってみるという返事を貰えた。


 しかし、これはお遊びとは違う。二度と真理恵が悲しまないような相手をあてがわなくては意味が無いのだ。それには、事前に自分で確認しておくことが絶対条件で、場合によってはキャンセルも必要となるだろう。千夏は彼女に事情を追加した。


 まだ時折、残暑のような熱気が郊外の小さな街を覆い、行き交う車のウインドウに嫌という程照らされ鬱陶しくなる。今日はそんな日でもあった。


 街一番のショッピングセンターは、程よい人の波で秋の訪れを歓迎し、その一角にあるレストランの通りで千夏はぼんやりと人待ちをしていた。 

 

「こんにちは。早かったんですね。写真と同じ感じですぐに分かりましたよ」

 そこには、先日美佐子から見せて貰った男性の顔があった。美佐子は、あんたは写メで良いよね?と無理矢理私を撮り、それを見せると言っていた。 

「こんにちは。初めまして。今日は無理なお願いですみません」

 千夏は軽めに頭を下げた。 

「いいえ、僕も暇な毎日なんで、こんな事でも刺激的なんですよ」

 彼は照れながらそう言ったが、千夏はこんな事でも?と思った。

人は、第一印象が重要だという。横柄な態度、気遣い出来ない言葉。これなどは最悪の中の最悪。それからすると、彼は前者はともかく後者がなってない。それがどうにも気に掛かって気に掛かって仕方がない。だが、お願いした方としては、気に入らないからここでサヨウナラなんて言えない。それこそ、こっちが気遣い出来ない女になってしまうのは明白である。ともあれ、軽くランチでもしながら観察を続けることにしよう。

 彼は潤と名乗った。名字と合わせると、阿川潤。完全に名前負けの部類に入ることだろう。阿川は、彼女は欲しいが堅い職業が災いして女性がフランクにならない為、なかなか恋愛に発展しないのだと嘆いた。千夏は思った。果たしてそうなのだろうか。女性が心を開くのに仕事が関係あると定義した話は聞いた事が無いし、勿論、私も同じである。恐らく、こいつは相当な勘違い男に違い無いだろう。 

 一時間が経過した頃、私はこの場に限界を感じた。

「そろそろ・・・・」

 そう私が言い掛けた時だった。 

「そう言えば、千夏さんの刺激って何ですか?普通、毎日が平々凡々ですよね。で、その平々凡々の生活の中で、千夏さんの刺激は何なんだろうと思ったんですが」

 こいつ、いきなり何を言いだしたかと思えば。既に帰宅するつもりになっていた事を遮られた上に私の刺激は何かだって。ふざけるんじゃない。私だってちゃんと刺激的に生きてるさ。お前こそ、彼女の一人も居ない平凡野郎のくせして、いっちょ前の口をきくんじゃない。頭に来た。完全に頭に来た。 

「じゃあ、また連絡しますね。さようなら」

 だが、美佐子の仕事仲間である以上、職場での彼女の立場を悪くする訳には行かない。そう、その程度の事は私にだって分かる。だから、今日のところは格段の作り笑いで済ませよう。



第四章 美佐子という女

 

事の顛末に感想を織り交ぜて美佐子に報告すると、大きな口を開けてアハハと笑い転げた。千夏は、自分が笑われたと思って美佐子に強く謝罪を申し入れた。

「そうじゃないよ。千夏が可笑しいんじゃなくて、大笑いしたのはアイツのことだよ」

 それでもまだ笑いが止まらない様子で、千夏は説明しろと迫った。 

「あいつ、変なんだよね。まあ、何て言うか、極度の自己愛者とでも言ったら良いかな。ナルシストとは違うよ。それ以上に理解不可能な奴なんだから。あいつに彼女が居るのかとかは聞いてみたいした?」

 千夏は怪訝な表情を崩さないまま答えた。 

「居ないから暇だと言ってた」

「あ、聞いたのか。じやあ、あいつ、勘違いしたかもね。それで、何が理解不可能かと言うと、自分がモテないのは、男を見る目が無い女達が悪いって本気で思っているのよね。どう、気持ち悪いでしょ?」

 男に限らす、そんな人間は少なからず居るのでは無いのか。確かに、薄気味悪いのは事実であるが、そこまで珍しいような気もしないと思った。 

「で、そんな男をどうして仕向けたのよ?」

「そいつね。どうやら私を好きみたいなのよね。だから、私のお願いを簡単に聞いたって訳。千夏は、辛口のほうだから、気持ち良く叩きのめしてくれると思ったんだけどねえ」

「何バカな事を言ってるの。こっちはね、あんたの立場を考えて無理して話を合わせて大変だったんだから」

「じやあ、叩きのめしてないの?」

「当たり前じゃないの」

 千夏の声が大きくなったからなのか、美佐子は千夏の肩を軽くポンポンと叩いた。 

「怒らない怒らない。でも、叩きのめしてないのなら今度はあいつから誘いを掛けて来そう。そうなったら、どうしようか?」

「知らないよ、そんなの」 

千夏は頭に血が上ったのを感じた。 


 この女、あの男よりもタチが悪い。



第五章 久しぶりの帰郷

 

浜松町で電車を降り、モノレールに乗ったのは一年半ぶりであった。仕事が忙しい事を理由に遠ざかっていたが、心の底では苦い思い出に触れることを避けたいだけだった。真理恵は、車窓に流れるお台場を横目に見ながらどんよりとした灰色の厚い雲を眺めていた。


「土砂降りになるのかな」 


今から飛び立つ真理恵にこっちの天気など関係が無いのだが、何と無く気になった事が自分でも可笑しくなり、窓に映る自分の横顔にバーカと言ってみたりした。羽田空港第一ビルのアナウンスが流れ次第に速度が遅くなると、真理恵は膝の上に置いたバックを持って早々とシ―トから腰を上げた。

 

正月休み初日のビル内はさすがに混雑していて、セキュリティチェックには地面に落ちた飴玉に群がる蟻のように人が集り、早目にチェックを済ませるように催促するアナウンスが度々流れていた。

 真理恵はそれを一瞥すると、自動販売機に向かい缶コ―ヒ―のボタンを押した。 


「やっぱり買ってしまうんだよねえ」

 

自動販売機の取り出し口にガタンと落ちてきた缶を見ながら呟いた。今度からはお茶にしようと何度決意したことか。そのくせ、自動販売機の前に立つと必ずと言って良い程、決意を裏切ってしまう。頭では考えるが、行動に移せない自分が嫌で嫌で、今ではそれが相当のコンプレックスになってしまっていた。手っ取り早く近くの長椅子に座ると、嫌悪感と一緒にコ―ヒ―を流し込んだ。喉を過ぎるねっとり感と重い香り。真理恵は、飲み干して空となった缶を暫し眺めると、これが最後だと誓った。


「そう言えば、エスカレーターで上がって来る途中、左手を見下ろすと喫茶店のような食べ物屋が見えたな」

 

真理恵は、朝食を取っていないお腹に手の平をあてがいなから軽くさすった。 

腕時計を見ると、定刻にはまだ一時間ちょっとある。どうしようかと迷ってもみたが、狭い店の席に座っていた数人のおじさん連中の中に混じって食い物をあさる自分の姿を想像すると、とてもじゃないが入っていく勇気は起こらない。かと言って、広いレストランのテーブルに一人でというのにも抵抗がある。あれこれ考えるが結局は、食事は抜きにしようという結論に至った。


真理恵は、ロビーの奥に向かって歩いた。途中、犬の鳴き声がせわしく聞こえ、何事かと興味と寄せる。それでも鳴き声は止むことを知らないかのようにワンワンと吠え続け、早目に到着してゆったりしようと思っていた真理恵の気持ちを苛立ちに変えた。 

「うるせえなあ。こんなもん持って来るんじゃねえ」 

勿論、声には出さなかった。しかし、椅子に座る客の連中もカウンター内の航空会社の係員も同様に嫌気な顔をしている。真理恵は、迷惑しているのが大勢であることに少し安堵した。 まだ吠え続けるバカ犬とその迷惑客を横目にスモーキングルームのドアを開けた。中には若いカップルと一人の中年男性がおり、真理恵は、ドアのすぐ近くの場所を確保した。 

「まるで僻地だよなあ・・・」

 止めよう止めようと思いながらも未だに吸い続けている煙草を取り出すと、ボックスから一本を抜き取り火を点けた。 

 喫煙する場所も急激に減少した最近、自分の居場所も減ったような気がするのは私だけなのだろうか。これが最後と決意しながら一箱ずつしか買わない行動がとてつもなく無駄なことだと知りながらも、やっぱり今でもそうしてしまう。そう言えば、喉の辺りの違和感、何とかならないものか。


気管に絡み付くような煙が肺に到達し、内壁がジリジリとすると、それをまた気管に逆流させ口から外へ吐き出す。それを数回繰り返すと指の先に挟んだ煙草が短くなって備え付けの灰皿に揉み消す。肺を汚して時間を費やし、更にお金さえも捨てる無駄で非効率な行動。やっぱり止めようか。真理恵は横開きのドアを開けて部屋を出て行った。

「さて、そろそろ中に入ろうかな」

 ロビー中央辺りに歩を進め、セキュリティチェックの混み具合を確認する。

「タイミング良し。この程度なら今のうちに入ってしまおう」

 特にブザーが鳴ることも無くゲートを通り抜けると、何故だか時間がゆっくりと動くような錯覚に陥る。真理恵は、大きく息を吸い込み、汚れた肺の空気を入れ替えると通路に伸びる動く歩道に視線をやった。しかし、真理恵は普通に歩くほうを選び、ゆったりと進んで行った。途中、土産物売り場に立ち寄り、充分過ぎる試行錯誤の結果、ごまたまごを購入した。昔からアンコが好きな母なので、田舎では口に出来ない少し変わったお菓子のほうが気に入って食べてくれるだろう。確信は持てないが、それは期待するしか方法は無いのだ。 

 飛行機は、滑走路の渋滞に引っ掛かり定刻より十五分遅れど離陸した。


窓際の席からボンヤリと雲の軟らかそうな布団を見下ろしながら真理恵はどのような雰囲気で親と顔を合わせようかと考えた。空港に迎えに来ると母は言ったが、わざわざ面倒臭いだろうと断ってみたりもした。しかし、そんな事は無いと母に言われ、最終的には到着したら電話する事で決着した格好となった。久しぶりに見る娘に母はどんな顔を見せるだろうか。暫らく帰って来ない娘に淋しい思いをしてたのだろうか?つまらぬ恋にうつつを抜かし、家族に会うことよりも男と一緒にいる事を選択した私。今更ではあるが、肩身が狭い思いはこれで最後にしよう。

 飛行機は大分上空から熊本へと入った。懐かしい土地が眼下に広がると、真理恵の胸は子供のような高鳴りを覚えた。以前、当たり前のように通っていた道路を探すが思うように見つからない。窓ガラスに額を当てみたが、方向すら定かでは無い状況ではこれ以上は無理だろう。真理恵は諦め半分でシ―トに背中を預けた。着陸態勢に入ると飛行機が右へ左へと細かく揺れ、経験が浅いパイロットが操縦してるのか、または強風が吹いてるのか、そんな事を考えた。一応、無事に到着したので、それも今ではどうでも良いことなのだが。


 タ―ミナルビルに入るとすぐに携帯の電源を入れ、画面に母の番号を呼び出そうとした。 

「あれ?」

 着信有りの表示だ。誰だろうと思いながら確認すると母からであった。それも三回もである。着信時間は、定刻の到着予定時間から五分後で、その後も五分刻みで二度掛けて来ている。それで私の気持ちは幾分が救われ、昔のような感じで電話を掛け直すことが出来た。

「お帰り。遅かったねえ」「ちょっと飛行機のほうが遅れちゃって」

「今、玄関前の車を停める所の一番右端に居るからすぐにおいで」

 少し慌てているような様子だったのでエスカレーターは使わずに階段を急いで駆け降りた。

 出入口の自動ドアが開いた。 

「うわあ、寒いなあ」

 真理恵は、久々に吸う故郷の空気の匂いに浸りたかったが、今はそうもいかない事態だ。早急に母が待つ場所に走って行かなくてはならない。真理恵は、遠くに見える阿蘇山の姿に一度目を向けると、ビルから吐き出される人混みを器用にすり抜けながら走った。


 いっぱいに並んだ車の最後尾にシルバーの軽自動車が見えた。あれから買い換えしてなければ多分あれだろうが、早合点でドアでも開けようものなら大恥をかいてしまうことになってしまう。真理恵は、横目で運転席の顔を確認しながら一度通り過ぎようと考えた。

「あんた。何してるの」

 窓ガラスが降りて中から母の声が聞こえた。 

「あっ、ここに居たの?」 

一応、全く気付かなかった素振りで返事したが、母は、 

「さっきからこっちを見てたじゃないのよ。いいから早く乗りなさい」 

 そう言うと、すぐに窓ガラスを上げた。私は後部ドアを開けて荷物を放り込むと、改めて助手席のドアを引いてシートに滑り込んだ。

 懐かしい横顔だ。もう十年も見てないような気がするのは何故だろう。白髪も結構増えたみたいで、何だか老けたような気がする。 

母は、そんな事など気に留めることもなく発車した。 

「そんなに慌てて何かあったの?」

 真理恵は心配になった。

「あったも何も、さっき、お巡りさんから怒られたんだよ」

「え?どうして怒られないといけないの?何かやったの?」

「何もやりゃあしないわよ。するわけ無いじゃないの」  

「だったら何?」

「乗り降りする場所に長く車を停めるなだってさ」


 何だ、そんな事だったの...

 母の答えに少しばかりの脱力感が身体を通り抜けた。それでも本当に何か大変な事が起こってるよりは遥かにマシというものだ。

 慌ただしくてただいまも言って無かった事を思い出したが、時既に遅しでこのタイミングでは言えない。家に着いたら言うことにしよう。 

 

 古めかしい車庫に入れる前に車を降りた真理恵は、先に家の正面に向かった。

「へえ―、結構大きかったんだな」

 改めて見上げる家に不思議と感動が込み上げ、僅かばかりの庭に回ってみたりもした。 

「真理恵、何してるの?早く上がりなさい」

「父さん、居るんだっけ?」  

「今、居ないよ。出掛けて行ったからね」

「そっか」

 一先ずは、気を遣わずに家に入れそうだった。玄関で靴を脱いでいる時、下駄箱の上の一枚のハガキに気付いた。 

「私宛てだ」

 裏に返して送り主を先に確認すると咄嗟には思い出せないような名前が書いてあった。

「入江幸子・・・」

 用件は、中学の時の同窓会で連絡のつく方のみ集合して欲しいとの旨が書いてある。今更、初めての同窓会?真理恵は、不思議に思ったが、後で卒業アルバムで確認することで、一先ずはリビングに向かった。

「そうそう。あんたにハガキが来てたわよ」

「うん。今、読んだ。中学の同窓会の案内みたいだけど、記憶に無い名前なのよね」

「あんたが忘れてるだけじゃないの?」 

「そうかなあ?とにかく後で卒業アルバムを見てみるよ。私の部屋、そのまんまなんでしょ?」  

「あんたねえ、使わない部屋でも埃はするんだよ。たまには掃除機位かけるさ」 

母は渋い表情で言った。

「まあ、それもそうだよね」 


 母の誘いで夕食の買い出しに行き、自分の好む物も大量に買って貰った後、二人で食事の支度に取り掛かった。 

「あんた、本当に昔から変わらないよねえ。肉より魚だなんて、子供の有るべき姿としてはどうなんだろうね。お陰で痩せ細ってしまって病人みたい」

「言い方が悪いよね。スリムって言ってよ、スリムって」

「なんだかねえ・・・」

 母は苦笑いで答えた。

玄関のドアが閉まる音の後、廊下を歩いて来る足音が近づいて来た。 

「帰って来たわね」  

 母の言葉の直後、キッチンのドアが開いた。 

「帰ってたのか?」

 そう言うと、特別な事は何も無いかのようにリビングに入りテレビのスイッチを入れると、「お茶」と一言発しておもむろに腰を下ろした。

 真理恵は、変わらないなと思ったが、それを言葉に出すことは控えた。


 夕食時は以前同様に静かもので、テレビからのアナウンサーがニュースを立て続けに読む声に混じってご飯を食べる食器の音が小さくカチャカチャと鳴るだけであった。それでも一人の食事よりは有意義で、「それ取って」というと、誰かの手が伸びて欲しい物が目の前に置かれる。真理恵は、この静かな雰囲気を重たい事だとは少しも感じなかった。程よく夕食も終わった時、父が口を開いた。 

「入江さんとこのサッちゃん、結婚したぞ。でもな・・・」

 私は誰の事だろうと思ったが、ハガキの名前だと気付くのに時間は掛からなかった。

「でもって何?」 

 続きを言いたいのか言いたくないのかは分からないが、私が気になったので聞いてみた。

 父はお茶を飲み干すと、その後、一年足らずで別れて家に戻って来たと言った。

 真理恵の脳の回線がフル稼働し、同級生の顔と名前が次々に映し出される。それはまるでデジカメで撮った写真のようではあるが、最後のほうに近づくにつれてセピア色へと変わり、それも徐々に色褪せて見え始めると、真理恵は急いで二階に上がり、本棚から卒業アルバムを取り出した。三年一組の写真を並び順に目を通す。見落としが無いように名前と顔を良く見比べて進む。 

「あれ、居ない。じゃあ、三年の時じゃないのかな?」 

 次の二組からページを捲っていくと五組で手が止まった。名前の上の顔写真、真理恵にはやっぱり見覚えが無かった


母は既に夕食の後片付けでキッチンに立っていた。 

真理恵はテ―ブルに卒業アルバムを開いた状態で置くと、すかさず母に聞いた。 

「この顔、知ってる?」

 母は、どれどれと言いながら老眼鏡を掛けた。 

「あ―、この娘だよ。入江さんちのサッちゃんは」

 真理恵は不思議だった。「私が知らないのに、どうして二人とも知ってるのよ?」

 母は逆に驚いた顔をした。 

「何言ってるのよ。あんた、小さい頃によく遊んでたじゃないの」

「遊んだ?私が?」

「そうよ。保育園の頃、近所に住んでたから行ったり来たりしてたでしょうに」 

真理恵の記憶が甦った。言われてみれば、そうだ。確かに、仲良く遊んでた女の子がいた。でも、何故かそのうちにその娘は消えて居なくなったような気がする。 

「この娘、何処に行ったんだっけ?」

 母が言うには、同じ町内の別の学校区に引っ越して行ったが、その後は会ってはおらず、私が小学生の頃にはもう思い出す事も無くなってきたという。それは真理恵も同じだった。だからといって、中学では言葉さえ交わした事が無いのに今更中学の同窓会の誘いだなんて、それが真理恵には釈然としないところであった。


真理恵は悩みに悩んだ。同じクラスになった事があるのかどうかさえ分からないのに、どう返事をしたら良いものか。誰かに聞こうにも、中学の友達連中とは高校の時のいざこざが原因でケンカ別れしたままで音信不通が続いている。向こうから連絡して来るまではこっちからは入れないと決心した気持ちは今でも変わりはない。 

 真理恵は、ハガキに住所以外の連絡先が記載されていないか再度確認したが、それは無かった。 

 送別会の日時は1月4日。真理恵は5日の昼頃に東京に戻るので参加しようと思えば可能ではある。今時、電話帳に個人の番号を載せる人は少なくなって来たが、この住所が載ってるのであれば電話してみるほうが良いだろう。今更ハガキを返信しても間に合う訳でも無いし、そうしてみようか。 

 幸いと言うべきか、それらしい番号があった。真理恵は、時計を見た後、明日の午前中に電話することに決めた。



第六章 幸子という女

 

電話の向こうの声は幸子が不在である事を伝えてきた。真理恵が用件を細かに説明すると、本人の携帯の番号を教えてくれた。何と無用心な。真理恵は、これは自分の親にも有り得る行動であると考え、後で注意を施しておこうと思った。 

 幸子の母に先に一度電話を入れておいて貰えないかとお願いしてから20分が経過した。もうそろそろ良い頃合いだ。真理恵は、携帯に登録していた番号を押した。  

「はい、入江ですけど」

「同窓会の連絡を頂いた村下真理恵です」

 真理恵がハガキを返送出来なかった理由を簡単に説明すると、幸子は気にしなくても良いと言った。どうして私に案内をと聞くと、それは会ってから話をすると言われ、その瞬間に参加する事が自動的に決定してしまった。しかし、真理恵はそれでも構わなかった。何故なら、電話した時点で参加の意思があった事に自分で気付いていたからである。

 それでも様々な憶測は後を絶つ事を知らず、狐につままれたような正月は雲の流れのように静かに過ぎ去っていった。


 同窓会の会場は近くの焼肉屋である。酒が入る事と皆地元である事を考慮すると妥当な選択であろう。 

 前日の夜、母は車で送ろうかと言ったが、歩いても10分以内で着くだろう。真理恵は、たまには近所を歩いてみるかという衝動にかられ丁寧に断った。 

 この季節、午後6時は夕方なのか夜なのか、ハッキリとしない薄い闇の中を歩くと、次第にバイパスの灯りが道しるべとなり、そして様々な色を照らすネオンが暗い空を染めようとしていた。


 焼肉屋に着くと店員に幸子の名前を伝えた。店員は奥の座敷に案内すると、「こちらになります」と言って引き返していった。 

 中からザワザワとした話し声が漏れている。その声に緊張を感じ、襖を開くタイミングが難しくなった。今思えば、誰が参加するのかを聞いておくべきだったと後悔した。それでもここまで来たのだから引き返すという選択肢は無い。真理恵は、音を立てないようにそっと襖を小さく開いた。その途端、部屋の中の顔達が一斉にこっちを向き、真理恵は慌てて見覚えのある顔が無いかを探した。  

「遅刻だよ、真理恵」  

 誰かが叫ぶと皆が笑った。

真理恵は、声の主を捜し当てた。するとそれはあの幸子なのである。

 真理恵は手招きをされるままに幸子の隣に座ると、幸子は真理恵のコップにビールを溢れんばかりに注いだ。 

「久しぶりだね、ま―ちゃん」 

 そう言って私の顔を覗いてくる顔は、あの時の幸子とは思えぬ冷たさを秘めているように感じた。 

「ええ、久しぶりだね」

 私は咄嗟にそう答えたが、周りを見渡すと仲の良かった顔は一つも無かった。私は、幸子のほうに向き直ると、この同窓会はいつのものであるかを問うた。 

「ああ、これね。これは私の高校の時の友達連中なの。だから、あなたが知らないなも無理は無いよ」

 真理恵は、意味が分からなかった。 

「中学の同窓会じゃないの?確かにそう書いてあったから参加したんだけど」

 幸子は含み笑いを返してきた。 

「そうとでも書かないと、あなたは来ないでしょ?」

「あんた、何言ってるの?それって、私を呼び出したってこと?いったいどうして・・・」

「まあ、そう慌てないでよ。久しぶりなんだから先ずは呑みましょう」

「いや、説明して」

 真理恵の大声に皆が驚いた顔で振り向いた。 

「ほらほら、皆ビックリしてるじゃないの。少しは落ち着きなさいよ」 

 幸子の妙に低いト―ンで真理恵の興奮は冷め気味となったが、イライラ感と不安が入り乱れ、そうなると次第にそれは恐怖さえ覚えるものへと変化した。しかし、わざわざ手の込んだ事までした理由は知りたい。真理恵は、取り敢えずは幸子のペースに合わせることにし、一杯目のビールを乾いた喉に放り込んだ


「ねえ、あんた誰?」  

 軽そうな男が人を値踏みするかのように聞いてきた。私は愛想笑いだけで受け流して答えなかった。すると、もう一度同じことを聞かれた。  

「私の友達だよ。親密な話をしてるんだから茶々入れないでよね」

 幸子がタンカを切ると、男は舌打ちをし背中を向けた。

 真理恵は、怖い連中の集まりの中に入り込んでしまったのではないかと心配になり、幸子に早く用件を言うように急かした。幸子は仕方ないという様子であきれ顔を見せた。 

「あんた、倉本真司って知ってるよね?」

 幸子が倉本を知ってる。いや、そんなはずは無い。熊本と東京という離れた土地で、そんなことは有り得ない。

「知ってるよね?」

 口をつぐんだ真理恵に幸子が念を押してきた。真理恵は、事の真相を得るには正直に答えるしかないと考えた。 

「知ってるけど、それがどうかしたの?」

 それを聞いて幸子はフンッと鼻を鳴らした。 

「あんたと倉本は、どういう関係だったの?この場に及んで隠し事は無しでね」

「別に隠す必要なんて無いけど。私達が付き合ってたからって、それがあなたに何の関係も無いでしょうに」  

 幸子は、真理恵のコップにビールを注いだ後、自分のコップにも満杯に注いだ。 

「そうそう。あんたまだ知らなかったよね。私、結婚してたの」

 父が言ってた話だ。その後、離婚したって事だけど、それを私の口からは言わないほうが無難だ。真理恵は初耳だという素振りをした。 

「そうだよね。知らないよね。ましてや、あれからあんたとは何の接点も無かったし、私との記憶も何も既に消え去ってしまった遠い昔の話だもの。そう言えば、私ね、結婚してた時は東京住まいだったのよ」 

 真理恵は嫌な予感がした。

「あなたのご主人の名前は?」

 真理恵は恐る恐る聞いた。 

「主人だった・・・でしょ。そう、あんたが付き合ってた相手だよ。いくら不倫だと言っても名前位は知って付き合ってたんじゃないの?」

 真理恵は、嫌な予感が的中したと思った。思い起こせば、彼が私に求めていたものが何だったのか今考えてもはっきりと分からない。面白く無いと言われたが、彼の面白いとは何だったのか。もしも、幸子が言ってることが真実であれば、遊び相手として不足だったという事になってしまうのであろう。真理恵は、被害者は自分のほうだと思った。

「知らなかった。彼、独身みたいな感じだったし、既婚だなんて疑うことすらしなかったもの。それがまさか・・・」

 幸子は馬鹿にしたような笑みを浮かべた。 

「あんた、自分が被害者だと思ってるんじゃないの?最初に声を掛けたのはあんたのほうだよね。そのせいで私は離婚までしてしまった。実質的な被害者は私のほう。あんたは加害者なねよ」

 真理恵の顔から血の気が引いていった。 

「いいえ、私も被害者なのよ。弄ばれただけだから」 

幸子は聞く耳を持たないといった仕草でタバコに火を点けた。 

「あんたさえ、声を掛けなければねえ・・・」  

「あれは、電車のキップの買い方が分からないようで困った様子だったから」

「それが余計な事なのよ」

「でも、困ってる人には」

「偽善者だよね、あんたは」

 私が偽善者?私は困ってる人を助けて、それが恋に発展しただけなのに。真理恵はハッとした。知らない土地での一人暮らしに淋しさを感じた頃、確かに人肌恋しい時があった。そしてその時期とあの恋は重なった。真理恵の口から次の言葉が出ることは無かった。



第七章 大都会の風に吹かれて


 ビルの隙間を縫うように流れる風は真理恵には冷たく、身体の芯まで凍えさせるには充分過ぎるものであった。 

 真理恵は、軽くパーマをかけた長い髪を首元に絡ませるようにし、駅を後にした。 


 幸いにも幸子からは金銭の要求は出なかった。しかし、それが逆に今後も付き纏うのではないかという不安を掻き立たせてくれる。真理恵は、そんな気持ちと一緒に孤独な街へと戻ってきた。 


 随分と長い間留守にしてたアパート。食べ物は帰省前に全て処理し、腐らぬように配慮した結果、こうやって戻って来た時の空虚に真理恵は敗北を感じずにはいられなかった。 


 キッチンの戸棚を開くとカップ麺が二つ重ねて見えた。空腹かどうかさえ定かでは無い今、真理恵はそっと戸棚を閉めた。 

 帰宅早々乱暴に床に置いたバッグと一緒に横たわる紙袋。母が土産にと持たせてくれたお菓子は、昔、どうしても食べたいとせがんだ陣太鼓。そんな昔に好きだった物を大人になった今でも変わらず好きだと思っている母に涙が流れた。


 本当は冷やしたほうが美味しいことは分かっているのだが、真理恵は包みの袋を丁寧に剥がすと、そのまま食い付いた。小豆あんに囲まれた軟らかい餅の感触が口の中で優しく溶ける。「やっぱり美味しい」

 真理恵は、誰も返事などしない狭い空間で大の字になると、帰省をした事が良かったのか悪かったのか分からなくなってきた。

 

 正月休み明けから一週間が過ぎると世間は普段の彩りに戻って、年の暮れに盛り上がった新年のカウントダウンなど過ぎ去った過去の何でも無かった単なる行事へと変化していった。


 久しぶりに鳴った電話は千夏からであった。 

 実際、本当の友達なのか真理恵には判断がつかない関係なのであるが、時折、こうやって電話をしてきてくれる相手は千夏以外には今は居なかった。

「どう?あれから新しい相手は見付かったりしたの?」 

「見つかるとか見つからないじゃ無いの。第一、見つけようなんて気が更々無いんだから」 

「そうかなあ・・・いかにも私は傷心中ですって顔してたけど」 

「そんな顔なんてしてないよ。で、どうしたの?」

 千夏は勿体ぶるような変な間を作ったが、我慢出来ないようだった。 

「良い男が居るんだよね。私の男友達の友達なんだけど、これがまたカッコいいのよ」

 真理恵はうんざりした気分になった。


「あのね・・・・」  

 真理恵は、正月に起こった事の顛末を説明した。さすがにこれには千夏も驚いたようで、高かったテンションも一気に下がった様子を見せた。 

「それって大丈夫なの?この後、面倒な事にならなければ良いんだけど」

「やっぱりそこが気になるよねえ。でもね、あれから何も言ってこないのよ。だから大丈夫なんじゃないの」 

「そんなこと分からないよ。まだ作戦を練っている段階かも知れないし」

「じゃあ、どうしたら良いのよ?」

「どうしたらって、そんなこと私に分かるはず無いじゃない。とにかく安心せずに用心しておいたほうが良いって」 

「何も言って来ないんだから用心のしようなんて無いじゃない」

「それはそうだけど...じゃあ、何かあったらすぐに連絡しなさいよ。相談に乗るからさ」

 真理恵は、これは当てには出来ないと思った。多分、興味津々で楽しくて仕方がないのだろう。過剰に心配したがる人間を真理恵は昔から余り信用出来ないと考えていた。

「分かった分かった。とにかく、男を紹介する話はパスだからね」

 そう言うと電話は切れた。 

 

 季節も春に変わろうかというある土曜日のお昼、私は珍しく外食をしようと思った。この場所に引っ越して来て、まだ一度も足を踏み入れた事の無い近所の回転寿司。若い女が一人でカウンターに並び、回ってくる寿司を無言で摘む。真理恵にはそれが現実的なイメージとして成り立たなかったが、何故だか今は、見知らぬ人達の中に溶け込んだ空気みたいな存在で寿司を食べたくなった。以前、都会と言えばお洒落なレストラン、という感覚は既に消えて無くなり、現実的なものにだけ興味が沸いてしまう。それは、恋愛に対しても同様であるのかも知れない。 

 店の自動ドアが開くとまだ若い女性の店員が何名様ですかと聞いてきた。真理恵は、目を合わせずに一人だと答えた。それには、女が一人で来るのは悪いのかという意味も込められていたことを店員は知る由もなかった。お一人様でしたらどうぞという言葉に案内された場所はカウンターの一番奥の席であった。椅子に座る前に視界に入った目の前のトイレの看板。真理恵は、気にするなと自分に言い聞かせて腰を下ろした。回ってくる寿司を二皿摘んだ後、モニターでサーモンの炙りを注文した。真理恵は、それが届くまでの間、ゆったりとお茶を飲みながら過ごし、周囲を観察した。しかし、予想は裏切られず、一人だけの女性と言えばオバサンと呼ばれる人だけであった。 

「こちらへどうぞ」

 不意に隣で声がした。真理恵は、隣が空き席だということで少しながらの解放感を得ていたが、それもたった今、店員に取り上げられてしまった。真理恵は、隣に座った客をチラ見した。年齢は同じか少し上だろうか。白地にチェックのシャツのその男は物静かでク―ルな雰囲気を持った、所謂、草食系と呼ばれそうな男であった。

「男一人で寿司か・・・」 真理恵は聞こえないように呟いた。 

 暫くすると、男はモニターに手を伸ばしたが、いつまでも注文せずに、画面を捲ったら戻しを繰り返しては、じ―っと見つめていた。隣でそんな不思議な行動を取られたら、こっちまでイライラしてしょうが無い。真理恵は、我慢出来ずに男に聞いた。 

「あのう、余計な事かも知れませんが、何を困ってるんですか?」

 男は、ハッとした表情でこっちを見た。  

「初めて来てみたのですが、皆さんこれでも注文されてるみたいなので、自分も食べたいものだけ注文しようとしてたんですが、どうもやり方が分からなくて」 

回転寿司初体験か。この男、そんなおぼっちゃまには見えないが、まあ、そんな事はどうでも良い。真理恵は、丁寧に教えながら、モニターで注文を取ってあげた。男は、少しだけ表情を緩めてお礼を言ったが、内心は相当嬉しかったのではないのかと真理恵は想像したりした。 

 真理恵の炙りが到着した。男はそれを見ると、教えて貰ったばかりのモニターでまた注文した。すると、比較的早くその品が届き、男は、先程のお礼だと言って、価格の高い一貫皿の炙りを二皿真理恵の前に置いた。真理恵は驚いた。まさか、この能面みたいな顔の下でこんな事を考えてたなんて。しかし、真理恵は皿を押し返すことはしなかった。他人の善意は有り難く受け取るべきで、相手の立場を尊重するのがお互いに喜ばしいことだと思ったからである。


 真理恵が炙りを平らげた頃、男の手が止まっていることに気付いた。 

「どうかされたんですか?」

 真理恵は聞いた。 

「いえ、ちょっと知り合いが病気で倒れて大事になりそうなので、それでボーっとしてたみたいです。すみません」 

 男は頭を下げ、謝った。真理恵は慌てた。

「いいえ、こちらこそゴメンなさい。知らなかったから」

 男は無表情のまま話を続けた。誰でも良い。誰でも良いから話を聞いてくれたら。そんな感じであった。

「急だったみたいなんですよね。仕事から帰宅してる時に倒れてしまうなんて。僕が病院に行った時には既に手術が始まってて、それも夜中まで続いたから僕はずっと廊下で待ってたんですけど、手術が終わって出て来たと思ったらずっと意識が戻らないままで。それで手を握ったまま夜を越して今まで....でも、まだ目も開けてくれないんです」

「そうなんですか。大変な状況なんですね。病院では家族の方と一緒に?」

「いいえ。あいつの実家は九州なんですよ。連絡では、夕方までにはこっちに着けるって」

 真理恵は他人事ながら悲しくなった。もしも、私がこの大都会で倒れたりしたら、いったい誰が看病してくれるのだろうか。両親はすぐに駆け付けてくれるのだろうか。

「家族の方がみえるまで、私、何かお手伝いしましょうか。私の実家も九州なんです。ですから、話し相手でも何でも良いですから、お手伝いさせて下さい」

 感情の勢いは怖い。私は何を言ってるんだろうと思った。 

 男は、断らなかった。恐らく、見た目よりも相当参ってるようで、寿司を摘む手も一向に動く気配すらない。


真理恵は病室に入ることは無く、廊下の長椅子で家族が来るのを待つことにした。時々、思い出したかのように男は病室から出てきては真理恵の横に座り、思い出話を聞かせてくれた。 真理恵は、じっと聞いた。男は、区切りの良いところまで話すと、少しは落ち着くのか、また病室に戻っていく行動を何回か繰り返した。

 夕方が近くなると両親と妹と思われる三人が看護師の後ろについて慌てた様子で駆け寄ってきた。男は暫くすると病室から出て真理恵に「ありがとうございました」と頭を下げた。真理恵は、何か困ったらまた、と言って連絡先を交換して病室を後にした。


 それからの真理恵は、あの倒れた患者のことと、その家族の慌てぶりが頭から離れなかった。今頃、どうなっているんだろうか。未だに連絡が来ない携帯を見つめながら待ち遠しくしている自分に気付いた。悲しそうな表情を見せた男は笑顔になったのだろうか。だから、もう私には用事が無くなり電話が鳴らないのかも知れない。 

 真理恵は、それが一番良い事だと思った。でも、それならそれで、お祝いの言葉の一つでも掛けたかったのは事実で、交換した連絡先を開いては閉じたりをさっきからずっと繰り返していた。

 

 河川敷の菜の花が咲き乱れ、辺り一面が黄色に彩られた頃、真理恵の携帯が鳴った。 

「やっときた」

 真理恵は高く青い空に吸い込まれそうな気持ちで電話に出た。 

「お久しぶりです。その節はお世話になりました」

 丁寧な口調は、回転寿司でのあの時を回想させた。「こちらこそ、お邪魔してしまってスミマセンでした」

 真理恵も丁寧に返事をした。 

「あれから容態のほうは如何でしょうか。ご回復されましたか?」

「いいえ。とうとう意識さえ戻らないまま亡くなってしまいました。先日、初七日も実家で済んだそうです」

 真理恵は言葉に詰まった。さっきの軽はずみな言葉がこの男の傷を深めたしまった気がして。 

「僕はね、葬儀には行ったのですが、初七日には呼ばれなくて、それで電話で聞いたら、初七日も無事に済んだのでお世話になりましたと言われ、それで何だか全てが終わってしまったような気がしたんです。所詮、他人は他人ですよね」


「そうでしたか・・・あのう、今更ですけど、どういうお知り合いの方だったのですか?」

「彼女です。お付き合いさせて貰ってました」

 真理恵は、今頃知ったことを恥じた。

「以前、胃潰瘍を患いましてね。完全に回復してたと思ってたんですが、それが悪化したようで腹膜炎になったんです。時折お腹が痛いとは言ったりしてたんですが、まさか完治してなかったなんて夢にも思いませんでした。僕がもっと気を遣ってればこんな事にはならなかったと思います。ご両親にこの事を話したらかなり怒られましてね。どうして胃潰瘍の時にうちに連絡しなかった、ってね」

 さすがに僕もそう思ったので謝りましたが、許し貰えて無いようです」 

 真理恵は、この男の無念さに心を打たれた。いや、それ以前に既に惹かれていたのかも知れない。真理恵は、三度目の恋を予感した。そう思うと、視界がボンヤリと滲み始め、次第に頬が濡れていった。 

「僕、千夏からよく怒られてたんですよね。でも、お互いに結婚しようと考えていたことは同じだったようで、後はいつプロポーズするかの段階だったんです」



 え?千夏?胃潰瘍? 

「千夏さんって、もしかしたら杉山千夏なんですか?」

「ええ、そうですけど。どうして名前を?」

 真理恵の手から携帯が滑り落ち、菜の花の花びらが散った。 


 最近、千夏から連絡が来なかった理由を初めて知った真理恵は、菜の花の中で泣き崩れた。 

 

「ごめん、千夏。こっちからも電話したりしてたら良かったね。苦しかったでしょう。ゴメンなさいね」



 真理恵は、この大都会の風の中で本当の一人ぼっちになってしまった。



 

 そして、三度目の恋もここに終わった。 


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